自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

清水潔『殺人犯はそこにいる』/冤罪に隠れて/タイムトラヴェル

2014-06-27 | NEWS/現実認識

1979年から17年間に5件の幼女誘拐・殺人事件が栃木・群馬県境の半径10キロ圏内で起きた。
内3件は足利市で起こり、90 年の事件は「足利事件」と呼ばれている。
やがて幼稚園の送迎バスの元運転手菅家さんが逮捕され13時間後!!に自供し3件とも殺害を認めた。
物証があった「足利事件」だけが起訴され2件は不起訴になった。
裁判の途中菅家さんは自供を二転三転させた。
警察庁の科警研が行なったDNA型鑑定が決め手となって2000年最高裁は無期懲役の判決を下した。
それ以後そのDNA型鑑定法が判例となった。
2008年には始終無実を訴えて再審を準備中の飯塚事件久間さんがDNA型鑑定が争点になっていたにもかかわらず死刑判決後2年弱という異例の早さで死刑を執行された。   
執行命令書署名  法務大臣森英介
飯塚事件で用いられたDNA鑑定も足利事件と同じMCT118法鑑定で、鑑定技官も同一人だった。
法務省はまさか菅家さんのDNA再鑑定が白の証明と出るとつゆほども考えなかったのだろう。
2009年菅家さんが前代未聞のDNA型再鑑定により17年半に及ぶ刑務所生活から「再審前釈放」となった。
日テレ報道記者として菅家さんの冤罪キャンペーンを繰り広げていた清水氏が心の中で快哉を叫んだ瞬間だった。
再審判決「当時のDNA鑑定に証拠能力はなく、自白も虚偽であり、菅家さんが犯人でないことは誰の目にも明らか」
ここで二つの新たな問題が生じた。
清水氏が特定した真犯人「ルパン三世」のDNA型が犯人のそれと一致するか?
清水氏は新旧鑑定法で一致する(本田鑑定)と主張し、科警研は旧鑑定法!で一致しないので追及をネグレクトしている。
その上検察は犯人のDNAが付着している「足利事件」幼児の着ていたシャツに限ってのらりくらり言い訳をして母親に返さない。
証拠の隠蔽である。
それを返すと当時の鑑定法の誤りが改めて真っ向から証明され「飯塚事件」の死刑執行等、相当数の捜査と判決が問い返されるのを恐れているのだろう。
一件落着から一転して5件未解決になったが、警視庁と検察庁、群馬栃木両県警は動かない。
動いて自らの傷口を広げるのを恐れているのだ。
科学捜査とDNA判定が揺らいでいる。
理研同様科警研の信用が揺らいでいる。
飯塚事件ではDNA型鑑定写真の改竄が見られる。
ネガの周辺部分が写真では切り取られており、その切り取られた部分から第三者のDNA型が確認された、と弁護団は主張している。
実験ノートもネガも写真も紛失したとされている。
鑑定血液痕も大量にあったのに「使い切った」とされている。
弁護団は再審請求を出した。
小保方さんのSTAP細胞の成否は再現実験ができるが飯塚事件のDNA型は再鑑定できないほど証拠隠されている。滅か蔽か不明。
このルポではじめて知ったが、DNA型鑑定はDNA鑑定ではない!


ターニングポイント遭遇/全国模擬試験/幻の料理

2014-06-14 | 体験>知識

福岡市まで模擬試験を受けに行った。
帰りに5,6名で中華飯店に立ち寄った。
何を注文してよいか分からず、一番見当がつかない料理にしようと衆議一決、ギータンタンに決まった。
出てきた料理をみて一同爆笑したがそれが何だったか思い出せない。
まさにわたしにとって幻の料理だ。
その日も日常的にふざけていたがすでに受験会場でウイルスに感染して知らぬ間に京ウイルスキャリアになっていた。
試験会場前で受け取ったチラシに京都大学の公認サークル名「親学会」があった。
京大合格のための通信添削(有料)を謳っていた。
すぐさま入会した。
雑誌と問題が送られて来るようになった。
内容が学問的で受験のノウハウを期待していたわたしにはしっくり来なかった。
まったく念頭になかった京都大学の存在がたちまち頭中に広がった。
親や担任に相談することもなく目標を九大から京大に変えた。
一目ぼれだった。
チャームポイントは大学ではなく京都だった。
これは後年気付いたことだったが親の過剰愛情が疎ましくとにかく遠くに逃げたい深層心理がこの日を境に噴出したのだった。
わたしの解放記念日が両親にとっては苦悩の始まりになった。

http://www.youtube.com/watch?v=0WrsqSnlWgA 


高校補習科/予兆?

2014-06-02 | 体験>知識

近くに予備校がなかったのだろうか、高校に浪人生のための補習科が設けられていた。
3年時それの夏期講習に参加した。
そこでの模擬試験で666点とり6位になった。
何人受けての6位か、何点満点の666点なのか、憶えていない。
自慢するためにこの数字を挙げたのではない。
上位は常にキープしていたが優等賞とか学業賞は卒業時に一つももらわなかった。
唯一もらった賞が中高6年間皆勤賞だった。
寝食をきちっととって熱があっても7年間休まず登校した。
はっきりとは見えないゴールに向かってまっしぐら進む真面目人間に、大きく方向転換を迫るきっかけになる数字がこのとき初めてお目見えしたのだ。
ひとは7をラッキー7とよんで歓迎する。
6はどうか?
聖書は6を獣の数字とし666を凶兆としている。
わたしは呪術を信じない。
しかし人生にストーリの味付けをする数字の妙には無関心でいられない。
そのときは何も感じなかったが、6はその後たびたび現れてわたしの考えかた、生き方の指標になる。