自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

趣味/シャクナゲ/やはり山におけ山野草

2021-02-16 | 生活史

    出典  環境省HP ヤクシマシャクナゲと永田岳
シャクナゲとの付き合いも山歩きから始まった。廃村八丁の古い土蔵の近くでひっそりと静かに咲いていた。大浜の一言がなかったら見過ごしてしまって、その花が私のシャクナゲ愛好に火をつけることはなかっただろう。
今西錦司先生が本の中でシャクナゲに触れている、と大浜がつぶやくように言ったのがきっかけだった。たしかに今西先生は1920年代の青年時代に生活=研究圏であった北山と芦生のシャクナゲを見ているが、その中間に位置した「八丁」には縁がなかったようだ。当時の該当地形図には等高線があるだけで、品谷山の名称と三角点、谷と川の名がない。
1970年代当時は日本シャクナゲブームで園芸店はどこもシャクナゲの鉢植えを並べて愛好者の気を引いていた。産地ごとに花と葉にわずかな違いがあることを強調して屋久島から利尻まで産地名をつけて購買心をそそっていた。
日本シャクナゲは白から淡いピンクまで気品のある花姿から花木の女王とよばれることもある。イギリス人が雲南あたりから持ち帰ったものが品種改良され今では華麗な西洋シャクナゲとして世界中で愛好されている。
わたしも、日本シャクナゲの小さな鉢植えをいくつかコレクトしたが、いずれも暑い夏を越すことができず枯れてしまった。その頃安南?原産の黄色いシャクナゲが京都かどこかの植物園で咲いたというニュース写真をみて、まだ見ぬ幻の花に憧れを抱いた。新聞の切り抜き記事がみつかったら貼り付けるつもりだ。
ほどなくして近くの植木団地で大きな鉢植えを見つけたときは心が弾んだ。しかし5千円もしたそのシャクナゲは黄色い花を見せることなく枯れてしまい、わたしのシャクナゲ愛はしぼんでしまった。高山植物であるしゃくなげの屋外鉢植え栽培は不可能と悟ったのである。
そのころ、あるできごとから私はコレクター、マニアを、ジャンルを問わず、無条件で尊敬するのをやめた。きっかけはシャクナゲだった。
廃村八丁の北に芦生の森京大演習林(今年で開所100周年)があった。周山、美山の里経由で大浜の医療グループに交じって私も入山した。大浜たちはブナや杉の大木で有名な原生林に向かった。わたしはひとりヤマメを釣りに繁みに隠れたような細流(日本海に注ぐ由良川の源流 )を遡った。
だれかに招かれて同伴していた京細工の男性は木工芸の樹木を採りに別行動をとった。分かれる際その工芸士は初対面のわたしに渓流釣り用の蓋付きの餌入れ(竹筒)をくれた。わたしは小さなヤマメが一尾釣れただけであった。
日暮れに車止めに集まったとき工芸士が語った失敗談にわたしは自分の思想を揺さぶられるほどの衝撃を受けた。かれはシャクナゲの大木の幹を切り出したが重くて持って帰るのを断念したと残念がっていたのである。
シャクナゲの大木は見たことがないがアズマシャクナゲで6m、ツクシシャクナゲで5mが最大らしい。そこまで大きくなるのに何百年か掛かったことだろう。
こういうことは工芸家であれ川漁師であれマタギであれ研究者であれ誰もがマニア、コレクターの域に達すれば陥りがちな過ちである。事業家、スポーツ愛好者も例外ではない。わたしは一途になる性格を自覚していたので自分が恐ろしくなった。
今だけ、自分だけ、金だけ、そして名誉だけ、にならないように、ときどき立ち止まって周囲、将来をみわたすべし。こんなまとめ方ができるのは、今の時勢、今の年齢だからこそであって、当時の自分は自己中心的だった。

最近の芦生研究林の見学記を読んだが天敵のオオカミが絶滅したため鹿害で若木と地表の草が食べられ再生できない場所もあって大問題になっているそうだ。
半世紀前、しゃくなげのトンネルで有名な大台ヶ原の頂きはトウヒの白骨林(伊勢湾台風の被害→苔に代わって笹が地表を覆ったことが原因)が白髪頭を連想させて痛々しかった。笹が笹を主食とする鹿の繁殖を招き、現状は一面イトザサに覆われ、さらに増えた白骨林が目立つ異様な景観となっている。植林しても鹿害(樹皮と若木を食べる)で未だに再生できないのだ。
現在環境省の生態系保全再生計画が進行中だが元の姿にするには百年かかるとも不可能とも言われている。さらなる不可逆的進行を予測する人すらいる。
山が荒れ保水力が低下すると豪雨災害が起こる。人為による地球温暖化が主因だと思うが山を荒らしているのも人間である。植物も含めて生物多様性を失わせるのは人間の活動のあり方に他ならない。

