原画 山崎 巌(小学4年 1923年)
本稿は上掲書(2014年)の「四ツ木橋」に関わる部分からの抽出でほぼ成り立っている。上掲書に「四ツ木橋」周辺の証言がとくに多いのはそこが100人以上から証言を集めた 「追悼する会」の活動中心地だからである。
1910年韓国併合により朝鮮ではGDPと物価が上がり貧富の格差が増大した。細民労働者と土地を奪われた零細農民が戦争景気の日本に出稼ぎに来た。在日朝鮮人の数は、1911年には2500だったのが1923年には8万人よりも多いと云う。現場作業員として日本人より安い賃金2分の1か3分の2かで雇用された。名の知れた共済会もなくマークされるほどの指導者もいなかった。
だから指名拘束も指名殺害もなく虐殺は民族的属性だけで行われた。大震災時の朝鮮人虐殺は厳密にいえばジェノサイドである。
虐殺者は朝鮮人かどうかを発音で判別した。沖縄、奄美出身者、障碍者が殺害されたこともあった。言葉ができても教育勅語暗唱で引っ掛かることもあった。品川町ではなぜか明大生が犠牲になった。
自警団による朝鮮人狩りに勇敢に立ちはだかった日本人がいたことから始めよう・・・。
◇品川のある光景‐‐‐地震が発生した9月1日の夕方、大井町では往来に日本刀や鳶口、ノコギリなどを持った人々が早くも現れ、「朝鮮人を殺せ」と叫び始めた。・・・[朝鮮人13名の飯場に1日]夜遅く、警官と兵士、近所の日本人たち15,6人がやってきた。「警察に行こう。そうしなければお前たちは殺される」 [途中自警団に幾度となく襲われる。品川署も包囲されている。署内から警官隊が出動して一行を救出して署内に引き入れた]
虐殺は指揮官次第である。指揮官が極端な思想信条の持ち主であれば上で記述した「保護」は詐術による死の行進に反転する。
上記の例が示すとおり、軍と警察の極端主義者が活動を始める前の1日夜に自警団による襲撃が始まっていたことは注目に値する。また身近に朝鮮人と関わりがあった住民はその保護に当たっている。
◇千葉県の貧しい小さな丸山集落では自警団が集落に溶け込んだ建設労働者2人をかばって守り抜いた。5,6人で鉢巻しめて手にカマ、クワを持って他所の自警団40人位と対峙して啖呵を切ったと云う。「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」 4日か5日の出来事だった。
◇ここで亀戸警察に連行され「騒いだから」と兵士に引き渡されて虐殺された4人の自警団員がいたことを思い出した。彼らは亀戸より南の砂町、中国人労働者が多くいた地域の飯場頭とか人夫出しではなかっただろうか? 彼らが配下の中国人をかばって殺された可能性のほうが高い。かれらの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかったと警察は言うが、亀戸警察が管内自警団による検問を抑えるはずがない。両者は極端主義という同じ穴のムジナなのだから。
◇前稿の平澤計七も川合義虎も朝鮮人をかばって軍警と接触があった。計七は朝鮮人狩りに憤慨して近衞連隊司令所に掛け合いに行った。司令所は亀戸警察の真向かいの郵便局に置かれていた。川合は朝鮮人老婆に乱暴する自警団と喧嘩して、亀戸警察に留置された。ほかの殺された組合活動家も夜警当番に参加している。朝鮮人をめぐる主義者とシンパのジレンマは察するに余りある。
◇横浜鶴見警察署長が庁舎を包囲した1000人の町民と町議たちを前に「鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける」「管理下の朝鮮人が一人でも逃げ出したら腹を切る」と体を張って朝鮮人、中国人300名を救ったという逸話は有名である。署長の胆力を前にして群衆はひるんだが、それだけならおさまらなかっただろう。
日頃から朝鮮、中国、沖縄から出て来た労働者の生活実態に触れて、彼らが陰謀団ではなく出稼ぎ労働者に過ぎないことを知っていたからこそ「デマを信じるな。 彼らは鶴見で働く労働者だ。同じ被災者だ」と効果的に説得できた。また自警団の目の前でビンの「毒液」を飲んで見せている。
町の有力者の説得には、忠君愛国の世相、世論の流れにそって、朝鮮人は天皇の赤子ではないか、と急所をついて考えさせている。また外国人である中国人を害して外交問題を起こしてもよいか、と問うて痛い所を突いている。その巧みで粘り強い説得力がなかったら300とも400ともいわれる出稼ぎ労働者を救うことはできなかったと確信する。 参照 大川常吉ーWikipedia
震災時の朝鮮人ジェノサイドは、朝鮮、沿海州、間島における「不逞鮮人」掃討戦の、所を国内にかえた延長戦である。震災という非常時に軍警と民衆が起こした不定期戦である。こういう観点から何故朝鮮人虐殺は起こったか、私はこれまで原因追及をしてきたつもりでいる。
もう一つ、大きな原因として関東大震災特有の流言問題を追加しておきたい。
「怪鮮人3名捕わる 陰謀団一味か」 たまたま9月1日の震災発生前の東京朝日朝刊に載った小記事である。今の時代から見るとヘイト・スピーチだが当時は普通の表現だった。「怪鮮人」をタイトルにした同様の記事が震災直前までの7年間に西日本の新聞だけで100件以上掲載されていた(京大水野直樹研究室が作成したデータベース)
中央防災会議報告書(2008年)『1923 関東大震災【第2編】』は冒頭で述べている。流言は地震前の新聞報道をはじめとする住民の予備知識や[地震直後の]断片的に得られる情報を背景に、・・・[解釈の暴走]として生じた、と。
朝鮮人ジェノサイドの全貌ではなくその極端な一端にだけこれから踏み込む。フォーカスした対象区域は亀戸~習志野である。その限りでのランドマークは荒川大橋下手、今は亡き四ツ木橋(現木根川橋)である。そこは亀戸警察管内であり軍警が平澤計七たちと朝鮮人100余名を殺害してその死体を一時遺棄焼却した現場である。
