自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

東学農民軍の歴史を訪ねる旅/研究者三傑揃う/中塚明、井上勝生、朴孟洙

2019-12-01 | 革命研究

2019年は3.1朝鮮独立運動100周年に当たる。独立宣言でうたわれた独立、民主の精神は125年前東学農民革命を始原とする。
かつて「間島出兵/不逞鮮人/関東大震災・朝鮮人虐殺の前史」の記事において、わたしは、1910年の韓国併合、それに至るまでの民衆の抗日義兵闘争とその義軍将校・安重根による前韓国統監・伊藤博文暗殺について以下のコメントを付けた。

この討伐戦は日清戦争時の東学農民戦争*の繰り返しのように見える。満州、沿海州に逃げ込まないように、ソウルから遠ざけるように、忠清道から南へ追って包囲網を縮めて最後は全羅南道沿岸と島々で息の根を止める。
*東学教徒の死者が日本軍の日清戦争中の戦死者2,3万を上回ることは知られていない。川上操六参謀本部次長は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉くkotogotoku殺戮すべし」と命令した。捕虜、家族まで殺す皆殺しの報復は日清戦争に始まる。中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争』 2013年

 以下の記事の種本。各文言のクレジットは割愛します。

その東学農民戦争の史跡巡りが現役の三博士参加の下で実施されると知って即座に参加を決めた。

李氏朝鮮は1876年(明治8年)日本の砲艦外交により不平等条約(治外法権、無関税)を呑まされた。曰く「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権利を保有せり」
この規定により日本は清国の朝鮮に対する伝統的な宗主国としての影響力を断つ足掛かりを得た。後述するが、対清開戦の言い掛かりとして利用される。
開国の結果、朝鮮は清と日本の経済侵略により農村は疲弊した。王朝貴族と両班官僚は清・露・日という大国・強国の狭間で漂い改革の方針も定まらないまま党争と保身に明け暮れて民の困窮を顧みなかった。
こうした状況下で東学を名乗る新宗教が誕生した。その名のとおり西学(天主教中心の西洋思想)に対抗する社会改革思想である。真心をこめて「侍[在の意味か]天主・・・」*
と13文字の呪文を唱えるだけで天と人が一体となりやがて万人平等の現世楽園「後天開闢」が実現すると説いた。 世直しの危険思想を嗅ぎ取った政府は東学を邪宗として弾圧し1864年に教祖・崔済愚che jeu(慶州出身)を処刑した。
*万人にあまねく天主(宇宙万物の生命の根源)が内在しているという思想。ほかに「輔国安民」「有無相資」を主張した。

不公正な対日貿易で農民の困窮はますます深まった。1893年、輸出の90%、輸入の50%は対日だった。全貿易を収支金額で示せば総輸出170万ドル、総輸入390万ドルだった。農村は米穀不足に陥った。地方官が防穀令を出して日本政府のむたいな賠償請求(11万円で決着)を招いた。こうした日本による外患に加えて地方官の悪政と苛斂誅求があった。

東学は潜行布教で教団組織を広め全羅道を中心に各地で教勢を高めた。
1893年12月、東学全琫準chon bonjunを盟主とする謀議が全羅道古阜kobuでおこなわれた。首魁20名が円環連判状をつくり全州監営を陥落させソウルに直行することを決議した。
1894年2月、蜂起した農民軍は古阜郡庁を占拠し租税台帳を焼き払い監獄を解放し武器糧米を奪って民衆に分け与えた。
4月全琫準らは茂長muJanで蜂起し移動して四方を見渡せる大平野の中心白山peksanに本陣を置いた。そこで同盟を強化し組織を整え大義名分*と軍律**を定め「除暴救民」「輔国安民」の旗幟を掲げた。各地から万余の東学農民が詰めかけ「立てば白山(山が白衣でおおわれた)座れば竹槍(の林立)」の俚諺が生まれた。
5月増強した農民軍は全羅道地方軍、続いて政府軍を破り大きな犠牲を出すも全羅道首府・全州城に無血入場した。戦勝地・黄土峙fantozeには立派な「東学農民革命記念館」が建っている。また戦勝日5月11日は東学農民革命法定記念日となっている。
*日本の夷狄itekiを駆逐すること ソウルに進撃して権貴をことごとく殲ぼすこと [国王は別格]
**軍律12か条 降伏した者は受け入れること 困窮した者を救済すること 悪逆な者を追放すること 農民軍に従う者は尊敬すること 逃げる者は追わないこと 飢えた者には飲食を与えること [以下略 キューバ革命軍の規律を想起した]

このころ情況はめまぐるしく展開する。農民軍も政府軍もいっぱいいっぱいだった。農民軍と政府軍との間で、農民軍は全州を撤収、政府軍は農民軍の弊政改革案を国王に上奏、という妥協(全州和約)が成立した。
一方朝鮮政府は宗主国・清に農民軍討伐の来援を要請した。清が出兵すると日本も10年前の天津条約に基づき出兵した。清軍を上回る兵員と大本営(戦時措置)を準備した。重大事態を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、日清両軍の速やかな撤兵を求めた。
民族の危機に直面して全琫準は全羅道監司と全州で会談し「官民相和」の原則で治安秩序を正し、農民軍主導の弊政改革をおこなうことで合意した。農民軍は全羅道中心の勢力圏で身分制の廃止と土地の均等分配を目標に史上初の自治組織をつくり革新行政を開始した。戦局、政局がそれの成功をゆるさなかった。
日本は混成旅団をソウルに進軍させて朝鮮政府に圧力をかけた。その時持ち出した奥の手が「朝鮮は自主の邦」条項だった。条約違反で日本を欺いたという難癖である。
7月20日、日本は朝鮮政府に対して、清国との宗属関係破棄と朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退について、22日までに回答するよう最後通牒を突きつけた。
22日夜半、朝鮮政府は、乱は収まったので改革は自主的にする、日清両軍は撤兵すべし、と回答した。
7月23日早暁、日本軍は王宮(景福宮)を占領し高宗を擒torikoにした。
並行して親日傀儡政権工作をした。閔妃(高宗の后)との政争に敗れて幽閉同然の大院君(高宗の実父)にたいする復帰説得である。大院君は雲峴宮を日本兵に囲まれ警官同行で王宮に担ぎ込まれた。日本は閔一族を追放して大院君を執政とする親日政権を樹立した。
1894年7月25日、日清両軍は豊島沖で交戦し日清戦争が勃発した。日本の大義名分は朝鮮政府の依頼による朝鮮独立のための清軍駆逐であった。

日本軍の進軍に合わせて京釜(ソウル‐プサン)路、京義(京城-鴨緑江)路の兵站、通信線に対するゲリラ的蜂起が起こった。第二代教主・崔時亨che shihyon率いる忠清道東学の影響下にあった地域である。
11月
、全ボン準ら率いる南接部隊と崔時亨率いる北摂部隊が論山nonsanで合流して抗日戦を宣言しソウルに向かって進軍を開始した。東アジア初の大衆的抗日戦争である。
鴨緑江を渡って清国に進撃中の日本軍にとって後背の農民軍は獅子身中の虫軍事上絶対に駆除しなければならない大敵だった。大本営は東学討伐のために三中隊を派遣し朝鮮の官・民軍協力のもと三方から包囲網をしぼりながら南進した。
北上する東学軍と日本軍の主力は公州南方の峠・牛金峙ugumuchiで激突した。
前後20日間にわたる激戦の末農民軍は敗れ後退、逃避行を余儀なくされた。ゲリラ戦ではよく敵を悩ませたが会戦では武器の優劣、徴兵と義兵の訓練・組織の差が勝敗を決めた。竹槍と猟銃では最大射程1800mのライフル銃を装備した徴兵制度で訓練された正規軍の敵ではなかった。農民軍は2カ月におよぶ遠征の末全羅道南部に追い詰められ壊滅した。
12月末全琫淳は密告により捕らえられソウルに押送されて処刑された。
1月北摂農民軍の主力は南部、東部の長い逃避行の末、忠清道の本拠地・報恩pounに戻って、情報を得て待ち構えていた日本軍と戦って壊滅した。申榮祐氏の研究によれば鐘谷jonggokで犠牲になった北接農民軍は、夜間戦闘で395人、翌朝の掃討戦で2200余
人である。
2月18日、記録上最後と思われる戦いが峻険な大芚山daedunsanであった。大芚山は全羅北道の北端にあり秋の紅葉が美しい峨峨たる岩山である。今回ゴンドラで行けるところまで登ったがゲリラ終焉の痛ましさをもっとも実感した史跡となった。残党25名全員死亡。ある特務曹長の戦闘詳報の断片である・・・。「28,9歳ばかりの懐胎せし一婦人あり、弾丸に当たりて死す。また、接主[首魁]、金石醇は一歳ばかりの女児を抱き千尋の谷に飛び込み、ともに岩石に触れ粉殲となり即死せり、その惨状いうべからず」(原文はカタカナ混じり文)

  大芚山daedunsan

百年後の1995年北海道大学のある研究室で新聞紙に包まれた6体分の頭骨が見つかった。その一つに「韓国東学党首魁首級ナリト云フ」と墨書きしてあった。添え書きには珍島[全羅道西南端の島]平定時の死者数百名の内のさらし首とあった。採集者は日露戦争後に韓国で農業指導にかかわった農業技師であった。これを機に日韓の共同研究と交流が始まった事実に奇縁を感じる

