自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

リュシコフ大将と農業集団化

2021-08-01 | 近現代史 農業集団化とGPU幹部リュシコフ

前章では勝野金政が体験、見聞した囚人と移民・植民の実態を研究した。1934年勝野が放免された直後に合同GPUは内務人民委員部NKVDに統合された。長官は生え抜きのチェキスト(革命時の政治警察)ヤゴーダである。何かが変わりつつあった。スターリンにつぐナンバー2で人気のあったキーロフが1934年12月に暗殺された。
リュシコフは血も凍る「大テロル」の発端となったこの不可解な事件の調査のためにNKVD政治警察部長代理としてスターリンに同行し直接調査に加わっている。
彼は引き続き積極的に「テロ本部事件」(複数)の捜査に当たり、公開裁判で世界を驚愕させたいわゆる「トロツキー=ジノヴィエフ合同本部」事件捜査にも参画した。
そしてフルシチョフの秘密報告に先立つこと18年前に「私は全世界の輿論の前に責任をもってこれらの陰謀事件と称するものが徹頭徹尾実在したものでなく、すべて故意に作為させられたものであるということを断言して憚らない」と亡命手記で証言した。
フレームアップ工作の一員であったリュシコフの告発だけに世界中で広く報道されてしかるべきだった。

1970年前後に私の関心事であった農業集団化にリュシコフがどう関わったかを調べる。
わたしがこのたび依拠する西野辰吉『謎の亡命者 リュシコフ』(1979)はすぐれた研究書である。これ一冊で足りるほど良くまとまっている。発売当時入手したが、わたしの十月革命研究が、今からちょうど100年前に起きたクロンシュタット水兵の叛乱、タンボフ県農民の飢餓と叛乱、レーニンによる弾圧とNEPへの経済政策転換をもって終わっていたので、読まないままになっていた。
  三一書房  1979年     
カバー記事は1938年7月2日付東京朝日新聞
勝野はラーゲリに送られた農民側について書いた。リュシコフはラーゲリに送ったGPU側の幹部クラスである。照らし合わせることによって、よりまとまったラーゲリ像が浮かび上がるはずだ。結論からいうと両者の発言はしっかり噛み合っていた。

1938年6月満洲国境を越えて単身亡命したリュシコフ大将はすぐさま東京の参謀本部に送られ、ロシア班長甲谷少佐が取り調べた。最低限スターリン独裁政権打倒の意思を利用できると見込んで、矢部中佐主任、転向者高谷事務担当のもと、ソ連情報の分析に当たらせた。勝野も嘱託として協力した。
そのかたわら、リュシコフは1939年に『改造』に四篇の評論を発表している。「第18回共産党大会の批判」「ソ連農業問題の批判」「極東赤軍論」「ソ連の対欧進出批判」である。
これらの評論は当時のソ連情勢を内部から発信したものとして最高の評価に値するが欧米に知られることはなかった。わたしも『改造』掲載分は見ていなくて西野著に収録されたものを利用している。

