自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

皆既日食/Londrina で幼時に体験

2024-04-07 | 体験>知識

 皆既日食   Londrina  1947.5.20
4月6日の朝日夕刊に、「北米縦断  皆既日食フィーバー」と題する記事が掲載された。8日昼前からメキシコとテキサス~ニューヨークの各州で観測されるとNASAが発表した。大勢の人の移動に伴う混乱が懸念されている。
記事を見て幼い時の記憶がよみがえり、古い写真をひっぱり出した。その裏に父の筆跡で地名と日付が書かれていた。私が日食を観たのは8歳の時だということが判った。

ブラジルでも観測フィーヴァーがあった。ニュースの入らない田舎生活の私でも日食があることを知っていた。「南方」の空の高い所で日が欠けていき、夜のように暗くなった。明るくなりはじめると雄鶏があちこちで時を告げていた。

今回の下調べで私は自分の不安定だったLondrinaに関する
位置・方向感覚をいくらか正常化することができた。私は8歳の時ウチの地所にいた。ほかの所ではなく・・・。これまで確認できなかった居所がわかったことが一つ。
二つ目はこれまで太陽が南方を通過するという錯覚に悩んでいたが、今回写真を見て浮遊感が薄らいだ。
Londrina は南回帰線上にある。太陽が赤道の真上を通過し、Londrina からみて北方の東(右)から太陽が昇る。論理的にはわかる。今回写真がそれを視覚的に納得させてくれた。
ただ方角は地形上に足で立って目で見てはじめて完全に自分と一体化する。それまで、わたしの幼児の錯覚は完全には修正できない。
錯覚の原因は来日にある。日本では太陽は南方を移動する。


鵬翔高校サッカー場落雷事故で回想

2024-04-04 | 体験>知識

4月3日午後2時半過ぎ、宮崎市にある鵬翔高校サッカー場でピッチサイドに落雷があり、熊本から試合に来てウオームアップ中の鹿本高校の選手18名が負傷して救急搬送され、9人が入院、このうち、1人が意識不明の重体となっている。「その場の天候は、雨がぱらついてきたというくらいの状況だった。落雷音が全くしなかった。いきなりドンと(雷が落ちた)」 2日午後4時ごろから県内全域に雷注意報が出ていた。鵬翔高校教頭先生のインタヴィユー記事 mrt宮崎放送 配信 

鵬翔高校サッカー部といえば、わたしが高槻フットボールクラブの監督をしていたころ、ウチの卒業生が毎年入部していた。2013年には全国高校選手権で優勝実績がある強豪校である。

これも因縁か、わたしは2013年の8月18日に、その17年前の1996年に高槻市営グラウンドで起きた同様の重大事故を扱った記事をブログに投稿している。以下に再投稿する。参考にしてほしい。

なお、高槻市での事故を受けて、日本サッカー協会は、落雷事故防止対策の指針を定めてルールブックに掲載している。
「活動中に落雷の予兆があった場合は、速やかに活動を中止し、危険性がなくなると判断されるまで安全な場所に避難するなど、選手の安全確保を最優先事項として常に留意する」

「落雷事故と裁判 長居競技場落雷死/高槻市落雷失明」
2012年8月18日午後2時15分ごろ、去年の今日、長居公園南西入り口付近で樹木に落雷があり福岡県の20代の女性2人が病院に搬送されたが死亡した。
二人はEXILEなど人気アーティストの野外ライヴの入場を待っていて難に遭った。
さらに3時過ぎ会場前の同イヴェント・グッズ売り場の幟に落雷があり6人が軽傷を負った。
その後ライヴは1時間遅れで挙行された。
今年7月30日遺族は主催者に対して損害賠償訴訟を起こした。
[結果は上告審で棄却、遺族敗訴]

1996年8月13日、全国的に落雷対策を促す結果を招く重大事故が身近な高槻市で起きた。
市体育協会主催のユースサッカーフェスタで試合中の土佐高校の生徒が直撃を受け重篤な不治の障害を両眼と四肢に負った。
(財)市体育協会と土佐高校は保護者と損害賠償裁判で最高裁まで争って敗訴した。[保護者勝訴]
財団法人は銀行口座を差し押さえられ解散した。
延滞金を含めると5億円に近い賠償金のほぼ80%を土佐高校が負担した。

わがクラブは最初の稲妻、雷鳴で競技を中断、放棄することを心掛けている。
さらに中断、離脱の決定権を指導者だけでなく選手個人、その保護者にも与えている。
団体競技であるにもかかわらず個人の意思が優先される。

それでも危険回避が難しいと感じることがある。
逃げる間がなく逃げ場がないとき、たとえば上記長居事故のような場合、個人あるいは小集団の自助、共助だけではどうにもならない。
主催者の対応不足は論外だが、施設管理者[この件では大阪市]の無策を問わなくてもよいのか?
屋根のある全施設の門を開放して避難させる人道的責任を負わなくてよいのか。[この件では長居スタジアムは対応しなかった]
この件では施設を貸す側にもできることがあった、と確信している。
ちなみに避難小屋を兼ねる山小屋は緊急の場合定員に関係なく避難者を収容する。
逃げ場がないとき公共施設を開放する・・・これが常識になっていない。

マニュアル命のお役人と頭でっかちの裁判官たちはどう思う?


泳法と水難防止/井ノ山毅/安保と沖縄×北方4島

2019-02-11 | 体験>知識

Notice 映画「金子文子と朴烈」(イ・ジュンイク監督) 初公開
最近様変わりした『週刊 金曜日』1220号に金子文子特集あり。
当BLOG記事「朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件」にも目を通してほしい。

井ノ山さんを伏見桃山の官舎に訪ねるようになったきっかけは、60年安保闘争で全国税労組京都支部がゼネストの一環として時間内職場集会を決行したのを、府学連として応援に行き下京税務署でピケを張ったことである。

私は当時の学生、労働者の政治的高揚を誇りに思う。税務署員が時間内職場集会を開催して処罰されなかったことは画期的である!  戦後15年しか経っていなかったから、軍事同盟と知れば新安保反対は当然の成り行きだった。条約を通すため岸首相は国会の質疑で軍事同盟でないと懸命に虚偽の答弁をしていた。
近年、軍事緊張の高まりが戦前のそれに類似してきた。だから、軍事同盟だからこそ[仕方なく]支持する世論が多数になった。同時に軍事同盟の危うさに反対する世論も高まりつつある。60年前の安保反対の正当性が再評価に向かうだろう。この機会に、安保条約と北方4島×沖縄、に言及したい。が、そのまえに水泳体験記を・・・。

私の山行は大浜の知遇を得たことで始まった。水泳の手ほどきは井ノ山さんから受けた。といっても古泳法と水難防止法について伏見桃山のプールでお子さんを遊ばしながら一度きり指南を受けただけである。井ノ山さんは京都で歴史のある踏水会の水泳教室で育ち、私と知り合うまでは暇があれば疎水夷川ダムにあった教室で水泳指導を手伝っていたようである。
踏水会は1896年に大日本武徳会水泳部として創立され、熊本から小堀流踏水術を取り入れた。立ち泳ぎ、横泳ぎを特徴とし、泳ぎながら刀や弓を使うことのできる軍事泳法である。現今の踏水会は妊婦から高齢者までを対象とした多種目のコースをもつ水泳学園法人である。
井ノ山さんからあおり足を習い立ち泳ぎと横泳ぎの真似事ができるようになった。
これがきっかけで私はクロールではあったが「遠泳」ができるようになった。夜間、大学のプールにひとり忍び込んで息継ぎの方法を研究し1500m近くまで泳げるようになった。ゴーグルなしではカルクで眼が痛んでそれ以上は無理だった。
自己流の息継ぎ法のミソは、古泳法は始終頭を水面に浮かせるが、クロールだから横を向いて呼吸のために開けた口を半分近く水に沈めたまま、始終顔を上げないで水平に泳ぐことである。顔を上げる度にその分だけ反動で体が沈む、という簡単な原理に気付いたことがクロール上達の鍵となった。
井ノ山さんの指南で手荒な救助法があることに驚いた。溺れる者は藁をもつかむというが、救助者を必死で掴んでその自由を奪って共に溺れる恐れがあるから、それを回避するために、救助者は遭難者を半回転させて背後から抱きついて救助する、暴れて危ない場合には少し溺れさせて弱らせる、というのである。危険を伴う救助法である。絶対マネしてはいけない。


保津峡ピクニック 1965年春 川下り遊船で有名な保津川にもこんな浅瀬がある。

塾の生徒を水泳にたびたび連れていった中で体験からいくつか水難防止のヒントを得た。
保津峡~嵐山では、急流で流されたら抗わずに流れに乗って湾曲部か水流の穏やかな岸に流れつくように努める、決して慌ててエネルギーを使い切るな、ということを体験的に学んだ。

また、浅い急流を下るときは、仰向けになって腹を上にして足から先に流されるのが一番安全であることを実際に試して会得した。低水位期の保津峡の早瀬で腹部を護りつつ手と足で底石の危険を避けながら流されていくのはスリルがあって面白かった。もちろん塾生にやらせたことはない。
若狭湾高浜海水浴場では、塾生のキャンプの手助けをしてくれていた院生の白石君が溺れかけた。水泳中に強い局所的引き潮*によって沖に流されかけて懸命に戻ろうとして疲れ果てた。幸いことなきをえたが、これは後で知ったが、力尽きて溺れる原因になるからぜったい避けないといけないやり方である。
正解は、あらがわずに流されつつ急流から左右どちらかに脱出するよう努めることである。顔を上げて泳ぐか浮くかすれば流されても流れが拡散して弱まり遠くまで流されることはない。この対処法は見聞して初めて知ったが、原理はやはり流れのエネルギーに逆らわないことに尽きる。

*離岸流  1955年夏三重県津市中河原海岸で女子中学生36名が突然の異常流で溺死した。当時離岸流というコトバはなかった。

 #離岸流

さて安保条約の話だが余談から始めよう。中学2年のころ担任に校内弁論大会クラス代表に指名された。経験も自信もないのにあてられて逃げ出したいほど困惑した。
思い付きで選んだテーマが、日ソ中立条約(1941.4.13)を破って宣戦布告(1945.8.8)したソ連はけしからん、という内容だった。これは当時の新聞のコピーだったが多数意見の反映でもあった。弁士に熱意がないのだから聴衆(保護者と生徒)も反応し難かったにちがいない。教師たちからも何の反響もなかった。
今では、数年来の近現代史研究で、劣勢を顧みず常に強気で先制攻撃に出て、負けた場合に失うものを考えだにしなかった国民が、条約満期(1946.4)前の侵略に国際法違反をうんぬんする意気地なさに、うんざりしている。戦前の国防方針を少し勉強すればそんな泣き言は恥ずかしくて口にできない。
歴史の鏡に映るソ連は日本であり、同様に日本はソ連である。日米についても同様である。戦争をするなら10倍、100倍返しを覚悟しなけらばならない、戦争の原因をつくらないように内政をただし外交で友好をたもつべし、とわたしは歴史から学んだ。
ところで、本題の日米安保条約は大戦の落とし子であり、核の傘にも核の冬の原因にもなるシロモノである。日本の終戦との関わりでいえば、米英ソはヤルタ会談(クリミヤ半島 1945.2)の密約で対日ソ連参戦の条件を取り決めた。ソ連はドイツ降伏後2,3か月で参戦する。報酬(戦利品)は南樺太と千島列島とする。ところが大戦の終結が近づくと体制の異なる米ソの先陣争いが始まり戦後冷戦体制の大枠が見え始めた。
4.5 ソ連、日ソ中立条約不延長通告(満期は1年後) 
5.7 独、無条件降伏 
6.25 沖縄戦組織的戦闘終息 
7.16 米国原爆実験成功 
7.26 米英中、対日ポツダム宣言 
8.6 広島に原爆投下 
8.8 ソ連対日宣戦布告・ポツダム宣言参加表明  北満・朝鮮・南樺太に侵攻開始 
8.9 長崎に原爆投下 
8.15 日本無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表 
8.17 ソ連、千島列島東端占守島から進駐開始/日本守備隊と激戦 
8.30 マッカーサ連合軍最高司令官厚木から
横浜進駐

ソ連の言い分:ヤルタ協定、ポツダム宣言に基づくソ連取り分の占領に応じないのは理解できない。防戦すればポツダム宣言違反として捕虜、戦犯として処分する。
日本の言い分:日ソ不可侵中立条約期間内の対日同盟、宣戦と開戦は国際法違反である。侵攻には防戦する権利がある。捕虜、戦犯視は不当である。
双方の言い分に特別こだわる気はない。だが東西冷戦により全面講和が凍結され、アメリカが沖縄を、ロシアが北方4島をふくむ千島列島を、最重要の接壌としてキープし続けていることには無関心でいられない。日本列島の周辺の島々と海は日本の接壌*
でもある。接壌の状況変更は容易にナショナリズムを刺激し戦争の火種になるからである。
*誤解を避けるために念を押すが、接地という意味で主権とは関係ない。

米中露の対立があるかぎりロシアが北方4島の主権をすべて放棄することは絶対にありえない。アメリカが不用意に日露米の接壌に変更を加えることも考えられない。現にあの広い北海道には米軍専用基地はない。日米共同使用施設千歳キャンプはあるが・・・。
接壌を侵せばどうなるか。北満まで遡らなくてもキューバ危機を例示すれば足りる。ウクライナはロシアがもっとも重視する接壌である。ウクライナとNATOの接近を観てロシアは先手を打った。ロシア人が多く住むウクライナの東部を切り裂き、ロシア人が多数を占めるクリミアを不当に併合した。
日米安保条約は沖縄と北方4島関連で生きている。そのうえ中露米と日本の軍備増強が著しい。この際、日本列島全体が中露米の接壌であることをわすれてはならない。とくにアメリカにとって日本はトカゲの尻尾になりかねない。沖縄が本土の尻尾にされたように。
細長い領土はまるまる接壌であり広大な後背陸地を有さない日本は大戦となれば死活的に不利だ。その弱点を見つめながら、ITの進歩で国境の概念も地政学も変わる50年先、100年先を想像できる「アインシュタイン」のような天才が現れないかな~。
とんだ天才待望論に飛躍して御免!

 


終活、79歳で始めた/傘寿80歳になった!

2018-10-16 | 体験>知識

80歳!  他人様は聞いて高齢に驚くが当人はさしたる感慨がない。いや、頻繁に訃報を耳にするから自分もいつ逝っても不思議でない歳になったんだなあと感じる。実は79歳で初めて終活をした。その経緯を記そう。昨年の今頃から右隣りのご主人が元気に車で動き回っていたのに立て続けに3人亡くなった。正月明けに3人目の隣家のご主人が亡くなって隣近所で改めて弔問に行くことになっていた日、私は午前中の記憶が飛んですぐさま脳外科の精密検査を受けた。どうもなかったが死の不安が隠れていたことに気付かされた。
「男の陣痛」と言ってしまうほどもがき苦しんだ前立腺肥大悪化では、手術には狭心症の常用血液サラサラ薬を制限しなければならず、そのせいで血栓梗塞で死ぬのではないか、あるいは手術中の出血過多で死ぬのではないか、の不安に悩んだ。
古い銀行通帳の整理のため何度も銀行に通った。終活というほどのことではないかもしれないが、終活を続けねば、という気持ちになったのは確かだ。

近現代史のBLOGを綴っているが、これが良い脳トレになっていてボケを遅らせる作用をしている。最高の終活だと思っている。80歳代では自分史の中に戦中戦後の体験した史実を織り込む程度に、これまでやってきた歴史叙述をおさえて、BLOGを楽しもうと考えている。
狭い庭先で野菜の鉢植えを楽しんでいる。よい運動にもなる。
BLOGが一段落したら近現代史の古書をヤフーの通販か競売に出品するつもりだ。たまに古書を求めてオークションを利用するがこの年になってこどものようにわくわくさせてくれることはほかに知らない。売れ残ったものを一括始末するのが終活だと思うがそこまで自分がやれるだろうか?
結局わたしの終活とは趣味の言い替えにすぎないようだ。死ぬまで自己本位の生き方しかできない、と家族はあきらめているににちがいない。


