自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

早稲田の森の怪人/早大・小樽高商軍教事件/ 反動と抵抗

2017-09-29 | 体験>知識

   菊川忠雄 『学生社会運動史』(1947年)

以下の文は主として上掲書に依拠する。
連が発足してちょうど半年後の1923年5月10日早大軍事研究団発団式の会場である。午後3時前、正門前に突如「早稲田を軍閥に売るな!軍閥を倒せ!会場を占領せよ!反軍事研究団同盟」と大書した看板が立てられ、発団式を無視していた学生たちが足を止めた。
軍事教育に対する学生の大方の意識を理解するために、軍事研究団の設立趣意書の低姿勢ぶりをみてみよう。「我々は帝国主義に反対する。同時に軍国主義をも排するものである。本団を創設するの趣旨はただ一意国防の二字を憂ふるによる」
だが会場の雰囲気は一転して挑発的だった。陸海軍3人の将軍が乗馬で、数十名の将校が陸軍の星章をつけた三菱自動車で正門に乗り込んで、勲章で飾った正装とサーベルと軍靴の音で学生の反感を刺激した。まわりで乗馬用のズボンとブーツ姿の乗馬クラブ員がサポートしていた。
大講堂の壇上に立った団長青柳教授の前に進み出て団員代表が宣誓書を読む。一斉にフラッシュがたかれ活動写真カメラがまわる。「模範国民の造成は…」間髪を入れずやじが飛ぶ「人殺しの仲間入りするのが何が模範だ!」・・・
団長の青柳教授が訓辞を始める。「私は…」と口を切る。すかさず「軍国主義であります」とやじる。「私は…」「軍国主義者であります」・・・
白川義則陸軍次官が祝辞を述べようとすると「貴様の勲章には我々の同胞の血がしたたっているぞ!」 シベリア出兵を皮肉って「ああ一将功なりて万骨枯る」と高吟する者あり、ついには「都の西北」の校歌大合唱。
中島正武近衛師団長、石光真臣第一師団長も立ち往生。中島中将はかつて田中義一の命を受けて武市に石光真清を説得に行った元浦潮派遣軍高級情報参謀、真臣中将は言わずと知れた真清の弟、数カ月後大震災時の戒厳司令部南部警備司令官となる元憲兵司令官である。憲兵司令官時の首相は原敬、陸相は長州閥元老山県の後継者田中義一であった。真臣中将は軍事教練の発案者である、という記事もある
第一幕は建設者同盟の学生団体・文化同盟(顧問=大山郁夫教授、佐野学講師)の完勝で終わった。学生たちは翌日雄弁会主催で学生大会を開催することを申し合わせた。
雨の日を挟んで12日正午約5000の学生が中央校庭を埋めた。「朝来険悪の気は漂って居る。《腕か思想》と題して東京日日[大阪毎日の東京版]には相撲部が研究団応援のために決起したことを報じて居る」 果たして11時前、相撲部の呼びかけビラが各所に貼り出された。騒擾をおそれた雄弁会委員が交渉に行ったが殴られてしまった。
拍手で迎えられて浅沼稲次郎が登壇、宣誓した。「大学は文化の殿堂、真理を追究する所、決して軍閥官僚に利用されるべきものではない」 ついで決議を読み上げた。「我等は軍国主義に反対し、早稲田大学を軍国宣伝の具たらしめることに反対す」
しかし、ここまで。「此時暴力団襲来の機は刻々迫り」雄弁会幹事が閉会を宣言し自由演説会に切り替える。故大隈公銅像裏から現れた相撲部員たちが詰め寄って演説中止を求める。一柔道部員が「糞尿だらけの六尺ふんどしを投げつけ」壇上に駆けあがり演者を突き落とす。校外から縦横倶楽部が「主義者をやっつけろ」と叫びながら暴れ込む。「暴漢一派は演壇を占拠し、演説をはじめ、校歌を合唱する」
文化同盟は第一幕では大衆動員と野次により完勝したが第二幕では暴力により大会を蹂躙されてしまった。この日は「流血の金曜日」として学生社会運動史に刻まれることとなった。
東大新人会活動家だった菊川忠雄は、この事件の首謀者は縦横倶楽部の森伝である、かれは警視庁正力官房主事のスパイであると記述しているが、私見では森伝は正力とは違ったタイプの反共首魁であって誰かの手下ではない。今日まで歴史愛好の文筆家とメディアを、GHQさえも、あざむき通した情報機関顔負けのシルエットに隠れた凄腕国粋主義フィクサーである。
国会図書館にある「森伝関係文書目録」をみるかぎり、これはネットで検索して出て来る唯一の森伝を語る史料であるが、森伝は早稲田入学、日本入国、組閣入口と天皇奏上入口で口利きをする国家改造運動の影の策謀家である。九大生体解剖事件戦犯裁判ではGHQへの口利きを頼まれている。
わたしは国家改造運動関連に絞って次の文書に注目した。
上杉愼吉書簡 森伝宛 1923年12月8日 「甘粕君の判決何事ぞや、陸軍が社会主義に圧迫せられたるなり、明朝面会したし」
白川義則書簡 森伝宛 1923年12月15日 「上杉博士斡旋の急進愛国党に縦横倶楽部が加わるとの報道は事実か、偽物や間諜が混ざる恐れあり、石光氏には自重してくれと申し遣わした」
さらに甘粕正彦書簡 森伝宛 1923年12月13日 「法廷における小生の言動に不満もあろうと存ずるが軍人の立場をご了察下され、君国の今後の善導の程願い奉る」
振り返ってみると早大軍教事件は戦前の国家改造運動の発端だった。発端を見たら結末も見たくなる。私は今回森伝が両端を突き抜けたフィクサーだったこを知った。