そこはまた習志野近衞騎兵連隊が「すわ、皇都一大事!」と文字通り駆け抜けた場所である。後日軍警が「保護」下の1000余名の朝鮮人と多数の中国人を習志野収容所に移送した通り道である。そこはまた避難民の重要な避難ルートであり、荒川土手は1日夕方避難民15万人であふれたと小松川警察は伝えている。ちなみに対象地域は焼失地域でなかった。
四つ木橋 451m 戦車通行可 出典:関東地方整備局ホームページ
http://www.ktr.mlit.go.jp/syuto/html_gallery/m_win/m01_04.html
証言1 四ツ木橋東詰 荒川左岸土手 曺青年ほか14(女2)名
避難していると1日夜10時頃、やって来た消防団に数珠つなぎにされ、翌朝5時頃寺島警察に向けて橋上を西へ連行された。「橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった」
証言2 「四ツ木]の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ」(永井仁三郎)
証言3 「敵は帝都にあり」 習志野の近衛騎兵連隊が亀戸に到着したのは2日午後の2時頃だったが、そこは罹災民でハンランする洪水のようであった。 手始めの「列車改め」で「朝鮮人はみなひきずり降ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声―国賊!朝鮮人を皆殺しにしろ! ・・・その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやりだした」(元連隊兵士 越中谷利一)
徒歩編成部隊は午後1時に、機関銃隊は夜に亀戸に到着した。
帝都は常時第一師団と近衞師団が警備していたが、天皇と皇居を警衛する近衞連隊(歩兵、砲兵、工兵等)がもっとも精鋭で思想的にコアだった。だから最初から「不逞の輩掃討」「鮮人鎮圧」に燃え、自警団の先頭に立った。心底からそれが忠義だと信じた行動だった。
証言4 四ツ木橋西詰では銃殺が行われた。西詰に部隊屯所が設けられた。部隊屯所の西側に大きな池、通称温泉池があり、追われて池に飛び込んだ朝鮮人が7~8名自警団に猟銃で撃たれて死んだ、という証言(仮名 井伊)もある。
「二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2,3日続いたね」(仮名 高田)
西詰河原では「10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」(浅岡重蔵) トロッコは荒川放水路工事の土砂を運ぶためのもの。多くの朝鮮人がその工事に従事していた。
多分同じ現場だと思われるが「大ぜいの人が橋の下を見て居ますから私達[兄弟]二人も下を見たら韓国人の人(女一名)10名以上が兵隊の(キカンジウ)でころされたのを見ておどろいてしまいました」(篠原行吉 80才) 9月5日(水曜)の出来事だった。
証言5 内務省、警視庁、師団は、「朝鮮人暴動」がそもそも存在しないことを知って3日以降部分的に軌道修正を始めた。4日午後10時第一師団司令部(石光真臣師団長)命令で、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して習志野捕虜収容所(大戦中は独軍捕虜収容所だった)に移送することに決まった。5日以後亀戸警察からも1000人が徒歩移送された。皆これで助かると安心したことだろう。
5日、羅漢寺(西大島駅北東角)隣の銭湯でトリック私刑が行われた。「針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たち[1000人に近い列]の一部ですね。憲兵がたしか2人。兵隊と巡査が4,5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきていて、いきり立っているのです。<渡せ、渡せ><俺たちのかたきを渡せ>って、いきり立っているのです。
銭湯に朝鮮人を入れたんです、民衆を追っ払ってね。・・・それで帰ろうと思ったら、何分もしないうちに、<裏から出たぞー>って騒ぐわけなんです。何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。・・・ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます」(浦辺政雄)
証言6 習志野収容所では収容人員が点検で「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」(渡辺良雄巡査部長、舟橋署から派遣) 軍の極端指揮官が将来の「禍根を除く」ため選んで間引きを命じたと考えられる。6日には戒厳司令部から「之に暴行を加へたりして、自ら罪人となるな」と強い調子の注意が出ていたので周辺の複数自警団に毎日数人ずつ引き渡して始末させたのだ。
8日「又鮮人を貰いに行く 9時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事を決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと・・・」(千葉県高津住民の日記)
高津地区の住民は「子や孫の代までこの問題を残してはならない」と遺骨6体を掘り起こして観音寺に納め99年に境内に慰霊碑を建てた。
軍警は3000人以上の朝鮮人、1700人弱の中国人を収容した習志野収容所を10月末に閉鎖した。
高津で慰霊碑が建ったきっかけは中学生の郷土史クラブが古老たちに昔のことを聞き取りしたことだった。
同じころ足立区の小学校の絹田幸恵先生が授業のために荒川放水路について古老たちに聞き書きしていて「大変なことを聞いてしまった」ことがきっかけで「追悼する会」ができ、四半世紀余りかかって2009年「四ツ木橋」のたもとの堤防下に殉難者追悼之碑を建立した。下図参照。なお亀戸署は図面外左方向に在った。
追悼碑の周りには朝鮮の故郷を象徴する鳳仙花が植えられている。碑に手を合わせた後で「私の父は当時、朝鮮人を殺しました」と〔ほうせんか〕会のメンバーに打ち明けた人もいたという。