大阪北部地震体験記/横揺れと縦揺れ

2018-07-17 | 体験>知識

 朝日新聞  6月24日朝刊

有馬~高槻断層帯の東端に居住しているので二つの地震を体験した。阪神淡路大震災では震源が兵庫南部だったので横揺れ(高槻の震度5弱)が長く続いた。今回は震央だったので下から突き上げる大きな瞬時の縦揺れ(校区の震度6弱)だった。
代議員として8:00から校門で登校生徒を朝の挨拶で迎えるために早めに登校した三宅璃奈さん(4年生)が犠牲になった。地震発生の時刻次第では、私の孫をふくめて大勢が登校路のあの長いブロック塀の下敷きになったかもしれない。
今回の地震は、専門家の見解は別だが、素人考えでは阪神大地震の余震、残存エネルギーの解放であろう。間近いと予想される南海トラフ大地震でも余震が広域で長期にわたって間歇的に起こることを覚悟すべきだ。
被害の様相で気がついたことを記録しておく。
直下型では瞬間的な縦揺れにより屋根の壊れ方が違った。屋根が合わさる部分つまり尖っている稜線が開いた。だから応急手当のブルーシートは、面では無く稜線を覆っていて、まるで切り傷に貼られたキズ・テープのようにみえる。
わたしは庭で鉢植えに水やりをしていたからドーンと下から地面ごと突き上げられ柿の木にすがりついただけだったが、家の中ではTVの画面が縦に揺れ、瞬時ではあるが横揺れがあった。反射的に子供をかばって覆いかぶさった我が娘が飛んだ来たTVの液晶にぶつかって頭部に打撲傷を負った。湯沸かし中の鍋がふっとんだ。
二つの地震とも横揺れは南北に揺れた。家具の口が南北に開くように設備された家屋では最悪の場合棚の物がほとんど飛び出し家具が倒れた。我が家では家具が東西に向って設置されていたためいずれの地震においても家財道具の被害はほとんどなかった。倒れた例の建築基準法に違反のブロック塀は南北に面していた。
わたしは押さえの無かった棚が一つ倒れたため突っ張り棒を買いにホームセンターに行った。長い行列をみて買物をあきらめた。棚が南北に開いているこのホームセンターの中は滅茶滅茶で、客の注文を入口で聞いて店員が一々品物を探しに行くありさまだった。一週間後になっても突っ張り棒は入荷しなかった。物流が地域的な被害にすら対応できていないことは私には意外だった。
日頃からブルーシート、ガスコンロとボンベと電池、給水用10Lタンクを常備して置かないとまず買い求めることが困難である。交通大渋滞で必需品も救援物資も入手困難になることをあらかじめ覚悟しておくべきだ。
鉄道がとまったため従業員が移動できず大店舗や介護施設等が休業になった。鉄道自体も運行停止がことさらに広がり長引いた。
電気、ガス、水道、交通のライフラインが心配だが、通信のインフラにも投資すべきだ。家庭の固定電話は遠近とも通じたが、ケイタイは近距離はつながらなかった。

地域限定の小地震でこうだから、遠くない将来、南海大地震が太平洋沿岸を襲ったときこれまでの経験では予想できなかった事態が起こると思われる。過去の経験を、活かせるかどうか、だけでなく、棄てられるかどうか、も大事の分かれ目になりそうだ。

 


62年ぶりの同窓会=「友だち」会/遊び友達今いずこ

2018-06-01 | 体験>知識

わたしは現役時代同窓会に出なかった。出たくても多忙で出られなかった。2年前に引退してから望郷の歌をネットで探して口ずさんだりして、同窓会を待望するように変わった。
1週間前に母校屏山中学9期生の喜寿同窓会が久留米でありワクワクしながら参加した。
わが故郷では同期生は互いのことを「友だち」という。以下に出て来る「友達」は同期生のことである。110名中30名が参加した。顔に見覚えのある者、名前に記憶のある者、まったく記憶を呼び覚ませない者がほとんどで、遊び友達、一緒に学校に行き帰りした友達は一人もいなかった。若い頃賀状を交換していた親友ふたりは消息不明だった。
当時は運動会で部落対抗リレーがあるほどに内の友達は行動を共にすることが多かった。男女合わせて十数人いたはずのの友達が誰も参加していなかった。物故と闘病の二人をのぞいて消息を知ることができなかった。
物故者に黙祷をささげたあと懇談になった。初参加のわたしは指名されてマイクの前に立った。東京から参加した夫婦と女性ひとりをのぞいて、みんなは今も故郷周辺で生活していて互いに暮らしの中身を気軽に語ることができるが、私は自分がどう生きて来たか短い時間で語る気にはなれなかった。47年間少年サッカーの指導をしたことだけ言ってあとは誰かの為になるかも知れないという思いで闘病体験を語って終わった。
懇談するにあたって私には誰かと共通の想い出があまりなかった。皆は今に続く長い過去を語り、私はむかしの数少ない記憶の断片をいくつか口にするだけだった。私の家に遊びに来たことがあると何人もが言ってくれたが私はまったく想いだせなかった。それに30人の内だれ一人として今現在草野町に住んでいなかった。わたしの故郷が遠のいていく気がした。望郷の念に大きな温度差があったことを思い知らされた。最後に皆で兎追いしで始まる『故郷』を歌った。私は皆で肩を組んで『誰か故郷を想わざる』も歌いたかったが希望は叶わなかった。
突然、〇〇です、憶えていますか、と話しかけられた。「あっ、目元に憶えが・・・。私の初恋の人」 出席していないと思っていたので年甲斐もなく思わず空気を読めない対応をしてしまった。もう一人の女性が「えっ?!」と声を発した。笑い飛ばしてお終いにすべき話題が凍結されてしまった。あとは当たり障りのない話になった。私の家に来たことがある、母が当時珍しかったコーヒーを淹れてくれた、と想い出を話してくれたが、わたしにはまったく記憶がなかった。
「友だち」との60何年ぶりかの邂逅で語り合いたいことを語れなかったことは時間がたつにつれて後悔の念となって私の思念の片隅を占めるようになった。腹ふくれる心地がした。吐き出してすっきりするためにこの稿を書くことを今朝思い付いた。
想い出だけが私の故郷だったのに、だれともそれを語れなかった。次の日、思い出を託す風物はないか、草野町の紅桃林を訪ねた。駅舎は立派になっていたが無人駅だった。中学はとうの昔に火事で炎上していた。我が家はまだ残っていて小柳姓の住人がいた。廃屋になってなくてよかった。屏風山脈から流れ来る「門辺の小川のささやき」は歌のとおりだった。ようやく思い出が次から次とよみがえったが語り合えるひとは寝たきりの老いた母しかいない。写真に収めて老母を喜ばすことにした。


先祖の墓碑を確認して手を合わせるつもりで、子供のころの記憶をたどってそこに行ってみた。当主は不在で庭にあるはずの石碑はなかった。近所の同姓の家は現代風に建て替わって別姓に替わっていた。旧日田街道だった道路は整備され、風景が新興住宅地のように一変していたが、土曜日の昼前どの家も留守で石碑の在り処を訊くことはできなかった。
昼食のために当主の弘美さんが柿の摘果作業から帰って来て柿畑の真ん中にある彼の先祖の墓地に案内してくれた。大きな三段の台座の上にかつて私が見た石碑が陳座していた。碑文が刻んであるはずだが、風化でできた石の皺なのか文字の痕跡なのか不明で、読みとる手がかりは遺っていなかった。


弘美さんは古い書付もなく先祖の伝承もあまり御存じなかった。わたしのほうが詳しいぐらいだ。先祖は領主草野家の刀鍛冶で代々同姓〇右衛門を名乗っていたことが周りの古い墓石の銘から読み取れる。宗右衛門、三右衛門の名があった。
草野家第19代城主家清は秀吉の島津征伐の折和睦成立後に謀殺された。発心城は焼け落ち、わが先祖は鍛冶屋、百姓として子孫を遺した。遠くは熊本県荒尾にも同姓がいたが、今は旧三井郡の4地区の子孫が当番で墓掃除をし、墓を建立した1957年4月29日以来毎年同じ日に菩提寺である専念寺から坊さんを呼んで先祖供養を催しているそうだ。台座に刻まれた建立者数十名の中に今は亡き父の名があって慰められた。
「故郷は遠くにありて想うもの」をあらためて実感させられた旅だった。
  

 


「血盟団」事件/自己犠牲=自己実現/天皇親政のユートピア

2018-03-13 | 体験>知識

民衆のためとおっしゃって家をかえりみない貴方、私たち母子は大衆ではないのですか。(井上志ツ)

  中島岳志『血盟団事件』 2016年  文藝春秋

関東軍の独断専行と満州国の建国(1932年3月1日)により軍国主義はようやく復活した。
1931.11.9 京大国粋主義団体・猶興学会、学内外で活動活発化(3か月後血盟団事件に3名連座) 
1932.1.10 国防献金による献納機、代々木練兵場で愛国1号、2号と命名 献納機ブームのはしり 終戦までに陸海軍あわせて1万機献納 
2.9 「一殺多生」血盟団事件 元蔵相・井上準之助暗殺
3.5  三井財閥総帥・団琢磨暗殺

3.18 大阪で国防婦人会発会 軍の指導で大日本国防婦人会に発展 白エプロンにタスキ掛けの制服 
5.15 「問答無用」5.15事件 海軍青年将校、犬養首相暗殺
10.3 満州へ武装移民団416人出発
12.19   全国132新聞社、満州国独立支持の共同宣言発表

テロリズムは国により土壌も背景も異なる。これから考究する井上日召の思想と行動は国体擁護を看板に掲げる従来の国粋主義運動(右翼運動)とも根本的に違う。海軍青年将校の国家改造運動と相互に響き合い、重なりそうだが反発し合う。

日蓮主義僧・井上日召は、みずからの境遇と国家・社会の閉塞的状況に煩悶して修行と研鑽を重ね、壮大な精神世界と小さな信奉グループを造り上げた。グループは主に地縁でつながる困窮青年たちでそれぞれ健康上、家業上のハンデを背負っていて、人生問題で煩悶していた。中心となった布教地の名をとって大洗グループ[茨城県]と呼ばれるようになる。
始めは法華経を読誦するだけだったが次第にオカルトじみて憑かれたように霊力を発揮し、病直しもした。一切衆生の「救い主になれ」「立ち上がれ!」と天の声を聞くようになり、山から降りて世直しに傾斜して行く。それは勤行、地道な啓蒙活動だったが、かれのカリスマ性に傾倒した海軍青年将校たちのリーダー藤井斉大尉の暴力革命、起爆薬の考えに同調して行った。

日召の哲学から見て行こう。
それは太陽系宇宙をモデルとしている。太陽「永遠の本体」と遊星「流転の形状態相」の運行は、俳諧、分子生物学に出て来る言葉でいえば、不易流行、動的均衡である。それぞれが役割を担いながら対立がない。一体で一つの宇宙である。しかも永遠の生命を得ていて不滅である。
日召は、生物とすべての事象が「常住に変化流転を続けて居る」、人間も「絶えず同時同処生死を継続して居る」という哲学を得て、生死一体、破壊即建設をモットーに掲げ、政治の「新陳代謝」にのめり込んでゆく。驚きだ、日召は時代を越えて最先端の知見とも渡り合える哲学をモノにしたテロリストだった。
「大自然の法則」にしたがっている日本の君臣関係もまた古来上下一如、一体であり、万世一系は世界無比である。しかも天皇は、天照大神が皇孫に授けた天壌無窮の神勅と三種の神器によって「現人神」であることが明らか*である。日召は、大自然の法則に基く「天皇道」と分けへだてなき君臣関係を日本の国体とし、日本主義と呼んだ。
*明治維新を相対化した日召が明治維新によって造られ定着した現人神を絶対化するのは論理矛盾である。
日召は、日本主義に生きよ、と呼びかける。さらに、㋐世界無双の日本主義だけが世界統合の原理たりうる、㋑「天皇の理想は此の精神に依って全人類大平和の理想社会建設にある」と言い切っている。これは八紘一宇[天下一家]の思想の言い換えであって日召のオリジナルではない。
ところが「人間生活の殆んど全部が経済的生活となって来た現代は遂に黄金万能の世となって大義[日本主義]は将に滅せんとし」「右傾派は個人闘争、左傾派は階級闘争の連続」でいずれにしても人類の理想は出現しない。

では日召の革命観はどうか?
その特徴は対立概念からではなく一体観から発しているところにある。「それでまず、自己革命をやれというわけだ。社会だけを革命するんじゃなく、自他もろともなんだ。国を愛し、社会を愛し、すべてのものを愛するがゆえの革命なんだ。革命とは、大慈悲のある者だけが行ずる資格をもつ菩薩行であるとも言えるのだ」 革命は仏行である、とも言っている。
「大衆の悩みを己が悩みとし、苦しみを己が苦しみとする。・・・正義とは、大衆の幸福である」、決して、革命が権力奪取の手段となってはならない。この革命観は西郷隆盛の敬天愛人の思想と共通である。それは日召をほかの国粋主義者から峻別する指標となっている。
たいていの革命は大衆に奉仕するという信念または建前から出発する。泥田に咲く蓮の花が美しいように民衆に出自をもつ日召の信念もまた純白である、かどうかは、その後の生き方によって検証されるべきである。

内外で軍部、国粋主義者が国家改造の行動を起こし始めた。
満州事変のちょっと前の1931年8月31日、海軍グループの藤井斉大尉が大川周明の元から「凄い情報を握ってきた」   この秋満州で中国人をそそのかして日本人の阿片商人を2,3人殺させる。日中両国で世論が沸騰するのに乗じて大川周明と陸軍が革命を起こす。藤井はこう報告し、自分たちも合流する約束をしてきたと言った。
井上は激怒した。大川も藤井も「大衆の為」とよく言うじゃないか。貧乏ゆえの売薬人を殺すなんぞ「もう革命精神が全然違う、そう云う者が権力を握った時には決して日本を善くせぬ、・・・必ず日本を毒する」と井上は藤井を罵倒し計画への参加を拒絶した。
9.18満州事変を機に国内でも事変拡大に消極的な若槻内閣を打倒して軍部内閣を樹立しようとするクーデターの動きが加速したが、事前に計画が漏れて橋本欣五郎中佐、長勇少佐らが検挙され事件は闇に葬られた。これを十月事件という。結局この流れの中で若槻内閣は前稿で観たとおり総辞職に追い込まれ親軍的犬養内閣が誕生した。陸相には陸軍青年将校のカリスマ的存在だった荒木貞夫中将(十月事件で首相に擬せられていた)が就任した。
陸軍青年将校に期待して十月事件の周辺にいた日召は陸軍将官、佐官と北一輝一派、大川周明一派の権力志向(自分たちの名を連ねた閣僚名簿を用意していた)に呆れ、見切りをつけて大洗グループ中心の直接行動、要人暗殺計画を準備し始めた。
満州事変の拡大は日召グループから海軍青年将校を奪って戦地に送った。随伴した上海事件で、藤井中尉が空母「加賀」から発進した搭乗機を上海上空で撃墜されて戦死した。
後から日召に傾倒した学生グループ、東大・京大の学生の主軸は、鹿児島七高の出身で法華経信仰に惹かれたというよりか日召の救世主を想わせる生き方、自己犠牲的精神に心酔したようである。彼らは大洗グループのようには自己同一性に徹しきれなかった。自己矛盾との間で葛藤し、拳銃の引き金を引くことをためらった学生もいた。

なぜ革命を目指す運動が個人テロに収斂されていったのか。
日召グループのストイシズムがそうさせたと考える。日召は、欲望の排撃ではなく欲望の国体[国家ではない]への還元を唱え、人はそれぞれの欲望をただ一点国体に捧げて生きることが個々の生の充実であり自己実現である、革命は自己革命から発すると考えた。この厳しいフィルターを通り抜けた者だけが革命に参加する「資格」がある、と言っている。
これでは同調者が少数に限られる。宗教的神秘を求めた信者は離れて行く。世俗的野心の抜けない将校は背を向ける。いきおい指折り数えることのできる少数の構成員で革命の烽火をあげるしかない。当然少数だから後続を期待する「捨て石」の役割を果たすことになる。それはまた自分を犠牲にすることである。
自分たちは宇宙の法則、天道にしたがって生きているから国体[=現人神天皇=自己]のために死ぬことは「永遠の生命」を生きることである、という揺るぎない信念がかれらにはあった。したがって自己犠牲は自己実現になる。しかも「自他一体」、相手だけ殺すのではなく自分も死ぬのだ。自他をリスペクトしていることをかれらは自負した。
日召は「犠牲的捨て石」「起爆薬」となって支配の「外殻」[上部構造]を破壊しようとした。破壊はそのまま建設であると言うにとどめて、その後のヴィジョンをあえて提示することをしなかった。それは、賢しらな心で「口先」「小手先」を弄することである、また革命参加者の功利心を呼び覚まし革命に亀裂を持ち込む、と言って建設構想を提起することを忌避しているが、実際のところ彼自身何もイメージできなかったようだ。二人の農本主義者、橘孝三郎の農民組合主義と権藤成卿の自治制度論、国家主義ならぬ自治主義に期待している。
日召が理想とした国体は君民一体の天皇親政ということになるが日本の歴史においてそういう時代は一度もない。日召も言及していないはずだ。ありきたりの復古主義者でないところがよい。日召は「戻る」のではなく「今」の自己を自然道に従って生きることを実践した。
日召たちは、昭和天皇の即位の礼のために周囲の零細業者が清掃されたことに憤慨した。この事実からの類推に過ぎないが、このころ盛んになった上辺だけの忠君愛国運動(学校に設置された御真影と教育勅語を収納する奉安殿に登下校時に児童生徒に最敬礼をさせた、とか)も醒めた目で見ていたのではなかろうか? 調べてみたい。
革命の暁に天皇親政を幻視して、日召は天皇と国民の間の中間介在物とくに支配階級とその代表者「君側の奸」を取り除こうとした。取り除けばおのずと国体本来の姿、天皇の大御心と天下万民平等の世が現れると信じた。

