自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

授業とテスト/笑い話と実話

2015-08-16 | 体験>知識

長い夏休みのあとすぐ一斉テスト期間に入った。
自治会の活動もテストにかかわるものとなった。
よく事業に出る女子学生にささやかな謝礼を払ってノートを借り、それを生協で印刷
して販売した。
活動家仲間は授業にあまり出ていないのでテストに関して笑いの種の宝庫だった。
まず伝説的な笑い話を紹介しよう。
試験官の採点風景...。
ヴァージョン1  扇風機で解答用紙を飛ばして飛行距離によって優劣を決める。
ヴァージョン2  2階から外に投げ飛ばして順位を決める。
これからは実際にあった同期の活動家と私の話...。
・自然人類学のテスト
「絶滅危惧種の類人猿が死んだ。研究者としての所感を記せ」
実際の回答「悲しかった」
・数学のテスト  テーマとまったく関係ない小論文をもって回答に換えるやり方
「それはさておき、大洋ホエルズ優勝を分析する。・・・」
わたしも、学科とテーマは憶えていないが、この方法で単位をもらったことがあった。
・英文和訳のテスト  授業で使用した小説の一部をプリントして試験会場で配布すると予告されていた。
アルバイトで多忙だったN君は対策として徹夜で和訳書を一冊丸暗記した。
本人いわく「英文に相当する対訳がどこなのか分からなくて失敗した」
・化学のテスト
わたしは履修届けは出していたが授業には一度も出ずテストも棄権した。
それなのにクラスの勉学優秀で真面目なK君より点数がよかった。
クラス委員として放って置けないので二人で先生のところに行って訂正してもらった。ばつの悪そうな若い先生が気の毒になった。

体育は必要出席数が足りないと単位をもらえなかった。
不足分は夏休み中の指定イヴェント参加によって補うしかなかった。
その夏長野県の志賀高原に合宿に行ったらしい。
らしい、というのは、二つの景色しか記憶にないからである。
アミューズメントパークらしいところでアヴェックがブームになっていた「抱っこちゃん人形」を腕にからませて観覧していた。
もうひとつは、脳裏に焼きついているエメラルド・グリーンの美しい火山湖はまぎれもなく白根山の湯釜である。
冬の合宿は志賀高原スキー場だった。最初で最後のスキー体験なのでこれはしっかり記憶している。初日合宿所に帰り着くと両手の指が凍っていた。無知ゆえの事故だった。軍手でスキーをするバカはわたしぐらいだろう。それに、かじかんだ手足を急にストーヴにかざすと血管が傷むことも知らなかった。
手当を受けた臨時医務所ですすめられてひとり下山、帰京して、医学部付属病院で診てもらった。処方されたドイツ製の高価な軟膏のおかげで、黒ずんだ指に皮膚が再生した。


1960年盆帰省/三池から博多へ

2015-08-15 | 体験>知識

大学生活最初の帰省は私にとっても両親にとっても重苦しく沈鬱なものとなった。
両親にとって一人息子のわたしは誕生のその日から命そのものであった。
すこし前両親は久留米草野の住まいを売り払って福岡筥崎に移り九大生向けの学生アパートを経営しはじめていた。
それまでは板付基地の米軍人向けのハウス経営で収入を得ていたが米軍の沖縄移転を見越して転業転居したのだった。
国内の反基地闘争の高まりが沖縄への基地集中を強めるとは何たる皮肉。
両親はTVや新聞で全学連が機動隊とぶつかるイメージを目にするたびに命が縮む思いをしたことだろう。
ちなみに3種の神器、洗濯機・冷蔵庫・TVが我が家に来たのはこのころだった。
ぎりぎりまで倹約してわたしに学費で不自由させないために貯蓄していたのだった。
わたしは京都で学費と生活費を現金書留封筒で受け取っていた。
同封の手紙は決まって「ご自愛を」で結ばれていた。
わたしにできることは、盆と正月に欠かさず帰省することだった。
博多にはリュックに詰め込んだ洗濯物を持ち帰った。
10日ほど過ごして家を出るときは胸ふさがる思いで息苦しかった。
こういうことが10年以上繰り返されることになる。

親子で安保を含めて政治討論をすることはなかった。
親は普通に自民党支持者、わたしはノンポリかブント。
ブラジル時代は誇り高き大日本帝国臣民、敗戦後は肩身の狭い勝ち組、わたしはそれを無機質の風景のように眺めるこどもの傍観者。
水と油、かみあうところがなかった。
だがそれは言い訳。
のちに知ったが、ドイツでは広く家庭内で親子間の激論、確執、戦争犯罪の追及と
抵抗があったらしい。
1960年代後半ドイツの学生は親に問うた。「そのとき、何をしていたか?」
そしてそれが国をあげての過去の清算につながった。
われらは家庭内闘争を避けた。
もともとディベイトの習慣もスキルもなかった。
街頭闘争が変革をもたらす、という行動方針を金科玉条としていた。
水と油がもみ合いで渾然一体化しないかぎり社会も政治も変わらない、という真理
にまったく気がつかなかった。