物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG

自分の生涯を追体験的に語ることによって
環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか読者にお伝えしたい。

韓国は亡国の恨hanを晴らさずにはおかない/愛国と売国

2019-05-31 | 革命研究

韓国は、過去の加害責任にはどの国もそうだが日本同様触れたがらないが、日韓併合被害を決して忘れない。併合の当初から上海、ハワイ等で独立運動をしていた李承晩は戦後大統領として日韓会談に臨むにあたって先ず日本の謝罪を要求した。要求が通らないといわゆる李承晩ラインを設けて日本漁船をたびたび拿捕した。日本に来たばかりの私は頻繁に新聞とラジオで拿捕のニュースを見聞した。李承晩は悪いヤツという印象を刷り込まれた。日韓併合に至る条約の有効-無効と賠償の要‐不要をめぐって交渉は難行し竹島が占領された。
1960年安保闘争の最中のことだが、学生と市民による4月革命(戒厳令による弾圧で183名の死者が出た)で李承晩の独裁は終わったが、深刻な経済危機が残った。国庫は底をつき、経済力は最貧に近く朝鮮国に劣った。その深刻な状況は「春窮麦嶺越し難し」(春食糧に窮し麦の収穫まで持ちこたえられるかどうか分からない)という俚諺で語られた。
ブラジル同様ここで開発独裁が登場する。1年後に軍事クーデタに成功した朴正熙少将は1963年に大統領として日韓国交正常化をすすめ1965年に日韓基本条約を締結して、日本から約11億ドルの経済援助(無償・有償・借款)を引き出した。それを重化学工業とエネルギー・交通・学校等のインフラに投資し国策として財閥を育て、高度経済成長を達成した。日本語教育を受けて士官学校を卒業して日本人のメンタリティをもつ朴大統領は、日本を工業化の手本とし、ソ連の5ヵ年計画にならってロードマップを描いた。
かれはまた工業化の成果を農漁村改革に及ぼした。かれはまず不況対策として全国3万5千弱の村に一律にセメント300~350袋を無償で配った。そして村に各戸への分配ではなく、村人の合意により村道の拡幅と架橋、河川土手の改修、藁屋根のスレート化、井戸の改善と共同風呂・洗濯場建設、公民館や集会所の建設等に使用するように指示した。翌年優れた成果を上げた村だけにセメントとさらに鉄筋を無償で提供して「新しい村semauru」競争を刺激した。スローガンは「勤勉、自助、協同」である。低開発国が浮揚するために不可欠の国民精神である。
自助だから政府は作業、土地提供に金を出さない。耕地整理、
灌漑用井戸・用水路・道路の建設用地、等にたいする補償は、難産ではあったが「村全体の協同精神と共同負担ですべての村が自ら解決した」  中世以来土地を所有する小暴君(両班'yaŋ-ban、国民の3%)が特権と収奪を続けてきたため遅れをとった伝統社会にセマウル運動が資本主義の風穴を開けた。
これを手始めに政権主導の農漁村改革が推進され、救いがたいほど遅れた貧しくみすぼらしい村の光景は一変した。その象徴が藁屋根がカラフルなスレート葺きに変わったことである。村々に電気と水道が普及し技術の向上発展により生産者の所得が倍増した。高校、大学進学率はほぼ日本と同水準である。これらの変化がブラジルのケースと大きく異なる。セマウル運動は今日国連推奨の後進国発展のロールモデルになっている。
出典  野副伸一「朴正煕のセマウル運動 : セマウル運動の光と影 」pdf  2007年


セマウル運動 (全羅北道コチャン 1972年)  撮影 金ニョンマン
 

朴軍事政権の経済上の業績は、抑圧され続けてきた国民に「やればできる」という自信を植え付けた。これが光の側面とすれば闇の側面は一握りの財閥一族(中世以来の族姓の伝統を想わせる)と民衆との経済格差、階級対立である。

朴政権は日本に亡国被害の賠償を安売りした「売国奴」という追及には戒厳令による過酷な弾圧で応え、政敵である民主化闘争のシンボル・金大中の日本からの拉致、知識層に対するスパイ狩りと拷問等で、カーター大統領にブラジルとならんで最悪の人権侵害状況と非難された。
彼の長期政権はKCIA部長が放った銃弾により突然幕を閉じたが、韓国の民主化運動に対する弾圧は朴正煕亡き後の全斗煥大統領とその後任の盧泰愚大統領によっても過酷に行われた。この二人も、「
反乱(1979年のクーデター)と内乱(1980年の光州事件)、秘密資金の疑いで1995年に逮捕され、1997年にそれぞれ死刑と無期懲役が求刑された」(辺真一)
民主派政権が追及対象にしているのは軍事政権の直近の非道と腐敗だけではない。戦前の親日協力の過去まで深く追及している。朴の場合日韓基本条約の国辱的締結が非難されたが彼が志願して歩んだ満州国軍の軍歴が火に油を注いでいることは疑いない。
日韓政府の最たる争点は何か?  朴は、併合条約とそれまでの条約は「もはや無効」である、と妥協した。韓国内の歴史認識では併合条約は「はじめから無効」である。もはや無効、では併合は合法だった、という日本側の主張を容れる余地が残る。合法であれば併合請求権は消える。対立は韓国内の世論を二分した。
軍事政権は前を向いてアカ狩りをし民主派政権は後ろを向いてクロ狩り[わたしの造語]をした。植民地化に際してはいずこにおても強制されてあるいは進んで協力する者(中国の例では漢奸)が現れるのが常である。コリアンが裏切りの追及を続けるのは、協力行為が条約の合法性を主張する日本サイドに根拠を与えるからであるが、それだけではない。
コリアンには独特の恨hanという気風がある。そして政治レベルでは恨イコール愛国である。だから日本に徴兵された兵士、徴用された軍属、労務者や性奴隷は愛国者だが、志願した軍人、労働者、慰安婦は顧みられない。
現在の文政権が日韓基本条約が「完全かつ最終的に」消滅させた対日請求権に個人の請求権は含まれないと強硬に主張する背景には、親日裏切り政権が結んだ条約は改定して当然だという思いが伏在している。日本政府と世論を刺激している韓国内の謝罪と補償を要求する現行の運動は、水面下の条約改定運動にほかならない。

愛国と売国は単純には割り切れない。日韓を隔てる歴史認識はひと飛びでは越えられない。
      

 

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ブラジルの軍事独裁/それもいいじゃないか、という学生が増加

2019-05-17 | 革命研究

私には祖国が二つある。2018年末、わが生国ブラジルは軍事政権による軍政令AI-5 発令50周年を迎えた。もし私が当時ブラジルに居たら30歳の私はどうなっただろうか。軍事政権反対の運動をしていた学生、知識人が日系人を含めておおぜい拉致され拷問され殺され「失踪」とされた。大統領は憲法の権利差し止め権をもち、大統領の権限が憲法を凌駕した。議会は1年間閉鎖された。人身保護令は停止され恣意的拘禁、拷問が日常化した。拉致、拷問後の殺害、死骸隠滅は特別の雇われ工作集団によって巧妙に行われ、「失踪者」の行方は杳として知れなかった。同時期の朝鮮国による日本人拉致に酷似している手口が多い。
  無法の全体像が想像できる好著  花伝社  2015年刊

民政化後2014年にようやく真相究明委員会が報告書を提出した。それによると軍事政権のトップから兵士までの337名が人権侵害に加わった。新たに施行されたアムネスティ法により誰一人罰せられなかった。「434名が軍事政権に殺害され、失踪させられた。その他、8,300人以上の先住民が殺害された。しかし、同委員会は、実際にはこの数はもっと多いと認めている」 出典:齋藤功高「ブラジルの移行期における軍事政権下の人権侵害の清算」pdf
下線部分の数字がブラジル軍事政権の性格、正体を物語る迷宮入口の鍵となる。軍事政権は単なるアカ狩りと治安維持ではなく開発独裁を目的とした開発戦体制であった。つまり禁じ手で資源開発をして産業近代化を図る革命的デザインの下に陸・海・空三軍が一体となってクーデタを起こしたのだ。そのデザイン「全国統合計画」の作成と推進は高度プロフェッショナル(ソ連時代の概念でいえばテクノクラート)に委ねられた。そのイデオロギーは、キューバ革命の防波堤を意図したケネディの「進歩のための同盟」である。
禁じ手とは、反対者をテロリストとして、あるいはコミュニストのシンパとして、反対運動のすべてを抑え込むことである。その結果アマゾンの密林と周辺州に、地下資源、原木資源、牧場開拓地を求めて野心的企業家とギャングが押し寄せた。いつの時代でも開発は道路のインフラから始まる。アマゾンを横断して高速道路がベネズエラに達した。上記のジェノサイドを想わせる犠牲者の数は反対運動の指導者もろとも殺されたインディオの数であろう。

文明人の入ったことのない秘境で何が起こったかは知るすべがないが、その一端を物語る二人の生き残り男性の生と死の日々が先日放映された。現場周辺の密林で発見された壮年兄弟の言葉は全く未知の言語で今日まで通話ができない。動画撮影時点では保護先で一人だけ生き残っているが他の先住民と交際ができなくて引きこもっている。保護士に向かって頻繁に発せられる恐怖を表現するコトバとジェスチャーから察せられるのは稲妻様の何かの襲来であった。彼は家族も身寄りもなく記憶を文明人に伝えるすべもなくこの世界で一人死を待つだけである。
私事にわたるが、そのころアマゾン周辺の奥地で大牧場を経営する日本人の実業家が日本にサッカーチームを連れて来たことがある。その人が所有する南部パラナ州のプロ選手養成のためのサッカー場と宿舎を見学したこともある。両国のサッカー界で名の知れたボスは不在だったが日本からの留学生が案内役を務めてくれた。
サッカー場があったバンデイランテス市は、独身時代の父が姉夫妻のもとで働いた因縁の地であり、訪れた私を父方のいとこ達がおおぜいで歓迎してくれた。1991年の帰郷時の出来事である。

軍事独裁政権は政党、労働・農民・環境運動等の反対勢力を恐怖で抑え込んで日本を含む米国中心の外資導入の地ならしを推進し工業化に成功した。ブラジルは世界有数の鉄鉱石と鉄鋼、航空機輸出国になり、2000年代初頭にはBRICの一角に名を連ねて工業先進国に仲間入りした。
1984年
に222%以上のハイパー・インフレとなり経済が破綻して翌年ブラジルの軍政は終わった。産業近代化には成功したが貧富の格差と自然破壊が耐え難いまでに拡がった。多国籍企業を含む大資本による土地集積と機械化された大農場は農業労働を一変させ土地、仕事を失った農民が都市に流れ込んだ。人口の集中で都市景観は激変し、近代的ビルとスラム(ファヴェーラ)の併存が富の不均衡を象徴している。
ブラジルの治安はさらに悪化した。金持ちの家は高い塀か鉄柵に囲まれている。富豪の豪邸は銃を携えたガードマンに守られている。わたしはそれを見てブラジルでは富裕層も「塀の中」に入っているという妙な感想をもった。
わたしの少年時代にはブラジルは治安が良かった。逆に日本の都会は夜歩きできないほどに悪かった。

昨年ブラジルでは揺り戻しが起きて軍政を賛美する歴史修正主義者が大統領に当選した。拷問と殺害、人種・性差別を容認する発言で「ブラジルのドゥテルテ、トランプ」と評されるボルソナーロ大統領である。その最初の仕事は「天然資源を繁栄に一変させるグローバル採鉱会社」(vale社HP)の鉱滓ダム決壊事件(犠牲者350名?)への対応だった。

グローバリズムと市場原理主義が世界を覆ったために世情が急展開しつつある。東京のいくつかの大学で軍事独裁のレクチャーがあった。授業後に学生の感想を聴くと、治安改善や産業近代化のためには軍事独裁もありの意見が「どちらかというと」を含めると半数近くあったそうである。 

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どう生きるか? 模索の旅、いざ出発/若者による文化革命の嵐

2019-04-30 | 革命研究

自分はどう生きるべきか? その答えを求めて1964年から独学で革命研究を始めた。4年間学生運動に打ち込んで来た流れでロシア十月革命を主軸に据えた20世紀の革命運動を研究対象に選んだ。4年後1968年後半にほぼ目途がついたので高槻市に転居した。そして『情況』誌に「10月革命への挽歌」を連載した。連載終了後それは情況出版で本になった。サブタイトルに「われらの内なるスターリニズム」、帯に「レーニン主義とロシア革命からの決別を!」の文字が躍った。



