自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

二重国籍問題/英国大列車強盗1963年

2016-09-24 | 体験>知識

大統領、首相が二重国籍では国民が容認しないのはわかる。
民新党代表選にからんで蓮舫二重国籍問題が浮上したのも意外ではない。
コトが起きる前に早々に浮上するところは国民性だろうか、特殊日本的である。
以下垣間見た限りではどの国の法務機関も国民の二重国籍については関係国の内政に関わるためほとんどOFF状態で規制法も情報管理も極めてaboutである。

今回私の国籍問題を振り返る気になった。
ブラジルは出生地主義をとっているからブラジル生まれは生まれながらにしてブラジル国籍に属する。
だからロンドン郊外大列車強盗団の一人がブラジルに逃げ込んで子を生したことによりブラジル国籍の子の親ということでイギリスに引き渡されることなく公然と市民生活をおくることができ世界的なニュースになった。
ペルーのフジモリ大統領も二重国籍だった。彼は大統領として人権侵害行為の責任を問われて日本に亡命した。このとき二重国籍であることが両国内で判明し政治問題となった。日本政府はかれの日本国籍を根拠にペルー政府の引き渡し要求を拒否した。

私は出国するとき当然パスポートを取得した。両手の指紋をとられた記憶がある。
出生直後に親が在サンパウロ市日本総領事館に私の出生届を出したためその時から二重国籍になった。
親からは出国して10年経つとブラジル国籍はなくなると聞いた。どうしてかは聞いていない。総領事館でそう言われたにちがいない。
日本の国籍法では22歳になる前に日本の国籍の選択の宣言をし、外国の国籍の離脱に努めなければならないという努力義務規定がある(第16条第1項)が私は何もしていない。ブラジルはこの件に関与する義務も権利もない。日本の役場も法務省も何もしていない。そして今日まで私の二重国籍が一度たりとも浮上したことはない。
要するに国も私も必要に迫られない限り放任、怠慢、黙認、責任逃れのいづれかをしているということだ。

13歳児の私には国籍などどうでもよかったが落ち着き先の久留米の役場には普通に戸籍があり小学校に編入された。戸籍には出生地欄はあるが国籍欄はなかった。
数十年後いとこ夫婦が訪日したとき弁護士であるその夫に私のブラジル国籍がどうなっているか現地で調べてくれるように頼んだ。まもなく返事があった。役所で調べたが記録がいっさいみつからないということだった。
あるはずのものが無い。おかしい? ブラジル憲法でも私は生まれながらにしてブラジル人であるはずだ。記録はなくてもブラジルには国籍離脱法がないので私は二重国籍である。
どうでもよい、利害関係のないことなので私はそれ以上追究することをしなかった。[後記] 後日ブラジルでの出生届証明書がみつかった。
もともとわたしは国籍、人種、民族、言語、宗教、年齢、出身にこだわりが薄い。ブラジル育ちのせいだと思う。自分のことを日本人のコスモポリタンだと思っている。
愛国、愛郷を出身、宗教、言語、人種、国籍で決まると考える人には同意できない。
わたしは日本もブラジルも共に好きだ。ロンドリーナ、久留米、京都、高槻の四都市に郷愁をおぼえる。どこでも住めば都である。


キューバ危機/世界核戦争瀬戸際の恐怖

2016-09-17 | 体験>知識

1962年10月は世界核戦争の瀬戸際まで行ったキューバ危機で世界史に記録されることになる。私がまだ水俣に居た23日にケネディ大統領がTVで海上封鎖声明を出した。
ソ連がキューバの基地に米本土を攻撃できるミサイルを搬入したことからキューバ行きのソ連貨物船団を海上で臨検するというものだった。潜水艦に護衛されたソ連の船隊が阻止線に刻々近づく。アメリカの軍艦、空軍機が待機している。
アメリカがキューバの基地を空爆すれば反撃は必至でただちに米ソ核戦争となりかねない。
アメリカ国民は核シェルターに避難を考えただろうが、わたしはいつどこでケネディの声明を知ったか、どう感じたか、まったく憶えていない。ピケ小屋にTVがなかったせいかもしれない。「平和ボケ」もあった。目前に迫った大管法闘争のヤマ場を前にした活動に熱中していて、せいぜいニュースで緊迫した状況を追う程度だった。今にして思えば「米ソはキューバから手をひけ」のデモ一つ考え付かなかった発想力の乏しさを嘆くばかりだ。
ずっと後の情報公開により危機の重大さ、深刻さがさらに認識されるようになった。アメリカは準戦時態勢に入った。イギリス、トルコ、日本の基地でも核ミサイルが発射指令を待っていた。ソ連はすでにキューバに42基の核ミサイルと150発の核弾頭を配備済みで兵員4万人を送り込んでいた。
10月27日は後に「暗黒の土曜日」と呼ばれる。キューバ上空でアメリカのスパイ機U-2 が撃墜され、米統合参謀本部は即時空爆を主張した。核魚雷搭載のソ連潜水艦が封鎖海域で米軍機から警告の爆雷を投下された。反撃権限を与えられていた潜水艦政治将校が首をタテに振らず事なきを得た。
ケネディとフルシチョフが辛抱強い腹の探り合いの末に危機を回避した。米ソ共存、東西共存という将来の副産物を伴って。
ソ連艦船はUターンしソ連は核ミサイルを基地から撤去した。アメリカは以後キューバに侵攻をしないと約束した。この二つの事実はただちに全世界が知ることとなった。
同時に、密約が首脳間で結ばれた。口約束である。
国の存亡にかかわる記録されない口約束が署名された紙切れよりもモノをいう。
密約は、アメリカはソ連が求めているトルコからの核兵器撤去を、キューバからミサイルが撤去された後に、行う、という内容である。

アメリカもソ連もその約束をまもり大きな曲折はあったが平和共存を遂げた。私が心配するのは、ソ連崩壊後、西側が遠望深慮を欠いて戦争の種をまいたことである。
ソ連はロシアになりワルシャワ条約機構内の周辺属国の独立を承認した。流れが激しく物理的に止めようがなかった云々は脇に置いておこう。政治的にはそれらの国がNATOとEUに入らない、ロシアとNATOの緩衝国になる、という暗黙の了解あるいは希望的観測があったから平和的に離脱を了解した、とわたしは理解している。
その後、東欧諸国がEUに加盟していく傾向が続いた。そして隣国ウクライナのEU接近。ウクライナは元々ロシア発祥の地、民族・言語・文字・宗教の分類でロシアに類似、近似する。東部にはロシア人住民も多い。キューバがアメリカの内庭ならばウクライナはロシアの横っ腹であろう。それが米ロ対立の大きな火種と火薬庫となった。
アジアにも火種が目立ってきた。朝鮮国の核脅威、中国の海洋膨張、沖縄基地vs北方4島。

キューバ危機は第2次世界大戦に従軍経験のある二人の賢明な指導者の理性ある決断によって回避された。二人には相手の立場を思いやる哲学があった。
今日、世界に、日本に、両首脳レベルの「政治家としてふさわしい英知」(ロバート・ケネディ)をもった政治家がいるだろうか?
いないとすれば、核戦争の危機は去らない。わたしはいないと思うがゆえに世界が戦争に至る過程にこだわってブログを綴る。
その危機が第2次世界大戦の戦後処理における未処理・未解決問題に遠因があることを念頭に置いておきたい。