今回の戦跡巡りは農民軍の順路に沿っておこなわれた。各地に大きな白亜の記念塔や記念館が建てられ立派に管理されていることに感じ入った。昼食をとった教育農場内レストランの庭にあった小さな古びた板碑の文が脳裏に焼き付いた。「もし湖南[古阜の謀議と蜂起があった全羅道]なければこれ国家なし」(若無湖南是無国家) 急いでいたので確かではないが安重根の言だと思う。
また関東大震災後に大逆罪容疑で裁かれた金子文子が朴烈と共に独立記念館で顕彰されているのを見て感慨を新たにした。金子文子は少女時代居場所がなくひもじい思いをしていたとき「鮮人のおばさん」に「麦飯でよかったらお食べ」とやさしく声をかけられて「この時ほど私は人間の愛と云うものに感動したことはなかった」と裁判で述べている。
文子はまた朝鮮で3.1独立騒擾の光景を目撃して「私すら権力への叛逆気分が起こり、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に湧きます」と予審判事に述べている。

最後に朴孟洙先生に東学農民革命の位置づけを語ってもらおう。古阜の記念事業継承会が蜂起100周年を記年して1994年に建立した下掲写真の立像群から始めよう。写真 「熊谷から平和を考える」BLOGから転載

  無名東学農民軍慰霊塔 

民衆が建立しただけあって立像が参拝者の目線に合わせて低い。犠牲者を抱き支えている戦士の立像は1987年の6月民主抗争時の実写真をもとに彫られた。無名戦士の顔はそれぞれ表情が異なる。武器は手作りの竹槍、農具である。これでもその後、なぜ石礫がないのか、なぜ女性像がないのか、という批判が出たそうである。

朴先生は、東学は支配者のイデオロギーではなく「下からの思想」である、と言われた。そして写真手前の福像[文字不鮮明]を指してコレがその象徴である、と解説された。わたしが訊くとそれは「命を養う飯椀」と答えられた。食と農が命と同様もっとも大事、というのが東学であり、日本の近代史の中にも観られる普遍的な世界観である、と指摘された。
 飯椀の拡大写真

朴先生は、秩父市を訪れて村の博物館で秩父困民党の行動綱領に「命」の思想を確認した時の喜びを記述している。自由自治元年[と自称した1884年]の困窮民救済を訴えた日本近代史上最大の農民蜂起の軍律は5か条からなり、略奪、女色、酒宴、放火等乱暴、命令違反を犯す者は「斬」としている。西郷軍にならって「新政厚徳」の旗
を押し立てたと云う。
朴先生はまた来日中に、田中正造が「東学党は文明的、12カ条の軍律たる徳義を守ること厳なり」と書いて東学思想を高く評価したことを知って感動した。田中正造は明治政府の富国強兵策がもたらした足尾銅山鉱毒事件に半生を投じて、廃村になった谷中村に移り住み日本初の産業公害闘争に文字どおり殉じた先覚者である。

出典  NPO田中造記念館
日本でも「命」ファーストの思想は沖縄、三池、水俣、成田・・・と受け継がれている

 


Game=遊戯をせんとや生まれけむ/高槻市でロケーション適地探し

2019-09-14 | 革命研究

わたしは生きる道として、革命でも労働でもなく、遊戯を選んだ。 遊戯が、ホイジンガの定義通り、自発的な行為、自由な活動であり、必要や欲望の直接的満足の外にあり、欲望の縮減と労働時間の短縮という、わたしが研究から得た結論にかなうからだった。
遊戯こそは共同体のつなぎになるという遊戯ユートピアを夢想することで格好をつけることもした。ほかに、一世を風靡したグローバルな文化革命の嵐、なかでもライヒの『セクシュアル・レヴォリューション』の全身の皮膚感覚を大事にする思想に影響された。
こうして活動対象として選んだ遊戯の数あるカテゴリーのなかでサッカー(米国と日本での呼称)が条件的にぴったりだった。肉体と頭能を使うだけでなく、一番器用な手handで触ることを制限してかわりに不器用な足foot と頭部headを主要な「武器」とするフットボールの特徴に、人間能力の拡張をみて、哲学的理由でfootballを選んだ。なんとも頭でっかちな選択だった。
わたしは全くの素人で日本に来てからは大学時代までサッカーのプレイを見たことも聞いたこともなかった。高校のラグビー・フットボールの授業でボールを遠くまで蹴ってほめられたのが唯一のキックだった。
ブラジルで「ガイジン」の父兄が休日になるといそいそとスパイクの手入れをして試合gameに夢中になるのを観ていなかったら、また短期間だがブラジルで仲間たちとボールを蹴っていなかったら、私の眼はサッカーに向けられなかった、と断言できる。

  ファゼンダ中村で  11歳

さらに、1964年の東京オリンピックでクラーマーの指導で力をつけた日本代表がアルゼンチンを破ってカラーTVをとおして国中を沸かしていなかったら、また1968年にメキシコ・オリンピックが近づくにつれてサッカーにたいする国民のさらなる期待感が膨らまなかったら、わたしの人生のキックオフの笛はサッカーに関しては吹かれなかったと思う。

わたしは少年サッカークラブを立ち上げるロケーションに京都と大阪の中間にある新興ベッドタウン高槻市を選んだ。1968年夏、わたしは場所探しのため高槻市の新しい阪急住宅街を炎天下汗だくになって歩き回っていた。

ソ連軍指揮下のワルシャワ条約機構軍の戦車がチェコに侵攻して「プラハの春」━チェコは「人間の顔をした社会主義」政権に転向していた━とよばれた民主化運動を蹂躙していた。東京オリンピック体操の名花チャスラフスカも抵抗していた。アブラゼミの鳴き声の向こうにたしかに戦車のキャタピラーの音がしたような気がした。

日本は高度成長期に入り、高槻市は人口が急増し子供と活気にあふれていた。人口統計によれば、1968年11万、1970年23万、1980年以降35万前後で安定。小学校数も分離、増設でピーク時には40校を越えたがその後半減した。
子育て中の中間層が多い阪急住宅5か所に囲まれた富田地区に居を構えることにした。こうして少年サッカーと英数塾の適地選びはすみやかに決まったが、借家選びは[次回]ひと悶着起きることになる。

 


遊戯の復権/遊戯の相のもとに活動する

2019-08-30 | 革命研究

わたしは1968年中頃には独自のソ連論に立脚して、レーニン主義前衛党建設を志向する革命運動とマルクス、レーニンの社会主義社会像とを否定するに至った。理論的に納得しないと運動に踏み切れない自分に後ろめたさを感じた。なぜなら革命は理論や陰謀によって起こるものではなく民衆のやむにやまれぬ情動の爆発によって起こるからである。そういう意味では十月革命や中国、キューバ、ヴェトナムの人民戦争のたぎる熱気に、神戸と東日本の大震災に際して感じた心の底からの連帯感と同じものを感じたし、その気持ちは今もかわらない。

ともあれ、革命にも労働にも幻滅した。では何をするか。肉体活動と精神活動が結合した何かであるが、それは革命研究の過程でおのずと決まった。おさらいをしながら進む道を探ろう。

ホモ・ファーベル(作るヒト)による商業、産業の発展は、ホモ・デウス(神のヒト)から成る中世の「神の国」共同体を解体して労働共同体(会社制度)を、僧侶・貴族(武人)階級に代わってブルジョア階級を、それぞれ支配的にした。労働蔑視、神秘、罪悪感が追放され、欲望が解放され、致富欲と労働、科学が現実世界を拡張した。
これは人間性の拡張であるが、マルクスはそれによって出現した機械制大工業を遺産にして、桎梏となった資本制的生産関係を改革して生産力をさらに解放すれば、人間性が十全に発揮される、という革命のバイブルを書いた。そうはならないことをレーニンの革命が証明したとヴェーユが後に確認した。
現実世界は欲望と相互に刺激し合いながら発展し膨張し続けた。その結果、社会的必要労働時間は縮減しない。その間に高度の頭脳労働を基盤とするテクノクラート階級が出現した。その「労働の質」は「労働の量」による分配にプレミアムを要求する資格がある。勤労者の所得格差が極端化した原因である。
肉体労働も頭脳労働も消滅することはない。ましな幸福社会にしたいなら、労働日の短縮と所得格差の縮小が根本条件である。ところがこの改革は一筋縄ではいかない。資本は一方で使用価値の生産を直接的労働時間への依存から解放しようとするが他方で価値増殖(資本の唯一の目的)のために剰余労働時間を増加させるからである。労働者もまた欲望に駆られて働きすぎてしまう。
かくて、われわれは、不断に膨張してゆく欲望の体系を逆に縮減しないかぎり、欲望と労働のせめぎ合いが発し続ける窮迫生活を克服できない、という結論を得た。

欲望を超えるもの、労働を超える活動は何か、考えるまでもなく、誰しも、あそびを思い浮かべるだろう。遊びの本質について、私が生まれた1938年にオランダの文化史家ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)を発表して、つぎのように書いている。「〈日常生活〉とは別のあるものとして、遊戯は必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。いや、それはこの欲望の過程を一時的に中断する

