自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

治安維持法朝鮮に適用/テグ真友連盟事件/破壊団を捏造

2017-08-25 | 体験>知識

治安維持法制定時ヴァージョンは、たった二語のキーワード「国体と私有財産」と全7条からなるほぼ無限解釈可能な万能法であった。日露講和条約締結に不満の日比谷焼き打ち暴動、指導者無き米騒動、朝鮮独立万歳3.1運動は、予期しない、前例もない大民衆暴動であったが、軍事力と刑法によって鎮圧、処罰し治安を回復させることができた。ただ同様の暴動が今後は国際共産主義の浸透によって植民地独立と日本革命の動乱に発展しかねないことを為政者は恐れた。つまり治安維持法は反独立・反革命法であった。
また1928年「天皇制お手盛りの緊急勅令をもって思想弾圧の治安維持法を死刑法に改悪し」(弁護士布施辰治)1941年には刑期満了者を必要な場合無期限に拘留できるよう「予防拘禁」条項を加え、条文を65条に増加させた。
二度の改訂を経て国体、私有財産制を否定する結社だけでなく政府批判の言論から時局批判の芸術まで弾圧された。軍部・政府内の反主流派、宗教団体、学術研究会、俳句・川柳の会も監視の対象となりこじつけで裁かれた。
同法の制定を島原の乱後の江戸幕府の政策転換に例えることができる。苛烈な大名潰しと浪人狩り、キリシタン狩りの反省から幕府は「殺さず」に「転ばす」方針に転換した。
日本政府も、一審制で死刑以外選択余地のない刑法大逆罪だけでは硬軟融通が利かず転向(自首ふくむ)策を採れない。難波大助も朴烈・金子文子も恩赦と転向を拒否した。大逆罪は結果的に二人を韓国のレジスタンス英雄にしてしまった。
治安維持法の適用は朝鮮・台湾・樺太・満州の外地と内地で使い分けられた。朝鮮、満州では極刑適用中心で、日本では極刑の脅しと転向策で対応した。全期間を通して死刑が執行されたのは朝鮮人は数十名〔文末脚註参照〕、日本人は0名である。もちろん外地と内地の獄死者は数千名にのぼると思われる。
治安維持法(1925年5月12日施行)が大正期の運動に対してどのように適用されたか観てみたい。

1925.6.17 警視庁、大阪の秘密結社〈黒社〉の幹部2人を、治安維持法違反で検挙  出典 近代日本総合年表
この電光石火の発動、資料も研究書も見当たらないが、人物だけは推測できる。当時大阪・天下茶屋にアナキスト系活動家が立ち寄る拠点事務所と宿があった。
『アナーキスト群像回想記  大阪・水崎町の宿』(2006)の著者宮本三郎は、大阪西の料亭「矢倉ずし」の二男ボンチ、明大「オーロラ会」で活動して大阪に舞い戻った久保讓のことを敬意と親愛をこめて回想している。
久保讓は1923年のメーデー参加を皮切りに、デモでは黒旗を掲げて先頭に立ち、荒れる集会ではスクラムを組み、演説、司会に秀で、アナキストだけでなく官憲に注目され、「本部特高課の内務省警保局にAクラスのブラックリストに指定」された。
「久保も〈関西自由新聞〉の同人で文筆家で黒社の機関誌「黒」発行人として禁固刑数ヶ月で服役しております。関西ではアナーキズム運動の№1で又自由連合系労組の指導的役割を協力し数々の労働争議を指導活動されました」 治安維持法には言及がない。
ちなみに久保讓は『クロポトキン全集』(1928~30)の共同編集者兼2巻と5巻の翻訳者である。