【蛇足】 森伝関係文書目録には1936年の2.26事件に関する史料ファイルがある。森伝宛の皇道派関係者の書簡もある。森伝発が無いのが惜しまれる。目録だけから読みとれる森伝の事件関与の形跡をみてみよう。
山本英輔海軍大将書簡 森伝宛 1936年1月14日 「斉藤内府[内大臣]へ届けた書簡の内容」
山本英輔書簡 森伝宛 11日 「満井中佐にはじめてお目にかかり一寸見せたところ猶予を求められた」
平野助九郎少将書簡 森伝宛 2月2日 「川島閣下[陸相]に陸軍の大掃除進言されたい」
清浦奎吾前首相 森伝宛 1936年2月11日 「〇〇に面会の件は先方静養中のため待っている」  〇〇は元老か?
森伝は清浦前陸相のもとに出入りを許された情報通だった。それで森伝は、もっともラディカルな反乱指導者磯部浅一[元一等主計]によって、決起時に清浦伯参内を通じて天皇に真崎首相下命を働きかける役に擬せられた。森伝が終生家族ぐるみの付き合いをした財閥政治家・久原房之介は皇道派の資金源だった。磯部が決起1か月前に皇道派の御大・真崎甚三郎大将を訪問して真意を測るために軍資金を所望したところ真崎は「森伝に話してつくってやろう」と応えている。磯部は頼りになる同志森伝あてに遺書と辞世の句を遺した。

警視庁と文部省と縦横倶楽部は情況を利用して社会主義的四教授の罷免、「文化同盟その他の社会主義的団体の解散」を要求し、「共産党の陰謀」を宣伝した。大学当局の派閥抗争もからんで軍事研究団が解散し、続いて文化同盟も「母校平和のため」自主解散した。
好機なり、と警視庁は6月5日第一次共産党検挙を行ない、全国で80名を捕らえ、学内の佐野、猪俣らの研究室を捜索した。佐野はソ連に亡命し猪俣は検挙された。佐野、猪俣は10月に、早稲田反戦の雄大山郁夫教授はその後1927年に解職された。1929年にはさしもの雄弁会も解散に追い込まれた。
諸新聞を通した「共産党の震源地早大」キャンペーンで、早稲田の森の学生運動に秋風が吹いただけでなく学連加盟校が40余から10余に激減したという。赤化キャンペーンで激減するところに学連の思想がまだ多様で一極集中していないさまが見てとれる。

早大事件で失速した学連は軍国主義の巻き返しに対して危機感を覚え新規まき直しを開始した。東大新人会が学連の先頭に立った。学生大会で大学監督下にある東大学友会の内部に社会科学研究会を設けさせた。「学生大会から関東大震災前後に亘る数ヶ月間に、新人会の勢力は、学内に於て抜くべからざるものとなってゐた」
関東大震災が学連にとって転換点になった。東大新人会は「先ず震災中の救護的な事業を打切ると同時に、それに関与した学生と、それによって巻きおこされた学生の社会的関心を、社会科学の研究、学生自治の確立、学生の社会運動の開拓に向けて行った」 寄宿舎管理、大学新聞経営、食堂経営に委員を送って勢力を扶植した。何よりも大きいのは、学友会に学内研究団体として社研のために予算を計上させたことである。
この新人会を震源として既述したとおり1924年に全国で学生普選運動と社研運動の活況が起きる。新人会の「民衆の中へ」の浸透がなかったなら、次に取り上げる小樽高商軍教事件は十中八九事件化しなかっただろう。