遊びを人間活動の本質として哲学した思想家はシラーである。第九の「歓喜の歌」の原詩作者で知られるあの詩人シラーである。1805年に没しているからシラーの思想はフランス革命と響き合っている。革命の勃発に歓喜し恐怖政治に戦慄し戦争を憂慮する中でシラーの思想は政治革命を否定して精神革命を模索する。カントの平和哲学の影響を強く受けて詩作「歓喜に寄せて」(1785年)を革命(自由と平等)鼓舞歌から友愛・平和讃歌に1803年に改訂した。
同時並行してシラーは、隣国フランスの革命が生んだ「最初の共和国」は生命のない無数の部分をつなぎあわせて全体として一つの時計のように動く精巧な機構mechanikに沈淪した、人間は「単に自分の仕事、自分の学問の印刷」にすぎなくなった、「文化が疎外をもたらした」、という認識に立って、時計にたとえた「機械的国家」の「修理」を研究した。 
だがフランス革命がもたらした悲劇を教訓にして、時計を「止めないで」修理しなければならない。そこでシラーは、文化革命を政治改革に先行させるほかないと結論して『美的教育論』を著して世に問うた。感性と理性、質料と形相に分裂した人間の本性を美的教養によって陶冶すべきだ、という主張である。
これを労働₌価値観を代表するヘーゲルと対比するとその違いが明確になる。ヘーゲルにとっては「陶冶としての教養」は「より高い解放のための労働である」「未開人は怠けものであり、なにを考えるともなくぼんやりしている点で文明人と区別される。というのは実践的教養とはまさに、仕事の習慣と、仕事なしではおられないということにあるからである」 
へーゲルが労働を自由への道程、人間と社会の形成体と考えたのにたいして、シラーは「美こそ自由へ赴く通路」、人間性の「第二の創造者」と考えた。
ヘーゲルにあっては労働、とりわけ精神労働だけが人間の本質であるのにたいして、シラーにあってはひとは「遊戯する場合にのみ完全に人間である」
ヘーゲルが国家のなかに自由の実現を幻視したのにたいして、シラーは「遊戯と仮象との楽しい第三の国」を夢想した。
シラーとともに先を急ごう。シラーによれば、同時代人は「理性ある動物」である。美的仮象は、すでに現実に縛られて「物質的目的の低劣な道具」、「素材についた余剰即ち美的付加物」つまり装飾に堕し、遊戯は労働の不名誉な余暇つまり労働エネルギーの再生産に必要なものに転化している。その結果、ひとは、みずからを飾って「別様」の存在にみせることはできても、けっして「別様」の存在にはなっていない。「かれは現在の瞬間を乗り越えることにはなっても、決して一般に時を乗り越えるということはない」
「教養の最も大切な課題」は、この貶められている「遊戯衝動」を、今日ただいま、平凡な物理的生活のただなかで、支配的にすることである。何をもってそれを表現するか? 当時なら芸術であろう。今日なら遊戯そのもの=gameを対象にすることができる。だが芸術もスポーツも、労働という大海に浮かぶ小島にすぎない。労働こそ遊戯衝動の対象にならないかぎり「人間性の完成としての美」的社会は実現できない。それへの道程は果てしなく遠い。
労働で遊ぶことは、例外をのぞいてすこぶる困難である。それでも、美的教養、美的に労働する心はもちたいものだ。まれだが、そのように働く職人や店員、芸人に出逢うと幸せな気持ちになる。
労働、芸術、スポーツ以外の分野でも遊戯の相のもとで活動することはできる。ただし、いずれの場合も、時空と規模の限界がある。大きな社会では無理だ。シラー自身も、狭い空間の小さなサークルでなら一時的に遊戯共同体が可能だと考えていた節がある。

以上をもって、自己流の革命研究と労働研究のまとめとする。どう生きるべきか? 自分のアイデンティティに目鼻をつけるという目的を達成したからである。次回からはちっぽけな、ちょっと変わった自分史を回想する。



 


労働に未来は?/共同体形成のつなぎ足りうるか

2019-08-07 | 革命研究

の真の目的は、この世をよくできた、しかも安価な生産物で満たして、人間の精神と肉体を、生存のための苦役から解放することにある」
1926年、労働価値説に立ち、かつ労働者を重労働から解放したいという動機で歴史に残る大事業を始めた彼は、こう宣言した。彼とはだれか? 産業を共産主義に置き換えると、彼に該当する人物は、5ヵ年計画のスターリンや改革開放の鄧小平に置換可能である。
著者の名はヘンリー・フォードである。労働合理化の「科学的管理法」を駆使して商品の大量生産と大量消費社会に道を拓いた第二次産業革命の巨星である。
生産性を飛躍させて「高賃金低コスト」を達成して従業員がフォード車を買える産業社会を実現した。彼は、先駆者として、
労働者の熟練を機械に体現させてロボットを、分業を統合してラインを、現場による改良改善からシステム工学を開発、発展させた。離職者を少なくするためフォードは政府に先駆けて週5日制、8時間労働を採用した。が、LINE労働者は、ある朝目が覚めると自分がロボット人間に変身していることに愕然とした。


1913年  The first Ford Assembly Line   出典:Wikipedia

わたしが、研究中多くの労働者の声をアンケートを通して聴いて、今なお記憶しているのは、耳をふさぎたくなるようなフォード社労働者のうめき声である・・・。
「アセンブリー・ラインは労働をする場所ではない。・・・。1万個のボルトの一つ一つをつまみあげ、さきの1万個とまったく同じ個所にはめねばならないということがわかっている」--「[工場に]着いたとき、私は、しようとしていることがいつもわかっている。まえの仕事にあったような、楽しんで待つことは何もない」
フォードは労働者を牛馬同様の重労働から解放したが労働を内容のない単純繰り返し作業に変えた。精神も肉体も一部しか活用されなくなった。精神と肉体の全面的解放という理想に背馳することおびただしい。 マルクスの「それ[機械の自動体系]は筋肉の多面的運動を抑圧し、また一切の自由な肉体的および精神的活動を不可能ならしめる」という推論は妥当だった。

人間は共同体、社会をつくる動物である。社会を形作る絆kizunaは、時代が進むにつれて、血縁から地縁と太くなり、いつしか貨幣という商品引換券に変貌した。貨幣、商品とは何か、これは哲学者、思想家が格闘し続けてきた超難問である。マルクスの労働価値説が一番有名である。
商品が貨幣の媒介で交換可能なのは使用価値のほかに目には見えないが交換価値があるからだ。マルクスはそれを抽象的人間労働と名付けた。それは社会的に有用な労働時間のことだと割り切れないところに商品価値論の不可思議が残る。抽象的人間労働はいわば幾何の証明問題を解くために引く補助線みたいなものだ。ところが、フォーディズムは、それ(抽象)を実体として可視化してそれが現存していることを世に知らしめた。現場を見たことがないひともチャップリンの喜劇映画『モダンタイムズ』でそれを想像できる。

内容のない、自由のない労働に、期待も喜びもあるはずがない。思考を要しない労働に協業があるわけがない。協業こそ一つ前の重労働中心の産業社会にあって労働者の唯一の喜楽であり団結の源泉ではなかったか?  わたしは貨幣の代わりに協業が繋ぎtsunagiとなった新社会をつくるのを夢見て労働の探求に努めたが、現実はますます理想(労働が心身全体をつかった自由で創造的な活動に向かう社会)から遠ざかっていくのを知って、労働を軸とする社会とそれを目標とする運動に幻滅した。それは会社という疑似共同体から距離を置くことにつながっていく。


ノーメンクラトゥーラまたはテクノクラート/新しい抑圧階級の誕生

2019-07-23 | 革命研究

抑圧民族、すなわち、いわゆる"強大"民族にとって国際主義は、諸民族の形式的平等を守るだけでなく、生活のうちに現実に生きている不平等に対する抑圧民族、大民族のつぐないとなるような不平等を忍ぶことでなければならない。 ソ連邦誕生翌日のレーニン口述遺言  1922年12月31日 

生産工程に絞っていた視野を工場の管理部へ、さらに企業経営、国民経済へ広げて見たい。それは視点を生産力から生産関係に移すことでもある。

全工程を合理化し運営するのは頭脳部門の計画部である。革命ロシアでは工場委員会、労働組合がその役割を果たすべきだという議論とブルジョア専門家を高給で雇うべきかの議論とが同時に戦わされた。明治政府がお雇い外国人に依存したように、ロシアでも内外の専門家に頼るほかなかった。
このコラボ状態をレーニンは労働者統制と言った。もちろん共産主義の労働者がブルジョア専門家を統制するという意味である。この階層関係を基本とする体制をレーニンは国家資本主義であると強調した。
続けて「左派」の即時「断固たる社会化」=国有化を意識して述べた。遅れた「ロシアは、国家資本主義にも社会主義にも共通なもの(全人民的な記帳と統制)をとおらずには、現在の経済状態から前進することはできない」

そして革命の翌月に、計画経済の開始など夢想だにできない状況で、国民経済の計画的調整機関として最高国民経済会議を創設し同時に労働者統制(つまり実行機関として労働組合)の中央集権化も決議した。が、前稿でみたとおり戦時共産主義の渦中でそれらは有名無実に等しかった。
内戦期に闘いの勢い、弾みで実際に起こったことは、労働者統制をほとんど素通りして、工場委員会による「国有化」と「生産管理」であった。しかし実態は自己本位の工場占有と財産略取であった。ときには個々の工場委員会が原料、燃料さらには食料を調達する目的で田舎に押し買いに行った。無政府状態という意味でも戦時共産主義だった。