菊地章典先生ほか歴史学者による書評もいくつか新聞に掲載された。その一つに「歴史清算主義」というのがあった。歴史は赤字、黒字と清算できるものではないので首肯できなかったが、当のソ連は後に「清算」されてしまった。私の著書はソ連崩壊を予測するものではなかった。あくまで自分のアイデンティティを確立するために、進行中の歴史的事件に影響を受けながら書かれたものであった。
しばらく拙著の内容を紹介しながら個々の事件についても振り返ってコメントするつもりだ。
どんな政治的社会的事件があったか年表風に列記する。

1964
米国 ベトナム戦争の段階的拡大戦略「エスカレーション」を評議(政・軍首脳ホノルル会議)  トンキン湾事件(米駆逐艦が北ベトナム魚雷艇に攻撃されたと捏造して北基地を爆撃)  人種等マイノリティ差別を禁ずる公民権法成立 北部学生による南部黒人有権者登録支援「フリーダム・サマー」(運動家6名殺害される)  カリフォルニア州立大学バークレー校で政治活動と言論の自由のある大学像を求めてキャンパス内フリー・スピーチ・ムーヴメント起こる⇒大学ホール占拠・座り込み⇒逮捕者800余人⇒世論と教授会に支持され大学改革成る
中国 人民日報、米帝国主義に反対するすべての勢力に団結を訴える社説掲載 最初の原爆実験成功 ソ連指導部を現代最大の分裂主義者と非難
ソ連 平和共存柔軟派フルシチョフ解任(後任は同強硬派ブレジネフ)
ベトナム グエン・カーン軍事クーデター 軍事独裁反対のデモ、全国に拡大
韓国 就任したばかりの親日朴軍事政権に対して全国主要都市で屈辱外交反対のデモ 日韓会談に怒った学生、大統領官邸を包囲 ソウル地区に非常戒厳令布告
ブラジル カステロ将軍クーデタ(土地改革阻止、軍事独裁で米国資本導入の道開く) 
日本 池田から佐藤へ首相交代 韓国工業化支援(2000万ドルの原材料・機械部品の延払い輸出) 第7次日韓会談開始⇒翌年日韓基本条約調印 
1965年
南ベトナム解放民族戦線、プレイク米軍基地襲撃 米機、北爆開始 ワシントンで1万人の反戦デモ ベトナムに平和を!市民文化団体連合(ベ平連)主催初のデモ行進 米B52爆撃機、沖縄から発進してメコン-デルタを爆撃 韓国、ベトナムに部隊派遣 反戦青年委員会(ベトナム反戦・日韓条約批准阻止を目的とする職場・地域の共闘組織)結成
ベトナム海兵大隊戦記第1部TV大反響(官房長官のクレームで第2, 3部放送中止) 岡村昭彦『南ヴェトナム戦争従軍記』
1966年
中国「大文化革命」始まる 紅衛兵街頭進出 「文化大革命勝利祝賀大会」と銘打った天安門広場100万人大集会 毛沢東の後継予定者・林彪、群衆にプロレタリア革命の造反精神に基づき旧「思想-文化‐風俗‐習慣」の四旧打破を呼びかける
閣議、新国際空港建設地を三里塚に決定
1967年
10.8羽田事件(佐藤首相のベトナム訪問阻止闘争で京大生山崎博昭君死亡)  先頭集団に角材・ヘルメット登場 同日チェ・ゲバラ、ボリビアに死す
1968年
青年、学生が既成体制と価値観に反抗し、文化-思想に異議を申し立てて、世界中が政治的に沸騰した年である。国により争いのもとになった課題イッシューは違ったが共通していたのは既存の権威を否定する思潮だった。わが師友井ノ山さんはこの年の世界的動乱を指してもしかしたら文化革命となるかもしれないと語った。
【1月】
・佐世保原子力空母エンタプライズ寄港阻止闘争 反戦・反核基地の要素がより合わさって空前の盛り上がり 民社・公明系団体も集会 全学連、機動隊と激しく衝突 市民の同情集まる 参加した大浜は現地右翼親分の接待を経験
・北ベトナム人民軍、南全土で「テト攻勢」  勝利を確信していた米国世論に衝撃、反戦運動が拡大深化
【4月】
・米国黒人公民権運動のカリスマ指導者・キング牧師暗殺 全米各地で人種暴動が発生 ブラックパンサー党武装闘争
【5月】
フランス「5月革命」 黒人差別・ベトナム戦争反対運動に参加した学生に対する懲戒問題に端を発する学園ロックアウトでソルボンヌ校から閉め出された学生達は中世に起源をもつ文教地区カルチェ・ラタンを占拠した。その間警官隊と衝突し、数百名の逮捕者、重軽傷者を出した。高校生、大学生による連帯ストライキ、デモの渦が起こり、ソルボンヌ校をはじめカルチェ・ラタンは、警察隊が撤退して、学生の「解放区」となった。
その後労働大衆が加わってカルチェ・ラタンは「バリケードの夜」に保安機動隊、警官隊との対決で流血の騒乱場と化した。レ・フィガロ紙が「権力はストリートにあり」と報道した。デモ、占拠、ストライキが全土に広がった。フランス放送協会 は一連の出来事の放送を禁止した。タクシーをふくむ交通システムは完全に麻痺した。デモの最盛時80万人の市民がパリ市街をうずめつくした。自発的にストに参加した労働者は800万人とも1000万人とも云われる。
政府と雇用者団体が譲歩し、最低賃金が3分の1上昇し、労働組合への公的権利が確立される「グルネル協定」が締結された。ドゴールを支持して秩序回復を願う市民の大デモがあったことも見過ごしてはならない。翌年大学と教育が現代的に改革された。無政府状態はド・ゴール大統領の下での凄まじい弾圧と現代に適応する改革で終息した。
「この運動により労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された」(Wikipedia)
「5月革命」に触発されて、日本と西欧諸国、ブラジル、メキシコ等の南米諸国・・・でも学生による反体制運動が熾烈に闘われた。そして父権的社会体制の変革にもっとも成功した国が西ドイツとフランスであったことはEUにおける両国の地位と発展の軌跡をみれば明らかである。そのほかの国においても性革命、文化革命が個々人の生き方に何らかの形跡を遺した。価値観、男女関係、ロックやファッション、映画やアニメ、アート等で影響を受けなかった者はいないだろう。
日大全学共闘会議(秋田明大議長) 額の使途不明金に端を発する数度の大衆団交要求集会 体育会系学生、右翼団体による集会襲撃 警察傍観、逆に集会学生逮捕 学生重軽傷者多数 6月末までに各学部スト突入、バリケード構築 9月占拠解除中の機動隊員、4階から投下されたコンクリート片で殉職 両国講堂で9.30大衆団交 大学側、11時間3万5千人学生の圧迫に、経理公開・理事総退陣要求に合意も翌日の佐藤首相の横槍で撤回 秋田ら8人に逮捕状 
このあと国家権力を後ろ盾にした大学当局とその手兵・右翼学生との流血の戦いが続く。これより、学生運動の火の手は全国に広がり高校生、浪人生の運動も注目された。日大闘争を特徴づけるノンセクト・ラディカル、ボス同士の交渉に替わる大衆団交、バリケード封鎖が、広がった運動にたしかな形跡を遺した。東大、京大、慶大が強固なバリケード構築法を日大全共闘に学んだという話が記録されている。 
丁度50年後世間を騒がせた日大アメフト事件は理事会の裏社会的体質が学園闘争史上画期的な日大闘争によっても改革されなかったことを天下に示した。それを裏返すと、民主化を求めて参加し討議して決める直接民主主義を実践した日大全共闘運動の評価がおのずと高まる。バリケードの中は若者の祝祭だった、という回想を多く目にする。
6月】
東大闘争 全国の医学部では学生と医師の卵が権威主義で固まった医局制度とインターン制度(卒業後1年間無給の実地研修を修了しないと国家試験受験資格がなかった)に反対して青年医師連合を結成して闘っていた。東大医学部で無期限スト中に医局長缶詰事件があり大学側は複数の学生、研修生を処分した。ちなみにわが親友大浜も京大医学部大学院で唯一ストに参加しなかった院生を教室から運び出した容疑で拘留され裁判にかけられた。東大では退学5人をふくむ17人の被処分者中に誤認処分が判明して闘争が激しく広がり始めた。医学部全闘委が卒業式と入学式阻止行動の後安田講堂を占拠した。
国家権力からの大学の自治(教授会の自治)は大学の伝統であり誇りであったはずだが、すでに体制化して硬直していた大学当局は安易に千余の機動隊を導入して封鎖を解除した。医学部を越えて全学部に抗議活動が広がり安田講堂前の抗議集会には六千人が参加した。
月、安田講堂のバリケード封鎖 東大全共闘(山本義隆議長)結成 全学助手共闘会議結成 医学部本館占拠 医学部集会には教官・学生約1300名参加 医学部卒業試験延期 附属病院外科医局等占拠 法学部も無期限スト突入で開校以来初の10学部「無期限スト」 神経科医局全員、教授会に抗議し、スト終了まで一切の診察を有給者のみで行う(無給医診療拒否)と決議 医学部研究と臨床一部麻痺
11月総長以下学部長全員・付属病院長辞任 加藤総長代行新体制、ストライキ反対の民青、ノンポリ=無党派学生と結んで事態収拾=ストと封鎖解除に躍起 全学封鎖派劣勢・孤立化
このころ「東大解体」「自己否定」がセットで全共闘のモットーとして語られた。国権と金権の下部simobeとなった大学を変革する目的で大学の機能を一時的に止めるストではなく革命を目指して全機能をとめどもなく止める全学封鎖の行動を「解体」と表現したのであれば、革命志向者以外のノンポリの支持は得られない。体制とその発展という特別の役割を果たしている東大でなくても外の大学でも総スカンを食らう。
全学封鎖を最初に試みたのは京大である。1962年12月9日の明け方のことであるが、投票結果を知らせるパネルにさみしい数字と敗北の文字を書き込みながら覚えた身がすくむような寂寥感を私は忘れることがない。
己否定は聖なる言葉である。釈迦牟尼やキリスト、田中正造にこそふさわしい。自己否定の語は言霊である。国家であれ運動組織であれ自己否定を政策のレベルで人々に押し付けるとポルポト・カンボジア政権によるような大虐殺が起こる。「滅私奉公」の縛りが大東亜で何千万の命を奪ったか、当時の私は想い至らなかった。私は東大闘争のころ「自己否定」の言霊の魔力にいささかいかれていたことを告白する。個人の心情としては可だが他人と組織や国家に求めてはならない。
東大闘争の過程で「何のための高度経済成長か」「何のために大学が在り、何のために学ぶのか」という問いが一部学生、研究者から発せられたが、その問いは超難問で今日なお解答できていない。
【8月】
・チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」をソ連主導のワルシャワ条約機構軍の戦車が蹂躙
【10月】
・メキシコ、政府が仕組んだトラテロルコの大虐殺 五輪直前のメキシコ市で、民主化要求デモに軍隊が発砲、学生ら数百人死亡 
・五輪では米国の黒人選手2人が表彰台上で黒手袋のこぶしを突き上げて「ブラックパワー」を誇示、「動乱の1968年」のシンボルになった。
10.21国際反戦デー 新左翼諸派全学連と若者数万人、新宿駅騒乱 騒擾罪の適用 日大全共闘は組織不参加を決議
【12月】
・「ブラジルの軍事政権史上、最悪の悪法」軍政令第5号制定 政治犯に対する人身保護令の全面不適用により、軍秘密警察による政敵の拷問殺害、数知れず
1969年
【1月】
18,19日機動隊導入により「安田砦」落城 入学試験中止 大学機能の休止、停止は政府の権限である、思い知ったか、と佐藤首相の高飛車
【2月】
・日大、機動隊導入で文理学部を最後に全学の封鎖を解除
【3月】
・京大の要請なしに機動隊2300人、校内出動、封鎖解除 大学自治に対する番犬のしょんべんマーキング行動
【6月】
・部落解放同盟、狭山事件対策本部設置
【9月】
・早大、機動隊により、大学臨時措置法反対で封鎖中の大隈講堂、第2学生会館封鎖解除 措置法は政府に大学またはその一部を廃止・改組・縮小等の権限を与える立法 「大学自治」に対する権力のダメ押し

上が「どう生きるか」の身の周りにあった「どう考えるか」の課題であった。遠いところでは、南アと米国におけるアパルトヘイト、イスラエルによるパレスティナ侵浸食、アフリカ等植民地の独立、ソ連圏の民主化闘争と「雪解け」にも関心があった。