日召は、暗殺対象として政党:犬養毅、重臣:西園寺公望、財閥:団琢磨、官僚:井上準之助など、いずれも政財官界の大物を挙げた。特権階級代表の命を狙うのは革命の烽火をあげるためだったが、日召の想いは官僚制度抜きの国体だった。
かつてソヴィエト・ロシアでボルシェヴィキ主導の下で労働者、兵士、農民の委員会による統治の試みがおこなわれた。レーニンがこの課題と実際に格闘して力尽きた最初の革命家となった。だがロシア革命では、革命=委員会(ソヴィエト)、と等置できるほど、労・農・兵ソヴィエトという自治組織、物理的根拠があった。日召には何も根拠がなく、天皇親政はユートピアに過ぎなかった。夢想に基づく要人テロであれば、その評価もおのずと定まってくる・・・。

私は原史料を読まず勉強不足のまま中島岳志氏の本格的な研究書を読み込んで本稿を書いた。だから描かれた日召像は二重のフィルターを透過していることを断っておく。歴史的人物の像は描いた作者の主観を免れないので、こんな日召像もあり、と思う。


旧制高校の青春/自由と圧殺の分岐点/籠城七日三高ストライキ

2018-02-16 | 体験>知識

小樽高商、早稲田大の軍事教練反対闘争(社研時代)のその後、学園の様相はどう変ったか? 
一気に軍事訓練が本格化したのでもなく、一気に忠君愛国の日本精神がよみがえったのでもない。数十万の失業者をよそに、銀座ではモボ、モガとよばれたハイカラさんが闊歩し、学園都市では弊衣破帽、高下駄のバンカラも珍しくなかった。
90年前の1929年4月、第三高等学校に鳥海山の麓から政治的に無色無所属の苦学生が入学した。その30年後の1959年4月、わたしも受験のため吉田山の「紅萌ゆる丘の花」の石碑の前で先輩と記念写真を撮った。三高は京大教養部と名を変えていたが、教室も多分学生食堂も、元のままだった。柔剣道場も新徳館も、由緒ある尚賢館も現役だった。さらにそれから60年後の今日、このテーマに取り掛かった。ある一断面で全体を想像できるわけがないが、この方法でしか私は仕事ができない。

苦学生の名は土屋祝郎、7人の子を残して母が他界すると、貧しい木こりの父は9歳になったばかりの息子を寺に上げてしまった。そこは貧乏寺で労働力としてこき使われ折檻に耐えきれなくなって13歳のとき吹雪の中を脱出して象潟の蚶満寺に辿り着いて救われた。三高生になった土屋は学費が切れるころ縁あって釧路の弁護士夫妻の養子になった。以下、土屋祝郎『紅萌ゆる昭和初年の青春(1978年  岩波新書)に依拠する。

新緑の初夏、「草木も眠る丑三つ時」[と書いてある]長さ八尺を越すような丸太ん棒を押し立てて裸に近い一団が喊声を挙げて寄宿舎「自由寮」を襲った。彼ら自身も寮の上級生である。寮歌を歌いながら音頭をとるように丸太ん棒を持ちあげては廊下にドスンどすんと打ち下ろすからたまらない、寮全体が鳴動して揺れる。百鬼夜行の如き集団は手に手に竹刀、バット、なければバケツ、やかん等の鳴り物を持って北寮から中寮へと部屋部屋をつむじ風のように荒らしてゆく...。もちろん寮生は一人として寝ておれない。
これはストームという先輩後輩のお近付きの伝統儀礼でどこにでも似た行事があるらしい。私が卒業した高校と大学の運動場でもファイア・ストームがあったようだが関心がなく実際に見たことはない。今も吉田寮vs熊野寮のストームと機動隊のガサ入れが年中行事のように実在しているようだ。

自由寮生の平和で自由奔放な三高生活を記録する上で欠かすことのできないのがほとんど日課のようになっている夕食後の回遊散歩である。彼らが三高コースと呼んでいた道順はこうだ。寮を出て医学部横を抜けて荒神橋の木橋を踏み鳴らして賀茂川を渡る。府立第一高女の寄宿舎前では顔をあげ寮歌の蛮声を一段と張り上げる。京都御所に突き当たって寺町通りを南下し新京極の繁華街を高歌放吟しながら通り抜け四条通りで左折し祇園の円山公園に至り一服する。そこに至る道々の土屋による滑らかで心地よい描写は古都京都の当時の風情を今に伝えているが、わずかに下に記す以外は割愛せざるをえなかった。
天下に知られた祇園の桜はほとんど朽ち果てて一本を残すのみである。「しかしその一本は四方に枝を張った枝垂桜で...かつての名妓を思わせるような風格をもって、夜目にも明らかな存在である」
土屋の一団は竜馬と慎太郎の銅像を建てる予定地の芝生で休息する。後続の集団をまじえて誰かが寮歌を歌いだすと人の輪が組まれる。他校の寮歌も飛び出す頃になると猥歌が出ることもある。
このあと元のグループに戻って、知恩院、平安神宮の門をくぐって北上し、ほぼ真四角の優に一里を越えるコースを終える。三高生による傍若無人のお騒がせ伝統は、たとえば四条大橋の上で綱引きをやるとかの京大生の振る舞いに、今も生きている。


1929年の6月末「突如、命令が下った。今春即位式を挙げたばかりの今上天皇が、大阪の城東練兵場において、関西の大学・高等学校の全生徒を招集して観閲式を挙行するというのである」 三高生も制服制帽に腰に帯革、脚にゲートルを巻き三八式歩兵銃をかついで分列行進に参加したが全校生の三分の一ほどしか参集しなかった。
しかも三高参加者の態度たるや直立不動の天皇に対する不敬、軍部に対する侮辱もいいところだった。銃の持ち方は出鱈目、行進はデモの行列のように「分裂」していた。政治的に無色(ということは伝統保守)の土屋が嘆息することしきりである。土屋は中学時代みっちり軍事教練を受けていた。

三高の軍事教練は形ばかりだった。野外演習はほとんどなかったが、有っても途中で抜けて松林の中で焚火をして喫煙したり空砲を放ったりしていた。教官は熱意も権威もなかった。生徒が分列行進ができず私語を平気でしていたのはそういう訓練を受けていなかったからである。それだけではない。エリート意識を裏返しした反権威主義も否めない。伝統的に反権威主義が濃い「京の都」の学生だからなおさらそうだった。
軍教教官と体育教官の関係は不明だが、体育教官は出欠点検も準備体操もないままクラスを二組に分けてラグビーをさせるだけだった。わが高校でも体育はもっぱらラグビーだったが専任教師が戦前の習慣に従っていたのだろうか。三高の銃器庫の銃は手入れされたことがなく赤さびを帯びていた。
三高生の行進がだらしなかったのは彼らがアカかったからではなく何も色付けされていなかったからである。ほかの高校、大学の色のスペクトルは分からない。忠君愛国の思想が徹底していて、麗しき龍顔を間近に拝して一同ただ恐懼感激した高校もあった。
土屋もそういう感激をすることを想像していたが何時間も直立不動の姿勢を崩さない天皇をまじかに見ているうちに修身教科書で形づくられた神々しい天皇像が次第に薄れていくのを感じた。耳にタコができるほど聞いた御稜威miitsuの意味がますます解らなくなった。かのキリストも生まれ故郷では予言者ではなくただの大工のせがれと見られていたから、土屋にとって近くで見る天皇の神々しさが薄れるのは自然の流れだと私は考える。

1929年入学生は、前年の3.15事件による大検挙、河上肇教授追放、学連・社研の非合法化、三高当局による処分があって、社研学生の働きかけを受ける機会がなく非政治的、ノンポリであった。彼らが入学試験会場に入る前に数人の学生に社研に入らないかと秘かに勧誘を受けたが、後に三高学園闘争のキャップになる土屋ですら社会科学と社研の意味が解らず、入学後担任に訊かれて何の疑いもなく勧誘者の名前を答えている。国家権力による左傾学生の治安維持法による弾圧に呼応して反動的生徒課が頭をもたげていた。
多くの学生は知る由もなかったが、国家権力は大学と高校の自治と自由をつぶして国家意志に従わせる方針を固めていた。前年文部省は大学の思想問題に対処するため学生課を新設した。高校では生徒課である。
三高当局は4月末、マルクス主義宣伝[非合法社研活動]等の理由で4名の無期停学処分を発表し、5月末さらに3名の無期停学と峠、長曾我部、石川ほか1名の退学を発表した。石川は受験時に土屋を勧誘しようとした学生だった。共産党関係という以外具体的な処分理由は示されなかった。報道禁止中だから理由の付けようもなかった。
4.16共産党事件がらみの処分だった。全国規模の大検挙があったが京都関係は学生19名労働者6名だった。起訴された者は京大生3名のみだった。検挙学生の中に三高生峠一夫たちが入っていて当局を驚かせた。高校生検挙は全国初だった。法網から漏れた学生を特高の別動隊となって掬い取る形の、三高の警察化が大学に先んじて始まった。
にわかに「処分反対」「自由を守れ」の張り紙、ビラが多くなり、クラス代表者会議がひんぱんに開かれ、ついに学生大会に発展した。土屋は所属していた野球部のマネージャーに全部の要求にバッテンを付けろと指示され憤慨して即退部した。学生大会は敗北に終わり処分の再審議は成らなかった。
暑中休暇を終えて学校に戻ってみると、藤田、津田、佐伯が「自主退学」していた。入学したばかりの退学である。4.16「思想事件に連座したもので、6月の学生大会にだけ関するものではないらしかった」 彼らは浮いていたのでいつしか忘れ去られた。
続いて人柄と才能で全寮生から敬愛を受けていた上級生の大井川が川端署に検挙され行方不明になった。文芸作品で教授をうならせ、主将として剣道でインターハイ優勝を飾る経歴の持ち主だった。「生徒課は学校のなかに設けられた警察であり、特高であった」 という土屋の分析は的を射ている。
文部省と官憲は三高生の非合法活動の根拠地は自由寮にあるとにらんだ。
1930年7月2日「ついに[新徳館で]学生大会が開かれた。全校生九百余のなかで七百名以上が参加した」 学生の要求は次のとおり_。
①自由寮に門限、出入り制限反対 ②正副代表任命制(自主管理撤廃)反対 ③クラス代表者会議の自主化 ④生徒課佐藤副主事の即時解職 ⑤保証教授制度(10人を1組とし思想善導保証教授に毎週1回訓話をさせる文部省令による新制度)撤廃 
ビラの散布、貼付程度の違反で2月に社研の残党読書会員がほとんど処分されていたので、昨年の学生大会の二の舞が案じられたが、要求は圧倒的多数で可決された。寮問題が全校問題と理解された瞬間だった。
ただちにクラス代表者会議がストライキ指導部に切り替えられた。学生は運動場にクラスごとに集まり衆議一決、そのまま準備なしで自由寮を占拠し籠城した。そしてすべての門を閉鎖し全校占拠を実行した。学校側は教授会を開き1週間の休校を決定した。
土屋は半官の共済部の委員長として公費で兵站を組織した。仲間の活動家が寮の賄部と交渉して籠城中の食事を確保した。学校側のチフス、赤痢発生のデマには後に検挙されることになる安田徳太郎ドクターによる全籠城者健康診断で対処した。
真夏の不自由な着の身着のままの籠城である。1週間目の7月8日指導部は近くに家のある学生に対して着替えのための帰宅を許した。籠城学生は三分の一に減った。翌日学校側と警官隊が隙をついて突入、制圧した。
三高ストライキは完敗に終わった。除名26名、停学15名、謹慎393名。土屋は共済部前委員長塩見が土屋の分まで責任をかぶってくれて処分を免れた。

ここから無党派だった土屋の非合法活動が始まる。目標はクラス代表者会議の再建である。学校当局との交渉団体=学生自治会づくりに昼夜奔走した。アジトを変えてビラを作り夜間校舎に忍び込んで教室にビラを入れた。自治会の機関誌「自由の旗」を発行した。会議は大文字山等の山中でした。京大の共産主義青年同盟[共青]本田が接触して来て「赤旗」を渡された。3年時には共青同盟員、三高自治会キャップ、京都地方自治会協議員になっていた。
1931年満州事変前後、東北・北海道大飢饉農民救援運動が盛り上がり学生たちは自発的にプラカードを作り繁華街でカンパを募った。1932年明けには学年末テスト期間にもかかわらず三千数百円のカンパが集まった。軍事推進側がおこなった満州軍馬救援募金は三十余円だった。
特高は学生が多く登校する学年末を狙って活動家を逮捕した。1932年1月27日、転々と居場所を変えてアジトがわれていなかった土屋は、校長室に呼ばれてそこで手錠をかけられた。川端署武道場での拷問で睾丸が腫れ黒い血尿が出た。2度3度の拷問に耐えられずついにアジトを白状した。手製の謄写機以外何も証拠が出なかった。2月20日特高の車で生徒課応接室に運ばれ教授達8人に活動放棄を説得された。同時に検挙された5人は父兄に引き取られたが土屋は警察に戻され3月20日三高中途退学の処分をくらった。その日全協の指導で東京地下鉄がストに入り電車4両を占拠して籠城に入った。この年失業地獄のさなか組合活動は戦前のピークに達した

拷問に屈した後悔で留置場で眠れぬ夜が続いていた時遠くの方から「紅萌ゆる」の寮歌が聞こえて来た。川端署は「三高コース」からはずれている。裏道から歌声が近づいて来るからには三高生の激励、抗議の歌声に違いない。土屋の悔し涙はいつしか感激の涙に変わった。留置場の窓枠まで手を伸ばして無事と感謝を伝えたいが足腰が立たなかった。

満州建国に至る高校生活と学生運動の一断面が読者に伝わっただろうか? 全国で、社研活動家が逮捕と放校で底をつき、リベラリスト活動家が指導し、学園の自治と学問の自由、学生処分問題、学費問題、学生消費組合・新聞部・弁論部・講演部、右翼的体育団体利用問題等を課題とする学生騒動が頻発した。学生運動というより学園闘争である。満州事変の1931年が学園闘争のピークだった。
「世間ではこの時期を学生騒動慢性時代と呼んでゐる」(菊川忠雄『学生社会運動史』)  決して三高だけが自由擁護に立ち上がったのではない。全国の高校、専門学校、大学の学生が学内問題で自治と自由を要求して苦闘した歴史を今に生きる後輩たちは掘り起こし誇りとすべきだ。

1932年中に京大、三高の左翼組織がほぼ壊滅した状態で権力側は一体となって1933年滝川事件を起こし大学の自治、学問、思想の自由を葬ることに成功した。
執筆を終わって、三高を対象にしたことで絞り過ぎて読者に当時の大学生、労働者の政治活動について偏ったイメージを抱かせはしないか、不安になった。社研時代と違って土屋が三高生だった時代には、共産青年同盟にかかわった大学生、労働者の運動は、赤色革命、ソヴィエト支持志向が強く、合法、非合法を問わず、枚挙に暇のない数の検挙者を出している。
1933年の検挙者は東大生362名、東大以外の学生200名以上である。内京大学生は54名である。たとえば滝川事件最中の6月、15名が検挙(京都共産党事件)され再建京大共青細胞(高木養根キャップ)は壊滅した。改訂治安維持法の「目的遂行のためにする行為」の暴威にさらされて1933年をもって非合法左翼組織は終焉を迎えた。
滝川事件の思想傾向にすこし触れておこう。発端は滝川京大教授の「『復活』にあらわれたトルストイの刑罰思想」と題する講演だった。トルストイだから報復罰ではなく教育罰を善しとする。それが折から思想弾圧中の司法、内務、文部省首脳部と蓑田胸喜らの原理日本社、政友会に滝川教授追放の口実を与えるきっかけとなった。
5月初め京大当局は30余名の学生を放校その他の処分に付している。6月6日の時計台下の大ホールで行われた全学学生大会には学生7000のうち5000余が結集し「大学の自治」「研究の自由」を叫んだ。6月12日、闘争の最中に、全学部学生代表者会議は早くも「京大問題の真相」なる詳細な経過報告書を発表した。それによると東北大、東大、京大の学生が「左右両翼に偏しない」自由擁護の連盟を結ぶ運びとなった。京大では左翼のビラまき事件(1件)に抗議声明を出した。東大では血盟団テロを起こしていた七生会が学園に対する政治的干渉を排撃する声明を出した。
7月、打ち続く全国規模の大検挙で京大は孤立させられ、残留した法学部教官は反動化し弾圧側にまわった。学生指導部は解散と教室使用禁止を申し渡され、検挙されてしまった。滝川事件で「自由の牙城京大」はあっけなく落城し、大正デモクラシー以来の我が国の自由主義の灯も消された。