1924.11.10 早大社研、大学新聞主催で軍事教育批判講演会開催
1924.11.12 学連、都下学生雄弁、新聞連盟提唱で全国学生軍事教育反対同盟結成
1925.4.13 陸軍現役将校[中学校以上・師範学校]配属令を勅令で公布
世界大戦終結後軍縮は列強の大きなテーマ、国内世論の大勢となり軍部も不本意ながら軍縮に応じざるを得なかった。職業軍人の失職救済と学生の軍事訓練とを抱き合わせにした一石二鳥、いや1923年11月10日に発布された国民精神作興に関する詔書を受けての施策だから一石三鳥、の軍事教育の第一歩が踏み出された。以前から3度目の軍縮が取り沙汰されていた。
1925.5.1 陸軍軍縮計画(宇垣軍縮)発表

以下、荻野富士男論文 小樽商大史紀要第2号(2008年3月)に主として依拠して「小樽高商軍教事件」を考察する。
1925年10月15日朝、教練に参加した学生に「想定」プリントが配られた。
一、大地震により小樽市内の家屋は倒壊し、折からの西風で火災が勢いを増し、市民は身を寄せる所をしらず。
二、「無政府主義者団は不達鮮人を煽動し此機に於て札幌及小樽を全滅せしめんと小樽公園に於て画策しつ ゝあるを知りたる小樽在郷軍人団は忽ち奮起して之と格闘の後東方に撃退せしも敵は潮見台高地の天峻に拠り頑強に抵抗し肉飛び骨砕け鮮血満山の紅葉と化せしも獅子奮迅一歩も退かず為に在郷軍人団の追撃は一時頓挫するの止む無きに至れり」
三、そこで、小樽高商生徒隊の出動となり「其任務は在郷軍人団と協力し敵を殲滅するにあり」
教練に参加した学生たちは社研会員をふくめて誰も違和感を覚えることなくハイキング気分で軍事地図の見方と伝令の演習をして帰宅した。
社研会員が「想定」を気にとめなかったのは、南樺太、千島列島を防衛北限とする第7師団から配属された鈴木少佐が訓練に厳しくない上にその日実行した訓練内容に交戦演習が入っていなかったからである。それにしても普通の職業軍人がかように不穏当な想定を平気で作成して本人だけでなく教師と社研会員をふくむ学生がそれに何の疑問もいだかないところに空恐ろしさを感じる。
関係ない私事だが先の戦争で叔父が第7師団に従軍して戦死した。こんなところでかすかな因縁があろうとは夢想だにしなかった。
野外演習自体は15日午後2時すぎに終了し、学生たちは帰宅した。教練を欠席していた社研の設立指導者斉藤磯吉の寄宿先が会員のたまり場になっていて、その日も学生が集まった。訪ねてきた政治研究会小樽支部代表兼小樽総同盟組合委員長の境一雄が「想定」プリントを目にしたことで事件が始まった。
翌朝境一雄と小樽朝鮮人親睦会金龍植他数名が代表して学校側に抗議した。詳細は省くが学校側は「想定」の語句が不穏当不公正であったことは認めたが求められた声明書は出さなかった。そして文部省の指示にしたがって社研に対して抑圧に乗り出した。
他方社研は学校側に決議書を手渡し全国の学生に向けて檄を飛ばした。
小樽高商事件は軍国主義に敏感な意識の高い指導者が東京から来ていたから燃え上がった闘争であると断定してよさそうだ。社研、政治研究会と総労働組合を組織したのは大山郁夫の教え子境一雄である。大山郁夫自身も講演のために小樽高商に来て社研結成を応援している。そのほか労働組合の指導権を競って山本縣蔵と松岡駒吉が来樽している。
北海道の入り口小樽には労働運動が盛んになる素地があった。石造倉庫群で有名な小樽港は樺太の鉱物、木材資源の集散地であり当時約3千人の港湾労働者の内三分の一以上が朝鮮人であった。
こういう労働環境であればこそプロレタリア作家小林多喜二も巣立ったのだろう。かれは1年半前に同校を卒業している。
小樽事件は同市から全国に燃え広がったが、肝腎の同校では「校内の問題は校内で解決すべきだ」と主張する穏健学生が優勢で、停学14名(社研のほぼ全員)、放校1名(斉藤)の処分、高松教授解職、社研禁止もあってまもなく鎮静化していった。
小樽高商社研の檄を受けて学連中央委員会は「全国の同志諸君へ」各無産団体と提携して反対運動を起こすよう、指示を出した。主要な都市で学生・市民を対象にした演説会が開催され近来まれに見る盛況を博した。もっとも至る所で弁士中止の妨害を受けたが。
朝鮮人を仮想敵にされた日本朝鮮労働総同盟が 「日本無産階級に与ふ」というビラで「日本の無産階級の諸君 ! 諸君は、今日日本軍事教育上のあの想定が如何に一昨年の震災当時のあの事実と関連あるものであるかを容易に理解するであらう」「諸君は此の罪悪に対して無産階級的態度を示せ」と訴えた。
後日文部省学生部は「この事件は十二月の京大事件に直接に関連をもつ点に於て注意すべきである。即ちかの同志社大学に於ける、狼火ハ上ル云々の不穏ビラはこの小樽高商事件に原因するのである」と総括した。
1925年11月15日京都市内や同志社大学構内に貼付された「狼煙ハアガル、 兄弟ヨ、コノ戦二参加セヨ」と題した軍教反対ビラは朝鮮自由労働団体等4団体による日本人にたいする檄文であった。