 





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イチローとNOMO/高槻フットボールクラブ創立50周年

2019-04-04 | NEWS/現実認識

イチローの引退会見を見た。
私は野球フアンではない。野茂もイチローも日本で活躍している間はわが脳裏に何の印象も残さなかった。ところが米国で名を挙げた時からサッカー・マニアの立場からそのプレイ・スタイルに魅了されただけでなく、両人の日米スポーツ史における意義を考えるようになった。
私は1968年秋から少年サッカーの指導を始めたが、野茂が1995年にドジャース入団初年度に「トルネード投法」により三振の山を築きMLB新人王に輝くまで、日本のサッカーがフットボールでないのと同様に、野球はベースボールでない、という観念にとらわれていた。NOMOの最終成績:123勝1918奪三振etc.
1965年、日本サッカーは前年の東京オリンピックで釜本たちの活躍で盛り上がったサッカー人気*を背景に日本リーグを立ち上げたが、尻すぼみ的に不振が続き、関係者はプロ化に再浮揚の期待をかけるほかなかった。
*この上げ潮がなかったら私がサッカーに関わることはなかったと言い切れる。
写真 高槻フットボールクラブ一期生 1969年夏 柳川小学校校庭
余談 背景の職員室のTVから流れる高校選手権決勝の実況中継を窓下で聴き耳を立てながらみなで聴いた思い出もまた懐かしい。 三沢高校vs松山商業 延長18回0-0で再試合へ


1993年、単にサッカーの発展振興だけではなく日本のスポーツ文化と国際親善に寄与することを高らかに謳って、念願のプロリーグ「リーグ」が発足した。サッカー人気が爆発し、放課後少年たちが自転車の籠にボールを載せて走り回る姿が至る所で見られた。当クラブも部員が倍増し一時小学生だけで200名以上が在籍していた年があった。
野球人気低落の危機を救った功労者が野茂だった。ブームで驕り高ぶっていたサッカーの頭を押さえ冷やしただけでなく、野球がベースボールであることを世界中に認めさせた野茂の功績は不滅である。
NOMO
の代名詞でもある「トルネード投法」は体全体を躍動させて球速を増す投げ方であるがこれは球技すべてに通じる原理に合致している。

サッカーでは「ロベカル」の名が付けられている弾丸シュートが有名である。ロベルト・カルロス(ブラジル)は濡れた芝生のピッチでポイントのないシューズでボールを蹴って練習したそうである。つまりボールと連動して体も前に滑走するキックである。対照的に踏み足を踏ん張って蹴る山なりのロングボールをわたしは「マツイ・キック」と名付けた。
「ロベカル」の練習を部員にさせるとき「イチロー・キック」と名付けてイチローのバッティングをTVで注目するように言って練習法を可視化させた。イチローが、バットを振った瞬間に体が前にスライドし同時に走り出す打法でメジャーでシーズン最多ヒット記録を塗り替えたことに感動して私はメールアドレスに数字262
を含めた。
またイチローが野手としてもアメリカ人を驚嘆させた先駆者であることは日米で常識である。

引退会見で子どもたちへのメッセージを求められてイチローは語った...。
野球だけでなくてもいいんですよね、始めるものは。自分が熱中できるものを夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので、そういうものを早く見つけてほしいなと思います。
それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁も、壁にも向かっていける、・・・それを見つけられないと壁が出てくると諦めてしまうということはあると思うので、いろんなことにトライして、自分に向くか向かないかというよりも自分が好きなものを、見つけてほしいなというふうに思います。

私の場合それを見つける
旅を1964年に始めた。発見まで4年かかった。今その道のりを追体験中であるが、今後どう記述するか、筆が進むか気がかりだ。
2019年4月4日は高槻フットボールクラブ創立50周年記念日である。引退して3年たった。引退式も記念式典も断った。わたしの生き方だから寛恕ねがいたい。


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寺小屋/自然が呼んでいる/アユの伝統漁に一驚

2019-03-22 | 生活史

1964年、卒業と同時に自活のため学習塾を始めた。西陣の大きな寺の一室を借りて折りたたみ式座卓を並べ黒板を正面に置いただけの畳部屋の教室だった。明治以前の寺小屋の場景に近かった。
対象学年は6年生以上だったと思うが定かでない。ニューホライズンの英語教科書と数学のプリントを使ったことを覚えているから中学生がいたことは確かだ。
学習塾と言っても生計のために始めたことで教育上の志があったわけではないので何も自慢できることがない。家業で忙しい両親に代わって子供の面倒を集会場で看ているという感じだった。母親たちとは入塾申し込み時に会ったきりで教育相談を受けたこともない。予習中心の塾であったが受験塾ではなかった。伝統産業の町西陣はまだ受験競争の圏外にいた。また子供たちは昔ながらに「過保護」からほど遠い境遇でのびやかに生活していた。
付き合った期間が短かったのでその一端しか記憶にないが・・・。
男共は身近な卒業生たちが結成してやがてスターダムに伸し上がるザ・タイガースの前身バンドとエレキギターに夢中だった。ビートルズ来日前後のことである。
女の子たちは町の子らしく早熟で男の子の話題が多かった。たわいない下ネタを投げかけられて返答に窮したことは忘れられない。大人をからかう風景など今でも見られるのだろうか? 女の子もおしゃべりで積極的な良い子だったが、女王様のまわりに同心円の結束をしていて扱いに気を使った。女王様が塾をやめたら周りの女の子は皆やめたことだろう。

親子がべったりでない環境であったから、休日には遠方まで、ときには泊りがけで、子供たちを連れ出すことができた。これも私に何か期するところがあったからではない。自分がいちばん行きたかったのである。受験勉強と学生運動で8年間封じ込められていた欲求がほとばしり出たに違いない。ある男の子が山行中に「自然が呼んでいる」と藪かげに駆け込んだが、本来の意味で自然が呼んでいるから私は少年少女たちを海や湖に、山や川に連れ出したのだった。
大学院生の白石と大浜が学習面もふくめて手伝ってくれた。友情以外に動機があるはずはない。長身の大浜には女の子が早速あだ名をつけ親しみを込めてキュウリさんと呼ぶようになった。

1964年秋 宇多野YH合宿 塾生と教育・院生の白石

 
1965年夏 琵琶湖水浴


1965年夏 塾生と医学・院生大浜 場所は下掲

 1965年夏 京北山国の家合宿
廃校小学校を利用した合宿所、管理人夫婦は隣接の農家の人だった。運動場で遊び調理室で自炊した。夜は卓球台を囲んだ。前の道を小塩川に沿って遡り峠を越えると廃村八丁の裏口に至る。4年後に塾生たちと辿った登山道である。今回は保津川-大堰川が小塩川とT字型に合流する山国井戸の「水泳場」で遊んだ。
バス停「井戸」の正面に清流の淵と浅瀬があった。土曜日にはよく太ったウグイとアユが群れていた。日曜日の午前にはアユが捕り尽くされていた。土曜日の夜からキャンプしていた一団が夜明けから箱眼鏡か水中めがねで魚を追いながら一匹残らず釣り上げたのだった。
この辺りではアユの解禁日が捕り方によって異なるようだ。友釣りが最初で水中眼鏡漁が最後らしい。投網で捕れない岩陰のアユまで捕り尽くすからであろう。
解禁日を8月1日とするとわれわれが観た光景は土日のことだったとわかる。
この釣り方は初めて見たので名称を知らなかった。弾性ラインのついた針を竿先に固定した竹竿をしゃくってアユを引っ掛ける漁法である。アユがかかると針が竿先からはずれ、アユが暴れてもバレない仕掛けである。
水中では竿の自由が利かない。アユは速い水流にもまれるように動く。2, 3年の練習で修得できる技ではない。数台の車で来てトロ箱にアユと米ぬかを詰めて持ち帰ったあの集団は何者か?

この漁法はしゃくりといって稀に残っている地方があるようだ。荒っぽい引っ掛け漁が一般的だが、わたしが見た名人芸は短い竿に1本針をつけてアユの動きを追いながら勝負するものだった。かつての川漁師は、友釣りの囮用のアユを傷めないように、この方法で背びれの際を引っ掛けて釣った、と聞いたことがある。
ダムができるまで国内トップクラスのアユ漁を誇った三重県宮川流域に伝わる仕掛けの一例を作者の了解を得て紹介する。
出典  ブログ「奥伊勢ななほ農園」

1965年の写真がないので4年後廃村八丁に行った際の写真で「水泳場」の一端を紹介して終わりとしたい。

 大岩のある淵

 周りの浅瀬

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田沢湖~乳頭温泉郷~八幡平~陸中海岸/三陸大津波の教訓

2019-03-05 | 生活史

  八幡平トレッキング

大浜は登山愛好者で登山に詳しかった。山行に興味を抱き始めた私を八幡平トレッキングに誘った。初めて聞いた地名だった。登山ではなさそうなのでOKした。すべて彼が計画した。わたしは言われるままに登山用ザックを買ってキャンプに必要な物をこれまた指示に従って詰め込んだ。山行に不相応なわたしの身なり(上掲写真)がすべてを語っている。服装がまるでなっていない。運動靴を手にもって裸足で歩いている。大浜は100mほど先を歩いている。大浜の気持ちを察する余裕はわたしにはなかった。半ば後悔しながら、てくてくついていくしかなかった。
山歩きの出発点は田沢湖だった。日本一深い湖とも知らず水浴びした。

  秋田県田沢湖  1965年頃

 乳頭山  これも私の撮影

乳頭温泉郷は、まもなく秘湯ブームが来て不動のランクを占めたが、当時宿は多分一軒しかなく農閑期の湯治場であった。室町時代の市場の絵巻物にあった小屋の連なったような一棟の長屋という印象をもった。木の皮葺きの屋根、土間に板を敷いたような低い床...。
当時この温泉の由緒を知っていたら私の脳裏には対象そのものから得た別のイメージが刻印されたにちがいない。ここは江戸時代秋田藩主の湯治場で、私が見た長屋は警護の武士が詰めた茅葺き屋根のしっかりした長屋であり、今では「本陣」の名称で登録有形文化財になっている。

  乳頭付近  川湯?野湯?

幡平では小さな池塘が散在する湿地帯に苦しんだ。今のように木道がないので足をとられてザックが肩に食い込んだ。テント、ホエーブス・ストーブと白ガソリン、水・食料等共用物を分けて背負っていた。私の負担は大浜の半分位だったが未熟錬の悲しさ、口もきけないほど疲れた。
山を越えて滝上温泉(現在の滝の上温泉)に出た。一軒の家も人影もなかった。少し上に地熱発電所があった。一帯は地熱が高く、川岸に窪みを掘ると熱い温泉が湧いた。川の水を引き入れて温度を調節した。もちろん手造りの温泉で疲れを癒した。

  手造り温泉

もう一つそこで将来の趣味につながる体験をした。さして大きくない渓流に潜ったとき岩陰でトラ猫と鉢合わせになったと一瞬思った。猫ほどに大きなイワナだった。釣り道具を持参していれば・・・と悔やまれた。これが後に渓流釣りに嵌るきっかけとなった。
雫石では柱状節理の岸壁に見入った。振り返ると雄大な岩手山がガレ場を赤っぽく染めていた。ガレ場とは石がゴロゴロの斜面をいい、石が一つでも転がるのを見たらラク[セキ]と叫んで周囲に危険を知らせるのが山のマナーである、と大浜に教えられた。このように山行に必要なことはすべて彼から学んだ。
雫石市からバスで盛岡市に向かい何らかの交通手段で陸中海岸の浄土ケ浜に出た

 ここは浄土ケ浜の何処?