生産の復興がソヴィエト権力にとって死活問題となって採用された新経済政策NEPは、小商いを合法化した点で統制の緩和、資本主義の部分的容認であったが、ソヴィエト権力の下での労働者統制、国家資本主義の枠内に収まる政策であった。
労働者によって十全の統制が実施され、生産と管理の技術が先進国ドイツなみになれば、ロシアは「社会主義の総和」に達する、とレーニンは展望を語っている。したがって、必要な教育を受けた労働者がブルジョア専門家に代わって国全体の生産と分配を調整・管理し、農業集団化+計画経済を実施して重工業国化を実現したスターリン体制のソ連は、社会主義国と定義してもよさそうである。生産力視点に限れば、である。
生産関係視点でみれば様相は依然として国家資本主義である。資本の所有形態はさして問題ではない。国有であろうと持ち株会社であろうと、資本と経営の分離は共通である。独占資本主義(トラスト資本主義とも称された)もまた、世界市場分割戦争で覇権を争う過程では、国家官僚の統制を受け(第1次世界大戦は総力戦だった)その間は国家資本主義の一類型と化した。

時代は飛ぶが、統制経済という点ではヒットラーのドイツとスターリンのソ連(及び、いうまでもなく軍国主義日本)との間に違いはない。またドイツの企業経営者とソ連の経済官僚との相違は、個別資本的立場に立つか総資本的立場に立つかの違いでしかない。両者の機能、職能に違いはない。分野の別はあっても共に高度の専門知識をもつテクノクラートである。
ヒットラーが総選挙で第一党に躍り出た1933年、シモーヌ・ヴェーユは歴史による検証に堪え得る論文「展望」を世に出した。ソ連を
歪曲された労働者国家とするトロツキーの認識に次のように反論した。
デカルトによれば狂った時計は時計の法則の例外ではなく法則内の異なったメカニズムである。「同様に、スターリン体制はこれを狂った労働者国家としてではなく、それを構成する歯車装置によって規定され、その歯車装置の本姓に適合して作用するところの、異なった社会的メカニズムとしてみなさなけらばならぬ」 スターリニズムとナチズムは同類である。
「あたらしい種類の抑圧、機能〔職能〕の名において行使される抑圧が来つつある」
「大衆にかかわるすべての政治的潮流が、ファシズム的、社会主義的、共産主義的のいずれを以て呼ばれようとも、国家資本主義という同一の形態にむかっているという事実を、閑却することはできない」
「社会主義とは、勤労者の経済的主権であって、国家の官僚的・軍事的機関の主権のことではない」

レーニンは、目標とする経済の「記帳と統制」を遂行するテクノラート(当時出来立ての用語。レーニンの用例は無い)が特権階級にならない歯止めをコミューンの3原則に求めた。パリ・コミューン(評議会)は1871年に72日間だけ存続した民衆革命政権である。コミューンについて、マルクスは、「労働の経済的解放を成し遂げるための、ついに発見された政治形態」と評価し、レーニンは、プロレタリア革命の先駆的模範と考えた。
「(一)選挙制だけでなく、随時の解任制、(二)労働者なみの賃金を越えない俸給、(三)すべての人が統制と監督の職務を遂行し、すべての人がある期間"官僚"になり、したがって、だれも"官僚"になれない状態へただちに移行すること」
これは十月革命の直前に蜂起の背中を一押しするために書かれた『国家と革命』に見られるレーニンの社会主義ユートピアである。
レーニンは戦時共産主義に終止符を打って間もなく深刻な健康悪化におちいり翌22年脳卒中で十分活動ができなくなった。NEPと国有企業の労働者統制の実行過程にかかわることも、国家資本主義から「全人民的記帳と統制」(社会主義)への道筋、ロード・マップを描くこともできなかった。
だから私はコミューンの三原則を読み直してレーニンの夢想の中の社会主義像を以下のようにまとめて明確にすることにした。
三原則の(三)「すべての人が統制と監督」が後に「物資の生産と分配とにたいする全人民的な記帳と統制」の警句に定着した。労働者がブルジョア専門家に学んで、また年少者が学校教育の普及で、専門的能力を身につけて、交代で「官僚」の職務を遂行する状態になれば、労働者とブルジョアの区別も、労働者管理というコトバもなくなり、かつ、階級なき社会だから政治的国家も消滅する、とレーニンは考えた。
この社会主義像は、当然のことだが、見る人が生きている時空のいかんによって見え方が違う。1960年代のわたしはそれに埋み火のような情熱をもらって活動したあと、それの実現可能性の検証に机上で挑んだ。
それは20世紀の終わり近くまでながらく青年の夢でありつづけたが今日では知る人すらいないであろう。それも当然である。歴史は急転し現実は急膨張して個々の人間は相対的に空しくなり理想社会を空想する余地がない。
それでも、レーニンが官僚機構を国家と経済の屋台骨と見定めて、その機能を独占資本主義から継承した後に、官僚を必要としない「科学的社会主義
」の未来があると信じたこと、その不可欠の機能が特権的職務にならないための原則、措置に言及したことは、どれも、今なお私には示唆的である。ソ連、中国と日本の歴史と現状を見渡せる今だからこそなお一層示唆的である。
つまり、その機能は全人民がかかわれるほど簡易ではない。職務化された存在感のある高度の機能は自己主張を通さずにはおかない。三原則の中の選挙・リコール制と労働者なみの俸給制は何の保証にもならない。なんらかの特権と官僚機関とは不可避であり、所有によらない、占有による階級もまた避けられない。
かつて理想とされた通りの社会主義は不可能である。しかし社会福祉に傾いた国家資本主義と富の公平な配分は可能である。この公平は冒頭のレーニンの遺言が含意する公平である。

1921年、NEP期のロシアで国家計画委員会(ゴスプラン、前身は全国電化計画委員会ゴエルロ)、国立銀行(ゴスバンク)があいついで設立された。まだ機能していないが、レーニンのいう非政治的国家の機関である。しかし先に始動したのは共産党という名の国家の最高機関だった。
1922年4月、5人の政治局員の一人スターリン(ほかの4人はレーニン、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ)が新設の書記局の書記長を兼任した。書記局の設置自体が政治局の「小部屋」が権能増大で狭くなった証左である。その時点で党の書記長が国家の最高指導者を意味する時代が来るとは当のスターリンはもとより誰も想像できなかった。ところがこれがソヴィエト・ロシアの官僚機構の最高機関に急成長していくのである。
革命政権はいわば成行管理、出入りの多いかなり混沌とした組織であったが、スターリン書記長の出現によって、時間はかかったが、初めてテクノクラートによる管理の形が創られた。スターリンはエリート人別帳₌ノーメンクラトゥーラに基づく人事制度を作り上げた。ノーメンクラトゥーラは後に転じてソ連の新しい階級を指すコトバになる。
重ねて言うが、官僚制度化は政治過程が生産過程に先行した。1922年5月と12月、レーニンは脳卒中の発作で倒れた。スターリンは人事と情報をテコに短期間で書記局を実権のある機関にした。またレーニンのいない政治局内でトロイカを組んで徐々にトロツキーを孤立させることに成功した。

一党独裁の国家では党が国家より上位にある。共産党幹部会が最初で最強の官僚機構になろうとは、レーニンは考えたこともなかったであろう。そして党官僚による最初の被害者がレーニン夫妻とグルジア共産党幹部であったとは何たる皮肉、悲劇!  しかしテーマからそれるのでここではちょっと垣間見ることしかできない。 
レーニンは安静を理由に面会と情報から遮断された。スターリンが監督責任者であった。
レーニンは、民族人民委員兼党書記長のスターリン(グルジア出身)がソ連邦結成(1922年末)にあたり、グルジア共産党幹部の民族自決派を排斥したのを知り、ソ連誕生の最中に、ロシア大国主義の是正のために、不退転の決意で病の床で孤軍奮闘した。
書記局が首都トビリシに送り込んだ調査団の報告書が弾圧(パージ、殴打)の追認であるのを見て、レーニンは、スターリン書記長の更迭を勧告する内容をふくむ遺書を口述した。直後の1923年3月10日、3度目の発作でレーニンの最後の闘い(党内官僚主義にたいする闘争!)は幕を閉じた。逝去は1924年1月21日である。

ままならぬ身体と孤立を強いる周りの状況に憤慨し悔悟し絶望するレーニンの心境は察するにあまりある。冒頭に遺言の一部を唐突に掲載したのは国際主義者₌レーニンの無念に想いを寄せたためである。その時、わたしは、先進国は後進国の商品を市場価格ではなく政治価格で買うべきである、と主張したゲバラの持論に想いを馳せていた。
 
 麻痺状態のレーニン  1923年夏  出典:Wikipedia

レーニンは、ゲーテの言葉を引いて、個人の生き生きした活動を窒息させる形式的で硬直した仕事のやりかたを官僚主義として、しばしば非難し是正を訴えた。だが党幹部の官僚主義的手法からくる事務渋滞および政治的不都合と闘ったにすぎず、「労働者の前衛」共産党がドグマで凝り固まった官僚機構になり、共産主義教育を受けたエリート党員が要職に就き新しい階級となることに無警戒であった。無警戒の根底に先進産業国に固有の頭脳労働の過小評価があった。

他方「展望」で世界に蔓延しつつある全体主義を目前にして、ヴェーユは、つぎの絶望に近い言葉を遺した。社会主義のたった一つの希望は、今日の社会において可能なかぎり、われわれが目ざす社会を規定するあの肉体労働と知能労働との結合を、今のうちから自分の内部に実現した人々にかかっている」
「いずれにしても、われわれにとって最大の不幸は、成功することも理解することもできずに死ぬことである。1933.8.2」

 