治安維持法適用/京都学連事件/共謀罪の次は?

2017-09-13 | 体験>知識


号外写真の出典  刊行会編佐々木敏二執筆『京都帝国大学学生運動史』(1984年 昭和堂)

1922年11月7日、ロシア革命5周年記念日である。玉城素『日本学生史』(1961年)によれば、東大の新人会、早大の文化会、早大その他の建設者同盟、明大の7日会、一高の社会思想研究会、三高の社会問題研究会、五高FR会、七高鶴鳴会など全国26校の学生思想団体が連合して、約50名の代表が当夜、東大学生第二控所に集まった。隠密裏の夜間発会式だった。
菜っ葉服にオールバックのいでたちが目立った。労働運動、農民運動方面で活動したいという願望が身なりに表れていた。学生連合会(略称学連)誕生である。名称から社会主義を隠し学生相互間の親睦を目的として掲げていたが、1922年7月に秘密裏に結成された日本共産党とのつながりが明白である。ところが日本共産党は1923年の第一次検挙でほぼ壊滅状態におちいり1924年3月にみずから解党してしまった。

1924年、普通選挙実現に備えて、労働総同盟、農民組合、、学連は無産政党準備に向かって走り出した。無産政党準備団体「政治研究会」が創立され、並行する研究機関として産業労働調査所が設立された。それらの会員の3分の1を学連会員が占めていたという。各地に労働学校、農民学校が開校されたのも同一趣旨からである。学連に講師派遣要請が相次ぐ。高校25校中23校に社会科学研究会(社研)ができた。