キャンプ地の写真である。背景は日出島である。ネットで調べたが写真に写っている自分達の居場所を解明できなかった。
浄土ケ浜の思い出は地元の暮らしにいくぶん触れたことである。山行ではそういうことは全くなかった。午前中に渡し船で島か半島に渡った。夏休みだったので昼間は水遊びの親子連れがかなりいたが夕方には迎えの船でみんな引き揚げてしまった。キャンプについての記憶が失われてしまったので、その「島」で一泊したとは言い切れない。
「島」では自給自足の真似事を経験した。中学生らしいグループが潜って岩礁域にいるアイナメを鉾で突き刺してとっていた。ご飯だけ持参しておかずは現地調達の焼きアイナメである
。われわれも大きな牡蠣を堪能した。どこかの養殖棚から縄がちぎれて海底の窪みに流れ着いたものである。海水温18度は泳ぐには冷たすぎると知った。


われわれが浄土ヶ浜にキャンプしたころ同じ宮古市の田老地区に最終的には総延長約2.4km,海抜10mになる大防潮堤がX字型の右脚部を残して完成した。
過去明治と昭和2回の大津波で人口の83.1%1867人、32.5%911人の犠牲者を出して津波太郎の異名をとった田老悲願の大事業を人々は「万里の長城」とよび、誇りにしかつ安住した。
ところが平成の大津波でも田老地域は人口の約4%181人の犠牲者を出した。それでも流失・全壊・撤去*棟数83.8%を考慮すると防潮堤の命を守る効果は大いにあったと評価できる。
*高台移転のためをふくむ。

 防潮堤右腕部が全壊  出典 河北新報

 堤防右腕部の跡形、確認困難

へそ曲がりのわたしはすぐ戦時中日本が高唱した大帝国「大東亜共栄圏」を連想してしまう。津波についても歴史から教訓を学びたい。

巨大防潮堤の過信、これが第一の教訓(ハード面)である。集落の高台移転がベストと分かっていたが適地が少なく、国の予算と生計の都合ですったもんだの末大堤防の建設となった。巨大堤防を過信して逃げ遅れた人がかなり出たと思う。
対照的なのは、浄土ケ浜の対岸・重茂omoe半島の姉吉漁港である。重茂地域のほかの7漁港同様姉吉漁港も壊滅したが、高台の姉吉集落(11世帯40人の小集落)は無事であった。重茂地域全体の犠牲者数は49人である。
姉吉の海から800m海抜60m辺りに昭和大津浪記念碑がある。
碑文「此処より下に家を建てるな 明治二十九年にも昭和八年にも 津浪は此処まで来て 部落は全滅し生存者僅[わず]かに前に二人後に四人のみ* 幾歳経るとも要心何従[なにより]」 今回姉吉を襲った津波の最高遡上高度は40.5mで観測史上最高記録を競っている。
*それぞれ人口60人、100人以上。

 出典 『岩手県東日本大震災の記録』

第二の教訓も田老に関するもの(ソフト面)である。田老で生まれ育った田畑ヨシさんは、明治の大津波を経験した祖父の教えを守って昭和の大津波で8歳ながら山に逃げ命拾いをした。成人して紙芝居を活用した防災語り部として「津波てんでんこ」の普及に努めた。もちろん平成の大津波も生きのびて、多くの人に津波が来たら「てんでに」早く高いところに逃げる重要性を訴え続けた。田老地域が物理的に壊滅的損害を被った割には犠牲者が少なかったのは田老地区がこうした防災教育、訓練に熱心であったゆえでもある。

第三の教訓は浄土ヶ浜に関わる船舶避難についてである。観光名所・浄土ケ浜には遊覧船が3隻あった。2隻は流されたが、沖へ逃げるチャンスにめぐまれた1隻は2日後帰港できた。「動ける船は沖へ」は、私が知っていたぐらいだから、船長たちの間では常識であった。それでも一番津波の到達が早く波浪が高かった本州最東端・重茂漁協は所属船814隻中798隻を流失した。

最後に重茂漁協の逞しい復興物語を・・・。
重茂漁協は全漁港施設の機能を喪失した。切り立ったリアス式海岸の狭い浜はえぐられガラクタで船の置き場もない。倉庫も冷蔵・加工施設も、養殖設備も漁具も、すべて流失した。茫然自失していては、いつになるかわからない公的支援を待っていては、その間に若者が流出してハマが潰れる。見通しを立てねば離漁者が出る。
津波から29日後の4月9日漁協は全組合員400人余の集会で速やかに海に出ることを宣言した。「船は漁師の飯茶碗である」 流された船を集めて修理し、また日本海側に人を派遣して中古船を調達した。無事だった船をふくめて漁船をすべて漁協徴用とした。働けるものは共同作業に出た。費用は漁協持ち、収益は頭割りで分配した。一家に一隻船が行き渡るまでの応急措置である。いわば非常時共産制である。
早くも5月21日70隻ほどで天然ワカメ漁を再開させて全国ニュースになった。新造船も加えて船数はどんどん増加して、2年後には目標の400隻に達した。見事な自助、共助である。

なぜこういうことが可能になったのか?
重茂地域の特殊性に因るところが大きい。陸の孤島のような狭い僻地に1700人弱の住民。山と海だけで農地がないので生業が漁業だけ、しかもサッパ船(船外機で走る小型の磯船)で養殖ワカメとコンブ、ウニとアワビを採る家内漁業。船が無ければイエもハマもたちまち潰れる。
重茂漁協HPによれば藩政時代に先例があった。「音部地区では漁船が少なかったこともあり、コンブ、わかめ、鮑など部落共有の船で採捕し、生産物はひとまとめにした上で、部落民に分割し、平等に消費する共同経営体的な漁場利用がおこなわれていた」
共同体には精神と掟が不可欠である。重茂
には「人は人中」精神があった。人は人間、と言い換えてもよい。説明は不要であろう。
相互扶助の精神があるということは伝統的共同体が生きていたということでもある。それが漁協だった。競争と利潤追求の会社ではなく漁民の協同組合である。
それにしても一丸となれる漁協があって平時と非常時にそれを正しい方向にまとめ上げる人物(船で言えば船長)がいたということは何と幸せなことだろう。初代組合長は「天恵戒驕」という、縄文以来の先人の教えに通じる漁協訓を遺した。それに従って重茂漁協は代々「人と環境」にも留意して森と海の資源を守ってきた。自然との共生である。半島で一番高い十二神山は遺伝子保存林、55kmの長い海岸線は魚付き保安林として、原生林の伐採規制を維持している
。また合成洗剤使用反対、核燃料再処理工場稼働反対にも地域をあげて取り組んでいる。

こういうことができる漁協だから重茂漁協は生産から販売まで事業の一貫化、総合化にも成功して復興に備える資金の蓄えがあった。更に、拡大復興にも挑戦して新商品の開発により高齢化と後継者不足問題でも全国の先駆けとなっている。OMOEブランドを思えておきましょう。

 

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泳法と水難防止/井ノ山毅/安保と沖縄×北方4島

2019-02-11 | 体験>知識

Notice 映画「金子文子と朴烈」(イ・ジュンイク監督) 初公開
最近様変わりした『週刊 金曜日』1220号に金子文子特集あり。
当BLOG記事「朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件」にも目を通してほしい。

井ノ山さんを伏見桃山の官舎に訪ねるようになったきっかけは、60年安保闘争で全国税労組京都支部がゼネストの一環として時間内職場集会を決行したのを、府学連として応援に行き下京税務署でピケを張ったことである。

私は当時の学生、労働者の政治的高揚を誇りに思う。税務署員が時間内職場集会を開催して処罰されなかったことは画期的である!  戦後15年しか経っていなかったから、軍事同盟と知れば新安保反対は当然の成り行きだった。条約を通すため岸首相は国会の質疑で軍事同盟でないと懸命に虚偽の答弁をしていた。
近年、軍事緊張の高まりが戦前のそれに類似してきた。だから、軍事同盟だからこそ[仕方なく]支持する世論が多数になった。同時に軍事同盟の危うさに反対する世論も高まりつつある。60年前の安保反対の正当性が再評価に向かうだろう。この機会に、安保条約と北方4島×沖縄、に言及したい。が、そのまえに水泳体験記を・・・。

私の山行は大浜の知遇を得たことで始まった。水泳の手ほどきは井ノ山さんから受けた。といっても古泳法と水難防止法について伏見桃山のプールでお子さんを遊ばしながら一度きり指南を受けただけである。井ノ山さんは京都で歴史のある踏水会の水泳教室で育ち、私と知り合うまでは暇があれば疎水夷川ダムにあった教室で水泳指導を手伝っていたようである。
踏水会は1896年に大日本武徳会水泳部として創立され、熊本から小堀流踏水術を取り入れた。立ち泳ぎ、横泳ぎを特徴とし、泳ぎながら刀や弓を使うことのできる軍事泳法である。現今の踏水会は妊婦から高齢者までを対象とした多種目のコースをもつ水泳学園法人である。
井ノ山さんからあおり足を習い立ち泳ぎと横泳ぎの真似事ができるようになった。
これがきっかけで私はクロールではあったが「遠泳」ができるようになった。夜間、大学のプールにひとり忍び込んで息継ぎの方法を研究し1500m近くまで泳げるようになった。ゴーグルなしではカルクで眼が痛んでそれ以上は無理だった。
自己流の息継ぎ法のミソは、古泳法は始終頭を水面に浮かせるが、クロールだから横を向いて呼吸のために開けた口を半分近く水に沈めたまま、始終顔を上げないで水平に泳ぐことである。顔を上げる度にその分だけ反動で体が沈む、という簡単な原理に気付いたことがクロール上達の鍵となった。
井ノ山さんの指南で手荒な救助法があることに驚いた。溺れる者は藁をもつかむというが、救助者を必死で掴んでその自由を奪って共に溺れる恐れがあるから、それを回避するために、救助者は遭難者を半回転させて背後から抱きついて救助する、暴れて危ない場合には少し溺れさせて弱らせる、というのである。危険を伴う救助法である。絶対マネしてはいけない。


保津峡ピクニック 1965年春 川下り遊船で有名な保津川にもこんな浅瀬がある。

塾の生徒を水泳にたびたび連れていった中で体験からいくつか水難防止のヒントを得た。
保津峡~嵐山では、急流で流されたら抗わずに流れに乗って湾曲部か水流の穏やかな岸に流れつくように努める、決して慌ててエネルギーを使い切るな、ということを体験的に学んだ。

また、浅い急流を下るときは、仰向けになって腹を上にして足から先に流されるのが一番安全であることを実際に試して会得した。低水位期の保津峡の早瀬で腹部を護りつつ手と足で底石の危険を避けながら流されていくのはスリルがあって面白かった。もちろん塾生にやらせたことはない。
若狭湾高浜海水浴場では、塾生のキャンプの手助けをしてくれていた院生の白石君が溺れかけた。水泳中に強い局所的引き潮*によって沖に流されかけて懸命に戻ろうとして疲れ果てた。幸いことなきをえたが、これは後で知ったが、力尽きて溺れる原因になるからぜったい避けないといけないやり方である。
正解は、あらがわずに流されつつ急流から左右どちらかに脱出するよう努めることである。顔を上げて泳ぐか浮くかすれば流されても流れが拡散して弱まり遠くまで流されることはない。この対処法は見聞して初めて知ったが、原理はやはり流れのエネルギーに逆らわないことに尽きる。

*離岸流  1955年夏三重県津市中河原海岸で女子中学生36名が突然の異常流で溺死した。当時離岸流というコトバはなかった。

 #離岸流

さて安保条約の話だが余談から始めよう。中学2年のころ担任に校内弁論大会クラス代表に指名された。経験も自信もないのにあてられて逃げ出したいほど困惑した。
思い付きで選んだテーマが、日ソ中立条約(1941.4.13)を破って宣戦布告(1945.8.8)したソ連はけしからん、という内容だった。これは当時の新聞のコピーだったが多数意見の反映でもあった。弁士に熱意がないのだから聴衆(保護者と生徒)も反応し難かったにちがいない。教師たちからも何の反響もなかった。
今では、数年来の近現代史研究で、劣勢を顧みず常に強気で先制攻撃に出て、負けた場合に失うものを考えだにしなかった国民が、条約満期(1946.4)前の侵略に国際法違反をうんぬんする意気地なさに、うんざりしている。戦前の国防方針を少し勉強すればそんな泣き言は恥ずかしくて口にできない。
歴史の鏡に映るソ連は日本であり、同様に日本はソ連である。日米についても同様である。戦争をするなら10倍、100倍返しを覚悟しなけらばならない、戦争の原因をつくらないように内政をただし外交で友好をたもつべし、とわたしは歴史から学んだ。
ところで、本題の日米安保条約は大戦の落とし子であり、核の傘にも核の冬の原因にもなるシロモノである。日本の終戦との関わりでいえば、米英ソはヤルタ会談(クリミヤ半島 1945.2)の密約で対日ソ連参戦の条件を取り決めた。ソ連はドイツ降伏後2,3か月で参戦する。報酬(戦利品)は南樺太と千島列島とする。ところが大戦の終結が近づくと体制の異なる米ソの先陣争いが始まり戦後冷戦体制の大枠が見え始めた。
4.5 ソ連、日ソ中立条約不延長通告(満期は1年後) 
5.7 独、無条件降伏 
6.25 沖縄戦組織的戦闘終息 
7.16 米国原爆実験成功 
7.26 米英中、対日ポツダム宣言 
8.6 広島に原爆投下 
8.8 ソ連対日宣戦布告・ポツダム宣言参加表明  北満・朝鮮・南樺太に侵攻開始 
8.9 長崎に原爆投下 
8.15 日本無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表 
8.17 ソ連、千島列島東端占守島から進駐開始/日本守備隊と激戦 
8.30 マッカーサ連合軍最高司令官厚木から
横浜進駐