労働をいかに組織するか/レーニンとシモーヌ・ヴェーユ/『10月革命への挽歌』から

2019-06-28 | 革命研究

100年以上前、第一次世界大戦下の革命ロシアは「パンと平和と土地」を求める民衆の支持を得て初めてプロレタリア政権を樹立した。だが勝利の原因はすぐさま政権の基盤を揺るがす原因になった。
対戦国ドイツは革命政権が発した平和布告を受けて講和交渉に応じたが交渉が決裂すると進撃して現在のウクライナ、バルト三国を占領し首都ペトログラードを脅かした。レーニンは領土・接壌よりもソヴィエト権力の安泰をえらんで屈辱的なブレスト-リトフスク条約を結んだ。一部のボルシェヴィキと左翼エスエルは対独即時革命戦争を主張した。
英仏等の同盟国は一方的に同盟から離脱して戦線を放棄したソヴィエト政府を利敵行為として非難した。ソヴィエト政府が旧政権の債務不払いと秘密条約暴露を宣言したことは同盟国側をさらに刺激した。ロシア革命が列強に与えた最大の衝撃は共産主義政権の誕生そのものであった。日米をふくむ列強は孤立したソヴィエト・ロシアに対して四方から革命干渉戦争を仕掛けた。
「パンをよこせ」がソヴィエト誕生の一因であるが、都市労働者は飢え続けた。当初は農民とのあいだで工業製品と穀物の物々交換でしのいだが、内戦の渦中でほどなく万策尽きた。レーニン政府は食料独裁令を発し穀物の強制徴発に踏み切った。
労農兵ソヴィエトは普通選挙の議会、市会ではない。工場、農村、兵舎のそれぞれの総会と委員会である。最上位の政府機関が人民委員会議であり、一般に労農政府とよばれた。工場代表では共産党(ボルシェヴィキ)が強く、農民の間では社会革命党(エスエル)とその左派が優勢であった。
当初ボリシェヴィキと左翼エスエルが政府を構成したが、ブレストの屈辱的講和と食料独裁令に反対して左翼エスエルが政権から離脱した。労農同盟の政体は名ばかりになった。
対価なしの武力による徴発を共産党は戦時共産主義と称した。村ソヴィエト内に(あまり効力を発揮できず短命に終わった)貧農委員会を設けて優遇した。農民を富農-中農-貧農に分類して農村に階級闘争を持ち込んだ。農民がみずからのイニシアチヴで復活させた土地社会化(共同体所有)路線に対する上からの土地国有化(国家に土地、労働、穀物等の自由処分権を集中すること)路線の挑戦であった。
農民の過半を占める中農層は、「自己の生存に必要なだけ耕作する権利と自己の労働の結晶を処分する権利は絶対に他人に譲渡できないとする本源的エゴイズム」から、共産党が押し付けるコムーナ(農業コミューン)と穀物徴発に猛烈に抵抗した。共産党はこれを中農のプチブル根性に帰したが、私見では「共同体中農の魂は根源的労働権であり、資本主義的個人所有の意識をまだ識らない」というのが真実である。

こういう状況でも共産党政権は列強に支援された反革命軍に勝利した。それについては当時多くが語られたが、基本的には土地革命によって貴族、地主階級が打倒されたことが勝敗を分けたと云える。中農層はしばしば左右にぶれたが共同体所有を守るため本能的に反革命を避けた。シベリア戦争で観たとおり、干渉軍と白衛軍は占領軍、略奪者として振る舞い、地主を復活させ、エスエル主導の市会、民会を潰した。共産主義は嫌いだが侵略と反動は耐えられない、これが市民、農民の本音だった。

内戦がヤマを越えた1921年春、レーニンは、革命の中核部隊であったクロンシュタットの水兵叛乱と飢えた農民の反乱を容赦なく鎮圧する一方、穀物徴発を10%の物納税に切り替え、小規模市場経済を容認する新経済政策(NEP)を実行した。これにより農民反乱は鎮まりどん底にまで落ち込んだ経済は急速に回復してゆく。

レーニンは翌年脳卒中で倒れ執務から離れたが、それまで内戦中も、国有企業の10%台まで落ち込んだ生産力の現状打開のための方策を論説と演説で訴え続けた。主なテーマは労働をいかに組織するか、である。

わたしはまずレーニンが目標とした生産力と生産関係━国家資本主義‣社会主義━とは何かを研究した。
レーニンは、ソヴィエト権力のもとでは「社会主義とは電化と記帳である」という簡明なスローガンを多用した。
第2次産業革命で繁栄を築いたアメリカの生産力レベルが目標であり、それがソヴィエトの無階級生産関係によって達成された状態を社会主義と考えていたと思う。自動車王フォードが普及させたエンジンで動くトラクターの力を借りればロシア農民の小商品生産を社会主義に改造できると信じていた。
アメリカの生産力とは何か? 電化(モーターとエンジンで動く大小多種の機械)に代表される設備と作業の規律化・効率化である。歴史に残る代表的成果は、フォード・システムと呼ばれる流れ作業方式で大量生産された単一モデルT型フォード車の普及である。レーニン晩年時の生産台数は、1909年には1万3000台弱だったのが1921年には約93万台、1923年には最高の約192万台、全世界では201万台に達した。
余談だが戦後、私は幼少時に同形の車に乗ったことがある。エンジンがかからないときはクランク形のスターティング・ハンドルを車の前部から差し込み手回しでエンジンの回転にはずみをつけて始動させた。女子供では無理だと言われていた。

 
1924 Model T Assemly Line 
出典:https://www.assembly.mag.com/articles/91581

レーニンは、ハード面については外資、とくにアメリカ資本に期待をかけた。ソフト面ではテーラー・システムの導入を考えた。フォード・システムは識られていたがロシア工業の惨状には合うべくもなかった。
燃料、食料が底をついて鉄道、工場がほとんど操業停止状態に陥ったロシアでは既存の設備、道具を使って一から労働規律を起こす必要があった。工場は集会の場でもパクリの場でもない。そこで、とレーニンは言う、「勤労者のあいだでの規律の創出、労働の基準や労働の強要度にたいする統制の組織」と「特別の産業裁判所の設置」が焦眉の課題である。そしてレーニンは帝国主義論執筆に際して研究済みであったテーラー・システムの実験的採用、ノルマ局の設置と出来高払い制の導入を推奨した。
レーニンは『帝国主義論』では「幾多の種類の完成品がえられるまでの一貫した原料加工のすべての段階が、一個の中心から管理されるとき」それは「生産の社会化」である、とテーラー・システムとフォード・システムを社会主義に向かう技術的進歩として肯定的に捉えている。だが階級制度のもとではテーラー・システムは「技術と惨苦」である、とも言っている。
テーラー・システムは、労働の動作研究と時間研究(ストップウォッチ、豆電球とカメラ、映写機を使った)、最大ノルマ設定、差別賃率出来高払制、機能的職長によるノルマ管理体制を柱とする。テーラーは、金の卵の多産を求めるあまり動作の遊びをすべて省いた最大ノルマを設定したうえ、「成功にたいする高い支払い、失敗にたいする損失」を適用して、金の卵を産む鵞鳥の健康を害した。労働者はこれを「殺人制」と言った。労働組合の反対は議会を動かし官営企業では「科学的管理法」は禁止された。工員のモチヴェーションが低下し離職、欠勤が多くなり生産に支障をきたすようになって、弟子たちは修正、改善に追われた。
ソヴィエト・ロシアが導入を試みたのは労働規律と出来高賃金制の穏やかな仕組みであった。生産の流れを復活するためのごく初歩的なアプローチであった。そのこと自体は取り立てて議論するほどのことではない。だが以下に示す近代的労働における人間疎外の普遍的[ゆえに今日的]課題がなおざりにされた。
テーラー・システムとフォード・システムにはレーニンが合理的進歩だと着目した発想があった。それは、個々の労働、機械、原材料、製品、工程を分析、標準化し、全工程を総合的に同期化して工場全体の一貫流れ作業工程を実現するという、かつ、それを「一個の中心から管理」するという思想であった。テーラー・システムは対象が主に機械的単純労働に限られたため適用できる業種も工程も少なかったが、親方(万能熟練工)による成行管理を、計画部による管理に替えて、労働と管理を完全に分離した点でフォード・システムと通底している。
この合理的システムでは労働のスキルは機械と工程に置き換えられ、工程の管理と作業速度の決定は、テーラー・システムでは複数の機能的職長(オペレータ)に、フォード・システムでは機械装置=コンベヤーに委ねられる。アメリカの労働者はコンベヤーをいみじくもペースメーカーと呼んだ。全工程を創り運営するのは頭脳部門である計画部である。
この流れの先に現在のオートメーション、コンピューター、ロボット、人工頭脳がある。19世紀から20世紀にかけてのそれ相当の思想家、科学・技術者はマルクス、レーニンに限らず、この流れの行先を予想していた。ただ彼らの誰もこの流れの現場に身を投じて経験したうえで論じた者はいない、[普遍的不幸からの]解放運動家シモーヌ・ヴェーユ(フランス)をのぞいては。
マルクス:「機械の自動体系」には「どんな社会形態、ありうべきどんな生産様式のもとでも」必然的に「生産過程の暴力」が存在する。
「労働者たちは生きた付属物としてこの機構に合体される。機械労働は神経系統を極度に疲れさせるのであるが、他方ではそれは筋肉の多面的運動を抑圧し、また一切の自由な肉体的および精神的活動を不可能ならしめる。労働の軽減さえも責め苦の手段となる、というわけは、機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放するからである」[マルクスの革命論を批判してやまないヴェーユも自分の体験からこの労働観は激賞した]
シモーヌ・ヴェーユ:この「労働手段の斉一な歩調への労働者の技術的隷属」はひとが美とか「善なるもののためではなく必要のために働いている」かぎり、幸福という「究極性によってではなく、必要によって支配されている」かぎり、「完璧な社会的公平をもってしても」消すことはできない。
工場の中へ足を踏み入れたことすらないトロツキー、レーニンは「労働者たちにとってどういう条件が屈従と自由をつくりだしているのか、その真相はまるでこれっぽちも知っていない有り様なのよ━━そう思うと、政治なんて、ろくでもない冗談ごとのようにみえてくるわ」
若き25歳の哲学する活動家シモーヌ・ヴェーユは1934年末から断続的に8か月間パリの電気部品工場、ルノー自動車工場等で身をもって体験した労働の真相を労働者の生の言葉で語った・・・。
「一たん機械の前へ立ったら、一日に八時間は、自分のたましいを殺し、思考を殺し、すべてを殺さなければならないの。こういうものは、速度をおとすからよ」
「変化の唯一の要因は命令である」  とつぜん下される命令は、それはそれで「ちょうど、メスをあてられる前に肉体がちぢむように、思考もちぢんでしまうわ。人は〈意識を持つ〉ことができないのよ」