1924年9月14日、学連は東大学生控所で第一回全国大会を開き、名称を学生社会科学連合会(略称学連、個別校では社研)に改めた。学連が研究と普及を目的とする社会科学はもっぱらマルクス・レーニン主義を意味した。このとき学連は49校、1500名の会員を擁していた。この年京大社研が最大会員数を誇りその数は150名に達した。マルクス主義に転じた河上肇に惹かれて全国から関心のある学生が集まったせいである。西田幾多郎、三木清の哲学にあこがれて来た学生もいた。
震災後ようやく高まった学生の「革新」への意欲が社会主義的傾向から共産主義に転じようとしていた。革命に反革命が対峙する如く共産主義の勃興に国粋主義の「反動」が攻勢をかけてきた。東大に七生社、京大に猶興学会が誕生した。この両皇道右翼団体から1932年一人一殺の血盟団員(東大4人、京大3人、國學院生1人)[国学院生の出身団体不詳]が出た。
早大の軍事研究団反対事件に端を発する軍事教育反対が学連の政治課題となった。11月2日学連は東大で全国学生軍事教育反対同盟を結成した。関係校では反対運動が学生大衆の支持を得て盛り上がったが、これについては次稿で扱う。
1925.5.22 治安維持法施行
1925年7月中旬、学連は第2回全国大会を京大学生集会所で開催した。司会栗原佑(京大1年)議長村尾薩男(新人会)副議長鈴木安蔵(京大1年)、所属59校1600余名の代表80名参加と発表された。実際の代表参加数は14校51名だった。小樽高商など高校5校の代表は入場を禁止された。すでに前年11月、全国高校長会議が高校社研解散を決めていた。前年23校にあった高校社研の火はほとんどが掻き消されていた。
京大学生監の命令に従って、大会は、高校社研を禁止した文相と高校長への抗議、軍事教育反対を議案から撤回した。久保田特高課長臨監の手前、カモフラージュした「大会テーゼ」を採択し、すでに腹案があった「全国的教程」は作成を起草委員に一任、とする偽装を施し、組織について連合方式から中央集権方式へ規約を改正した。
翌日の秘密会で学連運動を無産階級解放運動の一翼として位置づけマルクス・レーニン主義に立脚して社研会員と労農無産者を教化することを明確にした。社研会員のための「全国的教程」は明治学院社研が、無産者教育の教程は京大社研が作成し、東西の学連で討議された。これらの協議、討議が後日裁判で共謀の証拠とされた。

この夏8月モスクワ帰りの佐野学が党「再建ビューロー」を結成するが、学連大会時までに相互接触があったか私には分からない。大会後には学連が共産主義者の揺籃、党員の一大供給源となった。