その後土屋は釧路の義父母の許に帰り拷問で痛めつけられた身体を癒し1年後1933年2月20日に上京し日本労働組合全国協議会(略称=全協)城南地区のオルグになる。前年に岩田義道、上京の日に小林多喜二が拷問死しているから覚悟の上の入党だった。土屋の党活動についての記録を私は見ていない。
4回の検挙と服役、予防拘禁を経て、戦後北海道で国鉄を手始めに労組結成を指導した。
予防拘禁については著者の体験談『予防拘禁所』(1988年 晩聲社)を推薦する。史料価値も高い。日米開戦直前に軍国政府は治安維持法を再改定し予防拘禁制を追加した。危険視されたら誰彼なく令状なしで引っ張られ拘置所に放置され、2年ごとの更新でいつまでも拘束される。
二人の特高が土屋を連れに来た時、病臥の身の義母は「あなたがたのちょっとというのは長くて長くて待ちきれるものではありません」と抵抗した。日米開戦の3日後義母は布団の中で冷たくなっていた。死床の下に20通近い書きさしの遺書があった。毎日書いたのであろう。どれにも上五のない同じ一句が綴られていた。「・・・・・早く帰れよ我が家に」 上五は、呼びかけだから「祝郎[しゅくろう]さん」以外は考えられないが、それでは音余りになる。母子の胸中は察して余りある....。

カヴァー写真は「獄中記」の断片(市立釧路図書館所蔵)


満洲事変/戦時と泥沼へ

2018-01-27 | 体験>知識

微力ながらシベリア戦争、大正デモクラシーから研究を始めたことにより昭和の戦争への傾斜と道程が見えやすくなった。田中戦傾内閣は内政では治安維持法により共産党封じ込めに成功した。外交では関連機関の東方会議で満蒙経略の大綱(不干渉政策を棄て対米戦争まで覚悟した)を決定し、その個別の獲得目標を記録した満蒙における積極政策」を偽書「田中上奏文」に見せかけることに成功して具体的な実行目標を隠した。

1928年の張作霖爆殺事件は関東軍高級参謀が起こした暴発事件であったが、当の河本大佐が後日語ったとおり、東方会義で決まった積極政策の枠内に収まるものだった。
この「某重大事件」は、皮肉にも田中内閣の命取りになり、1929年7月濱口民政党内閣成立により幣原国際協調路線の復活をもたらした。それはロンドン海軍軍縮条約*に結実したが対満蒙不干渉政策にまでは戻らなかった。軍部は東方会議で意思統一した積極路線を走り続けた。
*それに憤激した右翼青年に狙撃されて濱口首相は後日自分と内閣の生命を失うことになる。1931年4月14日若槻民政党内閣が後を継いだ。

中堅幕僚が集った陸軍の横断勉強会一夕会が中央と関東軍で強硬路線の中心となった。関東軍では一夕会の指導的メンバーだった板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐の両高級参謀が入念に調査のうえ満蒙攻略の作戦計画を立てた。
石原莞爾は、満鉄線爆破直前の1931年5月に執筆した『満蒙問題私見』のなかで、次のように述べている(山田朗編『外交資料 近代日本の膨張と侵略』)
満蒙領土化は正義であり、かつ戦争計画策定にあたっては、その
動機は問う所にあらず、期日を定め、かの「日韓併合ノ要領ニヨリ満蒙併合ヲ中外ニ宣言スルヲ以テ足レリトス」
石原作戦課長の日記によれば、同年5月31日に、石原と板垣征四郎、花谷正奉天特務機関長代理、今田新太郎張学良軍事顧問補佐官は「満鉄攻撃の謀略」に関する打ち合わせをおこなっており、6月8日には「奉天謀略に主力を尽くす」ことで意見の一致をみている(Wikipedia:柳条湖事件)
この4人、石原と板垣が計画し花谷少佐と今田大尉が実行を指揮して、中央が思案している間に決行日を早めて9月18日午後10時過ぎに、奉天北方の満鉄の線路上を爆破した。日本では柳条湖事件、中国では9.18事変とよばれている関東軍の自作自演の謀略である。現場には軍装の中国人2人の死体が転がっていた。直後急行列車が何事もなく通過しているから軽微の爆破だった。物理的には軽微だったが、満州事変の発端として世界史に刻まれる大事件になった。
軍事行動は関東軍本庄繁司令官、三宅光治参謀長、土肥原賢二奉天特務機関長同意のもとで実行され、たちまち奉天、長春等、南満州の軍事拠点を占領した。陸軍三長官を成す南次郎陸相、金谷範三参謀総長、武藤信義教育総監もそれを当然の事と認めた。
事件をめぐって閣内で、また内閣、陸軍省、参謀本部、外務省と元老重臣、天皇の間で頻繁に折衝、やりとりがあった。天皇の意向どおり事態不拡大に落ち着くかにみえたが、若槻首相は陸相と参謀総長の辞任(それはとりもなおさず内閣総辞職を意味した)を回避するため、事後承認で決着した事後の「事」には、朝鮮軍(林銑太郎司令官)独断の鴨緑江越境満州出兵と関東軍部隊の吉林出動(謀略と居留民保護名目の満鉄沿線外出動)とがあった。天皇裁可によらない越境出兵は陸軍刑法では死刑に相当する。板垣参謀は奉天領事を「統帥権干犯をするか」と追い返したが、軍の独断専行は天皇の大権無視ではないか。関東軍にはブレーキ装置がない。政府にとって関東軍はコントロール不能になった。

9月19日ラジオは本邦初の「臨時ニュース」で、新聞は号外で事件を報道した。一方的な報道(暴戻支那軍が仕掛けた!だが張学良は何があってもあらかじめ無抵抗を決めていた)に国民は熱狂した。長年の排日、侮日に対する鬱憤を晴らした喜び、世界恐慌、昭和恐慌のダブルパンチから立ち直れるという希望や日露戦争の血であがなった満州をついに制圧したという達成感で、大正期には醒めていた軍国熱がふたたび蘇って来た。
11月6日、フーヴァー米政府の閣議において、スティムソン国務長官は、日本の軍事行動の拡大を討議する中で、日本国民が「軍国主義者になりつつある」と発言した。
北満占領は、内閣と陸軍首脳部の不拡大方針により、かろうじて抑えられていたが、安藤内相が与野党協力、挙国一致連立内閣を主張して閣議不参加、辞職拒否*をしたため、
若槻内閣が閣内不一致で突然総辞職した。
*内閣が陸海軍大臣武官制で進退きわまることがあるのは知っていたが、総理に閣僚罷免権がないことは初めて知った。一夕会の暗躍があったという疑いが生じる。
12月11日犬養内閣が成立すると、事態はふたたび動き出した。関東軍は北満のチチハル駐屯を承認され東支鉄道を越えて帝政露西亜勢力圏に侵入した。
1932年1月3日長城に近い南の錦州(奉天政府最後の所在地)を占領してイギリスの鉄道権益を脅かした。まったく法的根拠のないチチハル、錦州の占領は列強とくに米国ををさらに苛立たせた。

関東軍が劇的に日本を戦争モードに切り替えることができたのは軍師石原莞爾のブランキスト的行動原理*に負うところが大きい。前記の引用に続けて彼は述べる。国家にできないなら軍部が「団結シ戦争計画ノ大綱ヲ樹テ・・・謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主導トナリ国家ヲ強引スルコト必スシモ困難ニアラス」
*先駆する少数の前衛が突破口を開き後戻りできない動乱状況をつくって革命につなぐという思想。わたしはブランキズムについて研究したことはないが、全学連主流派の国会突入戦術がブランキズムと批判されていたので連想して上記のような表現を用いた。
その通りになったが、関東軍が独断専行できるように陸軍中央主要ポストを入れ替えたのは少壮幕僚の[軍国党ともいうべき]一夕会であった、と川田稔氏の受け売りをさせてもらう(論文「満州事変  昭和六年永田鉄山が仕掛けた下剋上の真実」[]内は自説である)
一夕会は満蒙領有、陸軍首脳人事刷新=守旧派の替わりに真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑太郎擁立、国家総動員体制を[綱領]としていた。一夕会のグランドデザインを実現に導いたのは総統的存在の永田鉄山大佐(遭難時中将・軍務局長)である。スターリン書記局にならったわけではないが、陸軍人事局を掌握(補任課長:岡村寧次と後任磯谷廉介)して、下記のとおり陸軍中央の主要実務ポストに自派勢力を配置した。[私から見て知名度の高い人物のみ掲載]
事変直前の若槻内閣時
〈陸軍省〉軍事課長永田鉄山、同支那班長鈴木貞一、補任課長岡村寧次 〈参謀本部〉動員課長東条英樹、作戦課兵站班長武藤章、支那課支那班長根本博 〈教育総監部〉本部長荒木貞夫、第二課長磯谷康介 
犬養内閣時 陸相荒木貞夫、軍務局長山岡重厚、参謀次長真崎甚三郎(総長は宮様)作戦課長小畑敏四郎
一夕会員ではないが満蒙積極方針の立役者森恪が犬養内閣書記官長に就任したことは積極策が政府の方針にもなったことを物語っている。

1932年1月3日 錦州入城 
無抵抗方針の張学良はこれで満州の軍事拠点と政治支配権をすべて失った。日本軍占領下の政治組織はどうなる? ここに至ってスティムソンは、日本の侵略行為による満州危機はクライマックスを迎えつつあると断定した。

1月7日 対日中通牒「スティムソン・ドクトリン」公表
「門戸開放政策[9か国条約]として知られる、中華民国における主権、独立あるいは領土的ならびに行政的保全の権利」を損なうようないかなる既成事実、条約や合意も認めることはできない。1928年の不戦条約に違反するいかなる状況、条約、合意も承認できない。

犬養内閣の成立後派遣軍の独断専行が内閣、陸軍首脳を「強引」する「下剋上」の異常状態が常態化しつつあった。それに伴って日本の大陸政策に大きな変更が加えられた。
満蒙[関外]では、中国主権から独立した親日国家樹立が目標になり模索と工作が始まる。
長城以南[関内]では、中国主権下での華北分離、「自主的」自治政府が目標になった。
天津では11月に2回土肥原賢二奉天特務機関長の謀略と日中両軍の衝突があった。この間ラストエンペラー溥儀の隠密天津脱出が甘粕正彦工作員によって決行された。
1932年1月18日 上海で日本山妙法寺僧侶を襲撃、1名死亡
1932年1月28日 上海事変、海軍陸戦隊と第19路軍交戦、激戦に空母、師団派遣*(5月5日停戦)
*この時、爆弾筒を抱いて突破口を開き軍神と賛美された「肉弾三勇士」(荒木陸相は爆弾三勇士と命名)は、久留米工兵大隊所属で、その兵舎を利用した私の母校傍の公園には大きな三勇士像があり、わたしの教室の窓から見えた。映画に着目して軍国フィーヴァを想像していただきたい。ゾロ目の2.22に戦死、3.3には映画3本封切り、さらに17日までに3本...。
3兵士は美談に祭り上げられた分、戦後おとしめられたが、今日では報道の捏造(爆発に巻き込まれた事故死を特攻死にフレームアップ)が有志によって解明され、ようやく安らかに眠っている。
上海事件は、
満洲独立の動きから国際連盟と米国の目をそらさせるために板垣司令官が上海公使館武官・田中隆吉少佐に命じて中国人を使嗾して起こした謀略(上掲)が発端となったが、逆にスティムソンの怒りに油を注いだ。
かれは日本軍をthe japsとよび、1月29日「上海事変の概要を閣議で説明し、中国都市の人口密集地への爆撃を実施した日本軍の残虐な行為*は決して正当化できない
(an unjustifiable attack)と厳し く批判した」(中沢志保論文「スティムソン・ドクトリンと1930年代初頭のアメリカ外交」)
*スティムソンは、陸軍長官として東京空襲と原爆投下にOK,京都原爆にNOのサインを出したことで日本でよく知られている。
1932年3月1日 満州国建国宣言
32年  5.15事件 海軍青年将校と陸軍士官学校生ら首相官邸襲撃、犬養首相を射殺 
後継の海軍出身斎藤実内閣、9月15日満州国を正式承認
1933年2月24日 国際連盟の対日満州撤退勧告採択(42対1)に抗議して日本代表松岡洋介退場  3月27日脱退通告

軍国主義は復活した。日露戦争では大英帝国と米国の力強い支持があった。今回は、理屈はあるが宣戦布告はなし、ただ一国の支持もなし。この孤立感、空虚感を日本はどう埋めるか、どう癒すか、次稿につづく。

 


日本軍の野望/「次の戦争」像/対米戦争

2017-11-21 | 体験>知識

  シベリア出兵 帝国書院『図設日本史通覧』

政府は陸軍主導で青少年に軍事教育を実施し在郷軍人の活動を活発化させた。国難という言葉先行だった。では当時の軍事専門家と政治家は次の戦争にどんなイメージを抱いていたのか、それが本稿の主題である。

1920年3月、シベリアでは赤軍もしくはパルチザンが西から反撃してきて沿海州にすでに浸透していた。そして、不利な対日戦を回避するレーニン政府の方針により、ハバロフスク~ウラジオストクで足踏みし日本軍と対峙あるいは共存混在していた。戦況不利のもと沿海州では傀儡地方政権の変心と白衛軍の脱走、寝返りが続出した。4月1日米軍が撤兵を完了した。参謀本部上原総長と派遣軍大井軍司令官は、原敬内閣と田中陸相の条件付き撤兵宣言を勝手に解釈して4月4日午後10時を期して地方政権、露軍、パルチザンに奇襲をかけ、武装解除名目でロシア人、朝鮮人を数千人斃して沿海州を制圧、支配した。これを日本側は4月事件と云い被害側は4月惨変という。統帥権を錦の御旗にする参謀本部、軍令部を政府、田中陸相は抑えることができなかった。
この時点では政府と陸相は満州・朝鮮の東端部を赤色ロシアに絶対譲れない接壌[地]としていたが派遣軍は沿海州に野望を抱いていた。開戦と同時にチェコ軍救出と関係のない尼港と北樺太まで進軍して占拠している。
さて上掲の地図に再度目を転じてみよう。派遣軍幹部ならずとも沿海州と北樺太を切りとり日本海を内海にしたい願望にかられるだろう。それ以前から日本海内海構想が語られていたとしても不可思議ではない。
このようなシベリア戦争における軍部と政府の方針がずれる軍事×政治関係と、強欲な勢力圏構想に類似したイメージの事件が、大正末期から昭和の初期にかけても見られた。山東出兵と済南事件である。その時期満蒙切り離しor切り取り構想が陸軍
の中で有力になった。同時期の米国、日本、中国が考えた仮想敵、国防計画と戦略シュミレーションをこれから2回にわたって検討する。

シベリア戦争中はアメリカに牽制され、それ以前は露英米仏独列強と清帝国食いちぎりを巡って、日本は外交戦で苦戦した。アメリカは一貫して中国市場(製品と資源)の門戸開放を譲らなかった。また自国への貧しい中国人、朝鮮人、日本人移民の殺到に苦しんでいた。日本人移民の差別と迫害はついに1924年排日移民法に結実した。表面に低賃金雇用問題、背景に東洋人差別(黄禍論)と国粋主義的団結(同化しにくい移民)に対すアメリカ人の反感とがあった。
研究したことはないが、これだけの理由で上下両院が日本政府の厳重抗議を無視して法案を可決するとは思われない。朝鮮独立運動の最中にキリスト教徒の村が教会もろとも焼かれ教徒が虐殺された事件が全米でたびたび報道されて、醸成された反日世論が議会の背中を押したのではないか。3.1万歳事件の一環である堤岩里(チェアムリ)惨変は全米で2カ月間40回報道された。間島事件の一つ獐巌洞(ノルバウィゴル)惨変は長老派教会の医師マルティンにより全世界に発信された。また前年の関東大震災時の軍による王希天(中華YMCA幹事=メソジスト教会牧師)と大杉夫妻の甥橘宗一少年(キリスト教徒、オレゴン州生まれの米国籍)の虐殺もアメリカの世論を刺激したと考えられる。
日米とも相次いで太平洋で海軍大演習を実施した。日本国内の世論は沸き立ち反米右翼が叢生した。

 林 信吾・清谷信一訳『太平洋大戦争』(2001)
1925年英国の海軍評論家バイウオーターが架空戦記『太平洋大戦争』をロンドンで発行した。小説は当時の知見をもとに展開されるから空母による遠洋攻撃(太平洋艦隊本拠地真珠湾攻撃)は構想外である。
小説は、中国における利権をめぐって日米交渉中に1931年3月3日早朝大型商船「明石丸」がパナマ運河で自爆して運河を使用不能にした驚愕事件をもって事実上の日米開戦としている。原因は日本国内の内政の行き詰まりと中国における日米の利権争いである。

