自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

飛行機

2011-02-22 | 体験>知識

最初に飛行機を身近に見たのはパリヤーノ飛行場のこけら落しだった。
こけらと言っても、建物など無く、丘の上の平らな草地だけだった。
歩いて行ける距離だったので友達と見に行った。
セスナ1機と重症の負傷者を観た。
プロペラに当たって右腕から大量に出血していた。
歩いていたが救急車など無かったので失血死したのではないか?
二度目は市内の公園に墜落したセスナ機を友達と見に行った。
黒焦げの鉄の残骸と化していて飛行機の形をなしていなかった。
パイロットが死んだと聞いた。
サンパウロまで搭乗したのは双発のプロペラ旅客機だった。
新空港から飛び立ったのかどうか覚えていない。
サンパウロ市まで500km余り、快適なはずの飛行だったが、わたしの 航空機嫌いを決定的にした。
ずんずん墜ちていくエアポケットに身も心も固まってしまった。
金輪際飛行機には乗らないつもりだったが、40年後里帰りした時だけ は仕方なく飛行機を利用した。
眼下に見える景色は一面ジャングルで大木の樹冠がブロッコリそっくりだったのを憶えている。
そんなに密林が当時は残っていたのかと今いぶかっている。
たったの50年間でブラジルの大地はアマゾンを残して丸裸になった。
そのアマゾンも毎年四国ほどの面積が伐採され焼き払われ大豆畑や放牧場に変貌している。
わたしは不幸にも一生の間に地球規模の原始林の喪失と生物多様性の危機を目の当たりに見てしまった。


祝福されない離伯/移民の一体感すでに無く

2011-02-14 | 家族>社会>国家
1949年、日伯の通商条約が再開されると日本から人や物が入ってきた。
フジヤマの飛魚の異名をとった古橋、橋爪がわが市にも来て社交クラブの大
プールで日系人を慰労した。
わたしは見ていないが、近くのパリヤーノ空港では勝組がやはり慰問使節団
は来たと気勢を上げたそうだ。
日系人の人心を安定させることを目的にした両国政府の計らいだったと想う。
人心の流れが永住に向かう中、父は流れに抗して、自費帰国を選んだ。
牛革の巨大鞄をいくつも注文製造して帰国に備えた。
エナメルペイントでアドレスを書き直す父の姿を見かけることが多くなった。
父にとって農場主のNさんは帰国請願運動の同志であった。
運動の熱から冷めて、父は帰国の道を貫きNさんは永住に舵を切った。
もはやブラジル中どこにも移民社会の一体感はなかった。
喜怒哀楽を分かち合い本音で語り合った「幸福な日々」は過去のものになって
しまった。
Nさんは送別会を催してくれたと思うがほとんど記憶にない。
変り身が速かった母方の一族は母の帰国を引きとめようとした。
Y叔父は私を指して「日本まで行って肥えタゴ担ぎをすることもなかろう」と言っ
て父を悔しがらせた。
日本に着いてすぐその意味を思い知らされた。
私自身そのころ都会と田舎の二重生活をしていたので遊び仲間を失っていた。
学び舎と働く場から離れるとひとは語り合える友達を失うものだ、と今になって
悟り、ホームレスに上辺だけでも同情を寄せている。
別れは永の別れを意味した。
親類だけは空港まで見送りに来てくれた。
遠方に住む父方の伯母と叔父も来てくれたにちがいない。
不遜にもわたしが一番悲しかったのは、親代わりをしてくれたY夫人とY家に
引きとってもらったリオン(シェパード)との別れだった。
主をなくしたリオンは若いのにその後元気がなくなり半年後に死んだ。


垣間見た都会生活

2011-02-08 | 体験>知識
11,12歳・・・ブラジル生活最後の1年間、土、日はY叔父宅で過ごすこと
が多くなった。
灯火から電灯へ、自家製パンからパン屋の焼き立てパンへ、ポットンから
水洗トイレへ、家の中の生活が一変した。
都会と田舎の生活を交互に繰り返しながら、わたしは、いつもながらに鈍感
なのか、どちらにも順応し、都会の便利でクリーンな生活に惹かれることは
なかった。
市の中心部は石畳で舗装されていた。様々の商店の中には日系の商店も
あった。
輸入が再開され少年倶楽部の新刊が入るようになったのでよく行く文房具屋
があった。
そこではじめて万引きを見た。
3人の白人ハイティーンが入ってきて陳列ケースの中のナイフをあらためる
振りをして元に戻した。
店番の日系青年が6本入れていた箱に5本しかないことを告げると、3人は
肩をすくめて立ち去った。
田舎ではただの一度も犯罪を見たことも聞いたこともなかった。
その田舎から市街に通う、人家から遠い路上でわたしも犯罪被害者になり
そうになった。
街に向かう途中自転車がぬかるみで立ち往生した。
ブラジルの赤土はぬかるむと車もチェーンをつけないとエンコする。
対面から来た裸馬に二人乗りした白人ハイティーンが手助けしてやると言って
自転車にロープを掛けて馬で引っ張りはじめた。
進行方向が逆だったのでわたしは盗られると直感して大泣きした。
近くの白人農夫が駆けつけたので二人は立ち去った。
農夫は家まで自転車を担いでいってわたしを危なかったなあと慰めてくれた。
後日父が馬車を借りて自転車を引き取りに行った。
他人の情けが身にしみただけでなく貧しい敬虔なカトリック信徒に出会った
初体験だった。