大会テーゼの趣旨を明瞭にするものが「学生運動と教育」(討議の一資料)であった。私はこれを大会テーゼの虎の巻とよぶ。虎の巻による簡略化、純粋化をみてみよう。
個人的に興味深いのは、この大会を境にして「中心分子」がマルクスの原論を軽視してレーニンの戦略戦術論を重視していること、しかもスターリンによって単純化された解説書『レーニン主義の理論と実際』で手っ取り早く大衆をオルグし闘士を養成しようとしていることである。さらに学生を「全体として見る時、ブルジョア的反動的集団」と規定し、「我々の運動はかかる集団の利害のために戦うものでもなく、また集団全体を教育せんとするものでもない。我々の運動は、始終無産階級の利害のために闘いうる者を獲得し教育することに焦点をおく」という、「福本イズム」の影響を受けた偏狭路線には驚きを禁じ得ない。大衆にマルクス主義に基づく意識を外部から注入することを最優先する知識人前衛主義は「福本イズム」由来だと思うが、教化の手本、手法は浅薄の一語に尽きる。
925.10.15 小樽高商軍事教練反対事件
1925年11月15日同志社の掲示板に貼られてあった「狼煙ハアガル兄弟ヨ此戦ニ参加セヨ」と題する、差押処分済の軍事教育反対ビラが京都府の特高課長と地裁検事正を刺激した。1923年の共産党検挙で出世の糸口をつかんだ久保田俊特高課長は学連をふるいに掛ければ「第二次共産党事件」の種を見つけ出せると踏んだ。
12月1日京大、同志社の寮、社研の合宿所、会員の下宿、自宅が手入れを受け、京大18名、同大11名、大阪外大(現阪大)1名、大阪高校2名、労働組合京都地方評議会書記*1名が出版法違反容疑で検挙され、私用、研究用の書籍、書類が押収されたが、証拠不十分で間もなく全員が釈放された。荷車3台分の押収物件は、スターリンの『レーニン主義の基礎』の中の一章「プロレタリアートの独裁」の翻訳プリント以外はめぼしいものがなかった。
*上村正夫 23歳 三高社会問題研究会(社研に改称)創立者 三高2年中退 在学中英訳資本論、マルク主義文献を耽読 職業的運動家 京都無産者教育協会設立の立役者兼書記 釈放後無産者新聞編集部勤務 それ以上の事は不明
「全員が釈放されるなかで、岡本忠文(医学部3年)が病臥中を検束され、留置所内で喀血卒倒して再起不能となったこと、芝田平治(経済学部2年)が拷問にあい全治3ケ月の傷をうけたことが判り、学生は殺気だった」 
出典 京大白川会企画・佐々木敏ニ執筆『京都帝国大学学生運動史』(1984年)京都学連運動の詳細な研究書でこれに勝る類書はない。1933年の滝川教授事件までの京都学生運動を詳述し、年表、名簿をふくむ資料と実名入りの事件、活動、エピソードを満載している。たとえば戦後できた「白川会」OBは、政党では自民党員が一番多く、共産党員は一番少ない、とか、京大社研は「天皇制とそれを利用する軍人・官僚の権威主義への抵抗が、共産主義的外見をとったものではないか」とかの回想を転載している。
大学当局は大学の自治を蹂躙したとして府知事と地裁検事正に抗議した。法経両学部は研究の自由擁護上譲れない最低限条件を声明として明らかにした。
1925年12月16日司法省は幸徳事件を足掛かりに思想弾圧で出世してきた小山松吉検事総長指揮下に全国から検事長、検事正と特高課長を招集し秘密会議で学連一網打尽の陣立てを決めた。治安維持法があればこそ可能になった歴史的弾圧事件である。
1926 年1月15 日早朝から、報道禁止の下、京都における学連メンバーの検挙が一斉に開始され、4月下旬までに全国規模でその数は 38 名にのぼった。また社研の指導教授、支援者である河上肇京大教授、山本宣治同大講師等の私宅、京都地方労働組合評議会の事務所兼京都無産者教育協会事務所(上村正夫が両書記兼務)その他十数カ所を捜索した。報道規制が解かれた9月15日までに全員保釈され起訴された。
1927.5.30 学連事件一審判決
38名全員治安維持法第二条協議罪違反 学連、社研、評議会、政治研究会、労働学校などの結社ではなく学連、社研の無産者教育方針、方法を協議した幹部を処罰 禁錮1年以下8ケ月の刑 内執行猶予=宮崎菊次他15名 以下私が氏名を知っている者だけをピックアップして記載する。実刑=是枝恭二(1年)淡徳三郎・石田英一郎・岩田義道・野呂栄太郎・栗原佑・鈴木安蔵(10ケ月)上村正夫(8ケ月)
1928.2.20 第1回普通(男性のみ)選挙水谷長三郎、山本宣治当選 労農党(容共の合法政党)当選者は全国で京都のこの2名のみ
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8.3.15 共産党大検挙3.15事件 
共産党再建大会は26年師走 結社つぶしを狙った治安維持法第一条適用 検挙数およそ1600名、起訴488名 京大関係起訴多数 内在学社研10名 水谷弁護士、弁護要請を拒絶 「共産党は悪い奴」
1928.4.10 労農党・労働組合評議会・無産青年同盟解散命令 ついで東大新人会・京大社研解散命令 河上肇教授依願免本官発令1928.4.20 山東出兵(第6師団) 国民政府軍と衝突(済南事件) 第3師団増援派遣
1928.6.4 関東軍による張作霖爆殺謀略事件
国家機密ゆえ東京裁判まで「満州某重大事件」と称して真相が隠されたた。
1928.6.29 治安維持法改訂公布即日施行 議会審議未了⇒緊急勅令で死刑、無期刑を追加 「結社の目的遂行の為にする行為」を追加(カンパ、会場提供等でも加入同様の処罰)
田中義一首相、思想国難を理由に治安維持法強化を強行 真相は戦争立法だった!
90年後の今日、共謀罪の次は何か? 情報国難理由に公安官憲強化と朝鮮危機理由に憲法9条を自衛戦争とそのための自衛軍を認める条項に改訂か?
1929.2.8 山本宣治代議士、衆議院予算委員会で、3・15弾圧の「不法検束、不法拘留、拷問」について質問 女性被告九津見房子の前で15歳の娘を凌辱(エロ・テロ) 石田英一郎拷問(三度気絶) 石田家と横山家は姻戚関係のほのめかし 警視庁特高課・横山警務局長面目失って激怒
1929.3.5 山本宣治暗殺
犯人は門司の沖仲仕組を本部とする七生義団員 6年で恩赦出所 戦後ニコヨン暮らし 特高出身で戦後代議士になった「えらいひと」に頼まれ裏切られた、ともらす。
在野研究者本庄豊は背後に元警視庁特高課長大久保留次郎、横山助成内務省警務局長がいたと推定している。この暗殺で議会で特高による拷問を追及する人権の「孤塁」が消された。
1929.4.16 共産党一斉検挙4.16事件
4942人が検挙、339人が起訴され、共産党は壊滅的打撃を受けた。京大社研関係者は大門英太郎、服部周平、泉隆、氏家正人が起訴された。3.15事件をふくめると京大関係者の起訴は32名である。
1929.10.24 暗黒の木曜日 ウォール街株価大暴落 世界大恐慌の始まり
1929.12.12 学連事件控訴審判決
被告の中には1928年3月15日の共産党大検挙事件(逮捕1000余名、起訴471名、内学生関連147名)に連座していた者もいて、刑が重くなった。私が知っている人名のみ列挙する。
共産党事件併合審理分 宮崎菊次(懲役7年、同志社社研、共産党京都支部責任者)石田英一郎(懲役6年半)
共産党未加入分 鈴木安蔵(禁錮2年)上村正夫(同1年半)