大本営発表「3月6日午前、・・・帝国南洋艦隊は、マニラ湾外において米国アジア艦隊と遭遇、激闘3時間に及ぶも・・・これを全滅せしめたり」3月20日マニラ入城、4月4日艦隊中継拠点グアム島占領。西太平洋の制海権をにぎるが、本拠地ハワイを衝く能力はない。グアム沖あたりで太平洋艦隊を迎撃して葬り、いっきに対米戦争に決着をつける作戦だった。米大西洋艦隊がパナマ運河閉鎖で南米回りして遅れるので日本軍は連合艦隊に対する勝利を確信していた。
米太平洋艦隊は本拠地ハワイから西進しポナペ島、トラック島、ヤルート島を奪回し兵站基地を築きつつグアム近海に迫った。グアム攻略作戦は日本艦隊を欺くための囮作戦で狙いはペリリュー島を攻略して「飛び石伝いに拠点を確保していき」フィリピン植民地を奪回することだった。
ここで思い出すのは南洋諸島が日本の信託統治に決まる直前に米国が島々の主要港湾の海深を測量した事実である。まさに水面下の準備である。アメリカの日米戦構想には戦略マップにデータの裏付けをつける姿勢があるようだ。
米軍は1週間足らずで、ペリリュー島を制圧し滑走路まで完成させた。南太平洋の制海権で優勢に立った米軍は西にも北にも、フィリピンはもちろんグアム、サイパン、小笠原へも、思いのままに出撃できる戦略的拠点と自由を手にした。
洋上艦隊決戦が対米戦争の帰趨、行方を決することになった。米軍がヤップ島をうかがう姿勢を見せると大本営は連合艦隊に出動命令を下した。またしても偽装陽動作戦に引っ掛かり米艦隊の挟み撃ちに遭ってヤップ沖海戦で有史以来の大敗北を喫した。
制海権とシーレーンを完全に失って軍事的経済的に孤立した日本は、フィリピンを奪回され、東京空襲にさらされるにおよび講和に応じるほか道はなかった。「この時すでに、日本はもはやいかなる意味でも継戦能力を失っていた。中国、朝鮮を抑える力はすでになく、これでソ連が参戦でもしようものなら、もはや破滅である」

日米戦争の予言は当時両国で広く語られていた。日米間を1万キロ隔てる太平洋と中間補給基地がないことを考えると主力艦隊決戦と敵の領土攻撃はありえない、と考える軍事専門家も少なからずいた。バイウオーターはその疑問を一蹴したばかりでなく、戦闘場面に航空機と潜水艦の活躍を不可欠の新戦力として細かく織り込んだ。そして航空母艦の機動力と艦載機の運動性能、航続距離が十分に延びた暁には日本軍による長駆真珠湾奇襲、ミッドウエイ決戦を予想したであろうことが、この小説から読み取れる。
バイウオーターの小説は、前年に出た米海軍の対日戦シュミレーション「オレンジ計画」と大筋で一致している。日本の対米戦方針とはどうだろうか。

先ず1907年に山県有朋元帥の命で田中義一中佐が作成した帝国国防方針草案を取り上げよう。日露戦争後~ロシア革命前の国防方針である。
「主要ナル敵国ハ露西亜ニシテ国利国権ノ伸張ハ先ツ清国ニ向テ企図セラルルモノト想定ス」「米国ト事ヲ構フルニ至レハマニラヲ占領シフィリピン諸島ヲ攻略ス」 さらに仏領インドシナの攻略、対独膠州湾の攻略を想定している。
田中義一は、サハリンからフィリピンまで、日本海から南シナ海まで国防圏を拡げた。この大風呂敷に対しては、秀吉もそうだったが、軍略あって外交なし、軍備軍拡あって経綸(経済財政の裏付け)なし、と評せざるを得ない。人力も資源も資金も大陸で調達するとなると勢い大陸侵略とならざるをえない。より慎重な山県は米国以下の想定を削除した。

そして1918年に陸海軍は仮想敵を露米支とする改訂を行い、シベリアに出兵した。対米=ルソン島攻略、迎撃作戦。対支=権益・在留邦人保護のため事変あれば出兵する。
シベリア出兵(1918年~1922年)について田中大将と宇垣大将が内輪の将校たちに語った本音(家村新七少尉証言)はこうだ。大分連隊で田中大将「シベリア出兵の真の目的は沿海州を占領することにあったんだ。その理由は地図を見ればわかるように、沿海州を日本の領土にしておかなければ、日本の国防は成り立たんのだ」 熊本の教導学校で宇垣大将「日本海は日本の内海にしなきゃいかん」(橋本治『派兵』第一部)

さら1923年日本は対米ソ支を仮想敵とする大改訂をおこなった。
先制かつ攻勢を本領とする。速やかに局を結ぶ。対米短期決戦論である。
国際的孤立を避け、露支に対しては親善を旨とし、権益・在留邦人保護のため事変あれば出兵する。
作戦①主敵は米国である。ルソン島を攻略し西太平洋の戦略拠点グアムを破壊し米艦隊を迎撃する。
作戦②
対ソ戦緒戦でシベリア出兵時と同じく南部沿海州、ザバイカル州を制圧し、必要であればアムール州に進出するが、主作戦は満州である。

作戦③対中戦ではすみやかに北支那を攻略し、ほかに政略上、作戦上の要地を占領する。

   前坂俊之編・訳  松下芳男著 『水野広徳  海軍大佐の反戦』(1993年)

この新国防方針について軍事評論家水野広徳が新聞スクープ記事をもとに分析して「新国防方針の解剖」を中央公論に発表した。日本の敗北を断言してアメリカでも注目された。「次の戦争は空軍が主体となり、東京全市は一夜にして空襲で灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の戦争となるため、日本は国家破産し敗北する以外にない-と予想、日米戦うべからずと警告した」([pdf]『日米戦えば日本は必ず敗れる』-水野広徳の反戦平和思想  by前坂俊之 http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/25.pdf)

水野広徳は海軍軍人で日露戦争に従軍、2度欧州を私費(ベストセラー日露海戦記『此一戦』の自著印税等)で視察した。ロンドンで空襲を体験し西部戦線激戦地ヴェルダン戦跡の爪痕(死傷者100万)に愕然としベルリンの悲惨な戦後窮乏と混乱を目の当たりにして、帰国後加藤友三郎海相に「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と報告した。加藤海相はワシントン軍縮会議全権代表として条約締結に貢献した。水野広徳が日米未来戦の中で描いた東京空襲の光景は実際に起こった東京大空襲を想わせるほど真に迫ったものである。

新国防方針は日米戦争を想定した。開戦となれば経済力10倍の国と総力戦を戦うことになる。方針は観念的な短期決戦論である。水野広徳は、そうは問屋が卸さない、長期の持久戦になる、また「帝国が封鎖を受けたる場合には食糧および作戦資材を隣邦に需める必要がある」とする方針の根本に対しては、銃を突き付けて握手を求めるに等しい、と批判し、日本と同盟する国は一国もないだろう、と断じた。

1931年軍部の暴走は満州事件を起こし国際的に孤立した。次第に評論ができなくなった水野は心友松下への書簡で時評を歌に託すようになった。
1934年の一句「戦へば必ず四面楚歌の声 三千年の歴史あはれ亡びん」

1939年12月30日の日記にある一句「反逆児知己ヲ百年ノ後ニ待ツ」に私は言葉を失う。
1945年10月18日今治市で腸閉塞により他界、享年71歳。








総力戦=国家総動員体制づくり始動/軍国復活へ

2017-10-25 | 体験>知識
一次大戦の惨禍は、国際的に非戦と軍縮の気運を醸し出し、平和維持を目的とする国際連盟を作り出す一方で、列強の軍部に総力戦対策強化を促した。日本でも将来の総力戦を不可避と考える軍部を代表して宇垣一成がその任にあたった。本稿では軍縮を逆手にとって予備兵力増と武器近代化を推進した陸軍の軍政と軍国復活の道程を考察する。
『宇垣日記』1954年 朝日新聞社
第一次世界大戦では、空に飛行機、陸にタンク、海に潜水艦、地上に重機関銃砲、毒ガス等の近代兵器が出現するとともに国民皆兵と国家総動員が普通の事になった。
震災後、軍縮という外交課題と軍備近代化という軍政上の課題を同時解決する(ピッタリはまる昨今の流行語でいえばアウフヘーベン止揚する)使命を帯びて登場したのが宇垣一成陸相である。宇垣は軍縮で浮いた費用で軍備近代化を図り、退役将校、在郷軍人を活用して青年軍事教育の普及浸透を実行した。現役将校と旧式兵器で高等教育に軍事教練を導入したことについては前稿で述べたとおりである。

1926年、勅令により青年訓練所が設置された。 中等以上の学校に進学しないで実業補習学校で学び卒業した16歳から20歳までの男子勤労青年が対象で、その心身を訓練し、国体観念を習得させ、臣民としての資質を向上させて有事の際の予備兵力化することが目的であった。費用のかかる常設師団数を削減してもなお有事に即兵員を補給できる新体制を目指したのである。青年訓練所はのちに1935年実業補習学校と合体し年齢下限を12歳、小学校卒業時とし名称を青年学校に改めた。
訓練は4年間に、修身および公民科100時間、軍事教練400時間、普通科200時間、職業科100時間、あわせて800時間で修了とした。軍人上がりの教員と在郷軍人が教官役をつとめた。
月2回ほどの通所は義務だったが多少体が不自由な参加免除の若者も無理して通ったという。卒業しないとムラで一人前とみなされず嫁をもらえないからである。青年は何の疑問もなく軍事訓練を受け入れた。月2回ほどの訓練日は仕事を堂々と休めて同年代間で軍歌を歌ったり語らったりする楽しみがあったからである。この年齢幅の青年はムラの青年団に所属し修養、奉仕活動に従事するのが普通だった。
「軍人勅諭を憶えないと上等兵になれないぞ」と教官に肩を叩かれることはあっても殴られることはなかった。今の青少年がプロスポーツのユニフォームにあこがれをもつように青年たちは教官の軍装に憧れた。無事修了すると兵役6カ月短縮の特典があった。初年度だけでも全国でざっと15,000校が開校され、百万人が訓練を受けた。
この兵式訓練は今日の学校の行事、規律の中に色濃く残っている。私が日本の学校に上がった際最初に覚えたのは、キヲツケ- ナオレ- マエヘナレ- であった。いまだにナレーなのかナラエーなのか自問している。 

これだけの大事業がわずかな反対運動(下伊那郡青年会)だけで無難に扶植された。下伊那の反対運動は同郡政治研究会(都会から来たオルグ)が組織したものであろう。大正デモクラシーは都市中心のファッションに過ぎなかったのだろうか。これまで言及して来た社会運動は意識の高い労働者をふくむ都市知識層の跳ね上がりに過ぎなかったのか、あまりにも地方に浸透してないことに驚く。
軍縮の衝に当たった宇垣陸相は、人員整理される2000の先輩同輩後輩に恨まれたが「建軍以降の大問題たりし軍備の整理も多少の論難」ですみ「兵式訓練問題の如きは一波瀾を惹起すべき可能性」があったが無難に貴衆両院を通過した、と時系列の随想録上掲『日記』で苦衷と安堵をもらした。
極端主義からのクレームにも言及している。「聞けば右傾派と目されて居た縦横倶楽部の一団が今次の人事の取扱ひを不適当なりとして当局に迫ると云うて居るとの事、それが後には石光[中将]や福田[大将]、山梨氏[大将]もありとも伝へて居る」 かれら3人は「整理」され予備役編入となった。
宇垣陸相は、軍縮を実行したのは民意に先んじて応じることによって軍民融和を実現するためだった、総力戦を覚悟しなければならない有事に対応するには国民に愛される軍隊に再度もってゆくしかない、と事あるごとに強調した。
ではその隙間風が吹いている軍民関係に立ち戻ってみよう。

日露戦争後日本政府は戦費のツケと軍事費の増大に、民衆は慢性的な不況と税負担に苦しんでいた。そんな中、海軍が戦艦建造費を、陸軍が2個師団増設を要求して内閣をゆさぶった。海軍には薩摩の山本権兵衛閥が、陸軍には長州の山県元老閥が中心にいた。山県元老の下に田中軍務局長‐宇垣軍事課長がいて上原陸相を支持していた。師団増設を否決されると知った上原陸相は帷幄上奏特権[後述]を行使して直接天皇に辞表を出した。「陸軍のストライキ」によって西園寺内閣は退陣を余儀なくされた。両軍備拡張案を延期しようとした桂新内閣では斉藤海相がストライキを起こした。陸海軍と閥族のゴリ押し横暴に閥族政治根絶、憲政擁護を叫ぶ政治運動が燃え上がった。群衆が国会を包囲し軍隊が出動した。
世界大戦をはさんで次の原敬の時代は社会運動(労働、農民、、女性)が盛んになった。その共通要求が普通選挙だった。普通選挙実施となれば軍部に対する議会の牽制がさらに強まることを軍部は危惧した。同時期に田中陸相が深くかかわった大義なきシベリア出兵があり軍の威信は失墜した。

こうした背景の中、宇垣一成は田中陸相の引きで陸軍次官になり次いで3代の内閣で陸相をつとめ、陸軍の論理をやわらげ陸軍の要求を政党政治と民意になじませようとした。
山県、桂、寺内、田中と長州閥は続いたが大正デモクラシーの波濤に立ち向かい、それを乗り切ったのは田中義一である。元老山県が元気なうちは軍事と政事両方を閣外に居ても牛耳ることができたが、力が衰えた晩年には山梨、上原両将軍の硬派閥がそれぞれ陸軍の立場をさらに悪くした。
田中義一は大正デモクラシーの上げ潮に押し上げられた政党政治に自らも身を投じ国難を演出しつつ
力戦体制構築に奔走した。

 纐纈 厚田中義一 総力戦国家の先導者』 2009年 
田中は世界大戦前の1910年陸軍軍事課長として散在していた一万有余の在郷軍人会を糾合して帝国在郷軍人会(陸軍大臣所管)を組織した。総力戦が常識になる世界大戦前である。日露戦争における殲滅戦からヒントを得て後備軍の重要性にいち早く気付いたのであろう。

大戦後の仮想戦争は、陸軍は対米、対ソ、対華戦争だった。海軍は対米戦争だった。対米戦争の場合、国力差を考慮すれば短期決戦しかなかった。海軍は大陸戦、長期戦に消極的で国家総動員構想に積極的でなかった。
陸軍は仮想敵があいまいなまま田中義一を先導者として長期戦、消耗戦、総力戦を覚悟して国家総動員体制構築に向かって第一歩を踏み出した。
田中陸相の総力戦構想では「軍隊という国民の学校」を卒業した在郷軍人は有事の際に師団を支援する後備兵に位置付けられた。平時は地域社会における忠君愛国、勤倹力行の模範と社会主義を抑えるための「思想善導」の役割を期待された。在郷軍人は震災時の朝鮮人狩りで歴史に汚点を残したが米騒動、川崎・三菱造船所争議では軍服に着替えて下積み側に参加して世間を驚かせた。在郷軍人は一枚岩ではなかった。