ソ連の言い分:ヤルタ協定、ポツダム宣言に基づくソ連取り分の占領に応じないのは理解できない。防戦すればポツダム宣言違反として捕虜、戦犯として処分する。
日本の言い分:日ソ不可侵中立条約期間内の対日同盟、宣戦と開戦は国際法違反である。侵攻には防戦する権利がある。捕虜、戦犯視は不当である。
双方の言い分に特別こだわる気はない。だが東西冷戦により全面講和が凍結され、アメリカが沖縄を、ロシアが北方4島をふくむ千島列島を、最重要の接壌としてキープし続けていることには無関心でいられない。日本列島の周辺の島々と海は日本の接壌*
でもある。接壌の状況変更は容易にナショナリズムを刺激し戦争の火種になるからである。
*誤解を避けるために念を押すが、接地という意味で主権とは関係ない。

米中露の対立があるかぎりロシアが北方4島の主権をすべて放棄することは絶対にありえない。アメリカが不用意に日露米の接壌に変更を加えることも考えられない。現にあの広い北海道には米軍専用基地はない。日米共同使用施設千歳キャンプはあるが・・・。
接壌を侵せばどうなるか。北満まで遡らなくてもキューバ危機を例示すれば足りる。ウクライナはロシアがもっとも重視する接壌である。ウクライナとNATOの接近を観てロシアは先手を打った。ロシア人が多く住むウクライナの東部を切り裂き、ロシア人が多数を占めるクリミアを不当に併合した。
日米安保条約は沖縄と北方4島関連で生きている。そのうえ中露米と日本の軍備増強が著しい。この際、日本列島全体が中露米の接壌であることをわすれてはならない。とくにアメリカにとって日本はトカゲの尻尾になりかねない。沖縄が本土の尻尾にされたように。
細長い領土はまるまる接壌であり広大な後背陸地を有さない日本は大戦となれば死活的に不利だ。その弱点を見つめながら、ITの進歩で国境の概念も地政学も変わる50年先、100年先を想像できる「アインシュタイン」のような天才が現れないかな~。
とんだ天才待望論に飛躍して御免!

 

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廃村八丁・幻の土蔵/北山行

2019-01-23 | 生活史

恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 
和泉市信太森葛葉稲荷神社に伝わる葛の葉子別れ伝説から。葛の葉は白狐の化身、子は「安倍清明」。江戸時代、浄瑠璃や歌舞伎となって庶民に親しまれた。今でも、きつねうどん、稲荷ずしを「しのだ」ということがある。[前頁問題に対する回答]

自分史への復帰にあたって起点と軸になる人間関係を明らかにしておく。
1964年春、卒業式後数日して親友溝尾を京都北方の岩倉に訪ねた。そう、岩倉具視が籠って討幕の陰謀を練った、あの岩倉である。そこで、そのご無二の親友となる大浜と初めて出会った。やがて医者になった大浜は岩倉に新婚の巣を設けた。訪れる度に通り抜けた路地の入り口に名刹実相院があるが私は一度も拝観しなかったことが今になって惜しまれる。
やがてわが師友・井ノ山さん一家も岩倉のさらに奥まった新興住宅地に伏見桃山の税務署官舎から移り住んだ。
私もまた下鴨北園町に離れの勉強部屋を借りて転居した。
こうして私の紹介で井ノ山、大浜両家族が出会い、それに家族を持った私の一家も加わった、三つ巴の家族的付き合いが始まるが、それはずっと後のことである。

大浜と溝尾の付き合いは下宿が同じだった?からと思われるが定かではない。二人の趣味が登山だったことは確かである。私の山行は二人に感化されて始まった。最初の山行は廃村八丁だった。京阪三条から京都バスで北上し広河原で下車、一泊用の装備を担いで登山開始、海抜770mのダンノ峠から海抜600mの八丁に至る。
5家族がようやく生計を維持できた谷間の小盆地である。八丁山は森林資源が豊富だったから古くから北と南の村が入会権をめぐってたびたび争った。一番古い記録は1307年である。歳月が流れて明治維新による地租改正で地権の確定が施行されたとき代々山番をつとめていた5家族の共有となった。訳ありの隠居・元会津藩士の原惣兵衛が知恵を貸して5家族共同経営方式に加えて分家は山を下りるというちょっとした掟を導入して共倒れを予防したという伝説が残っている。明治維新で有力者が代表署名して田畑、山林、原野を私物化した歴史事実をかんがみると感嘆を禁じ得ない。土蔵も一つを5家族で共有していたと想像できる。これは必要が生んだ小さなコミューンではないか。
近代化が原因で太平洋戦争までに八丁部落は消滅した。1934年初頭に3mの大雪で盆地が埋まったことがダメ押しとなったといわれている。京大の山田名誉教授が過疎の語源は八丁にありとする論文をPDFで発表しているらしいがネット上で検索したが見つからなかった。
私たちの山行でかろうじて記憶に残っている印象を記す。ダンノ峠を過ぎると自然林のトンネルがあった。今は森林浴推奨スポットになっているのではなかろうか。さわやかな樹木の香りと枝葉のざわめきが涼しい風にのって身体を包む感じは幼いころのジャングル体験とはまた違った感覚を呼び覚ますものだった。ジャングルではサルや野鳥の鳴き声があちこちから木魂し積もった落ち葉の蒸れた匂いがひんやりした空気に充満していた。
ちょうどシャクナゲの花が咲き誇っていたから八丁を訪れたのは1964年か翌年の5月の連休であろう。同行者大浜にとってシャクナゲは特別の感慨を催したに違いない。というのは大浜が敬慕する探検好きの人類学者今西錦司が戦前八丁を訪れた際にシャクナゲに言及しているからである。これが縁でシャクナゲは私の自分史に両三度顔をだすことになる。
登山者、ハイカーを引き寄せた土蔵は、ほかの建物が朽ちて背の高い雑草に埋もれる中ひっそりと建っていた。この土蔵ゆえに廃村を実感できたが現地は明るい開けた盆地にすぎず無常の野とか秘境とかを感じさせるものは何もなかった。私たちは土蔵の屋根裏に上がって一泊したが幽鬼に眠りを邪魔されることはさらになかった。
土蔵を有名にした最大の原因はその7,8年前に白い外壁の一面に描かれた高層ビルと街路の壁画である。今では熱心な研究者によって作者も作成時期も、土蔵の倒壊時期すらも解明されている。参照HP:柴田昭彦氏「廃村八丁の土蔵の歴史」

廃村八丁には4,5回行った。最初の時写真を撮っていれば、と悔やまれる。今回掲載した写真は1969年夏に撮ったものである。その時にはもう、心ない輩が焚火にしたのか外壁下部の板張りが剥ぎ取られて土壁が露出していた。
土蔵が亡くなって廃村を偲ばせるシンボルがぜんぜん無いにもかかわらず、名ばかりだが「廃村八丁」は山行コースの目玉として生き続けている。せめて写真で往時を偲んでほしいのでこの写真に限り自由に(できればソースを明示して)使って頂きたい。

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世界を見てしまった男たち/変わらぬものは心なり/自分史再開の口上

2019-01-05 | 近現代史

今年元号が変わる。当BLOGも本筋に戻って自分史中断時点1964年から再出発する。その中で近現代史を挿話風に考えたい。
1964年(日本の経済復興を世界にPRした東京オリンピック開催年)の自分史を摘録して自分史再開の移行措置としたい。

卒業と同時に自活を始めた。親のすねかじりを絶ち独自の活動を三つの領域で始めた。
その1)近現代の革命とは?の問いに答えるために、マルクスとレーニンの著作を読み通し、もろもろの革命と動乱の書物を読み漁ること。これをほぼ日課とした。松田道雄座長のロシア史研究会で人物に焦点を当てた近現代史の面白さに目覚めた。それが横道にそれるきっかけとなった。今後このテーマを革命研究と名付ける。
その2)地域労働学校、労働組合立ち上げの試みと既存組合への情宣活動。着手はしたが手応えがなかった。今後発想を変えて、工場労働とは何か、労働研究(テーマ名)に手を染める。
その3)西陣のお寺で小学生対象の学習塾を立ち上げ生計を立てた。
生きる糧も大事である。しこしこ生きる様を「生活史」と名付けてテーマとする。
今後の記事は上記三つのテーマに沿って展開される。では、物怖じしない国際人を育てるヒント集、という大袈裟なタイトルはどうなる? あふれるほどの観光客や出稼ぎ、留学生と接触する機会がある今日、日本人はすでに国際人の資格をモノにしている、こんなタイトルでものを書くことは照れくさい。こんな風に考えていたが、たまたま下掲の本を読んで気がかわった。国際性に新旧、国籍はない、と。

 ちくま文庫 初版 1988年文献

気どりもなく、おそれもなく、〈人間と人間とは互いに理解し得るものなのである〉という、現代人が忘れがちな、素朴だが普遍性のある信念だけをたよりに、自分自身の身の丈にあった姿で外国人と交わった庶民たちの姿に、私はよい意味での国際性の根源をみる。こう、著者・春名徹氏は「初版あとがき」に記した。
そして『はじめてのアメリカ』と題する記事のサブタイトルに、とある漂流民の言葉、顔貌着衣は異なっても「変わらぬものは心なり」を引用した。われわれは西郷が奄美群島という「異郷」でこの人間観を脳裏に焼き付けたことを見たばかりである。

天保年間、永住丸という商船(樽廻船の系統)が嵐にあって漂流し乗組員13人がスペイン人の密貿易船に救われ、こき使われ、メキシコ/カリフォルニア半島に置き去りにされた。13人はばらけていくつかのグループとなりメキシコ人に救われ、それぞれ養家で家族並みの待遇を得た。労働をする居候生活である。言葉はわからないが心は通じる。ままならぬ意思疎通によっておこるハプニングはユーモラスである。
やがておおぜいの村人に見送られ、今生の別れを惜しんで抱き合い大泣きして、旅立った。マカオ、中国経由で異国船を乗り継いで相次いで帰国した。旅費もまた道中の善意と村人のカンパに支えられた。地方官のサポートがあったとはいえ国家の介在なしに国籍・国境を越えた民間人のリレーで数年後に無事それぞれの故郷の土をふむことができた事実は驚嘆に値する。
それはアメリカ人、メキシコ人に限ったことではなく、日本の民間人も外国人を救助し帰還を援助した美談が各所に残っている。
一例を挙げる。関ヶ原の記憶があたらしい1609年、千葉の御宿沖でスペイン船サン・フランシスコ号が台風で遭難した。村人は総出で村人口を上回る生き残り漂着者317名に1か月以上「同情されるほど貧しい」なかで衣食を提供した。宿には寺社をあてた。もちろん藩の支援が有ってのことであろう。遭難者は翌年家康の援助で無事メキシコ(一部フィリピン)に帰還できた。この故事から400年たったが、それは今も日墨間の友好・交流の縁となっている。
本題に戻ろう。実際の帰国者は5人で8人は滞在地は分かっているが帰国した形跡がない。その内一人は断罪されかねない鎖国下の日本への帰国を断念して途中の清国に留まった。5人は長崎奉行所とそれぞれの藩で尋問を受けた。また医者等の知識人が聞き書きを残した。それらがアメリカ漂流記となって市井の注目を集めた。中浜万次郎がアメリカ合衆国から帰国する6~8年前の出来事である。ちなみに、下記に名が出る善助ともう一人は寄港したハワイで万次郎の仲間と出会い、万次郎が才能を見込まれて渡米したことを知った。
帰還の詳しい経過は省いて代わりに船頭格の善助が後ろ髪を引かれる想いで現地に残した覚書のなかの和歌を披露する。一見読みづらいが私は近現代史の古い文献に触れてきたおかげで読み解けた。脳トレと思ってトライしてはいかが?  次号にて
解説する、とことごとしく言うほどのことではないが。

