自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

狭山事件/最終目撃地点/被害者の足取りと時間

2023-02-03 | 狭山事件

長年の懸案だった狭山事件のもろもろの現場を地図上でどうにか確認できるようになった。
最終目撃者奥富少年(被害者の1年後輩、堀兼中学3年)が「澤の自転車屋から百二、三十メートル位、入間川[駅]寄りの畑中で、入間川方面から帰ってくる善枝ちゃんと会いました」という目撃情報を、5月5日付調書(自宅で父親同席で証言)に残している。沢街道で、とは云っていない。正確には「澤の道地内」で、つまり加佐志街道の「沢の道地内」で出会った、といっている。その地点を今回地図上印で視覚化することができた。

その認識に至る経緯は次の通りである。
当時西武川越新宿線の円弧内側は、工業団地、住宅団地の開発が始まったばかりの農村で、道路は未整備、その正式名はなかった。週刊埼玉の記者亀井さんでさえ加差志街道は沢街道とも云うと書いている。通称加差志街道は市役所(駅の反対側)から見て加差志集落に通じるといった程度の通称であり、奥富少年でさえその通称を知っていたかどうか疑わしい。堀兼部落の佐野屋から見た「沢の道」(現126号線)についても同様のことが言える。「澤の道地内 jinai」に注目すると、目撃スポットは、沢の道地域内の畑の中の道、ということになる。 
関口自転車店は沢部落のランドマークとして使われたにすぎない。東中学校に行くのにわざわざ沢街道を西に進み遠回りするはずがない。また、被害者が第一ガード下から西武線沿いに北上する理由もない。
奥富少年の証言は事件直後5日のものであり最後の目撃者として信用できる。ただ野球に関わることがらについては、小さな嘘をつく動機があった。野球部は当日練習するか決勝戦見学に行くか合議して見学に決まった。3年生として後輩を引っ張る立場にありながら理由もなく遅れて会場に行っている。
野球部監督の第二ゲートで被害者に声をかけたという証言は、事件後7年以上あとのものであることから、甲斐仁志氏によって記憶違いとして否定されている。

私は被害者が学校を出た時間は3時30分ごろで決まりだと思う。甲斐氏は下校時間について、降雨時間をからめて全証言を丁寧に比較検討して、2時35分過ぎに下校したと結論している。特に重視しているのが小-中学時代からの同級生の証言である。5月2日の警察に対する供述では「授業が終わると、雨が降ってきたから早くかえる」と言って帰った(この調書は未開示である)。5月29日の検察調書では「授業が終わって一寸卓球をして・・・三時半頃、私にさようならと言って帰りました」となっている。私は自説の筋書きに合わせて3時半頃説を採用する。容疑対象者が120人もいる時点で検察が供述を誘導して調書を作る必要性は皆無だからである。
わたしは、被害者が3時半頃に学校を出て「4時に第一ガード、会えなかったら加差志街道→浜街道で会おう」と告げられた通りの行動をとった、と考えている。そして浜街道かその手前で出会い、近くの雑木林の人目につかない所で、車内で殺害された、という前章の記事を再確認する。

既出記事の内容と重複したところがあるが、次章に進むためには、どうしても被害者の納得のいく足取りを地図上で確認する必要があった。壁を突破するための後ずさりと理解してほしい。

この章は、結論は異なるが、甲斐仁志氏『最終推理  狭山事件』(明石書店  2014年)に負うところが多い。



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