これまで「軍隊の国民化、国民の軍隊化」「良兵は良民であり、良民は良兵になる」の信念のもとに宇垣、田中両大将が青年教練と在郷軍人活動に情熱を注いできたことを観て来た。
1925年、田中義一は国家総動員体制構築をさらに前進させるために在郷軍人票300万を手土産に政友会入りしその総裁におさまった。
[註]そのとき軍資金300万円を陸軍機密費から流用した、とスキャンダルになりかけたがもみ消した。平沼司法閥が盤石であるかぎりは体制側の巨悪は隠蔽されてしまうが、田中のケースでは真相は藪の中である。ロマノフ王朝の金塊がシベリア戦争で日本軍に渡ったが今日まで行方不明である。
総力戦対策は忠君愛国に燃えた学徒、勤労青年、在郷軍人を予備兵、後備兵としてプールするだけでは全然足りない。誰でも思いつくのは生産力の底上げと国家による経済統制である。田中義一は政友会総裁として当然のことながら「産業立国」を標榜したがまだ具体性にとぼしく宇垣陸相に「付焼刃」のご託宣と揶揄された。
1927年4月、田中内閣が誕生した。その年ソ連が統制経済に移行を始め、1928年10月、経済5か年計画を発動した。田中内閣が1929年7月に退陣しなければ田中総理も必然的に統制経済移行策を考えたと推論できる。それが総動員すべき国力の土台であるからである。宇垣も田中も「武力決戦を主とすべきも経済戦」を総力戦の核心にすえていたが、統制経済課題が俎上にのぼる前に両名の政治生命が尽きてしまった。
統制経済の実施は真の国難、1937年の日中戦争勃発までまたねばならなかった。1938年国家総動員法が成立し、議会の審議を経ずに、そのつど勅令で、あらゆる「人的物的資源を統制運用」できるようになった。まるでヒットラー独裁に道をひらいたナチス・ドイツの「全権委任法」をまねたみたいだ。
極めつけは対米戦争1年前に成立した大政翼賛会である。最後にそれについて考えてみよう。
究極の大問題、政党内閣制と議会は総力戦体制ではどう位置づけられるのか?平時の現状では内閣が軍政をコントロールする仕組みになっていて軍部が特権をもってそれに抵抗する形になっていた。つまり軍部大臣現役武官制によって軍部が大臣を出せぬとごねると内閣がつぶれる、組閣もできない。また帷幄上奏権により軍機・軍令に関して参謀総長(陸軍)軍令総長(海軍)陸海軍大臣等は閣議を経ずに直接天皇に上奏できた。議会制民主主義の今日から見ると、これにこそ国難の相があらわれていると思うが、宇垣陸相、田中総理は政党内閣と議会の在り方のほうに国難を観ていた。
政党内閣制では階級、階層の利害の対立を反映して政党、党派間の対立が必至であり、野党の存在は必要条件、前提である。ちなみに政党の語源part‐は分立、分けるである。国論の分裂と政争、これこそ総力戦国家構想が克服すべき最大の課題である。宇垣陸相、田中総理は国家総動員体制下では政党の居場所はないと認識していて、大政翼賛会という具体的大目標こそ掲げていないが万世一系の天皇の下の挙国一致を総力戦体制の究極の姿と考えていた。宇垣日記からそのさわりの部分を抜き出して総括とする。
「政党政治が憲政の常道たるべき観ある」が政党の本質からして政党首班は「挙国一致協心戮力の中枢にありて指導的役目には適当せぬ」「余は此の見地よりして平時は兎に角、有事の日に於ては陸軍が是非至尊輔翼の中枢として働かねばならないと数年来深く感得して居る所である」「二十余万の現役軍人、
三百余万の在郷軍人、五六十万の中上級の学生、84余万の青少年[田中が組織化をプッシュした大日本連合青年団]に接触する陸軍にして始めて此の仕事を遂行し得べき適性が存在する」
1940年末、日中戦争の長期化、国際的孤立化の国難の下、全政党が解散させられ,大政翼賛会に再編された。太平洋戦争開戦により1942年には
町内会や部落会、隣組までが大政翼賛会の末端組織と結びつけられ、諸産業、労働組合、文学、婦人会、青少年団、言論の「報国会」が傘下に入り、国民すべてが上から下まで余すところなく戦時体制に組み込まれた。 



早稲田の森の怪人/早大・小樽高商軍教事件/ 反動と抵抗

2017-09-29 | 体験>知識

   菊川忠雄 『学生社会運動史』(1947年)

以下の文は主として上掲書に依拠する。
連が発足してちょうど半年後の1923年5月10日早大軍事研究団発団式の会場である。午後3時前、正門前に突如「早稲田を軍閥に売るな!軍閥を倒せ!会場を占領せよ!反軍事研究団同盟」と大書した看板が立てられ、発団式を無視していた学生たちが足を止めた。
軍事教育に対する学生の大方の意識を理解するために、軍事研究団の設立趣意書の低姿勢ぶりをみてみよう。「我々は帝国主義に反対する。同時に軍国主義をも排するものである。本団を創設するの趣旨はただ一意国防の二字を憂ふるによる」
だが会場の雰囲気は一転して挑発的だった。陸海軍3人の将軍が乗馬で、数十名の将校が陸軍の星章をつけた三菱自動車で正門に乗り込んで、勲章で飾った正装とサーベルと軍靴の音で学生の反感を刺激した。まわりで乗馬用のズボンとブーツ姿の乗馬クラブ員がサポートしていた。
大講堂の壇上に立った団長青柳教授の前に進み出て団員代表が宣誓書を読む。一斉にフラッシュがたかれ活動写真カメラがまわる。「模範国民の造成は…」間髪を入れずやじが飛ぶ「人殺しの仲間入りするのが何が模範だ!」・・・
団長の青柳教授が訓辞を始める。「私は…」と口を切る。すかさず「軍国主義であります」とやじる。「私は…」「軍国主義者であります」・・・
白川義則陸軍次官が祝辞を述べようとすると「貴様の勲章には我々の同胞の血がしたたっているぞ!」 シベリア出兵を皮肉って「ああ一将功なりて万骨枯る」と高吟する者あり、ついには「都の西北」の校歌大合唱。
中島正武近衛師団長、石光真臣第一師団長も立ち往生。中島中将はかつて田中義一の命を受けて武市に石光真清を説得に行った元浦潮派遣軍高級情報参謀、真臣中将は言わずと知れた真清の弟、数カ月後大震災時の戒厳司令部南部警備司令官となる元憲兵司令官である。憲兵司令官時の首相は原敬、陸相は長州閥元老山県の後継者田中義一であった。真臣中将は軍事教練の発案者である、という記事もある
第一幕は建設者同盟の学生団体・文化同盟(顧問=大山郁夫教授、佐野学講師)の完勝で終わった。学生たちは翌日雄弁会主催で学生大会を開催することを申し合わせた。
雨の日を挟んで12日正午約5000の学生が中央校庭を埋めた。「朝来険悪の気は漂って居る。《腕か思想》と題して東京日日[大阪毎日の東京版]には相撲部が研究団応援のために決起したことを報じて居る」 果たして11時前、相撲部の呼びかけビラが各所に貼り出された。騒擾をおそれた雄弁会委員が交渉に行ったが殴られてしまった。
拍手で迎えられて浅沼稲次郎が登壇、宣誓した。「大学は文化の殿堂、真理を追究する所、決して軍閥官僚に利用されるべきものではない」 ついで決議を読み上げた。「我等は軍国主義に反対し、早稲田大学を軍国宣伝の具たらしめることに反対す」
しかし、ここまで。「此時暴力団襲来の機は刻々迫り」雄弁会幹事が閉会を宣言し自由演説会に切り替える。故大隈公銅像裏から現れた相撲部員たちが詰め寄って演説中止を求める。一柔道部員が「糞尿だらけの六尺ふんどしを投げつけ」壇上に駆けあがり演者を突き落とす。校外から縦横倶楽部が「主義者をやっつけろ」と叫びながら暴れ込む。「暴漢一派は演壇を占拠し、演説をはじめ、校歌を合唱する」
文化同盟は第一幕では大衆動員と野次により完勝したが第二幕では暴力により大会を蹂躙されてしまった。この日は「流血の金曜日」として学生社会運動史に刻まれることとなった。
東大新人会活動家だった菊川忠雄は、この事件の首謀者は縦横倶楽部の森伝である、かれは警視庁正力官房主事のスパイであると記述しているが、私見では森伝は正力とは違ったタイプの反共首魁であって誰かの手下ではない。今日まで歴史愛好の文筆家とメディアを、GHQさえも、あざむき通した情報機関顔負けのシルエットに隠れた凄腕国粋主義フィクサーである。
国会図書館にある「森伝関係文書目録」をみるかぎり、これはネットで検索して出て来る唯一の森伝を語る史料であるが、森伝は早稲田入学、日本入国、組閣入口と天皇奏上入口で口利きをする国家改造運動の影の策謀家である。九大生体解剖事件戦犯裁判ではGHQへの口利きを頼まれている。
わたしは国家改造運動関連に絞って次の文書に注目した。
上杉愼吉書簡 森伝宛 1923年12月8日 「甘粕君の判決何事ぞや、陸軍が社会主義に圧迫せられたるなり、明朝面会したし」
白川義則書簡 森伝宛 1923年12月15日 「上杉博士斡旋の急進愛国党に縦横倶楽部が加わるとの報道は事実か、偽物や間諜が混ざる恐れあり、石光氏には自重してくれと申し遣わした」
さらに甘粕正彦書簡 森伝宛 1923年12月13日 「法廷における小生の言動に不満もあろうと存ずるが軍人の立場をご了察下され、君国の今後の善導の程願い奉る」
振り返ってみると早大軍教事件は戦前の国家改造運動の発端だった。発端を見たら結末も見たくなる。私は今回森伝が両端を突き抜けたフィクサーだったこを知った。

【蛇足】 森伝関係文書目録には1936年の2.26事件に関する史料ファイルがある。森伝宛の皇道派関係者の書簡もある。森伝発が無いのが惜しまれる。目録だけから読みとれる森伝の事件関与の形跡をみてみよう。
山本英輔海軍大将書簡 森伝宛 1936年1月14日 「斉藤内府[内大臣]へ届けた書簡の内容」
山本英輔書簡 森伝宛 11日 「満井中佐にはじめてお目にかかり一寸見せたところ猶予を求められた」
平野助九郎少将書簡 森伝宛 2月2日 「川島閣下[陸相]に陸軍の大掃除進言されたい」
清浦奎吾前首相 森伝宛 1936年2月11日 「〇〇に面会の件は先方静養中のため待っている」  〇〇は元老か?
森伝は清浦前陸相のもとに出入りを許された情報通だった。それで森伝は、もっともラディカルな反乱指導者磯部浅一[元一等主計]によって、決起時に清浦伯参内を通じて天皇に真崎首相下命を働きかける役に擬せられた。森伝が終生家族ぐるみの付き合いをした財閥政治家・久原房之介は皇道派の資金源だった。磯部が決起1か月前に皇道派の御大・真崎甚三郎大将を訪問して真意を測るために軍資金を所望したところ真崎は「森伝に話してつくってやろう」と応えている。磯部は頼りになる同志森伝あてに遺書と辞世の句を遺した。

警視庁と文部省と縦横倶楽部は情況を利用して社会主義的四教授の罷免、「文化同盟その他の社会主義的団体の解散」を要求し、「共産党の陰謀」を宣伝した。大学当局の派閥抗争もからんで軍事研究団が解散し、続いて文化同盟も「母校平和のため」自主解散した。
好機なり、と警視庁は6月5日第一次共産党検挙を行ない、全国で80名を捕らえ、学内の佐野、猪俣らの研究室を捜索した。佐野はソ連に亡命し猪俣は検挙された。佐野、猪俣は10月に、早稲田反戦の雄大山郁夫教授はその後1927年に解職された。1929年にはさしもの雄弁会も解散に追い込まれた。
諸新聞を通した「共産党の震源地早大」キャンペーンで、早稲田の森の学生運動に秋風が吹いただけでなく学連加盟校が40余から10余に激減したという。赤化キャンペーンで激減するところに学連の思想がまだ多様で一極集中していないさまが見てとれる。

早大事件で失速した学連は軍国主義の巻き返しに対して危機感を覚え新規まき直しを開始した。東大新人会が学連の先頭に立った。学生大会で大学監督下にある東大学友会の内部に社会科学研究会を設けさせた。「学生大会から関東大震災前後に亘る数ヶ月間に、新人会の勢力は、学内に於て抜くべからざるものとなってゐた」
関東大震災が学連にとって転換点になった。東大新人会は「先ず震災中の救護的な事業を打切ると同時に、それに関与した学生と、それによって巻きおこされた学生の社会的関心を、社会科学の研究、学生自治の確立、学生の社会運動の開拓に向けて行った」 寄宿舎管理、大学新聞経営、食堂経営に委員を送って勢力を扶植した。何よりも大きいのは、学友会に学内研究団体として社研のために予算を計上させたことである。
この新人会を震源として既述したとおり1924年に全国で学生普選運動と社研運動の活況が起きる。新人会の「民衆の中へ」の浸透がなかったなら、次に取り上げる小樽高商軍教事件は十中八九事件化しなかっただろう。

1924.11.10 早大社研、大学新聞主催で軍事教育批判講演会開催
1924.11.12 学連、都下学生雄弁、新聞連盟提唱で全国学生軍事教育反対同盟結成
1925.4.13 陸軍現役将校[中学校以上・師範学校]配属令を勅令で公布
世界大戦終結後軍縮は列強の大きなテーマ、国内世論の大勢となり軍部も不本意ながら軍縮に応じざるを得なかった。職業軍人の失職救済と学生の軍事訓練とを抱き合わせにした一石二鳥、いや1923年11月10日に発布された国民精神作興に関する詔書を受けての施策だから一石三鳥、の軍事教育の第一歩が踏み出された。以前から3度目の軍縮が取り沙汰されていた。
1925.5.1 陸軍軍縮計画(宇垣軍縮)発表

以下、荻野富士男論文 小樽商大史紀要第2号(2008年3月)に主として依拠して「小樽高商軍教事件」を考察する。
1925年10月15日朝、教練に参加した学生に「想定」プリントが配られた。
一、大地震により小樽市内の家屋は倒壊し、折からの西風で火災が勢いを増し、市民は身を寄せる所をしらず。
二、「無政府主義者団は不達鮮人を煽動し此機に於て札幌及小樽を全滅せしめんと小樽公園に於て画策しつ ゝあるを知りたる小樽在郷軍人団は忽ち奮起して之と格闘の後東方に撃退せしも敵は潮見台高地の天峻に拠り頑強に抵抗し肉飛び骨砕け鮮血満山の紅葉と化せしも獅子奮迅一歩も退かず為に在郷軍人団の追撃は一時頓挫するの止む無きに至れり」
三、そこで、小樽高商生徒隊の出動となり「其任務は在郷軍人団と協力し敵を殲滅するにあり」
教練に参加した学生たちは社研会員をふくめて誰も違和感を覚えることなくハイキング気分で軍事地図の見方と伝令の演習をして帰宅した。
社研会員が「想定」を気にとめなかったのは、南樺太、千島列島を防衛北限とする第7師団から配属された鈴木少佐が訓練に厳しくない上にその日実行した訓練内容に交戦演習が入っていなかったからである。それにしても普通の職業軍人がかように不穏当な想定を平気で作成して本人だけでなく教師と社研会員をふくむ学生がそれに何の疑問もいだかないところに空恐ろしさを感じる。
関係ない私事だが先の戦争で叔父が第7師団に従軍して戦死した。こんなところでかすかな因縁があろうとは夢想だにしなかった。
野外演習自体は15日午後2時すぎに終了し、学生たちは帰宅した。教練を欠席していた社研の設立指導者斉藤磯吉の寄宿先が会員のたまり場になっていて、その日も学生が集まった。訪ねてきた政治研究会小樽支部代表兼小樽総同盟組合委員長の境一雄が「想定」プリントを目にしたことで事件が始まった。
翌朝境一雄と小樽朝鮮人親睦会金龍植他数名が代表して学校側に抗議した。詳細は省くが学校側は「想定」の語句が不穏当不公正であったことは認めたが求められた声明書は出さなかった。そして文部省の指示にしたがって社研に対して抑圧に乗り出した。
他方社研は学校側に決議書を手渡し全国の学生に向けて檄を飛ばした。
小樽高商事件は軍国主義に敏感な意識の高い指導者が東京から来ていたから燃え上がった闘争であると断定してよさそうだ。社研、政治研究会と総労働組合を組織したのは大山郁夫の教え子境一雄である。大山郁夫自身も講演のために小樽高商に来て社研結成を応援している。そのほか労働組合の指導権を競って山本縣蔵と松岡駒吉が来樽している。
北海道の入り口小樽には労働運動が盛んになる素地があった。石造倉庫群で有名な小樽港は樺太の鉱物、木材資源の集散地であり当時約3千人の港湾労働者の内三分の一以上が朝鮮人であった。
こういう労働環境であればこそプロレタリア作家小林多喜二も巣立ったのだろう。かれは1年半前に同校を卒業している。
小樽事件は同市から全国に燃え広がったが、肝腎の同校では「校内の問題は校内で解決すべきだ」と主張する穏健学生が優勢で、停学14名(社研のほぼ全員)、放校1名(斉藤)の処分、高松教授解職、社研禁止もあってまもなく鎮静化していった。
小樽高商社研の檄を受けて学連中央委員会は「全国の同志諸君へ」各無産団体と提携して反対運動を起こすよう、指示を出した。主要な都市で学生・市民を対象にした演説会が開催され近来まれに見る盛況を博した。もっとも至る所で弁士中止の妨害を受けたが。
朝鮮人を仮想敵にされた日本朝鮮労働総同盟が 「日本無産階級に与ふ」というビラで「日本の無産階級の諸君 ! 諸君は、今日日本軍事教育上のあの想定が如何に一昨年の震災当時のあの事実と関連あるものであるかを容易に理解するであらう」「諸君は此の罪悪に対して無産階級的態度を示せ」と訴えた。
後日文部省学生部は「この事件は十二月の京大事件に直接に関連をもつ点に於て注意すべきである。即ちかの同志社大学に於ける、狼火ハ上ル云々の不穏ビラはこの小樽高商事件に原因するのである」と総括した。
1925年11月15日京都市内や同志社大学構内に貼付された「狼煙ハアガル、 兄弟ヨ、コノ戦二参加セヨ」と題した軍教反対ビラは朝鮮自由労働団体等4団体による日本人にたいする檄文であった。









治安維持法適用/京都学連事件/共謀罪の次は?