「重要な事実は、苦しみではなく、屈辱である。
おそらく、この点を、ヒットラーは自分の力をつくる足がかりにしたのだ。(愚かな〈唯物論〉が・・・しているのとは反対に)」
彼女がなぜか省いた・・・の箇所を、私なりに彼女の思索に基づいて埋めてみる。
産業革命がもたらした当時の労働者の惨苦はアナーキーな労働‐革命運動の原動力になった(熟練の誇りがあったため)が、「労働者の生活はマルクス時代よりよくなっている。[・・・]けれども、労働者の解放に対立する障碍は、当時よりもさらに過酷である。テーラー・システムおよびその後の方法は、労働者を以前よりもはるかにいっそう、工場における単なる歯車装置の役割に追い込んだ」 そこから生じてくる反動は「反抗ではなく、服従である」、それがナチスを支えた、と彼女は言わんとしているのだ。明言はしていないが、問われたら先進国での革命は不可能・・・と答えたにちがいない。事情は異なるが中国では毛沢東が頓挫した都市革命路線からの転換を主導しつつあった。


当時唯物論しか許さなかった共産党独裁のソ連では経済5ヵ年計画が国を挙げて進められていた。ロシア版テーラー・システムともいうべき「スタハーノフ運動」が大々的に展開された。「人生は楽しくなった。労働は楽しくなった」という労働英雄のプロパガンダの彼方には無数の強制労働収容所ラーゲリが造られた。

シモーヌ・ヴェーユは「自分自身では沈黙する以外に手段を持たぬ‘‘不幸’’に代わって」論壇で学園で集会で発言し続けた。「不幸について考えるためには、不幸を肉の中の釘のように深く打ちこまれたものとして、持っていなければなりません」という心境に達したとき、そう、彼女は、不幸と共に生きることによって、十字架上のキリストに共感し帰依したのであった。
教会と政党には始終批判的だった。彼女は国内の政治、労働運動にかかわっただけでなく、総選挙でナチスが勝利したドイツ、ファシストが支配するイタリアを見て回り、スペイン内戦には直接参加した。ロンドンではド・ゴールの亡命政府「自由フランス」の本部で寝食をわすれて働いた。1943年8月24日夜、イギリスのサナトリウムで衰弱と拒食が合わさって病死した、享年34歳。ナチス占領下の「フランスの苦しみ・・・・・」が最後の言葉となった。

 創元新社  1960年


韓国は亡国の恨hanを晴らさずにはおかない/愛国と売国

2019-05-31 | 革命研究

韓国は、過去の加害責任にはどの国もそうだが日本同様触れたがらないが、日韓併合被害を決して忘れない。併合の当初から上海、ハワイ等で独立運動をしていた李承晩は戦後大統領として日韓会談に臨むにあたって先ず日本の謝罪を要求した。要求が通らないといわゆる李承晩ラインを設けて日本漁船をたびたび拿捕した。日本に来たばかりの私は頻繁に新聞とラジオで拿捕のニュースを見聞した。李承晩は悪いヤツという印象を刷り込まれた。日韓併合に至る条約の有効-無効と賠償の要‐不要をめぐって交渉は難行し竹島が占領された。
1960年安保闘争の最中のことだが、学生と市民による4月革命(戒厳令による弾圧で183名の死者が出た)で李承晩の独裁は終わったが、深刻な経済危機が残った。国庫は底をつき、経済力は最貧に近く朝鮮国に劣った。その深刻な状況は「春窮麦嶺越し難し」(春食糧に窮し麦の収穫まで持ちこたえられるかどうか分からない)という俚諺で語られた。
ブラジル同様ここで開発独裁が登場する。1年後に軍事クーデタに成功した朴正熙少将は1963年に大統領として日韓国交正常化をすすめ1965年に日韓基本条約を締結して、日本から約11億ドルの経済援助(無償・有償・借款)を引き出した。それを重化学工業とエネルギー・交通・学校等のインフラに投資し国策として財閥を育て、高度経済成長を達成した。日本語教育を受けて士官学校を卒業して日本人のメンタリティをもつ朴大統領は、日本を工業化の手本とし、ソ連の5ヵ年計画にならってロードマップを描いた。
かれはまた工業化の成果を農漁村改革に及ぼした。かれはまず不況対策として全国3万5千弱の村に一律にセメント300~350袋を無償で配った。そして村に各戸への分配ではなく、村人の合意により村道の拡幅と架橋、河川土手の改修、藁屋根のスレート化、井戸の改善と共同風呂・洗濯場建設、公民館や集会所の建設等に使用するように指示した。翌年優れた成果を上げた村だけにセメントとさらに鉄筋を無償で提供して「新しい村semauru」競争を刺激した。スローガンは「勤勉、自助、協同」である。低開発国が浮揚するために不可欠の国民精神である。
自助だから政府は作業、土地提供に金を出さない。耕地整理、
灌漑用井戸・用水路・道路の建設用地、等にたいする補償は、難産ではあったが「村全体の協同精神と共同負担ですべての村が自ら解決した」  中世以来土地を所有する小暴君(両班'yaŋ-ban、国民の3%)が特権と収奪を続けてきたため遅れをとった伝統社会にセマウル運動が資本主義の風穴を開けた。
これを手始めに政権主導の農漁村改革が推進され、救いがたいほど遅れた貧しくみすぼらしい村の光景は一変した。その象徴が藁屋根がカラフルなスレート葺きに変わったことである。村々に電気と水道が普及し技術の向上発展により生産者の所得が倍増した。高校、大学進学率はほぼ日本と同水準である。これらの変化がブラジルのケースと大きく異なる。セマウル運動は今日国連推奨の後進国発展のロールモデルになっている。
出典  野副伸一「朴正煕のセマウル運動 : セマウル運動の光と影 」pdf  2007年


セマウル運動 (全羅北道コチャン 1972年)  撮影 金ニョンマン
 

朴軍事政権の経済上の業績は、抑圧され続けてきた国民に「やればできる」という自信を植え付けた。これが光の側面とすれば闇の側面は一握りの財閥一族(中世以来の族姓の伝統を想わせる)と民衆との経済格差、階級対立である。

朴政権は日本に亡国被害の賠償を安売りした「売国奴」という追及には戒厳令による過酷な弾圧で応え、政敵である民主化闘争のシンボル・金大中の日本からの拉致、知識層に対するスパイ狩りと拷問等で、カーター大統領にブラジルとならんで最悪の人権侵害状況と非難された。
彼の長期政権はKCIA部長が放った銃弾により突然幕を閉じたが、韓国の民主化運動に対する弾圧は朴正煕亡き後の全斗煥大統領とその後任の盧泰愚大統領によっても過酷に行われた。この二人も、「
反乱(1979年のクーデター)と内乱(1980年の光州事件)、秘密資金の疑いで1995年に逮捕され、1997年にそれぞれ死刑と無期懲役が求刑された」(辺真一)
民主派政権が追及対象にしているのは軍事政権の直近の非道と腐敗だけではない。戦前の親日協力の過去まで深く追及している。朴の場合日韓基本条約の国辱的締結が非難されたが彼が志願して歩んだ満州国軍の軍歴が火に油を注いでいることは疑いない。
日韓政府の最たる争点は何か?  朴は、併合条約とそれまでの条約は「もはや無効」である、と妥協した。韓国内の歴史認識では併合条約は「はじめから無効」である。もはや無効、では併合は合法だった、という日本側の主張を容れる余地が残る。合法であれば併合請求権は消える。対立は韓国内の世論を二分した。
軍事政権は前を向いてアカ狩りをし民主派政権は後ろを向いてクロ狩り[わたしの造語]をした。植民地化に際してはいずこにおても強制されてあるいは進んで協力する者(中国の例では漢奸)が現れるのが常である。コリアンが裏切りの追及を続けるのは、協力行為が条約の合法性を主張する日本サイドに根拠を与えるからであるが、それだけではない。
コリアンには独特の恨hanという気風がある。そして政治レベルでは恨イコール愛国である。だから日本に徴兵された兵士、徴用された軍属、労務者や性奴隷は愛国者だが、志願した軍人、労働者、慰安婦は顧みられない。
現在の文政権が日韓基本条約が「完全かつ最終的に」消滅させた対日請求権に個人の請求権は含まれないと強硬に主張する背景には、親日裏切り政権が結んだ条約は改定して当然だという思いが伏在している。日本政府と世論を刺激している韓国内の謝罪と補償を要求する現行の運動は、水面下の条約改定運動にほかならない。

愛国と売国は単純には割り切れない。日韓を隔てる歴史認識はひと飛びでは越えられない。
      

 