恋しくはたつね来て見よ和泉なるしのだの森のうらみくすの葉


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在宅介護・診療・逝去・葬送/母身まかる/享年104歳

2018-12-19 | 家族>社会>国家

母を先月の今日見送った。母は、徳島、北海道、ブラジル、久留米と福岡、大阪、と地球を一回りし、大正、昭和、平成の三代を生き抜いた。私が駆け足で考察した近現代史と時代が重なる。
畳の上で楽に死にたい。これは多くの日本人の願望である。母は在宅のまま介護ベットの上で眠ったまま安らかに逝った。大往生だった。
その前の週の木曜日、嫁に「毛糸のパンツを編んであげられなかった」のが心残りだ、「もうダメだ」「ありがとう」「さよなら」と意思表示していた。本人は口を動かしてそう言っているつもりだが耳が遠いわたしには通じない。嫁には通じた。母は年の割に耳が良く、こちらの言うことはかなり聞こえていた。やがて本人が予想した通りの最悪の体調になった。眠りこけて摂食飲水がほぼできないのに下痢気味になったうえ尿がほとんど出なくなった。
金曜日、わたしが指を握らせて「さ」なら強く握ってというと応えてくれた。よ、な、らと意が通じた。私は「さよならはまだ早い」と言ってそれ以上「対話」をしなかったことが今心のこりである。昏睡、飲食不可。夕方6年生と保育所の曾孫3人が来て「おばあちゃん、がんばって~」と声を張り上げるが反応なし。
ろうそくの灯が燃え尽きる前に一瞬最後の煌きを発するように母もまた命の灯を燃やして夜8時過ぎに少量のおかゆとすりおろしたリンゴを食べた。さらにかつてなかったことだが夜10時頃に好物のパンを食べる意思表示をしてパン粥とトロミをつけたお茶をほんの少し摂った。これが最後の飲食となった。
土・日曜日、目覚めることがない。昏睡状態が続く。38度の熱がある。背中の褥瘡jokusou がひどくなったが本人からの訴えはまったくない。訪問看護師が医師と連絡をとりながら頻繁に見舞ってケアしてくれた。
11月19日月曜日、眠ったままが続く。午後2時過ぎ私は2階に上がる前に母の様子を確かめた。呼吸がやや早く首筋に手を当てて脈を確かめると脈打ちが呼吸と同調しているように感じられた。ちょっと変だなと思ったがそれ以上考えず2階に上がった。30分ほどして妻が下りて来てと呼んだ。降りると息してないという。触るとあったかい。妻が看護師に電話している間に軽く心臓マッサージをした。

私には微かな迷いがあった。先週の水曜日最後に訪問医が来たとき、消化も嚥下も悪くなったうえ点滴も落ちない状況を踏まえて、最期が近いことをそれとなく話しかけてきた。「延命治療はしないで良いですか」と再確認を求められて、私「たとえば」先生「胃ろう、点滴、心臓マッサージ」私「結構です」 点滴による水分補給にはほかの道があったことを後で知った。かつて施術が困難なため私が苦痛をあじわった体芯の大静脈点滴である。在ると知っていたら多少迷ったと思う。

まもなく訪問医が来た。まだ温かかったので「先生、まだ生きていますよ」と言うと、2,3調べたうえで臨終を告げられた。「午後3時38分 死因は老衰による脱水症」        

畳の上往生の願望は今日の家族状況、働き方事情下では至難の業である。わが家ではたまたまそれが可能になった。そのことも含めてあれやこれや秘訣等を記録して参考に供したい。
一昨年の正月は福岡から見舞に来た私の従弟妹会の宴席に最後まで座って付き合うほど元気だった。家では週2回デイ-ケアの送迎に車椅子にのって応じていた。堀炬燵に足を入れて食事をする以外は畳の上で寝ていた。嫁と私に支えられてトイレにも行っていた。堀炬燵とトイレ歩行が背筋と足腰の機能を保つうえで有効に働いている、とケアの人たちによく言われた。
デイ-ケアでは入浴とリハビリがありがたかった。本人は、デイ-ケアでも一日寝てすごすばかりだったので行くのを渋ったが入浴できるのが嬉しくて休まず続けた。私たちがデイ-ケアを選択したきっかけは夫婦では安全に入浴介助ができなくなったからである。                                       デイ-ケアでは初めのうちは自分で食事を摂っていたがやがて介助が不可欠になった。家では一日2食と間食を嫁の介助で食べた。口内炎と舌の硬化で入歯の装着を嫌がるようになると流動食に切り替えざるを得なかった。エンシュア(商品名)で栄養を補給したが、流動食になってしばらくすると体重が4キロ激減した。今年4,5月ごろのことである。このころ週3回のヘルパーをケア-マネを通じて依頼した。ヘルパーをお願いしたのは私が右肩腱鞘炎でヘルプできなくなったからである。
同じころ
背もたれなしで炬燵にすわって食事を摂るのが困難になった。トイレ歩行も二人がかりで支えて「イッチ、ニ」「一、ニ」と掛け声に合わせてむりに歩かせた。
6.18の北大阪地震を母は介護ベッドの上で迎えた。畳の上だったら物が落ちてきて危なかったかもしれない。現に死亡事故のあった小学校の近くに住んでいる娘は液晶TVが飛んできて頭に負傷した。小学生が亡くなったことを知って母は「こんな年寄りが死なないで・・・」と少女の死を悼んだ。
支えても立てなくなって
最後の2か月はベッドの上でおもに嫁がシモの始末をした。人間の尊厳に思い至ったがその内なんとも感じなくなった。
老衰の決定的な一撃は2か月前の夜間に起きた。体を起こしてトロミをつけたお茶を飲ませていた時気管に入って母はむせてもがき、のけ反るほど苦しんだ。救急病院で吸引治療とCT検査を受けた。肺に食べ物カスが残っていそうだから数日が危ない、入院さして抗生物質で肺炎を予防しながら経過を見るしかない、と主任医師に言われた。延命治療については本人の古いカルテに記載されているとおり「受けない」でよいか、わたしの確認と署名捺印を求められた。5泊して退院した。
このころから食事中に眠りに落ちるまでの時間がだんだん短くなり食事と飲水の量と回数が少なくなった。元来胃腸が丈夫だったのに数日下痢がつづき
点滴で水分を補った。下痢が止まり一時持ち直したように見えた矢先点滴ができないほどに衰弱して万事休した。

母が苦しんだのはお茶でむせて救急治療をした時だけである。自分の身体の自由が利かなくなったことを嘆いたり早くお迎えが来ないかと死の願望を口にしたりすることはあったが死の不安があるようには見えなかった。夢と現をごっちゃにすることはあったがブラジルと北海道のことは記憶が確かでよく話題にしていた。介護者もよく心得たもので食事中覚醒を保つ手段としてその話題を持ち出した。

母が家で死を迎えることができた要因を考えてみた。
私が一昨年現役を引退して妻と二人で介助できるようになったのが一番大きい。妻の献身は実の親に対するのと変わりなかったが一人では持続できないことである。
つぎに地域に病院を中心に診療と介護のコミュニティがしっかり根を
張っていたことを上げなければならない。毎週訪問診療と訪問看護が交互にあり切れ目なく母の健康を管理してくれた。ケア-マネと係の人が介護素人の私たち二人に常に先回りしてノウハウを教え備品を揃えてくれた。
それは元ブントの先輩が開設した診療所が始まりであった。大学時代かれが中核派に分裂して行ったためその後出会っても知らんふりをして診療以外の話は一切していないが、営利的でない富田健康を守る会がなかったら、母の幸せな最期もなかったと感謝している。地域医療に貢献している元全学連・全共闘指導者は外にもかなりいるがその初志貫徹の生き方に頭が下がる。敬天愛人を地で行っている。
三つ目の要因は市政の在り方と市民の意識である。人権への取り組みが濃い。揺りかごから車椅子を経て墓場までケアが熱い。家族葬だったが納棺から火葬まで市の職員が懇切丁寧に指導、実行してくれた。
最後に私のこども3人がほかでもなく地域に住んでいて孫と一緒になって陰に陽に支えてくれたことをあげたい。

 



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2.26事件/近現代史を振り返るーあとがき

2018-12-04 | 近現代史

1936.7.12 磯部、村中を除く15士処刑 8.7 「国策の基準」決定 大陸・南方海洋への進出方針 8.11北支処理要綱決定 華北5省の防共親日満地帯建設を企図 11.25日独防共協定 12.12張学良による蒋介石監禁 国共合作の端緒

1937.7.7 北京郊外盧溝橋で日支両軍衝突 7.28日本軍、華北で総攻撃開始 8.15対華全面戦争開始(華中-上海で激戦) 8.19北・西田・磯部・村中処刑 8.21 中ソ不可侵条約調印 紅軍、八路軍(国民革命軍)に改編へ 事実上の国共合作成立

2.26の首魁たちは、満洲国容認、華北侵略反対、対米戦回避、対ソ戦警戒であった。北以下4名は刑死の前に日中戦争という亡国の事態を知り得ただろうか? 
わたしの近現代史への関心は菊地章典先生に薦められて石光真清の手記4部作を読むことから始まった。真清は10歳で熊本城下で西南戦争をまじかに見た。私は真清の足跡を追いながら日清戦争(台湾掃討) 対露諜報、日露戦争、シベリア出兵、韓国義兵闘争と韓国併合、関東大震災に筆を進めた。大正デモクラシーと国際協調路線をはさんで、治安維持法と大陸積極政策、満洲事変、国内動乱を研究した。そして回りまわって西郷の西南戦争に舞い戻った。
たくさん書いたが、田中上奏文*が偽書を装った巧妙な情報秘匿策であることを発見したことと樺美智子さんの死の真実を突き止めたことは、自負に値すると思っている。
田中義一首相が提起した「対支政策要綱」の基礎資料である東方会議の秘密議定書「満蒙における積極政策」である。その後の張作霖爆殺、満州事変、満洲建国の伏線となった。ソ連、英米が反対しても満鉄を核とする満蒙の開発と大陸の経済資源で国富を増強すれば十分排撃できる、という新国防思想の根拠となった。国際連盟も極東裁判も巧妙なセキューリティ・トリック(漏洩しても偽書とみなされる仕掛け)にはまってその歴史的重要性(ヒットラー『わが闘争』を想起させる)を見逃してしまった。
対中国戦争、対米戦争については対象化する気はない。これまでの考察、なかでもシベリア戦争の考察から、日本の対華戦争が謀略と先制攻撃で電撃的にはじまり独断専行で戦線を拡大し、戦争に付き物の略奪、強姦、虐殺が欧米で広く宣伝され、大義なき戦争で国際的に行き詰まる、強大な連合軍と戦った太平洋戦争に至っても勝利が見込めないままずるずると戦争を続ける成り行きが想像できて研究する意欲がわかないからである。
かわりに自分史にかかわるエピソード、ニュースのトピックは戦時ものも積極的に取り上げるつもりである。

国境の接地を接壌という。この間たびたび目にしたなじみのないこの言葉がずっと気になっていた。
敗軍の将を痛罵する表現に、彼は地球儀(または世界地図)を見ながら戦略を立てた、というのがある。世界地図だけで戦略を考える軍略家がいないのと同様に世界地図を見ないで国防を論じる者もいない。だから私も日本を中心にした世界地図を観ながらこれまで対象としてきた日本の国防論、戦争の歴史を振り返って後書きとしたい。
本格的な地政学(地理政治学)のなかった幕末、吉田松陰はオホーツク、日本海を内海とみなしたうえ、朝鮮・琉球の朝貢を主張し「北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋[ルソン]諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記している。
山県有朋は欧州視察の経験から一歩踏み込んで主導線[国境]・利益線[朝鮮半島]なる概念で国防を論じ、後日田中義一に帝国国防方針(既述)を立案させた。
当時よく使われた接壌という用語は欧米起源の地政学の中には見当たらない。狭い意味では国境に接する地帯、軍人たちの共通理解では国境の両側の国防上警戒すべき、できれば担保したい地帯である、と私は理解している。砕いて例えて言えばセクハラ・ゾーンである。手を出したいが出したら平和を破る微妙なゾーンである。

具体的には千島、樺太、沿海州、朝鮮、満洲、台湾である。ロシアを意識したこの区域設定については、西郷も青年将校も、はたまた武官として欧米を視察して地政学を学んだ一夕会中心の将官佐官からなる軍首脳と中央幕僚も同一見解であっただろう。