2017-09-13 | 体験>知識


号外写真の出典  刊行会編佐々木敏二執筆『京都帝国大学学生運動史』(1984年 昭和堂)

1922年11月7日、ロシア革命5周年記念日である。玉城素『日本学生史』(1961年)によれば、東大の新人会、早大の文化会、早大その他の建設者同盟、明大の7日会、一高の社会思想研究会、三高の社会問題研究会、五高FR会、七高鶴鳴会など全国26校の学生思想団体が連合して、約50名の代表が当夜、東大学生第二控所に集まった。隠密裏の夜間発会式だった。
菜っ葉服にオールバックのいでたちが目立った。労働運動、農民運動方面で活動したいという願望が身なりに表れていた。学生連合会(略称学連)誕生である。名称から社会主義を隠し学生相互間の親睦を目的として掲げていたが、1922年7月に秘密裏に結成された日本共産党とのつながりが明白である。ところが日本共産党は1923年の第一次検挙でほぼ壊滅状態におちいり1924年3月にみずから解党してしまった。

1924年、普通選挙実現に備えて、労働総同盟、農民組合、、学連は無産政党準備に向かって走り出した。無産政党準備団体「政治研究会」が創立され、並行する研究機関として産業労働調査所が設立された。それらの会員の3分の1を学連会員が占めていたという。各地に労働学校、農民学校が開校されたのも同一趣旨からである。学連に講師派遣要請が相次ぐ。高校25校中23校に社会科学研究会(社研)ができた。

1924年9月14日、学連は東大学生控所で第一回全国大会を開き、名称を学生社会科学連合会(略称学連、個別校では社研)に改めた。学連が研究と普及を目的とする社会科学はもっぱらマルクス・レーニン主義を意味した。このとき学連は49校、1500名の会員を擁していた。この年京大社研が最大会員数を誇りその数は150名に達した。マルクス主義に転じた河上肇に惹かれて全国から関心のある学生が集まったせいである。西田幾多郎、三木清の哲学にあこがれて来た学生もいた。
震災後ようやく高まった学生の「革新」への意欲が社会主義的傾向から共産主義に転じようとしていた。革命に反革命が対峙する如く共産主義の勃興に国粋主義の「反動」が攻勢をかけてきた。東大に七生社、京大に猶興学会が誕生した。この両皇道右翼団体から1932年一人一殺の血盟団員(東大4人、京大3人、國學院生1人)[国学院生の出身団体不詳]が出た。
早大の軍事研究団反対事件に端を発する軍事教育反対が学連の政治課題となった。11月2日学連は東大で全国学生軍事教育反対同盟を結成した。関係校では反対運動が学生大衆の支持を得て盛り上がったが、これについては次稿で扱う。
1925.5.22 治安維持法施行
1925年7月中旬、学連は第2回全国大会を京大学生集会所で開催した。司会栗原佑(京大1年)議長村尾薩男(新人会)副議長鈴木安蔵(京大1年)、所属59校1600余名の代表80名参加と発表された。実際の代表参加数は14校51名だった。小樽高商など高校5校の代表は入場を禁止された。すでに前年11月、全国高校長会議が高校社研解散を決めていた。前年23校にあった高校社研の火はほとんどが掻き消されていた。
京大学生監の命令に従って、大会は、高校社研を禁止した文相と高校長への抗議、軍事教育反対を議案から撤回した。久保田特高課長臨監の手前、カモフラージュした「大会テーゼ」を採択し、すでに腹案があった「全国的教程」は作成を起草委員に一任、とする偽装を施し、組織について連合方式から中央集権方式へ規約を改正した。
翌日の秘密会で学連運動を無産階級解放運動の一翼として位置づけマルクス・レーニン主義に立脚して社研会員と労農無産者を教化することを明確にした。社研会員のための「全国的教程」は明治学院社研が、無産者教育の教程は京大社研が作成し、東西の学連で討議された。これらの協議、討議が後日裁判で共謀の証拠とされた。

この夏8月モスクワ帰りの佐野学が党「再建ビューロー」を結成するが、学連大会時までに相互接触があったか私には分からない。大会後には学連が共産主義者の揺籃、党員の一大供給源となった。

大会テーゼの趣旨を明瞭にするものが「学生運動と教育」(討議の一資料)であった。私はこれを大会テーゼの虎の巻とよぶ。虎の巻による簡略化、純粋化をみてみよう。
個人的に興味深いのは、この大会を境にして「中心分子」がマルクスの原論を軽視してレーニンの戦略戦術論を重視していること、しかもスターリンによって単純化された解説書『レーニン主義の理論と実際』で手っ取り早く大衆をオルグし闘士を養成しようとしていることである。さらに学生を「全体として見る時、ブルジョア的反動的集団」と規定し、「我々の運動はかかる集団の利害のために戦うものでもなく、また集団全体を教育せんとするものでもない。我々の運動は、始終無産階級の利害のために闘いうる者を獲得し教育することに焦点をおく」という、「福本イズム」の影響を受けた偏狭路線には驚きを禁じ得ない。大衆にマルクス主義に基づく意識を外部から注入することを最優先する知識人前衛主義は「福本イズム」由来だと思うが、教化の手本、手法は浅薄の一語に尽きる。
925.10.15 小樽高商軍事教練反対事件
1925年11月15日同志社の掲示板に貼られてあった「狼煙ハアガル兄弟ヨ此戦ニ参加セヨ」と題する、差押処分済の軍事教育反対ビラが京都府の特高課長と地裁検事正を刺激した。1923年の共産党検挙で出世の糸口をつかんだ久保田俊特高課長は学連をふるいに掛ければ「第二次共産党事件」の種を見つけ出せると踏んだ。
12月1日京大、同志社の寮、社研の合宿所、会員の下宿、自宅が手入れを受け、京大18名、同大11名、大阪外大(現阪大)1名、大阪高校2名、労働組合京都地方評議会書記*1名が出版法違反容疑で検挙され、私用、研究用の書籍、書類が押収されたが、証拠不十分で間もなく全員が釈放された。荷車3台分の押収物件は、スターリンの『レーニン主義の基礎』の中の一章「プロレタリアートの独裁」の翻訳プリント以外はめぼしいものがなかった。
*上村正夫 23歳 三高社会問題研究会(社研に改称)創立者 三高2年中退 在学中英訳資本論、マルク主義文献を耽読 職業的運動家 京都無産者教育協会設立の立役者兼書記 釈放後無産者新聞編集部勤務 それ以上の事は不明
「全員が釈放されるなかで、岡本忠文(医学部3年)が病臥中を検束され、留置所内で喀血卒倒して再起不能となったこと、芝田平治(経済学部2年)が拷問にあい全治3ケ月の傷をうけたことが判り、学生は殺気だった」 
出典 京大白川会企画・佐々木敏ニ執筆『京都帝国大学学生運動史』(1984年)京都学連運動の詳細な研究書でこれに勝る類書はない。1933年の滝川教授事件までの京都学生運動を詳述し、年表、名簿をふくむ資料と実名入りの事件、活動、エピソードを満載している。たとえば戦後できた「白川会」OBは、政党では自民党員が一番多く、共産党員は一番少ない、とか、京大社研は「天皇制とそれを利用する軍人・官僚の権威主義への抵抗が、共産主義的外見をとったものではないか」とかの回想を転載している。
大学当局は大学の自治を蹂躙したとして府知事と地裁検事正に抗議した。法経両学部は研究の自由擁護上譲れない最低限条件を声明として明らかにした。
1925年12月16日司法省は幸徳事件を足掛かりに思想弾圧で出世してきた小山松吉検事総長指揮下に全国から検事長、検事正と特高課長を招集し秘密会議で学連一網打尽の陣立てを決めた。治安維持法があればこそ可能になった歴史的弾圧事件である。
1926 年1月15 日早朝から、報道禁止の下、京都における学連メンバーの検挙が一斉に開始され、4月下旬までに全国規模でその数は 38 名にのぼった。また社研の指導教授、支援者である河上肇京大教授、山本宣治同大講師等の私宅、京都地方労働組合評議会の事務所兼京都無産者教育協会事務所(上村正夫が両書記兼務)その他十数カ所を捜索した。報道規制が解かれた9月15日までに全員保釈され起訴された。
1927.5.30 学連事件一審判決
38名全員治安維持法第二条協議罪違反 学連、社研、評議会、政治研究会、労働学校などの結社ではなく学連、社研の無産者教育方針、方法を協議した幹部を処罰 禁錮1年以下8ケ月の刑 内執行猶予=宮崎菊次他15名 以下私が氏名を知っている者だけをピックアップして記載する。実刑=是枝恭二(1年)淡徳三郎・石田英一郎・岩田義道・野呂栄太郎・栗原佑・鈴木安蔵(10ケ月)上村正夫(8ケ月)
1928.2.20 第1回普通(男性のみ)選挙水谷長三郎、山本宣治当選 労農党(容共の合法政党)当選者は全国で京都のこの2名のみ
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8.3.15 共産党大検挙3.15事件 
共産党再建大会は26年師走 結社つぶしを狙った治安維持法第一条適用 検挙数およそ1600名、起訴488名 京大関係起訴多数 内在学社研10名 水谷弁護士、弁護要請を拒絶 「共産党は悪い奴」
1928.4.10 労農党・労働組合評議会・無産青年同盟解散命令 ついで東大新人会・京大社研解散命令 河上肇教授依願免本官発令1928.4.20 山東出兵(第6師団) 国民政府軍と衝突(済南事件) 第3師団増援派遣
1928.6.4 関東軍による張作霖爆殺謀略事件
国家機密ゆえ東京裁判まで「満州某重大事件」と称して真相が隠されたた。
1928.6.29 治安維持法改訂公布即日施行 議会審議未了⇒緊急勅令で死刑、無期刑を追加 「結社の目的遂行の為にする行為」を追加(カンパ、会場提供等でも加入同様の処罰)
田中義一首相、思想国難を理由に治安維持法強化を強行 真相は戦争立法だった!
90年後の今日、共謀罪の次は何か? 情報国難理由に公安官憲強化と朝鮮危機理由に憲法9条を自衛戦争とそのための自衛軍を認める条項に改訂か?
1929.2.8 山本宣治代議士、衆議院予算委員会で、3・15弾圧の「不法検束、不法拘留、拷問」について質問 女性被告九津見房子の前で15歳の娘を凌辱(エロ・テロ) 石田英一郎拷問(三度気絶) 石田家と横山家は姻戚関係のほのめかし 警視庁特高課・横山警務局長面目失って激怒
1929.3.5 山本宣治暗殺
犯人は門司の沖仲仕組を本部とする七生義団員 6年で恩赦出所 戦後ニコヨン暮らし 特高出身で戦後代議士になった「えらいひと」に頼まれ裏切られた、ともらす。
在野研究者本庄豊は背後に元警視庁特高課長大久保留次郎、横山助成内務省警務局長がいたと推定している。この暗殺で議会で特高による拷問を追及する人権の「孤塁」が消された。
1929.4.16 共産党一斉検挙4.16事件
4942人が検挙、339人が起訴され、共産党は壊滅的打撃を受けた。京大社研関係者は大門英太郎、服部周平、泉隆、氏家正人が起訴された。3.15事件をふくめると京大関係者の起訴は32名である。
1929.10.24 暗黒の木曜日 ウォール街株価大暴落 世界大恐慌の始まり
1929.12.12 学連事件控訴審判決
被告の中には1928年3月15日の共産党大検挙事件(逮捕1000余名、起訴471名、内学生関連147名)に連座していた者もいて、刑が重くなった。私が知っている人名のみ列挙する。
共産党事件併合審理分 宮崎菊次(懲役7年、同志社社研、共産党京都支部責任者)石田英一郎(懲役6年半)
共産党未加入分 鈴木安蔵(禁錮2年)上村正夫(同1年半)

1929月12月下旬、解散命令後も抵抗運動を続けていた京大社研、三高社研も学連および東大新人会の「戦闘的解体」にならって解体した。当局の暴圧に抵抗する学生運動は1935年まで学園で燃え続け1931年にピークに達した。最後に学校関係事件数の寒暖計を示す。75 117 223 395(1931年) 308 157 84 40(1935年)

感慨無量そしてこの頃の関係者になると1960年代後半私が研究活動でかすかに接触した人物が出始める。
栗原佑と鈴木安蔵、それに長谷川博は、二高(仙台)で社研活動家として有名だった。1925年春3人そろって京大社研に「入学」した。その年の夏早くも学連大会栗原佑は司会、鈴木安蔵は副議長に抜擢される。
栗原佑の父基は三高教授をしながら教会指導者として京都YMCA洛水寮隣に居住していた。佑は父の母校二高に進み妹俊子も兄を追って仙台高女に進んだ。そこで根本和子と知り合った。

1925年7月頃、栗原俊子の手引きで島崎藤村の姪こま子が洛水寮のまかない婦として栗原家に移り住んだ。1926年初頭の学連弾圧直後島崎こま子は北白川に在った京大社研の本部兼合宿所の寮母になる。

1926年の春休みを利用して、同志社の栗原俊子と仙台女専の根本和子、東京女子大と日本女子大グループが落ち合って、それぞれの以後の社会運動について語り合った。

その後栗原俊子は鈴木安蔵(京大)の妻として出所後の安蔵の在野憲法研究を支えた。こういう事情を知らないまま私は、鈴木安蔵が植木枝盛憲法私案に発する自身の私案、正確には自身が中心になってまとめあげた「憲法草案要綱」を戦後幣原内閣とGHQに提示して象徴天皇制のアイデアを新憲法に反映させたことについて、学生時代の最後に研究したことがあった。

仙台高女で俊子と同学年だった根本和子については、その兄辰(ときと読む、京大文学部卒)が片山潜、在モスクワ共産主義者たちと関わる数奇な運命の稿で今後再三触れることになる。山根和子は無産者新聞を手伝った縁で、音楽評論で一時代を築いた山根銀二(新人会、無産者新聞編集部)と結婚した。わたしは1967年ごろ兄根本辰について手紙でたずねたことがあるが返信がなかった。

島崎こま子のことは、こま子と勝野金政の出身地南木曽で同じころ私が金政に面会、聞き取りしたとき直に聞いて知った。金政は、モスクワで根本辰が京大時代のことを語るなかで、島崎こま子が京都で共産党の地下活動を助けていたことを知った。
こま子は合宿所のオバサンとして「新緑の如き」学生の熱い討論と献身に触れるうちに自然と同じ志をいだくようになった。同志婚した夫の長谷川博は3.15事件で検挙され懲役3年のところ未決を入れて4年服役した。
山本宣治の従弟で1918年に京大に入学し学生運動をやり、始終社会運動を支援した安田徳太郎医師は『思い出す人々』のなかで述べている。3.15事件が起こると山宣とこま子以外みな恐れて逃げ出した、「わたくしは山宣の命令で、島崎[長谷川]こま子さんと二人で救援活動に駆けまわらねばならなかった」と。
三池の時にも感じたが闘争においては女性のほうが我慢強いのではないか。こま子は特高の監視下で赤貧の中救援資金作りと生計のために身を粉にして働き、何度も検挙され、
裸にされて吊り下げられ(エロ・テロ)生涯腕の麻痺に苦しんだ。1937年には行倒れて板橋養育院に収容されたこともあった。こま子は長寿で1979年に86年の波乱の生涯を閉じた。

 

 

 


治安維持法朝鮮に適用/テグ真友連盟事件/破壊団を捏造

2017-08-25 | 体験>知識

治安維持法制定時ヴァージョンは、たった二語のキーワード「国体と私有財産」と全7条からなるほぼ無限解釈可能な万能法であった。日露講和条約締結に不満の日比谷焼き打ち暴動、指導者無き米騒動、朝鮮独立万歳3.1運動は、予期しない、前例もない大民衆暴動であったが、軍事力と刑法によって鎮圧、処罰し治安を回復させることができた。ただ同様の暴動が今後は国際共産主義の浸透によって植民地独立と日本革命の動乱に発展しかねないことを為政者は恐れた。つまり治安維持法は反独立・反革命法であった。
また1928年「天皇制お手盛りの緊急勅令をもって思想弾圧の治安維持法を死刑法に改悪し」(弁護士布施辰治)1941年には刑期満了者を必要な場合無期限に拘留できるよう「予防拘禁」条項を加え、条文を65条に増加させた。
二度の改訂を経て国体、私有財産制を否定する結社だけでなく政府批判の言論から時局批判の芸術まで弾圧された。軍部・政府内の反主流派、宗教団体、学術研究会、俳句・川柳の会も監視の対象となりこじつけで裁かれた。
同法の制定を島原の乱後の江戸幕府の政策転換に例えることができる。苛烈な大名潰しと浪人狩り、キリシタン狩りの反省から幕府は「殺さず」に「転ばす」方針に転換した。
日本政府も、一審制で死刑以外選択余地のない刑法大逆罪だけでは硬軟融通が利かず転向(自首ふくむ)策を採れない。難波大助も朴烈・金子文子も恩赦と転向を拒否した。大逆罪は結果的に二人を韓国のレジスタンス英雄にしてしまった。
治安維持法の適用は朝鮮・台湾・樺太・満州の外地と内地で使い分けられた。朝鮮、満州では極刑適用中心で、日本では極刑の脅しと転向策で対応した。全期間を通して死刑が執行されたのは朝鮮人は数十名〔文末脚註参照〕、日本人は0名である。もちろん外地と内地の獄死者は数千名にのぼると思われる。
治安維持法(1925年5月12日施行)が大正期の運動に対してどのように適用されたか観てみたい。