1926.7.中旬~  大邱真友連盟事件 幻の破壊団
以下の記事はfutei1さんのブログ「治安弾圧法を考える」に依拠した。
3年間にわたる事件処罰の発端は黒色青年連盟銀座事件(1926年1月31日)であった。関東の無政府主義諸団体の自由連合が初めて演説会を開催した際、弁士だけで数十名の予定があったが臨監警官の「弁士中止!」乱発で会場が荒れた。散会後参加者が二流の黒旗を掲げて銀座デモを行った。制止する一警官が負傷し、投石によるか旗竿によるかショーウインドーが多数割られた。検挙された32名の内7名が起訴され有罪となった。帝国議会でも取り上げられ警備の失態が問われた。
折から平沼閥が牛耳る司法省と内務省と朝鮮総督府は「国本を危うくする」思想と活動を治安維持法を適用して一掃する策を練っていた。外地での初適用が大邱真友連盟事件である。内地での初適用は京都学連事件であるが、それは次稿にまわす。
司法官僚と内務官僚は銀座事件と朴烈・金子文子事件で立件できなかった者を治安維持法でからめとる方策を練った。朝鮮でもアナキストの同好会である真友連盟の同人検挙、捜索が進行中だった。両者をまとめて治安維持法違反事件にでっち上げるシナリオができあがった。日本-朝鮮間の連絡役に金子文子の遺骨関係者栗原一男がはめ込まれた。
栗原一男(自我人社)、椋本運雄(黒化社)、朴烈の友人金正根(黒友社は、文子の通夜が行われた布施弁護士宅から1926年8月1日未明トリックで警察の監視を出し抜いて遺骨を持ち出し椋本宅に保管した件に関連して検挙された。その後慶北道警察部の求めにより大邱テグに押送された。テグでは真友連盟員が取調中だった。ほかに朴烈の親友洪鎮祐が震災時予防拘禁で1年間拘留され、帰鮮して、黒旗連盟を組織して検挙された。連盟と言っても名のある同人数は多くて10名であろう。

犯罪事実(裁判資料)
一、日朝共同行動謀議
「栗原一男が朴烈死刑の場合屍体引取りに要する委任状及金子文子の入籍に関する用務と称し朴烈の兄朴廷植に面会すべく大邱に来れる際真友連盟員・・・五名と会見し東京に於ける黒色青年連盟の活動状況殊に同盟員が本年一月二十一日[三十一日の間違い]銀座通りに於て商店を破壊せる直接行動の状況を説明し内地朝鮮を通し現在の強権主義の治下に在りては」新社会実現のためには破壊暗殺等が吾人の使命になると、るる説明し「暴行の教唆煽動を為すと共に極力黒色青年連盟に加盟方を勧誘し加盟方の同意を得たり」

このように朴烈・金子文子大逆事件と銀座事件とテグ真友連盟とがリンクされた。割愛せざるを得ないが、ほかの被告の容疑はもっと簡単な記述である。
ニ、破壊団を組織
「朴烈事件に連座し予審免訴となれる徐東星が朴烈の遺志を継ぎ志操強固にして犠牲的精神に富む同志八名を糾合し組織したる」真友連盟は集合協議し「無政府主義運動実現の第一歩として東京に於ける黒色青年連盟の暴挙に倣い先ず富豪より資金を調達し二箇年以内に大邱府内に於いて」道庁警察署等官署を破壊しかつ知事、警察部長其の他官衙の首脳者の暗殺を敢行すべく「新に破壊団なるものを組織し宣言綱領を起草し」栗原一男に内報した。そのほか上海民衆社高白性から爆弾を入手する計画もあった。
このシナリオの作者は、日朝共同大陰謀計画のプロットを描きながらきっと自己嫌悪におちいったことだろう。東京の黒色青年連盟はそれほどのものか。大邱のアナキストが加入を承諾するほどのものか。たかが銀座の荒れたデモに鼓舞されるほど大邱のアナキストは・・・? 首魁を誰にするか 。朴烈なら申し分ないが大逆犯では壁の内外で連落をとれない。朴烈の遺志を継ぐ金正根にするか?
このフレームアップで実在するのは銀座デモだけである。スターリンもヒットラーも喧伝された「事件」を織り込むことによって大見世物裁判に真実味を持たせようとしたことが想いだされる。
真友連盟事件予審は証言者が慢性モルヒネ中毒であったことと証言に時系列の矛盾があることを理由に破壊団の存在を否定し全員を免訴にした。その後検事抗告で免訴が取り消され有罪が確定した。
金正根5年(獄死)、栗原・椋本3年、洪鎮祐1年(獄死*)の刑が確定した。無政府主義の結社を組織することが治安維持法第一条違反であると判決されたのだった。金と栗原と椋本は黒色青年連盟を組織し、真友連盟に破壊、暴行を教唆扇動し、実際に計画を協議させたとして有罪となった。ほかに真友連盟同人4人が有罪となったが私には全然資料がない。
*私は、獄舎で病気が悪化したため、あるいは常態化しつつあった拷問による負傷が原因で、獄外で死亡した場合も獄死にふくめている。例 新山初代(黒友会)最近では劉暁波(中国人権活動家〉オットー・ワームビア(朝鮮拘留米人学生)