ニホンオオカミは明治末に姿を消した。最後の狼を殺したのは漁師=農民の銃か罠(駆除奨励金目当て)だが、絶滅させたのは、国民全体である。90年前の満州事変と同じパターンである。悪いのは狼であり、侮日・排日支那であり、鬼畜米英である。軍部に引きづられた政府が戦争を始めて、新聞が煽り国民が熱狂し、こどもを神の国教育で洗脳して、ついには世界平和の均衡が崩れた。


趣味/渓流魚追っかけ

2021-02-01 | 生活史

1970年頃いくつか趣味をもった。みな山歩きを発端とする。
八幡平トレッキングで川に入り水中で岩陰の大イワナと一瞬目を合わせて以来渓流魚に魅了されてしばらく渓流の天然アマゴを追っかけた。

    出典   WEB図鑑 投稿  hitomi
アマゴは西日本の太平洋側に棲息する美しい渓流魚である。日本海側と東日本に棲息するヤマメは同じサケ科であるが朱点がない。新婚旅行で訪れた北海道の民宿先に改めてヤマメ釣りに行ったが数尾しか釣れなかった。
盆休みにしか釣行の時間がないので、水温が上がる夏は北海道と云えども、渓流魚はほとんど食いが無い。筑後川上流の小国川(大分県)でも四万十川支流でも同様だった。
釣れないのに行く。それは渓流釣りの魅力もさることながら、渓谷の清々しさ、澄み切った清流の水面に映える木々の緑、耳朶にやさしいせせらぎと風の音のハーモニーが人の、少なくともわたしの、生理に合っているからだと思う。
釣り下手なのに行く。単独、日帰りで行った奥吉野は2度とも空振りだった。大浜、溝尾と行った天川村・神童子谷はエメラルドグリーンの美しい淵「釜滝」が有名で沢登りの名所であるが、大浜は大峰山登頂が目的で、私はアマゴが狙いで、いっしょに渓流を遡行した。5月の連休だったので釣れるかと思ったがさっぱりで上流の細い流れでようやく一尾釣り上げた。はじめての30センチ弱の大物だった。自慢できる尺越えに5ミリ足らなかったのが今もって残念でならない。その後は多忙で釣りに行く時間がなくなった。

   神童子谷  アマゴ
その晩深夜になっても大浜が戻って来なかった。軽装で懐中電灯なしでは遭難するかもと心配して、夜が明けたら救助の手配をどうするか、あれこれ溝尾と二人で思案した。日付が変わった頃彼はいつものようにニコニコ顔で還って来た。大浜を回想するときそれ以外の表情が思い浮かばないのだ。下山中に日が暮れて手と足で足下を探りながら谷を下って来たそうだ。

サッカー指導の話をからませるとつぎのようになる・・・。
わたしは部員の身体をできるだけ大きくするのも監督の務めだと考えていた。食べ物によって体が大きくなる例としてヤマメとアマゴを引き合いに出した。
孵化後渓流から海に下ったヤマメ、アマゴはそれぞれ最大70cmのサクラマス、50cmのサツキマスとなる。海の方が餌が豊富なだけ巨大化する。
人に敷衍して言えば、体の大小を決めるのは遺伝ではない。食事の質と量である。もっと突っ込んで言えば、国民の食習慣あるいは家庭の食習慣で決まる。近頃の若者の長身を見れば納得できるのではなかろうか。
これは自説にすぎないが海に下るのは餌取りに後れをとった「負け組」である。生物棲み分け理論[私流にいえばニッチ理論]を唱道した今西錦司博士、大浜が尊敬してやまなかった登山=探検家の今西先生なら、なんと言われたか興味が尽きない。
部員にこの話をして、だから毎日牛乳をたくさん飲め、としばしば勧めた。またこうも言った。牛乳はそれだけで仔牛が育つ完全食である。玄米はビタミン、ミネラルに富む完全食品であるが白米は米を白くした粕である。食材は消化できるなら丸々食べよ、丈夫な体を作るには骨皮筋衛門(ほねかわすじえもん)が良い。