1929月12月下旬、解散命令後も抵抗運動を続けていた京大社研、三高社研も学連および東大新人会の「戦闘的解体」にならって解体した。当局の暴圧に抵抗する学生運動は1935年まで学園で燃え続け1931年にピークに達した。最後に学校関係事件数の寒暖計を示す。75 117 223 395(1931年) 308 157 84 40(1935年)

感慨無量そしてこの頃の関係者になると1960年代後半私が研究活動でかすかに接触した人物が出始める。
栗原佑と鈴木安蔵、それに長谷川博は、二高(仙台)で社研活動家として有名だった。1925年春3人そろって京大社研に「入学」した。その年の夏早くも学連大会栗原佑は司会、鈴木安蔵は副議長に抜擢される。
栗原佑の父基は三高教授をしながら教会指導者として京都YMCA洛水寮隣に居住していた。佑は父の母校二高に進み妹俊子も兄を追って仙台高女に進んだ。そこで根本和子と知り合った。

1925年7月頃、栗原俊子の手引きで島崎藤村の姪こま子が洛水寮のまかない婦として栗原家に移り住んだ。1926年初頭の学連弾圧直後島崎こま子は北白川に在った京大社研の本部兼合宿所の寮母になる。

1926年の春休みを利用して、同志社の栗原俊子と仙台女専の根本和子、東京女子大と日本女子大グループが落ち合って、それぞれの以後の社会運動について語り合った。

その後栗原俊子は鈴木安蔵(京大)の妻として出所後の安蔵の在野憲法研究を支えた。こういう事情を知らないまま私は、鈴木安蔵が植木枝盛憲法私案に発する自身の私案、正確には自身が中心になってまとめあげた「憲法草案要綱」を戦後幣原内閣とGHQに提示して象徴天皇制のアイデアを新憲法に反映させたことについて、学生時代の最後に研究したことがあった。

仙台高女で俊子と同学年だった根本和子については、その兄辰(ときと読む、京大文学部卒)が片山潜、在モスクワ共産主義者たちと関わる数奇な運命の稿で今後再三触れることになる。山根和子は無産者新聞を手伝った縁で、音楽評論で一時代を築いた山根銀二(新人会、無産者新聞編集部)と結婚した。わたしは1967年ごろ兄根本辰について手紙でたずねたことがあるが返信がなかった。

島崎こま子のことは、こま子と勝野金政の出身地南木曽で同じころ私が金政に面会、聞き取りしたとき直に聞いて知った。金政は、モスクワで根本辰が京大時代のことを語るなかで、島崎こま子が京都で共産党の地下活動を助けていたことを知った。
こま子は合宿所のオバサンとして「新緑の如き」学生の熱い討論と献身に触れるうちに自然と同じ志をいだくようになった。同志婚した夫の長谷川博は3.15事件で検挙され懲役3年のところ未決を入れて4年服役した。
山本宣治の従弟で1918年に京大に入学し学生運動をやり、始終社会運動を支援した安田徳太郎医師は『思い出す人々』のなかで述べている。3.15事件が起こると山宣とこま子以外みな恐れて逃げ出した、「わたくしは山宣の命令で、島崎[長谷川]こま子さんと二人で救援活動に駆けまわらねばならなかった」と。
三池の時にも感じたが闘争においては女性のほうが我慢強いのではないか。こま子は特高の監視下で赤貧の中救援資金作りと生計のために身を粉にして働き、何度も検挙され、
裸にされて吊り下げられ(エロ・テロ)生涯腕の麻痺に苦しんだ。1937年には行倒れて板橋養育院に収容されたこともあった。こま子は長寿で1979年に86年の波乱の生涯を閉じた。