[註]水野直樹「治安維持法による死刑判決 朝鮮における弾圧の実態」
(『治安維持法と現代』 2014年秋季号掲載論文)



 


朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件

2017-08-09 | 近現代史 大正時代の戦前

  鈴木裕子編  [増補新版]『金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(2013年) 梨の木舎
 
大震災の二日後「不逞社」を名乗って思想誌『現社会』(『太い鮮人』名で1,2号発行、広告が集まらないので改称)を発行していた朴烈・金子文子夫妻が「保護」検束された。不逞鮮人を公然と名乗っていたが要視察朝鮮人として尾行、監視されていただけだった。不逞社は、あえて集う者の共通点でいえば「天下国家を亡くせ」と語りあうニヒリスト、アナキストの同好会といったところだろう。
司法当局が意図して調べているうちに、朴烈が爆弾入手を不逞社の金重漢に頼んでおきながら後で依頼を取り消したため相互不信から両者喧嘩別れになったことが判明した。またそれ以前に、上海フランス租界の秘密結社義烈団と通じている金翰*に爆弾を分けてもらうために両三度ソウルに渡航していることも分かった。だが1923年2月頃、上海から持ち込まれた爆弾と革命宣言文書が押収され義烈団員等が金翰をふくめて18名逮捕されたため、朴烈の爆弾入手のルートはほぼ断たれた。
*上海からの爆弾受領・保管予定の社会主義者、元総督府警務局嘱託

義烈団は3.1独立運動の非武装路線に失望した青年金元鳳によって1919年に吉林省で結成され、上海の大韓民国臨時政府内の武闘派を構成した。押収された申采浩1923年1月起草の「朝鮮革命宣言」によると、暗殺、破壊の標的は、①朝鮮総督及各官公吏 ②日本天皇及各官公吏 ③探偵奴、売国賊 ④敵の一切の施設物 である。
義烈団は大正末まで少数精鋭による爆弾攻撃*で独立運動をリードしたが民衆の覚醒、決起という期待した効果を得られず行き詰まった。そこで金元鳳は、組織的な抗日武装闘争への転換を考えて、孫文が設立した黄埔軍官学校(校長は蒋介石)に入学した。
釜山察署爆弾事件(1920年9月)・密陽警察署爆弾事件(1920年11月)・朝鮮総督府爆弾事件(1921年9月)・上海黄浦灘事件[陸軍大将田中義一暗殺未遂](1922年3月)・ソウル鍾路警察署爆弾事件及都心銃撃戦(1923年1月)・東京二重橋爆弾事件(1924年1月)・北京スパイ暗殺事件[1](1925年3月)・東洋拓殖会社及朝鮮殖産銀行ソウル支店襲撃事件(1926年12月) 出典 ヌルボ・イルボBLOG 

上掲書『わたしはわたし自身を生きる』(2013)には「何が私をこうさせたか」と題する文子の獄中手記が収められている。幼くして、別れた父母に見捨てられ親戚の間でたらいまわしされて世の辛酸をなめた末、運命の人朴烈に出会うまでの自叙伝である。

  文子 10歳頃 https://sinkousya.exblog.jp

物心ついてしばらくして、父親が若い女を家に連れ込んだころから一家の暗転が始まる。地獄絵のような人間模様と家族崩壊、どこにも安らかな居場所がない文子の日常がつづられている。
文子は少女期の9歳から7年間近くを朝鮮の父方の祖母、叔母(父の妹)の形ばかりの養子にされ下女として扱われる。その際出生届のない無籍児だったので母方の祖父母金子家の五女として入籍された。かくて実父は佐伯文一、実の母は佐伯籍に入ってないので金子キク、キクと文子は戸籍上は「姉妹」となった。何とも複雑で無情な環境で育ったものだ。朝鮮での過酷な日常も記述できないが文子が投身自殺を図ったことだけは記しておく。