「ソ連農業問題の批判」(原典は1939年7月号)に依拠して・・・。
わたしは、なぜNEPが破綻しスターリンが「富農」撲滅の非常手段に訴えたか、その原因、背景と経過について語るほどの知識、見解をもっていないが、一言、二言は発言できる。
5カ年計画で重工業に資金(資源・穀物輸出代金を含む)、資源、労働力が傾斜し、農業生産物の対価に見合う軽工業物資を生産できなくなって、統制された市場経済NEPが破綻したからである。農民が副産物販売でしのぎ、穀物を闇の金貨代わりに利用したため、公定価格での穀物供出制度が崩壊した。
スターリンはこれに対して戦時共産主義と同様の強制的手段に訴えた。「穀物徴発と軒並の家宅捜索、財産没収、農村における大量逮捕、市場閉鎖、私営商業の撲滅と都会における商人の逮捕」
同時に地方の党とGPUに農業集団化の社会主義競争を煽った。1929年はスターリンにとって「偉大なる転換の年」となった。一挙にコルホーズ化が進んだのである。反対すれば「富農」とみなされラーゲル行きになる状況では「自発的」賛成以外の選択はなかった。
コルホーズ化はわずかな自留分を残して全財産をコルホーズに文字通り寄与することである。農民にとって決定的な不利益はコルホーズ生産物の分配である。順位はまず供出分優先で、種子用貯蔵、諸経費支払い分を控除した残りを所属家族に分配した。残りがない場合の家族の選択肢はおよそ想像がつく・・・。
スターリンがまず富農撲滅指令を発すると、「絶望に瀕した農民は家畜を葬り、家財を棄売りし、群れをなして都会に、新建設にと逃避し始め、1930年の初頭に至ってはついに公然たる反抗をさえ示すにいたった。」
勝野のいう「移民」である。 
1930年1月、リュシコフはウクライナのハリコフで勤務していた。コルホーズ農民の不穏な情報がぞくぞくと入って来た。
「村落集会において農民はコルホーズに徴発された牛、馬、農具の返却を要求し、種子の一般コルホーズ基金繰入れを拒否した。コルホーズ員はそちこちで勝手に自己財産を引張り出したが、これは逮捕と財産のコルホーズ奪還でケリがついた。だが2月には農民は『街頭』に進出した。[中略]
多くの村落においては、農民は単にコルホーズからの自己財産引出しに止まることなく、村落から積極分子及びコムニストを排撃し追放して、時には殺害さえもし、農村ソビエト、共産党員細胞並びにコルホーズ指導員を威嚇し、追出した者の代りに村落集会で農当々局を選出し、しかして熊手、草刈鎌、猟銃、ベルダン銃で武装し各部落に屯所をつくった。」
蜂起の第一報を受けてウクライナGPU長官バリツキーと次官リュシコフはGPU要員とGPU騎兵ニケ中隊を引率し、特別列車を仕立てて、叛乱の中心地方に赴いた。
リュシコフは自分が秩序回復に当たった最初のある村の例しか書いていないが、動揺は全ウクライナに広がった、といっている。
彼は刺激することを避けて数人の兵士だけを連れて、村の広場に向かった。屯所の警報弾を合図に村内では警鐘が鳴らされ、 広場には人々が群がっていた。群衆の全面に婦人、子供が立ち、そのうしろに散弾銃、熊手、斧で武装した百姓がいた。「到る処で女達が最も積極的であった事をいわねばならぬーー」といくつか例を挙げている。
よほど印象深かったのであろう。わたしは在りし日の三里塚の光景を思い浮かべた。
事件の起こりは地方長官が力づくで農民をコルホーズに追い込んだことである。農民の理解も同意もなく急ごしらえされたコルホーズは労働と没収財産を管理できなかった。
農具は野外に晒され、牛馬、家禽は餌を与える時を誤り疫病を起こした。農民は馬という交通手段を失い、牛乳、鶏卵の配給を受けられなかった。コルホーズ議長は些細な事で成員を処罰し、公私混同の財産管理をおこなった。
我慢しきれなくなった農民は不満を爆発させ自己財産を取り戻し、コルホーズ議長を袋叩きにした。
怒れる農民の訴えを聴取したのちリュシコフは農民歓喜のうちに議長を逮捕し、農民たちには解決に当たる、後方に待機中だったGPU部員の到着を待つという言質を取って引き揚げた。
長官バリツキーはこの旨を聴いてモスクワに通告したうえで関連管区へ命令を与えた。ところがスターリンが手ぬるいと激怒し、集会禁止、武装「暴徒」の大量逮捕を命じた。執行責任者はバリツキーとリュシコフであろう。
国境沿いの西ウクライナから始まった抵抗はドン川を越えて広がり、「北カフカズでは軍隊ばかりでなく大砲までも使用する程に激化した。」
以上がラーゲリ囚人の大半を農民が占めるようになった事情の発端である。
1930年3月、スターリンは「成功による幻惑」という論文を発して行き過ぎの責任を実行機関に負わせ、副業的小経営の併存を承認した。住宅と自家用自留地、小さな家畜と家禽、一部の乳牛等の保有。馬が入っていないのは治安上の理由からであろう。  
それが最低限度の家族生活を営む担保にならなかったことは間もなく分かる。コルホーズ農民も残忍な弾圧を前にして厳しい強制徴収に服従するほかなかった。