さて、環太平洋の地図に目を移して見よう。出典は23年前の「日本の侵略展」北摂実行委員会パンフレットである。私が引いた〇の内側を見て欲しい。



日本の「生命線」満州国を建国すると華北があらたな接壌になる。そこを侵略すればもはや踏みとどまることができない。接壌国防論は、戦争の原因ではないが開戦の引き金になる。アメリカが内庭を侵されたと怒って米ソ核戦争手前まで行ったキューバ危機をあげるだけで余計な説明はいらないだろう。また国民を煽って排外的に国論を統一する手段にもなる。
荒らしてはならないその接壌-華北でたちまち旧帝都北京を占領した。8月には国際都市上海で激戦を開始、11月に占領、12月13日首都南京を陥落させた。中国は広くて人口が多い。白旗を上げるはずの蒋介石は首都を奥地の重慶に移して徹底抗戦を宣言した。このときナポレオンがロシアでみた悪夢を一瞬でも想起した将官はいただろうか。長期戦になれば接壌論はお役御免になる。


上掲地図で南方は置いといて華北、満洲、朝鮮、台湾を含めた日本の「領土」と領海を見て欲しい。これを見て日本が極東の一島国から一大大陸・海洋国家に大きく成長したとうぬぼれない国民がいただろうか。神州不滅、大和魂の忠君愛国の教育で世界がみえない国民が戦争に熱狂するのは当然であるが、大学出のエリート軍人と官僚が日満の統一した計画経済と自給自足で戦争を遂行できる、戦争で戦争をまかないつつ、石油等足らない物資は南方に求めればよい、海軍軍縮の首枷が取れたからには巨艦を建造して太平洋の制海権を掌握できる、と踏んだのはいただけない。
かれらはスマートだから情報処理能力が高い。都合の良い知識と情報をつまみ食いして目先の戦術をたちどころに立案し、すぐれた執行能力を発揮する。だが精神主義と技術的、行政的側面にとらわれて戦略的思考のレベルが低い。蒋介石の臥薪嘗胆の策と巧みな外交戦略、毛沢東の「持久戦論」と根拠地ゲリラ戦術に完敗した。

最後に言いたいのは、排外主義をかきたてて来た接壌論を(できれば地政学も)世界情勢を考える上で有効利用、つまり平和のために逆用してほしいということである。次の戦争熱にかからない予防薬-ワクチンとして。中国、米国、ロシア、日本の今日の接壌はどこか。台湾、沖縄、尖閣、北方四島は関係国にとって接壌である。うっかりすると、日本そのものが米中ロの接壌にされるかもしれない。

 

 

 

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2.26事件/大西郷と青年将校/惻隠の情

2018-11-24 | 近現代史

勝海舟が西郷を悼んだ歌   濡れぎぬを ほさんともせず子どもらの なすがまにまに果てし君かな 
[勝の言う濡れ衣:征韓論と賊魁視]

 出典  www.museum.kyoto-u.ac.jp

2.26の首魁たちは大西郷のような豪傑が出現して維新を遂行することを信じて「討奸」テロと永田町一帯と警視庁制圧に踏み切った。結果は西南の役同様一党壊滅に終わった。首魁たちと大西郷が精神と生き方で共通していたことを強調したい。断っておくが両事件を比べる意図はない。西南の役はその名の通り内戦だった。
両者の決起には精神は明確だが権力志向がない。後のことは「天意に従う、大丈夫の出現に俟つ」的な他力本願である。したがって決起後の戦略も政権構想も政策の青写真もない。クーデターの要件を満たしてないからクーデターであると断定できない。個人的な思い付きだが大塩の乱に近似している。
精神については明々白々である。両者とも東洋的惻隠の情からの決起である。惻隠の情とは何か。私には漢籍の教養がない。だから人類の属性である弱者救済の心をこのように表現する。仁のほうがわかりやすいがあえて聞き慣れない用語にして意味をしぼった。西郷の生き方を観ると孟子と陽明学の影響を強く受けていることが分かる。その孟子に「惻隠は仁の端 sokuin wa jin no hajime」とある。

惻隠の情は、人間本来に備わる性善の心である。普段は心の底に隠れていて国難、大災害等で表に出て人々の心をひとつにさせて連帯を生む。共同体の魂そのものである。阪神大震災と東日本大震災に際して各人が体験した居ても立ってもいられない気持、それから熾った一体感はその表れである。

西郷の惻隠の情は尋常ではない。
文明と未開について西郷は遺訓で言う。西洋が「実に文明なれば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮じゃ」 西郷は明治6年江藤新平(→佐賀の乱)板垣退助(→民権運動)等の征韓論に反対してみずからを使節として派遣するよう閣内工作をして閣議決定を得たが天皇の裁断で大久保、岩倉の時期尚早論に敗れて*下野した。約600名の官吏、軍人が西郷に従った。翌7年大久保政府は砲艦外交を開始、「台湾征討」「江華島事件」で武力に訴えて目的を達する。
*岩倉がおじけた三条太政大臣の代行で上奏した閣議決定文書、添付した自派のコメントを見たいが私には叶わない。
また、官と民の関係について言う。「役人に於ては、萬人の疾苦は自分の疾苦にいたし、萬民の歓楽は自分の歓楽といたし、日々天意を欺かず、其sono本に報ひ奉る處のあるをば、良役人と申すことに候。若此mosi kono天意に背き候ては即、天の明罰のがる處なく候へば、深く心を用ゆべきこと也」
これは沖永良部島で西郷が命の恩人・土持正照(與人役)に提言した役人の職分についての心得である。西郷は流刑先の奄美群島で薩摩藩による苛斂誅求と制度的収奪を体験した。サトウキビの単作強制、黒糖の専売は欧米の植民地支配と異なるところがない。青年将校たちが見聞した農村の窮迫とは次元の違う不幸である。満州事変後、勝者が満人を不幸にしていた。戦線拡大を体験した末松によれば「兵士たちは、もう居留民の権益擁護のためなら来ないよといっていた」
荒っぽい結論だが、西郷は反帝国主義の思想家、愛国者であり、青年将校は反帝に傾いた反共主義愛国者である。

西郷と青年将校は民衆の不幸に寄り添って行動した。西郷が大西郷になったのは寄り添っただけではなく是非を問わず命を預けたからである。また西郷はみずからの武威発動で犠牲なった戊辰の役における敵味方の死者にも死をもって寄り添おうと死地を求めていた。
両者とも資本主義と西欧文明、中央集権国家の仕組みと富国強兵策を否定していない。主体性のない、伝統を否定した直訳的受容の仕方、官の横暴と腐敗、利己主義と弱肉強食、都市への集中と郷土の衰退という結果に警鐘を鳴らしたのだ。
農村と都会において階級格差が深まり共同体の紐帯がゆるみ家族がばらけて一家団欒が損なわれている。青年が貧困と徴税、徴兵より体を代価にして家族を支えている。上のほうでは為政者と財閥、軍閥、官僚等の特権階級が癒着し腐敗し文明と放埓を享受している。さらに我慢ならないのは国策が生んだ下積みの犠牲者を自己責任とばかり冷笑し見下し無慈悲に突き放している高位高官の無責任体制である。両者はこの体制を黙視することができなくてそれを変革する志に命をかけたのだ。

その体制は変容しつつ現代も維持されている。
戦後の矛盾が集中的に表れた沖縄を念頭に置いてみよう。中央政府に在日米軍基地と国軍基地の75%を押し付けられ地方自治を足蹴にされる沖縄は差別的統治以外のなにものでもない。本土のわれわれはエゴからその体制維持に加担している。わが身を顧みても青年将校たちと共有する精神は減衰し情熱は消えている。恥ずべきことである。
北一輝も青年将校も国民を神類に進化させる精神革命を夢想、期待してテロに訴えたが逆効果に終わった。惻隠の情は人類を人類たらしめる隠れた遺伝子である。将来ありうる核戦争で共滅しないことを願うばかりである。

 

 

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2.26事件/玉・民衆・剣/一体化した全体主議の成立

2018-11-05 | 近現代史

  河野司◇編二・二六事件 獄中手記・遺書1972年 河出書房新社

2.26事件に至って期せずして国体の新たな姿が露わになった。それは、青年将校たちが抱いていた国体の理想の光景を完全に裏切るものだった。国体明徴目的が国体暴露結果となってしまった。
かれらがイメージしていた国体は、天皇と国民が何のへだてもなく慈しみ合う「一家団欒」であった。大西郷の敬天愛人に通じるユートピアである。かれらはこのへだたりを取り除けば天皇と国民と軍部の意識改革、精神革命が発動すると信じ、自分たちの役割は維新の端緒を開くことだと誇負した。
忠君愛国の空気を吸って教育を受けた軍人として当然の成り行きであるが、かれらがたのみにしたのは天皇の大慈悲と大権、国軍の武威と将軍の帷幄上奏権であった。即弾圧につながる社会運動と関わることは戦略上タブーであった。マホメットはみずから左右にコーランと剣を手にしていたらしいが、青年将校たちはマホメットと違って他力本願であった。
目的達成のためには、天皇は判断を誤らない無謬の存在=現人神でなければならず、信頼度に不安がある軍閥の将軍に上奏を頼まねばならなかった。へだたりをなくすためにへだたりを利用しなければならず、あまつさえ機関たる天皇の大権と皇道派将軍の領袖に頼るほかなく、結果的に意に反する天皇崇拝と無条件服従の完全閉塞的な全体主義体制を招いてしまった。
もともと接近することさえタブーであった民衆運動は治安維持法の発動により共産党が壊滅した1933年以後衰退しつつ体制に吸収されていった。
軍部主導の国政を企図する幕僚たちにとって昭和維新を標榜する青年将校は獅子身中の虫であった。軍部は事件を奇貨として「内部の内部は外部」すなわち敵である、とばかり皇道派将校と直接行動志向の青年将校の粛清を内外で完遂し、同時に動乱の幻影をちらつかせて国政に対してもフリーハンドを得た。青年将校の首魁たちがつとに予言していた「幕僚ファッショ」「軍部ファッショ」*体制が現出した。
*当時も今も独裁的傾向に対して何でもかんでも「ファッショ」と呼ぶ傾向があるが、2.26事件以降の政治=軍事=社会体制の定義として適当でない。軍部主導の全体主義とすべきだ。

 確証はないが西田税作成配布の怪文書 国会図書館公開のデジタル文書

北一輝の改造法案が静的な案であり大綱であるのに対してこのパンフレットは動的な「維新革命」(著者が付けた見出し)の宣言書である。維新史に照らして「極少数者」暴発の意義を説き、設計図と気運にこだわる待機気分を批判して、西南戦争以降「背信的逆流」となった明治維新の結果を改造ではなく革命すべし、革命トハ亡国ト興国トノ過渡ニ架ス冒険ナル丸木橋ナリ、と青年将校を鼓舞扇動した。際立つ特徴を列記しておく。
・今日ノ国軍ニ統制スルダケノ価値アリヤ。  国軍を「革命的維新」の対象とする。国家ノ革命ハ軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ最終トス。
・古今凡テノ革命ガ軍隊運動ニ依ルハ歴史的通則 
・革命ハ暗殺ニ始マリ暗殺ニ終ル。桜田門外の変を見よ。
・「地湧ノ英雄」「下層階級ノ豪傑」「大西郷」 [敬慕と待望の表明]
・革命は「新ナル統一ノタメ絶大ナル権力ヲ有スル専制政治ヲ待望スル」
・維新ノ民主的革命ハ一天子ノ下ニ赤子ノ統一ニアリキ。明治天皇は民主革命家、専制君主、ローマ法王の「三位一体的中心デアル」
・尊王の本義とは「君民間ノ亡国的禍根[新官僚党閥、経済貴族主義]ヲ一掃シテ一天子ノ下、国民平等ノ人権」を実現すること、それはとりもなおさず「近代革命」である。
・近代武士階級の忠君は
上階級に対する拝跪と下階級に対する尊大とがセットになった封建的奴隷心である。「日本ハ速カニ此ノ封建的奴隷心ヲ脱却セザルベカラズ」 [西郷の心を想わせるくだりである]
・希クハ一切ノ對支那軽侮観ヨリ脱却セヨ・・・為メニ日本其者ガ自ラ軽侮サルヘキ白人ノ執達吏ニ堕セルノミ。[国内平等を国家間平等に敷衍]

西田税(北一輝の使徒とするにたる人物はほかに見当たらない)はまぎれもなく民主革命家である。このパンフでは、天皇は天子、国民の総代表であり主君ではない。国民は赤子で臣下ではない。君民と言い君臣と言わない。愛国と尊王はあるが忠君はない。
北と西田は民主主義者であり同時に国家主義者である。大陸政策、植民地政策ではがぜん吉田松陰以来の国家主義者が共有する国防方針とほぼ重なる主張をした。日本海と朝鮮を守るためバイカル湖以東のシベリア、アムール・沿海両州を領土化する。これは「日本帝国ノ権利」である。
北露南英の侵迫に対抗して支那の独立保全と印度独立をまっとうする。「四億萬民ヲ救済スルト共ニ南北ニ大日本ヲ築キテ黄人ノ羅馬帝国ヲ後ノ史家ニ歎賞セシメントスルカ」
領土拡張と4億万民救済の主張を著者はどう正当づけるか。西田は天意を奉じて天道を宣布する、「救済ノ佛心ト折伏ノ利剣トヲ以テ内-乱離ヲ統一シ外-英露ノ侵迫ヲ撃退スル」と記している。北の持論《持たざる者の権利闘争》を前提にしていることは明らかである。