ブラジルの軍事独裁/それもいいじゃないか、という学生が増加

2019-05-17 | 革命研究

私には祖国が二つある。2018年末、わが生国ブラジルは軍事政権による軍政令AI-5 発令50周年を迎えた。もし私が当時ブラジルに居たら30歳の私はどうなっただろうか。軍事政権反対の運動をしていた学生、知識人が日系人を含めておおぜい拉致され拷問され殺され「失踪」とされた。大統領は憲法の権利差し止め権をもち、大統領の権限が憲法を凌駕した。議会は1年間閉鎖された。人身保護令は停止され恣意的拘禁、拷問が日常化した。拉致、拷問後の殺害、死骸隠滅は特別の雇われ工作集団によって巧妙に行われ、「失踪者」の行方は杳として知れなかった。同時期の朝鮮国による日本人拉致に酷似している手口が多い。
  無法の全体像が想像できる好著  花伝社  2015年刊

民政化後2014年にようやく真相究明委員会が報告書を提出した。それによると軍事政権のトップから兵士までの337名が人権侵害に加わった。新たに施行されたアムネスティ法により誰一人罰せられなかった。「434名が軍事政権に殺害され、失踪させられた。その他、8,300人以上の先住民が殺害された。しかし、同委員会は、実際にはこの数はもっと多いと認めている」 出典:齋藤功高「ブラジルの移行期における軍事政権下の人権侵害の清算」pdf
下線部分の数字がブラジル軍事政権の性格、正体を物語る迷宮入口の鍵となる。軍事政権は単なるアカ狩りと治安維持ではなく開発独裁を目的とした開発戦体制であった。つまり禁じ手で資源開発をして産業近代化を図る革命的デザインの下に陸・海・空三軍が一体となってクーデタを起こしたのだ。そのデザイン「全国統合計画」の作成と推進は高度プロフェッショナル(ソ連時代の概念でいえばテクノクラート)に委ねられた。そのイデオロギーは、キューバ革命の防波堤を意図したケネディの「進歩のための同盟」である。
禁じ手とは、反対者をテロリストとして、あるいはコミュニストのシンパとして、反対運動のすべてを抑え込むことである。その結果アマゾンの密林と周辺州に、地下資源、原木資源、牧場開拓地を求めて野心的企業家とギャングが押し寄せた。いつの時代でも開発は道路のインフラから始まる。アマゾンを横断して高速道路がベネズエラに達した。上記のジェノサイドを想わせる犠牲者の数は反対運動の指導者もろとも殺されたインディオの数であろう。

文明人の入ったことのない秘境で何が起こったかは知るすべがないが、その一端を物語る二人の生き残り男性の生と死の日々が先日放映された。現場周辺の密林で発見された壮年兄弟の言葉は全く未知の言語で今日まで通話ができない。動画撮影時点では保護先で一人だけ生き残っているが他の先住民と交際ができなくて引きこもっている。保護士に向かって頻繁に発せられる恐怖を表現するコトバとジェスチャーから察せられるのは稲妻様の何かの襲来であった。彼は家族も身寄りもなく記憶を文明人に伝えるすべもなくこの世界で一人死を待つだけである。
私事にわたるが、そのころアマゾン周辺の奥地で大牧場を経営する日本人の実業家が日本にサッカーチームを連れて来たことがある。その人が所有する南部パラナ州のプロ選手養成のためのサッカー場と宿舎を見学したこともある。両国のサッカー界で名の知れたボスは不在だったが日本からの留学生が案内役を務めてくれた。
サッカー場があったバンデイランテス市は、独身時代の父が姉夫妻のもとで働いた因縁の地であり、訪れた私を父方のいとこ達がおおぜいで歓迎してくれた。1991年の帰郷時の出来事である。

軍事独裁政権は政党、労働・農民・環境運動等の反対勢力を恐怖で抑え込んで日本を含む米国中心の外資導入の地ならしを推進し工業化に成功した。ブラジルは世界有数の鉄鉱石と鉄鋼、航空機輸出国になり、2000年代初頭にはBRICの一角に名を連ねて工業先進国に仲間入りした。
1984年
に222%以上のハイパー・インフレとなり経済が破綻して翌年ブラジルの軍政は終わった。産業近代化には成功したが貧富の格差と自然破壊が耐え難いまでに拡がった。多国籍企業を含む大資本による土地集積と機械化された大農場は農業労働を一変させ土地、仕事を失った農民が都市に流れ込んだ。人口の集中で都市景観は激変し、近代的ビルとスラム(ファヴェーラ)の併存が富の不均衡を象徴している。
ブラジルの治安はさらに悪化した。金持ちの家は高い塀か鉄柵に囲まれている。富豪の豪邸は銃を携えたガードマンに守られている。わたしはそれを見てブラジルでは富裕層も「塀の中」に入っているという妙な感想をもった。
わたしの少年時代にはブラジルは治安が良かった。逆に日本の都会は夜歩きできないほどに悪かった。

昨年ブラジルでは揺り戻しが起きて軍政を賛美する歴史修正主義者が大統領に当選した。拷問と殺害、人種・性差別を容認する発言で「ブラジルのドゥテルテ、トランプ」と評されるボルソナーロ大統領である。その最初の仕事は「天然資源を繁栄に一変させるグローバル採鉱会社」(vale社HP)の鉱滓ダム決壊事件(犠牲者350名?)への対応だった。

グローバリズムと市場原理主義が世界を覆ったために世情が急展開しつつある。東京のいくつかの大学で軍事独裁のレクチャーがあった。授業後に学生の感想を聴くと、治安改善や産業近代化のためには軍事独裁もありの意見が「どちらかというと」を含めると半数近くあったそうである。 


どう生きるか? 模索の旅、いざ出発/若者による文化革命の嵐

2019-04-30 | 革命研究

自分はどう生きるべきか? その答えを求めて1964年から独学で革命研究を始めた。4年間学生運動に打ち込んで来た流れでロシア十月革命を主軸に据えた20世紀の革命運動を研究対象に選んだ。4年後1968年後半にほぼ目途がついたので高槻市に転居した。そして『情況』誌に「10月革命への挽歌」を連載した。連載終了後それは情況出版で本になった。サブタイトルに「われらの内なるスターリニズム」、帯に「レーニン主義とロシア革命からの決別を!」の文字が躍った。

  「変革を目ざす総合誌」 1968年8月号

 情況出版 1972年

菊地章典先生ほか歴史学者による書評もいくつか新聞に掲載された。その一つに「歴史清算主義」というのがあった。歴史は赤字、黒字と清算できるものではないので首肯できなかったが、当のソ連は後に「清算」されてしまった。私の著書はソ連崩壊を予測するものではなかった。あくまで自分のアイデンティティを確立するために、進行中の歴史的事件に影響を受けながら書かれたものであった。
しばらく拙著の内容を紹介しながら個々の事件についても振り返ってコメントするつもりだ。
どんな政治的社会的事件があったか年表風に列記する。

1964
米国 ベトナム戦争の段階的拡大戦略「エスカレーション」を評議(政・軍首脳ホノルル会議)  トンキン湾事件(米駆逐艦が北ベトナム魚雷艇に攻撃されたと捏造して北基地を爆撃)  人種等マイノリティ差別を禁ずる公民権法成立 北部学生による南部黒人有権者登録支援「フリーダム・サマー」(運動家6名殺害される)  カリフォルニア州立大学バークレー校で政治活動と言論の自由のある大学像を求めてキャンパス内フリー・スピーチ・ムーヴメント起こる⇒大学ホール占拠・座り込み⇒逮捕者800余人⇒世論と教授会に支持され大学改革成る
中国 人民日報、米帝国主義に反対するすべての勢力に団結を訴える社説掲載 最初の原爆実験成功 ソ連指導部を現代最大の分裂主義者と非難
ソ連 平和共存柔軟派フルシチョフ解任(後任は同強硬派ブレジネフ)
ベトナム グエン・カーン軍事クーデター 軍事独裁反対のデモ、全国に拡大
韓国 就任したばかりの親日朴軍事政権に対して全国主要都市で屈辱外交反対のデモ 日韓会談に怒った学生、大統領官邸を包囲 ソウル地区に非常戒厳令布告
ブラジル カステロ将軍クーデタ(土地改革阻止、軍事独裁で米国資本導入の道開く) 
日本 池田から佐藤へ首相交代 韓国工業化支援(2000万ドルの原材料・機械部品の延払い輸出) 第7次日韓会談開始⇒翌年日韓基本条約調印 
1965年
南ベトナム解放民族戦線、プレイク米軍基地襲撃 米機、北爆開始 ワシントンで1万人の反戦デモ ベトナムに平和を!市民文化団体連合(ベ平連)主催初のデモ行進 米B52爆撃機、沖縄から発進してメコン-デルタを爆撃 韓国、ベトナムに部隊派遣 反戦青年委員会(ベトナム反戦・日韓条約批准阻止を目的とする職場・地域の共闘組織)結成
ベトナム海兵大隊戦記第1部TV大反響(官房長官のクレームで第2, 3部放送中止) 岡村昭彦『南ヴェトナム戦争従軍記』
1966年
中国「大文化革命」始まる 紅衛兵街頭進出 「文化大革命勝利祝賀大会」と銘打った天安門広場100万人大集会 毛沢東の後継予定者・林彪、群衆にプロレタリア革命の造反精神に基づき旧「思想-文化‐風俗‐習慣」の四旧打破を呼びかける
閣議、新国際空港建設地を三里塚に決定
1967年
10.8羽田事件(佐藤首相のベトナム訪問阻止闘争で京大生山崎博昭君死亡)  先頭集団に角材・ヘルメット登場 同日チェ・ゲバラ、ボリビアに死す
1968年
青年、学生が既成体制と価値観に反抗し、文化-思想に異議を申し立てて、世界中が政治的に沸騰した年である。国により争いのもとになった課題イッシューは違ったが共通していたのは既存の権威を否定する思潮だった。わが師友井ノ山さんはこの年の世界的動乱を指してもしかしたら文化革命となるかもしれないと語った。