養家岩下家は総督府による「土地調査事業」で朝鮮の山林田畑を獲得して朝鮮人を牛馬の如くこき使う地主で高利貸しも兼ねていた。居場所のない文子に「麦ご飯でよかったら」とご飯をすすめてくれた朝鮮農婦の優しさが愛に飢えた文子の心にしみた。文子はまた1919年の3.1独立運動の光景を目撃した。17歳の朴烈も3.1デモに参加して独立新聞発行、檄文散布等をしている。平たく言えば学生運動のビラまきであろう。
尋問で「朴は独立運動者ではないか」と問われて文子は応えている。「私すら権力への反逆気分が起こり、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に沸きます」 いわんや朴烈をや。

目撃体験は類似境遇の文子の魂に「異常な同情」と「反抗の根」を植え付けた。直後に16歳の時内地に帰った、いや用済みになったので岩下家から返された。
内地での細かいことは省く。父も母も娘を金づるにしようとしたことだけを付言しておく。
向学の志抑えがたく17歳の時上京し、苦学する。と言っても学校(正則英語学校と研数学館)に通ったのは数カ月間だけ。夕刊販売、女中奉公、石鹸粉の出店、印刷屋の活字拾い、主義者が寄ってくるおでん屋の女給・・・その過程で、主義者に出会い、耳学問や書籍、雑誌で社会主義、無政府主義、ナロードニキの知識を得る。新山初代と友達になり本を借りる。
短期間で古今の宗教、哲学の知識を学習した聡明さと理路整然とした論説の表現力に感服した。特にスティルナー、ニーチェの自我に発し自我に還る思想の影響を受けて自己の思想形成をしたようだ。分かったような物言いをしたが私は本当は哲学史に疎い。
また破戒僧、救世軍、自営社会主義者、有名社会主義者と出会った生活体験から仏教、キリスト教、社会主義を敬遠するようになる。また従順で卑屈な労働者・農民大衆の無知にも愛想をつかした。
難波大助同様金子文子もまた大正ルネサンスの思潮にもまれて主義者に変身した。
そしてただ一人魂と志を同化できたのが無名の無宿無定職の「同業者」朴烈だった。1922年朴烈の詩「犬コロ」(天に逆らう犬畜生)に共鳴した文子は自ら望んで朴烈に遭い、桜の咲くころ思想の一致を確認し合いかつ運動では女性として扱わない約束をさせて同棲した。どちらか一方が権力と妥協したときにはただちに共同生活を解消することも確認し合った。
紅葉の季節に夫婦で思想団体「黒友会」を立ちあげた。その運動誌の名は『太い鮮人』、不逞鮮人では当局の許可が下りなかったから。

1923年4月には、虚無主義に近い者が集う「不逞社」を組織した。加入者に同時検束された金重漢、新山初代(結核で獄死)、栗山一男(金子文子自伝発行推進)等がいた。
二人の活動は、思索執筆活動中心で実践活動にはほとんど関わっていない。朴烈に信濃川支流発電所工事/朝鮮人虐殺真相調査会参加と大島製鋼争議支援、文子にメーデー参加の事実があるにはある。二人とも独立運動、革命運動には共感はするが加担しない。成功の暁に誕生する権力もふくめてすべての権力に反対だから、と述べている。


金子文子尋問調書に戻ろう。爆弾入手の頓挫についてはすでに述べた。
爆発物取締罰則違反被告事件 第1回尋問調書 
「私の思想は一口に言えば虚無主義です」 不逞社は「不逞の徒の親睦を計るために組織したのであります」「不逞の徒が寄り集まって気焔を挙げそのとばっちりを持っていくのです」「同志の中の気の合った者が自由に直接行動に出るのです」「まあ貴方方お役人を騒がせることです」
第12回尋問調書 
爆弾の使用対象と理由について問われて文子は長い陳述をおこなった。カストロが法廷で自分を弁護した演説「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を想い出しながら読んだ。
「地上における自然的存在たる人間としての価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております」
100年近く前にかくも美しい人権宣言を発した人がいたことに感動する。美しすぎる! 虚無主義の彼女に似合わない。下段の文子の脚色コメントはこの部分もカヴァーしていると推測する。 