2.26事件の前年に青年将校間に出回ったこのマニフェストは改造法案にくらべて広く読まれ影響が大きかった。すくなくとも磯部と村中をして決起のイメージ(時機をえらばず少数精鋭でテロを実行し後事を皇道派将軍と天皇に託す)を固めさせ、その精神と情熱に火を点けた。以下の叙述を通してその一端を示したい。
磯部は同志の四十九日に世の中を前より「悪く変化さした、残念だ 少しも国家の為めになれなかったとは残念千万だ」と述懐し復讐を誓った。この件kudariで磯部は「革命とは順逆不二[国賊でも忠臣でもない]の法門なり」と統帥権体制への反逆を是認した。そして反省頻りである。「大義の為に奉勅命令に抗して一歩も引かぬ程の大男児[前原一誠と西郷の名をあげている]になれなかったのは 俺が小悪人だからだ 小利功だからだ 小才子だからだ 小善人だったからだ」
村中は、磯部より控え目で磯部ほど前向きでない。「昭和維新の断行とは臣下の口にすべき言にあらず、・・・今回の挙は喫緊不可欠たるを窃に感得し、敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり、素より一時聖徳に副はざる事あるべきは万々覚悟」   村中は「不肖ノ死ハ即チ維新断行ナリ」「不肖等ハ武力ヲ以テ戦ヒ勝ツベキ方策ハナキニアラザリシナリ  敢テ コレヲ為サザリシハ  不肖等ノ国体信念ニ基クモノナリ」と遺言した。 青年将校たちが叛乱ギリギリのところで「寸止め」した苦心をわたしは納得した。 

8月31日の磯部日記、看守の中に「バクフの犬がいる」の記述を最後に、獄中からの内密の訴えは途絶えた。翌年8月19日処刑されるまで1年弱のあいだ磯部、村中、北、西田は独房で表現と文通交通の手段のないことで呻吟した。思想と思いがどう進化したか、死に様はどうであったか、まったく不明だ。幕府のやり方よりも酷い。死刑囚には知らせる権利、国民には知る権利、官憲にはそれを保障する義務があってしかるべきだ。
2.26事件で叛賊とされた一党は戦後も長らく政府機関、為政者、官憲、学者、評論家と作家に不当に扱われた。大西郷が国賊とされたことと比べることすらできないほどひどかった。それでもその精神の真実を隠蔽しつくすことはできなかった。

 

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終活、79歳で始めた/傘寿80歳になった!

2018-10-16 | 体験>知識

80歳!  他人様は聞いて高齢に驚くが当人はさしたる感慨がない。いや、頻繁に訃報を耳にするから自分もいつ逝っても不思議でない歳になったんだなあと感じる。実は79歳で初めて終活をした。その経緯を記そう。昨年の今頃から右隣りのご主人が元気に車で動き回っていたのに立て続けに3人亡くなった。正月明けに3人目の隣家のご主人が亡くなって隣近所で改めて弔問に行くことになっていた日、私は午前中の記憶が飛んですぐさま脳外科の精密検査を受けた。どうもなかったが死の不安が隠れていたことに気付かされた。
「男の陣痛」と言ってしまうほどもがき苦しんだ前立腺肥大悪化では、手術には狭心症の常用血液サラサラ薬を制限しなければならず、そのせいで血栓梗塞で死ぬのではないか、あるいは手術中の出血過多で死ぬのではないか、の不安に悩んだ。
古い銀行通帳の整理のため何度も銀行に通った。終活というほどのことではないかもしれないが、終活を続けねば、という気持ちになったのは確かだ。

近現代史のBLOGを綴っているが、これが良い脳トレになっていてボケを遅らせる作用をしている。最高の終活だと思っている。80歳代では自分史の中に戦中戦後の体験した史実を織り込む程度に、これまでやってきた歴史叙述をおさえて、BLOGを楽しもうと考えている。
狭い庭先で野菜の鉢植えを楽しんでいる。よい運動にもなる。
BLOGが一段落したら近現代史の古書をヤフーの通販か競売に出品するつもりだ。たまに古書を求めてオークションを利用するがこの年になってこどものようにわくわくさせてくれることはほかに知らない。売れ残ったものを一括始末するのが終活だと思うがそこまで自分がやれるだろうか?
結局わたしの終活とは趣味の言い替えにすぎないようだ。死ぬまで自己本位の生き方しかできない、と家族はあきらめているににちがいない。

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2.26事件/村中孝次と栗原安秀・坂井直/旭川連隊

2018-10-09 | 近現代史

話によれば、陸軍は本事件を利用して昭和十五年度迄の尨大軍事予算を成立せしめたりと、而して不肖等に好意を有する一参謀将校の言ふに「君等は勝った、君等の精神は生きた」 と。不肖等は軍事費の為に剣を執りしにあらず、陸軍の立場をよくせんが為に戦ひしにあらず、農民の為なり、庶民の為めなり、救世護国の為に戦ひしなり、而して其根本問題たる国体の大義を明かにし、稜威を下方民に遍照せらるる体制を仰ぎ見んと欲して、特権階級の中枢を討ちしなり。(村中孝次)

 
 
平澤是曠『叛徒 2.26事件と北の青年将校たち』 1992年  道新選書
上掲書はこの記事の主たる典拠である。本書は、北の青年将校たちに焦点をあてて生い立ちから受刑までと遺族の苦難の一端を書き綴っているが、左右から攻撃された者たちの無念の真実を正当に評価した通史としても一般読者に推薦できる良書である。

 大正の初め、軍都旭川の第7師団将校子弟のための小学校で後年共に慟哭のドラマを織りなすことになる幼友達3人が学んでいた。斉藤史は長じて父親と幼友達の悲劇の面影に憑かれた著名なモダニズム歌人として、栗原安秀と坂井直は2.26事件の主要な実行者、刑死者として、昭和史に名を遺した。史の父斉藤瀏少将は連座して反乱幇助罪で禁錮5年となった。栗原が多分最後に電話した人物だったことが戒厳司令部の盗聴記録から読み取れる。栗原が瀏を師とたのんでいたことは他の史料でも裏付けられる。

「少年たちはポプラ並木と白いクローバの花咲く校庭[北鎮小学校]を駆け、柏のある低い丘のふもとでアイヌの矢尻などを拾って遊んだことがあった」

栗原安秀と史は同級だった。たがいにフミ公、クリコと性別を入れ替えて名を呼び合う仲だった。坂井直は2級下で「史姉さん」とよんでいた。安秀と直は父親たちが斉藤瀏少佐と同じ佐官級で懇意であったことから家族ぐるみのつき合いのなかで瀏を「おじさん」と呼びなついていた。

昭和の初め軍都旭川の第7師団に二人の将軍がいた。渡辺錠太郎師団長と斉藤瀏参謀長である。共に教育総監部とかかわるほどのインテリである。そのころ村中孝次が士官学校を卒業して故郷の連隊に配属された。学究肌で西洋かぶれと言われるほど欧州事情に通じていた渡辺はドイツ語に堪能で理知的、哲学徒のような村中の才能と誠実で温厚な人柄を愛した。軍務と自我の矛盾に煩悶し名曲と文学に泪する村中もまた、近代思想を研究しドイツ軍事史学に精通する学者風の渡辺を敬愛した。
時は流れて2.26事件で、渡辺と村中は、軍律を教え正す教育総監対蹶起した討奸隊の智謀将校として敵味方となった。予備役であった斉藤瀏も成人した3人の仲良しグループも事件の渦中にあった。

そうなった背景に東北以上に厳しい自然環境と
社会環境があった。北海道は元来自然と一体化して共同生活を営むアイヌの天地アイヌモシリであった。その生活領域はアムール下流域、樺太、千島列島、北海道と広範囲であった。フビライが服属するギリヤーク族の要請を受けて樺太に数度渡海遠征軍を送ってアイヌを駆逐しようとした、元寇に先んじる史実から、その勢力域の大きさがうかがわれる。
松前藩と幕府によってアイヌが半奴隷的状況に追い詰められて人口を激減していたところへ明治政府の国策的開拓がダメ押しの一撃を加えた。アイヌはアメリカ大陸の先住民同様の境遇「旧土人保護法」下に置かれた。
北海道の原野は、明治維新によって官有地とされた後、困窮士族を尖兵とする屯田兵集団に、後には華族、資本家に払い下げられた。皇室ご料地200万ha、本州資本家100万ha等巨大不在地主制が成立し全国一の小作地帯となった。北海道は、移民を受け入れ本州に産物と資源と人的資源を供給するばかりでなく北方警備の要地として旭川にのちに師団となる鎮台が置かれた。

村中が士官学校を卒業して旭川の原隊に帰った大正末期、移民の逆流が始まっていた。わが母方の家族もブラジルに再移住した。養子になって一人残った私の叔父*は同師団に召されて満州か樺太か千島で戦死した。それほど北海道の小百姓は冷害凶作で困窮続きだったのである。村中は初年兵の「身上調査をして其境遇の哀れなるに一掬の涙なき能わず」と日誌に記している。
1930~35年の農村大不況に1931年からの大凶作がかぶさった。

村中が貧農出身兵に寄り添った体験記述を残したかどうか知らない。処刑前のほぼ1年間、思いを綴る手記、手紙等遺書が一切ない! 封じ込めが徹底したためである。その間の村中・磯部と北・西田の思想の遷移の様が遺ってないのは昭和史にとって取り返しのつかない大きな損失である。間接的に彼の立ち位置をうかがわせるそれ以前の獄中手記を引き続き引用する。
「或は言ふ昭和十五年度より義務教育年限が八年に延長せらるる、これ君等の持論貫徹ならずやと。
謬見も甚し。・・・六年制に於てすら地方農民は非常なる経営困難にして、職員に対する俸給不渡りに陥り、又弁当に事欠く欠食児童を多発しあるに非ずや、八年制の地方農山漁村に与ふる惨害や思ひ半ばに過ぐ、不肖等は頃来義務教育費全額国庫負担を主張し来れり、地方自治体はこれによりて大いに救はるべし、更に一歩を進めて教科書、昼食等を官給せば、児童と其父兄とは又大いに救はるべし、然る後に教育年限を八年とすべく十年とすべし。今の八年制は形骸を学んで大いに国家を謬るもの、官僚の為す所斯くの如し」(続丹心録)

次にあげる栗原の体験は聞く者の心身を凍らせる。「あるとき、栗原は斎藤[劉]に、自分の部下には農村出が多く、満州事変で両手、両足を失い、辛くも命を保ち得た兵が、一家の没落を支えるため、最愛の妹が遊女になっており、それに自分は何も出来ず、樽の中に据えられて食べるのも着るのも人手によらねばならない。なぜ自分は生き残ったか、そしてこの眼で貧しい家の生活、両親の苦労を見ねばならぬのか、なぜ死ななかったのか、と悔む在郷兵のことを涙ながらに語ったことがあった」 数年後治安維持法で捕らわれて虫けらのように斃仆した鶴彬が詠んだ反戦川柳「手と足をもいだ丸太にしてかへし」(1937年)を連想させる挿話である。

死刑執行の近づいたある日、予審中の斉藤瀏の監房に小さな紙屑が投げ込まれた。"お世話になりました。ほがらかに行きます"  坂井からのものであった。"おわかれです。おじさんに最期のお別れを申します。史さん、おばさんによろしく クリコ"・・・斉藤は、二つの紙片を呑みこんでしまった」

史が詠んだ歌四首
 ひそやかに決別の言の伝わりし頃はうつつの人ならざりし
 いのち断たるるおのれは言はずことづては虹よりも彩にやさしかりにき

   ひきがねを引かるるまでの時の間は音ぞ絶えたるそのときの間や
   額の真中に弾丸をうけたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや


*叔父 勇(17歳)1934.9.11撮影 戦死年月日不明 子の無い裕福な家に養子にやられて肉親のいない環境でいかばかり寂しかったか察するに余りある。せめて甥の私が追悼しないと浮かばれない。合掌

 

 

   

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