【1月】
・佐世保原子力空母エンタプライズ寄港阻止闘争 反戦・反核基地の要素がより合わさって空前の盛り上がり 民社・公明系団体も集会 全学連、機動隊と激しく衝突 市民の同情集まる 参加した大浜は現地右翼親分の接待を経験
・北ベトナム人民軍、南全土で「テト攻勢」  勝利を確信していた米国世論に衝撃、反戦運動が拡大深化
【4月】
・米国黒人公民権運動のカリスマ指導者・キング牧師暗殺 全米各地で人種暴動が発生 ブラックパンサー党武装闘争
【5月】
フランス「5月革命」 黒人差別・ベトナム戦争反対運動に参加した学生に対する懲戒問題に端を発する学園ロックアウトでソルボンヌ校から閉め出された学生達は中世に起源をもつ文教地区カルチェ・ラタンを占拠した。その間警官隊と衝突し、数百名の逮捕者、重軽傷者を出した。高校生、大学生による連帯ストライキ、デモの渦が起こり、ソルボンヌ校をはじめカルチェ・ラタンは、警察隊が撤退して、学生の「解放区」となった。
その後労働大衆が加わってカルチェ・ラタンは「バリケードの夜」に保安機動隊、警官隊との対決で流血の騒乱場と化した。レ・フィガロ紙が「権力はストリートにあり」と報道した。デモ、占拠、ストライキが全土に広がった。フランス放送協会 は一連の出来事の放送を禁止した。タクシーをふくむ交通システムは完全に麻痺した。デモの最盛時80万人の市民がパリ市街をうずめつくした。自発的にストに参加した労働者は800万人とも1000万人とも云われる。
政府と雇用者団体が譲歩し、最低賃金が3分の1上昇し、労働組合への公的権利が確立される「グルネル協定」が締結された。ドゴールを支持して秩序回復を願う市民の大デモがあったことも見過ごしてはならない。翌年大学と教育が現代的に改革された。無政府状態はド・ゴール大統領の下での凄まじい弾圧と現代に適応する改革で終息した。
「この運動により労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された」(Wikipedia)
「5月革命」に触発されて、日本と西欧諸国、ブラジル、メキシコ等の南米諸国・・・でも学生による反体制運動が熾烈に闘われた。そして父権的社会体制の変革にもっとも成功した国が西ドイツとフランスであったことはEUにおける両国の地位と発展の軌跡をみれば明らかである。そのほかの国においても性革命、文化革命が個々人の生き方に何らかの形跡を遺した。価値観、男女関係、ロックやファッション、映画やアニメ、アート等で影響を受けなかった者はいないだろう。
日大全学共闘会議(秋田明大議長) 巨額の使途不明金に端を発する数度の大衆団交要求集会 体育会系学生、右翼団体による集会襲撃 警察傍観、逆に集会学生逮捕 学生重軽傷者多数 6月末までに各学部スト突入、バリケード構築 9月占拠解除中の機動隊員、4階から投下されたコンクリート片で殉職 両国講堂で9.30大衆団交 大学側、11時間3万5千人学生の圧迫に、経理公開・理事総退陣要求に合意も翌日の佐藤首相の横槍で撤回 秋田ら8人に逮捕状 
このあと国家権力を後ろ盾にした大学当局とその手兵・右翼学生との流血の戦いが続く。これより、学生運動の火の手は全国に広がり高校生、浪人生の運動も注目された。日大闘争を特徴づけるノンセクト・ラディカル、ボス同士の交渉に替わる大衆団交、バリケード封鎖が、広がった運動にたしかな形跡を遺した。東大、京大、慶大が強固なバリケード構築法を日大全共闘に学んだという話が記録されている。 
丁度50年後世間を騒がせた日大アメフト事件は理事会の裏社会的体質が学園闘争史上画期的な日大闘争によっても改革されなかったことを天下に示した。それを裏返すと、民主化を求めて参加し討議して決める直接民主主義を実践した日大全共闘運動の評価がおのずと高まる。バリケードの中は若者の祝祭だった、という回想を多く目にする。
6月】
東大闘争 全国の医学部では学生と医師の卵が権威主義で固まった医局制度とインターン制度(卒業後1年間無給の実地研修を修了しないと国家試験受験資格がなかった)に反対して青年医師連合を結成して闘っていた。東大医学部で無期限スト中に医局長缶詰事件があり大学側は複数の学生、研修生を処分した。ちなみにわが親友大浜も京大医学部大学院で唯一ストに参加しなかった院生を教室から運び出した容疑で拘留され裁判にかけられた。東大では退学5人をふくむ17人の被処分者中に誤認処分が判明して闘争が激しく広がり始めた。医学部全闘委が卒業式と入学式阻止行動の後安田講堂を占拠した。
国家権力からの大学の自治(教授会の自治)は大学の伝統であり誇りであったはずだが、すでに体制化して硬直していた大学当局は安易に千余の機動隊を導入して封鎖を解除した。医学部を越えて全学部に抗議活動が広がり安田講堂前の抗議集会には六千人が参加した。
7月、安田講堂のバリケード封鎖 東大全共闘(山本義隆議長)結成 全学助手共闘会議結成 医学部本館占拠 医学部集会には教官・学生約1300名参加 医学部卒業試験延期 附属病院外科医局等占拠 法学部も無期限スト突入で開校以来初の10学部「無期限スト」 神経科医局全員、教授会に抗議し、スト終了まで一切の診察を有給者のみで行う(無給医診療拒否)と決議 医学部研究と臨床一部麻痺
11月総長以下学部長全員・付属病院長辞任 加藤総長代行新体制、ストライキ反対の民青、ノンポリ=無党派学生と結んで事態収拾=ストと封鎖解除に躍起 全学封鎖派劣勢・孤立化
このころ「東大解体」「自己否定」がセットで全共闘のモットーとして語られた。国権と金権の下部simobeとなった大学を変革する目的で大学の機能を一時的に止めるストではなく革命を目指して全機能をとめどもなく止める全学封鎖の行動を「解体」と表現したのであれば、革命志向者以外のノンポリの支持は得られない。体制とその発展という特別の役割を果たしている東大でなくても外の大学でも総スカンを食らう。
全学封鎖を最初に試みたのは京大である。1962年12月9日の明け方のことであるが、投票結果を知らせるパネルにさみしい数字と敗北の文字を書き込みながら覚えた身がすくむような寂寥感を私は忘れることがない。
自己否定は聖なる言葉である。釈迦牟尼やキリスト、田中正造にこそふさわしい。自己否定の語は言霊である。国家であれ運動組織であれ自己否定を政策のレベルで人々に押し付けるとポルポト・カンボジア政権によるような大虐殺が起こる。「滅私奉公」の縛りが大東亜で何千万の命を奪ったか、当時の私は想い至らなかった。私は東大闘争のころ「自己否定」の言霊の魔力にいささかいかれていたことを告白する。個人の心情としては可だが他人と組織や国家に求めてはならない。
東大闘争の過程で「何のための高度経済成長か」「何のために大学が在り、何のために学ぶのか」という問いが一部学生、研究者から発せられたが、その問いは超難問で今日なお解答できていない。
【8月】
・チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」をソ連主導のワルシャワ条約機構軍の戦車が蹂躙
【10月】
・メキシコ、政府が仕組んだトラテロルコの大虐殺 五輪直前のメキシコ市で、民主化要求デモに軍隊が発砲、学生ら数百人死亡 

・五輪では米国の黒人選手2人が表彰台上で黒手袋のこぶしを突き上げて「ブラックパワー」を誇示、「動乱の1968年」のシンボルになった。
・10.21国際反戦デー 新左翼諸派全学連と若者数万人、新宿駅騒乱 騒擾罪の適用 日大全共闘は組織不参加を決議
【12月】

・「ブラジルの軍事政権史上、最悪の悪法」軍政令第5号制定 政治犯に対する人身保護令の全面不適用により、軍秘密警察による政敵の拷問殺害、数知れず
1969年
【1月】

・18,19日機動隊導入により「安田砦」落城 入学試験中止 大学機能の休止、停止は政府の権限である、思い知ったか、と佐藤首相の高飛車
【2月】
・日大、機動隊導入で文理学部を最後に全学の封鎖を解除
【3月】
・京大の要請なしに機動隊2300人、校内出動、封鎖解除 大学自治に対する番犬のしょんべんマーキング行動
【6月】
・解放同盟、狭山事件対策本部設置
【9月】
・早大、機動隊により、大学臨時措置法反対で封鎖中の大隈講堂、第2学生会館封鎖解除 措置法は政府に大学またはその一部を廃止・改組・縮小等の権限を与える立法 「大学自治」に対する権力のダメ押し

以上が「どう生きるか」の身の周りにあった「どう考えるか」の課題であった。遠いところでは、南アと米国におけるアパルトヘイト、イスラエルによるパレスティナ侵浸食、アフリカ等植民地の独立、ソ連圏の民主化闘争と「雪解け」にも関心があった。