しかるに・・・「地上は今や権力という悪魔に独占され、蹂躙されているのであります。そうして地上の平等なる人間の生活を蹂躙している悪魔の代表者は、天皇[病気中]であり皇太子であります。私がこれまでお坊ちゃんを狙っていた理由はこの考えから出発しているのであります」
続いてこの狙いの民衆に対する「宣伝」効果に言及している。長くなるのでキーワードだけ拾う。
天皇、皇太子が少数特権階級の「操り人形であり愚かな傀儡に過ぎないこと」の明示 
天皇の「神聖不可侵の権威」の否定 

天皇に神格を付与する根拠となっている三種の神器等の因襲的伝統の否定 
神国とみなされている国家と忠君愛国主義が特権階級のための機関、方便であることの明示 
儒教に基づく教育勅語等の道徳観の否定 
まとめると、これらの「外界に対する宣伝方面」は自分の「内省に稍々着色し光明を持たせたものに過ぎないのであって」「私の計画を突き詰めて考えてみれば、消極的には私一己の生の否認であり、積極的には地上における権力の倒壊が究極の目的であり、またこの計画自体の真髄でありました」

1923.10.20 『大阪朝日』号外「震災の混乱に乗じ、帝都で大官の暗殺を企てた不逞鮮人の秘密結社大検挙」 (不逞社同人16名の検挙、多分3名以外は不起訴)
同日、政府は震災時「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実であったとする司法省発表を行った。朴烈・金子(氏名はまだ未解禁)事件もその「一部事実」のインパクトのある証拠として利用されたのだった。
1924.2.15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴
爆弾入手を相談した共謀罪容疑での起訴は、朝鮮人虐殺を招いた流言を一部正当化したい司法官僚にとって格好の弁明、世論操作材料となった。
しかし審理を重ねるうちに抜き差しならぬジレンマに陥る。大逆罪が絡んでくるからである。

1925.7.17  小山松吉検事総長、朴烈と金子文子を刑法73条と爆取罰則で起訴
名うての国粋主義司法官僚は、皇太子成婚式を狙って爆弾を投ずる空想、意図を大逆罪(刑法73条)容疑で裁くメリットを感じていなかった。パン種をふくらませてパンを焼くように、共謀をでっち上げて限られた数の無政府主義者を一網打尽にできた幸徳事件の頃とは状況が違う。韓国併合により独立を志向する反逆者は膨大な数にのぼる。すべてを極刑にできるわけがない。転向を促す法律が必要だった。
司法官僚は、大逆罪適用はむしろ大逆を意図する日本人が難波大助以外にもいるという隠したい現実が明らかになるデメリットの方が大きいと考えた。だから検事は審理中たびたび考えを改める気はないかと哀願するかのように問うて文子を苛立たせた。自然科学方面に没頭しないかとまで言っている。精神鑑定に同意させようともした。
死刑を望む主義者の出現に硬直な(一審制で極刑しかない)大逆罪だけでは対応できない状況が生じていた。柔軟で伸縮自在の治安維持法は大逆罪の欠陥を補う魔法の剣として同時期に登場した。

1925.11.25 記事解禁により『東京朝日』夕刊「震災に際して計画された鮮人団の陰謀計画」  『東京日日新聞』夕刊「震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件」
1926.3.25 朴烈と金子文子に死刑判決 4月5日恩赦で無期懲役
恩赦は二人にとって侮辱以外の何ものでもなかった。文子は恩赦状を破り捨てた。7月23日文子は刑務所で自死、朴烈は敗戦によって22年後解放された。
1926.7.31 読売新聞 見出し「共同墓地に葬った文子の死体を掘り出す 実母と同志が死体引取の交渉 謎に残る、彼女の死因」 見出し「書き遺された手帳が抹殺され、引き破られて ただ一遍の遺書すらない 当局の失態は免れぬ」
私には文子の死について見出し以上のことは何もわからぬ。ただ当局が死の影におびえている感じがするだけだ。


私は朴烈の調書を読んでいない。金子文子の調書に基づいて記述した。がまんならぬ食い違いはないと信じる。二人はパートナーの過誤をも包み込むほど一心異体の同志愛で結ばれていたのだから。判決を前にして朴は文子を入籍(朴の兄による二人の遺体引取りと埋葬の準備)した。
文子の結びの言葉「して朴にいおう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせてはおかないつもりです、と」(最後の公判調書に添付された裁判所への長文書簡  死刑求刑の公判で朗読)