1925.6.17 警視庁、大阪の秘密結社〈黒社〉の幹部2人を、治安維持法違反で検挙  出典 近代日本総合年表
この電光石火の発動、資料も研究書も見当たらないが、人物だけは推測できる。当時大阪・天下茶屋にアナキスト系活動家が立ち寄る拠点事務所と宿があった。
『アナーキスト群像回想記  大阪・水崎町の宿』(2006)の著者宮本三郎は、大阪西の料亭「矢倉ずし」の二男ボンチ、明大「オーロラ会」で活動して大阪に舞い戻った久保讓のことを敬意と親愛をこめて回想している。
久保讓は1923年のメーデー参加を皮切りに、デモでは黒旗を掲げて先頭に立ち、荒れる集会ではスクラムを組み、演説、司会に秀で、アナキストだけでなく官憲に注目され、「本部特高課の内務省警保局にAクラスのブラックリストに指定」された。
「久保も〈関西自由新聞〉の同人で文筆家で黒社の機関誌「黒」発行人として禁固刑数ヶ月で服役しております。関西ではアナーキズム運動の№1で又自由連合系労組の指導的役割を協力し数々の労働争議を指導活動されました」 治安維持法には言及がない。
ちなみに久保讓は『クロポトキン全集』(1928~30)の共同編集者兼2巻と5巻の翻訳者である。

1926.7.中旬~  大邱真友連盟事件 幻の破壊団
以下の記事はfutei1さんのブログ「治安弾圧法を考える」に依拠した。
3年間にわたる事件処罰の発端は黒色青年連盟銀座事件(1926年1月31日)であった。関東の無政府主義諸団体の自由連合が初めて演説会を開催した際、弁士だけで数十名の予定があったが臨監警官の「弁士中止!」乱発で会場が荒れた。散会後参加者が二流の黒旗を掲げて銀座デモを行った。制止する一警官が負傷し、投石によるか旗竿によるかショーウインドーが多数割られた。検挙された32名の内7名が起訴され有罪となった。帝国議会でも取り上げられ警備の失態が問われた。
折から平沼閥が牛耳る司法省と内務省と朝鮮総督府は「国本を危うくする」思想と活動を治安維持法を適用して一掃する策を練っていた。外地での初適用が大邱真友連盟事件である。内地での初適用は京都学連事件であるが、それは次稿にまわす。
司法官僚と内務官僚は銀座事件と朴烈・金子文子事件で立件できなかった者を治安維持法でからめとる方策を練った。朝鮮でもアナキストの同好会である真友連盟の同人検挙、捜索が進行中だった。両者をまとめて治安維持法違反事件にでっち上げるシナリオができあがった。日本-朝鮮間の連絡役に金子文子の遺骨関係者栗原一男がはめ込まれた。
栗原一男(自我人社)、椋本運雄(黒化社)、朴烈の友人金正根(黒友社は、文子の通夜が行われた布施弁護士宅から1926年8月1日未明トリックで警察の監視を出し抜いて遺骨を持ち出し椋本宅に保管した件に関連して検挙された。その後慶北道警察部の求めにより大邱テグに押送された。テグでは真友連盟員が取調中だった。ほかに朴烈の親友洪鎮祐が震災時予防拘禁で1年間拘留され、帰鮮して、黒旗連盟を組織して検挙された。連盟と言っても名のある同人数は多くて10名であろう。

犯罪事実(裁判資料)
一、日朝共同行動謀議
「栗原一男が朴烈死刑の場合屍体引取りに要する委任状及金子文子の入籍に関する用務と称し朴烈の兄朴廷植に面会すべく大邱に来れる際真友連盟員・・・五名と会見し東京に於ける黒色青年連盟の活動状況殊に同盟員が本年一月二十一日[三十一日の間違い]銀座通りに於て商店を破壊せる直接行動の状況を説明し内地朝鮮を通し現在の強権主義の治下に在りては」新社会実現のためには破壊暗殺等が吾人の使命になると、るる説明し「暴行の教唆煽動を為すと共に極力黒色青年連盟に加盟方を勧誘し加盟方の同意を得たり」

このように朴烈・金子文子大逆事件と銀座事件とテグ真友連盟とがリンクされた。割愛せざるを得ないが、ほかの被告の容疑はもっと簡単な記述である。
ニ、破壊団を組織
「朴烈事件に連座し予審免訴となれる徐東星が朴烈の遺志を継ぎ志操強固にして犠牲的精神に富む同志八名を糾合し組織したる」真友連盟は集合協議し「無政府主義運動実現の第一歩として東京に於ける黒色青年連盟の暴挙に倣い先ず富豪より資金を調達し二箇年以内に大邱府内に於いて」道庁警察署等官署を破壊しかつ知事、警察部長其の他官衙の首脳者の暗殺を敢行すべく「新に破壊団なるものを組織し宣言綱領を起草し」栗原一男に内報した。そのほか上海民衆社高白性から爆弾を入手する計画もあった。
このシナリオの作者は、日朝共同大陰謀計画のプロットを描きながらきっと自己嫌悪におちいったことだろう。東京の黒色青年連盟はそれほどのものか。大邱のアナキストが加入を承諾するほどのものか。たかが銀座の荒れたデモに鼓舞されるほど大邱のアナキストは・・・? 首魁を誰にするか 。朴烈なら申し分ないが大逆犯では壁の内外で連落をとれない。朴烈の遺志を継ぐ金正根にするか?
このフレームアップで実在するのは銀座デモだけである。スターリンもヒットラーも喧伝された「事件」を織り込むことによって大見世物裁判に真実味を持たせようとしたことが想いだされる。
真友連盟事件予審は証言者が慢性モルヒネ中毒であったことと証言に時系列の矛盾があることを理由に破壊団の存在を否定し全員を免訴にした。その後検事抗告で免訴が取り消され有罪が確定した。
金正根5年(獄死)、栗原・椋本3年、洪鎮祐1年(獄死*)の刑が確定した。無政府主義の結社を組織することが治安維持法第一条違反であると判決されたのだった。金と栗原と椋本は黒色青年連盟を組織し、真友連盟に破壊、暴行を教唆扇動し、実際に計画を協議させたとして有罪となった。ほかに真友連盟同人4人が有罪となったが私には全然資料がない。
*私は、獄舎で病気が悪化したため、あるいは常態化しつつあった拷問による負傷が原因で、獄外で死亡した場合も獄死にふくめている。例 新山初代(黒友会)最近では劉暁波(中国人権活動家〉オットー・ワームビア(朝鮮拘留米人学生)

[註]水野直樹「治安維持法による死刑判決 朝鮮における弾圧の実態」
(『治安維持法と現代』 2014年秋季号掲載論文)



 


尼港事件秘録『アムールのささやき』/遅すぎた日本の反省

2017-04-04 | 体験>知識

♪ はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
  鬼ン池の久助どんの 連れんこらるばい
      森繁久弥  島原子守唄  https://www.youtube.com/watch=g6D5Yk8MkCI

鬼池村の久助どんは実在の人物ではない。でも鬼が連れに来る、怖い、と幼い子は感じるにちがいない。
尼港パルチザンの暴威が国中に伝わると、天草地方では「パルチザンが来るゾ」と言えば泣く子もだまった、と表題の著者石塚経二は書いている。以下の記述も『アムールのささやき』に取材した。
島原の子守唄発祥の地・口之津港の対岸に鬼池港[現在]がある。ここ[手野]の出身者池田清太・ユキ夫妻と鬼池出身の池田団造・モカ夫婦が明治28年頃女性を連れて尼港に渡り開業したのが尼港水商売の草分けといわれている。時折り帰郷して女性を募集していったが、その羽振りのよい暮らしぶりはの評判になって、つてを求めて出稼ぎする者が増して行った。ちなみに両夫妻とも殉難者である。 
北のからゆきさんの話である。これまでの記事で、満州、シベリアの都市、駐屯地、奥地の鉄道建設現場、鉱山等、日本人の居る所には、日本人の男性の数を上回る女性がいることに気付かれたことだろう。尼港でも同じだった。大きな「日本遊郭」があった。人口が激減する厳冬期調査による日本人娼妓数は86人(1919年1月)であった。
居留民犠牲者395名の内身元不明は80名。身元判明者の過半は九州出身で、熊本県116,長崎県79,なかでも熊本天草出身者が突出して多い。
上記最初の引率者が見知らぬ女衒(人買い)ではなく島内身近の夫婦だったことが一番の理由だろう。鎖国中長崎港出島がオランダと清国に、幕末には長崎港稲佐が露国に、開港していた事情もまた大きな理由に違いない。浦潮艦隊の休息地・長崎港ではロシア村ができ「稲佐遊郭」が大繁盛した。

男も女も家のために出稼ぎ感覚で移住したと思う。家族を守るために犠牲になることは、国のために出兵することと同様一面美徳(忠孝の美徳)だった。それは男も女も同様だった。「おんなの仕事」と取材をうけた古老たちは話している。多面、誘拐あるいは甘言で騙された娘がいるのもまた紛れもない事実である。森崎和江『からゆきさん』(1976)
石塚経二は村別に犠牲者の名簿を地図を付けて掲載した。鬼池と手野出身者が各26名でダントツに多かった。遺族たちは1937年手野村に尼港事件殉難碑を建てた。側面に恩人島田元太郎頌徳記を掲げた。以後毎年3月12日に慰霊祭が行われている。
遺族が恩人として感謝する島田元太郎とは何者か?
彼には二つの顔がある。まずは、尼港日本人の先駆者でサケ・マス、毛皮、砂金、用具・用品等の商業と廻漕業、製材業、鉄工業で財を成した島田商会の社主であり、加えて居留民会長で「尼港の帝王」とよばれた顔である。島田紙幣(兌換商品券)がロシア紙幣より価値があったことで彼の経済力の大きさがわかる。

  出典 土井全二郎『西伯利亜出兵物語』(2014)

たまたま上京中で難を逃れた島田はその後、遺族代表として10数年間補償救済運動に奔走した。そして3度にわたり救済金の交付を受けた。政府は被害者の財産調査が不可能なため職業別でランク付けして算定額を決めた。最多職業の「妾、娼妓、酌婦」は最低ランクにされた。しかも在留年限による割増額の対象外だった。島田は出身地長崎県国見町に島田家之墓の横に自費で尼港事変殉難者碑を建立した。
島田の第2の顔は「沿海州のキング」「無冠の領事」とよばれる顔である。ロシア語、中国語に通じ居留民はもちろん露人、華人に渡りをつけられるので陸海軍、領事館、実業家に重宝がられた。とくに参謀本部との関係が濃密でさながら沿海州代理店である。以下、高橋治『派兵』(1973)に依拠する。 
島田は田中参謀次長に手紙で献策した。要約するとそれは、ロシア人各階層世論の傾向と仏米英の暗躍に関するホットな情報に基づいて出兵の機が熟していることを強調し、かれら連合国に後れを取るなと警告を発した内容だった。
「小生は当地の人心を鼓舞して自治宣言を志望する迄に機運を導きたれば、小生の任務は之れにて尽きたるものと存候」あとは「当路者の決心のみ」と諜者が奉行に下駄を預けるがごとき対等の物言いが小気味よく響く。そして候補地として浦潮とニコリスクと武市をあげた。

島田はその武市に中島正武参謀本部第二部長の随員の一人、日露協会幹部を名乗って乗り込んだ。仕事は参謀本部の民間スタッフとして武市に謀略組織を立ち上げる手伝いだった。そして、その流れで設置される石光機関に久原鉱業の鳥井肇三を推薦した。島田は武市と尼港の金鉱山にかかわる久原房之介[日立、日産、JXの祖]と親交があった。また義勇軍をつくるよう武市居留民会に働きかけた。
石光は思想信条を異にしたためか一言も島田に言及していない。島田は、武市と尼港の居留民義勇軍結成に関わったプロモーターである。同じ先制奇襲攻撃でありながら武市で起こらなかったことが尼港で起こった。その違いは
一考の価値がある。

さて『アムールのささやき』に話題を移そう。
著者の石塚経二は、1919年生まれ、第2次世界大戦に従軍。1972年刊の本書を「互いの誤解」によって起こった悲劇の日ソ両国の英霊に捧げ二度と過ちを繰り返さないことを願っている。反省は主題ではなく「ささやき」にすぎないが、相対主義であり含蓄を感得できる。
「パルチザンとは愛国者という意味である」
当時敵方にも言い分があるという見方は石光真清等に限られて極めてまれである。日本中が一部知識人を除いて鬼畜ロシアの声一色に染まった。「やがてそれらは対ソビエト恐怖感、対支那反感にも変わっていった」
「三年後の関東大震災の混乱のとき、発生した甘粕大尉事件、消防団や民衆による朝鮮人暴行事件等は、これらの影響があったこととして注意を要する所である」
恐露病は幕末に発生するが日本はそれを自衛圏を拡げることで癒そうとした。日清戦争で朝鮮を獲り、朝鮮を守るために満州の露西亜軍を叩いた。日露戦争に勝利すると鮮満が自衛圏になり、それを護るためにあらたにザバイカル州とアムール州と沿海州及びそこを横断する鉄道沿線に自衛圏を拡大する必要が生じ、そこに出兵してみたが沿海州まで押し戻された。2年近く沿海州を防波堤にするべく粘ったが、結果は負け戦で、かろうじて北樺太(サハリン)を保障占領することで面目を保った。
これをソ連側から観たら満州・朝鮮・サハリン自衛圏の回復、拡大ということになり、戦争目的となる。日本の恐露病は治癒されることがなくロシアが始終仮想敵国でありつづけた。

帝国陸海軍は前例のない長期「出兵」の失敗を反省しなかった。
①緩衝国、傀儡政府の樹立構想、挫折⇒満州建国と汪兆銘傀儡政権の擁立で再挑戦
先に観た沿海州武装解除の対象は、蝟集するパルチザンだけではなく、寝返りつつあるエスエル政権と白軍だった。なぜ自分たちが・・・と驚き、不思議そうに首をかしげる彼らの表情が記録にもあるし想像もできる。
ロシア人の人心が離れていく根本の原因は占領軍のおごりと無神経であった。
既出松尾日記から一、二例を拾い上げる。村を焼き払ったとき食料と貴重品を奪い、貴重品を戦利記念品として故郷に軍事郵便で送った。貴重品の所有者は有産知識階級であろう。村を占領した日本軍は村人全員に土下座の見送りを強いた。かかる屈辱で愛国心に目覚めない有産知識階級はまれであろう。
 
朝日新聞 2017.3.29 

②謀略と外交の二途戦略、参謀本部(現地)暴走と統帥権悪用⇒軍国主義国家へ
アムール州討伐での村落焼尽、沿海州「武装解除」に観られる如く、陸軍大臣と政府はそこまでは考えていなかった。現地が独断決行して政府が既成事実を追認した。師(いくさ)のことは天皇の大権である、統帥権を干犯する気か、と現地は本国首脳部に開き直った。
日本はシヴィリアン-コントロールがまったく利かない国体だった。
③利害関係が深い列強とくに米国による牽制が不可避⇒日本の孤立、日米戦争
欧州が戦場の世界大戦で英仏独露が疲弊する中、漁夫の利で焼け太りした日米は国力を高め両国だけ元気があった。シベリアでも互いに相手の動向に敏感で自国が不利にならないように自国が有利になるように牽制しあった。互いに相手国を仮想敵国の筆頭にあげるようになる。ただ日本は米国の力を甘く見て対米外交を戦略化できなかった。
いち早く日米戦争を予見して戦略化したレーニン政府は戦闘を避けて時間を稼ぎシベリア戦争でまともに戦うことなく日本に勝利した。
蒋介石政府もまた大陸の奥深く退避して持久戦に持ち込み、米国を日中戦争の切り札にする戦略で日本に勝った。
後知恵だが、シベリア戦争は日中戦争の原型マトリックスである。反省のない日本が過ちを繰り返すことになる。