「折から1932年の夏のすえ、地平線上に始めて小さな雨雲が現れた。即ち農民はコルホーズが彼等に穀物を供給するのだということに信頼を失うや、収穫前に早くもコッソリ農場の穀物を刈り始めた。スターリンは8月7日付を以て、社会主義的財産の掠奪防止に関する慌だたしい指令を発した。農民は纏めて逮捕され、時には粒穀の二、三穂で捕るものもあった。」
注意深い読者は、この行政的処分が「植民」と呼ばれ、ソーロク駅にマキシム・ゴリキー号で到着した最初の一団を勝野が迎えた時の記事の確かさを、驚きをもって確認することだろう。
勝野に遅れること5年のリュシコフの記述を続ける。「当時農民は互いに申合せて連絡をとりながら、農場から穀物束の一部や或は粒穀入りの袋を脱穀場から持ち帰り始めた。[中略]  農民は、しばしば農村の党員、コルホーズ議長、地方官憲と結託して、収穫量を控え目に報告して」分配の順序をさかさまにした。
こうしたいかさまは、ロッシによればトウフタとよばれ、5ケ年計画のあらゆる事業で広く観られて、ソ連経済を理解する重要な概念の一つとなった。たとえば計画を早期達成した白海運河はGPUのトウフタにより水深が足りず役に立たなかった。
あるいは「官憲側が圧迫手段に頼れば、コルホーズ員は労働を放棄したり、或は仕事が捗らないような働き方をした。これは組織的な抗争[スターリンのいうサボタージュ]で、これを助長したのが農民統一の形態そのものーーコルホ-ズであった。この抗争が特に激化して現れたのは北カフカズで、次いでウクライナやヴォルガ河流域に波及した。」
スターリンはカガノヴィッチ、ヤゴーダ、ガマルニクをそれぞれ党、GPU、赤軍の代表委員とした部隊を特別列車でドン河畔のロストフ(北カフカズの入り口に当たる拠点都市)に派遣した。
リュシコフは先遣調査隊として赤軍兵士数十名を連れてクバン中央の大きなコサック村に赴いた。途中鉄道駅でも車中でも、家財道具を携え家族を伴った、あてもなく村を捨てた無数の農民に出逢った。移民の群れである。
そのコサック村は、かつては小さな郡庁所在地ほどに繁栄していたのが嘘のように荒れ果てて、廃村のように見えた。追い出されるか逃げ出すかしたためである。
かつてコサック騎兵が疾駆していた、ロシアの穀倉であったクバンの黒土ステップを見渡すと、「今のステップには死の静けさが続いている。農場は雑草に覆われ、多くの刈入れの済まない穀物農場には野生の草が生い茂って、穀物は根元から腐りかけている。無茶苦茶に投げ散らされた穀物の束も朽ちかけて、ところどころ赤錆の出始めた犂や鍬が放りだされたまま散乱している。或るところには斃馬が転って死臭を発散して、この状景に死と廃残の残忍な見苦しさをつけたしている。」
村の行政も崩壊している。ソヴィエト議長、コルホーズ議長は食糧救援を求めて地区本部に出かけていて不在だ。副議長と請願に来た飢えた農民の二人きりである。百姓男は最後の手段として農地に放置された穀物を採らしてくれと請願する。副議長は事もなげに「明日来い」と言う。かれにはコルホーズ財産をそれが朽ちかけていても守る義務があるのだ、番人に散弾銃を持たせて。
話を聴いたリュシコフは実地検証に行った。家族全員が膨れ上がって寝ていた。老婆と3人の子供は無意識状態で死にかかっていた。彼の妻は起き上がって手を合わせて助けを求めた。
「瞬時の間私も一切の指令、政治的方針、職務上の義務を忘れて、自分としてはこれに対して権利はないが、この家族にパンと牛乳とを補給することを申出た。」
鬼の目にも涙、偽りはないと思う。パンと牛乳が届いたとしても大飢饉の死神の手から逃れるのはもはや難しかっただろう。
リュシコフの調査は無駄に終わった。スターリンの指示でカガノヴィッチは党地区委員会に、各コサック村で、期限を設けて、収穫、播種及び穀物調達を実行させる決議を出させた。この計画が遂行されない村落は封鎖されGPUの司令部が置かれた。
「一夜にして全クバン地方は法外な強制労働所と化した。同時にシュキリヤートフは共産党員の残忍な粛清を行ったのである。
大量検束、銃殺、強制穀物徴発及び全コサック村落の北方移住[いわゆる植民]が開始された。
地方的不作の際には穀物の強制徴収は完全に民衆を飢餓に陥し入れ餓死せしめた。」  工業化のための飢餓輸出に一因があったことにリュシコフは触れていない。
1932,33年に、北コーカサス、ウクライナ及びヴォルガ下流地方で、歴史上記録的な大飢饉があったが、リュシコフはモスクワ勤務だったので直接観ていない、という。
スターリンに直接由来する文書館の歴史資料を可能な限り利用したと銘打って最近モスクワで発刊された最新の研究書は書評によると死者を500万以上としている。
1932,33年当時の農民にとってコルホーズとラーゲリ、どちらがマシだったか、問うまでもなく明らかであろう。