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自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

イエズス会グアラニーミッションが遺した精神文化

2024-11-30 | 移動・植民・移民・移住

歴史は史料、史跡、物語として、あるいは発掘されるか発見されるかして後世の人の目に触れる。歴史を営んだ人々の精神がひょっこり現代に顔を出すことがある。蘇るほどに価値があったからであろう。

その一)グアラニー戦争の伝説的英雄セペ・ティアラジュがパジェ教区で模範的聖性を認められて、リオグランデ・ド・スル州(以下RS)で殉教者として崇拝されている。法王庁が承認すれば正式に福者となる。日本でも一番新しいところではキリシタン大名高山右近が列福されている。
セペの名は飛行場の名、街の名にもなっている。損得を度外視して最前線に立つ漢気が当時の牛追い(ガウチョ、メスティーソ)のアイデンティティと響き合い、今では、RS州民が誇るガウーショ魂の象徴となっている。

その二)20世紀後半以降の土地なしSem Terra農民運動の発展
2023年の夏、成田闘争の現地見学会に参加した。旧労農合宿所をのぞいていて下掲の旗が壁にはってあるのが目にとまった。印字されているブラジル語の横文字Movimento Dos Trabalhadores Rurais Sem Terra (略称MST)は土地なし農民運動の意である。



土地なし運動の最初の里程標は1960年にブラジル南部リオ・グランデ・ド・スル州のカンポ・ヴェルデで始まった。300家族が50年間住んでいた土地を追われようとするのを左派知事が軍警を派遣して阻止したのが始まりと云われている。土地の占拠ではなく土地に通じる道に沿ってキャンプする形だった。
州憲法を援用して、空いている、または非生産的であると見なされる土地を収用、分配するこの運動(Movimento de Agricultores Sem Terra)(MAST   土地なし農民運動)は州政府の支持により発展したが、1964年から20年間つづいた軍事政権に潰された。その間大規模機械化農業により大土地所有者へのさらなる土地集中*が進み、1980年代には480万世帯,1500万人もの土地なし農民が生じた。
*1960年代、ブラジルでは、土地集中が近代化の桎梏であることが広く認識され、農業改革が左派の政策目標となり、日本の農地改革が模範とされた。わたしは校内で、日本のグラン・レフォルマ・アグラリアを研究する留学生たちに出合ったことがある。

1979年、MASTはMSTとしてRS州で草の根から蘇った。舞台は200年より前にグアラニー・ミッションがあったRS州北西部である。
発端は、ノノアイの居留地から追い出されて彷徨していたおよそ千家族のカインガング族(ジェ語族)が、全国で同時進行中の先住民権利運動に刺激され、マカリ農場とブリリャンテ農場を占拠して、大反響を呼んだ事件だった。

それに鼓舞されて1985年、すぐ近くのアノーニ農場をMSTによって組織された土地なし農民1500家族が占拠した。この農場は播種*したアフリカ原産の牧草が飼料に適さず放棄状態で非生産的土地となっていたのである。
*わたしの想像にすぎないが、モンサントの遺伝子組み換え種子だったかもしれない。
その占拠は、2年前から綿密に準備された計画に従って、軍警の監視の隙をついて、夜間の定時に決行された。州内の応援者7千人が150台のバスとトラックで駆け付けた。あまりの数に軍警は手出しできなかった。下掲写真、占拠当事者の緊張で笑みのない顔がかえって真に迫って印象的である。



2024年、設立40周年直前のアノーニ農場 出典: Pedro Stropasolas/Brasil de Fato
Brasil de Fatoによると、農場の生産組合は9300haを有し、七つの入植地で423家族が多様な食糧生産と遺伝子組み換えのない大豆生産の実験を行っている。私見では、その農場の面積は青森県と同等であり共同体の理想であるエコ農業の実現には広すぎる。残念なことに同農場はやむなく除草剤を使用している。

1984年、「解放の神学」というマルクス主義の影響を受けた神父たちが組織する「土地司牧委員会」*の支援を受けて、南パラナの土地なし農民が遊休農地を占拠し、訴訟で勝利した。金七紀男『図説  ブラジルの歴史』p85
MSTは機に乗じて大々的に州南西部のカスカヴェル市で決起大会を開催し、組織を全国化するステップとした。
*1991年、土地なし農民運動/土地司牧委員会はライト・ライヴリフッド賞(スウェーデンの財団)を受賞した。

1987年、国は該当土地を地主から強制的に買い上げ、農民にその借地権を与えた。沿道に並ぶ廃材小屋で野営して分配を待つ家族の光景は今でも珍しくない。今年2024年のMSTニュースによると全国で定住保証を待っている野営家族は6万以上にのぼる。MSTはブラジル銀行に定住資金の融資を求めてデモをしている。

1988年制定の連邦憲法第186条は「所有権の社会的機能」を規定した。アムネスティ国際ニュース2016年4月15日の記事※土地なし農民運動はつぎのようにMSTを概括している。
農村の貧困者を組織化し、権利意識を高め、変革のための行動を促す社会運動。憲法の「すべての土地は生産活動に利用されなければならない」を法的根拠に、耕作されていない大農地を占拠し、土地なし農民に再分配するほか、生産協同組合をつくったり、教育・ジェンダー・環境・健康など、生活全般の向上を図っている。

若干補足する・・・。
①ここで扱う土地なし運動は、社会変革(農業・商業の改革)の理想をもち、法に則ったMSTの事業であり、アマゾン等の先住民保護区を食い荒らす不法入植者、金採掘者ガリンペイロ、地主子飼いの用心棒のたぐいは含まれない。また、土地なし農民運動の団体はMSTが最大、最強であるが唯一ではない。わたしには、ブラジル中部より北の複雑で悲劇的な土地なし農民運動に触れる余裕はない。

②MSTの教育と実践による社会変革運動は、パウロ・フレイレ(1997年没)の『被抑圧者の教育学』を哲学的基礎としている。MSTの成功は、最初から教育に重点をおいて単に仕事に役立つだけでなく公正で支え合う社会づくりにつながる教育を意識的に行ったことによる。その成果はいつしか公教育に組み込まれ、国の教育行政に影響をあたえる存在になっている。
文末で紹介する田村梨花論文によると、MSTは民衆教育にも力を入れて、「2005年にはサンパウロ州ガラレーマに高等教育機関フロレスタン・フェルナンデス国立学校を設立し、年間約1200人の学生を受け入れている。」
入植者の子供たちは、定住地で初期教育から高等教育まで学ぶことができる。待機キャンプのこどもですら公費の移動式学校で勉強できる社会は他にないであろう。わたしがこどもだったころ、田舎の労働者のこどもは通学できる学校がなかった。

③MSTの活動・組織形態には、イエズス会ミッションの伝統が受け継がれている。MSTは、自分たちの運動は、セペ・ティアラジュの戦いを嚆矢とする先住民、黒人、貧しい農民の戦いの相続、歴史の継承であると十周年刻みの記念日ごとに強調している。

④その組織の特徴は、ボスが支配するのではなく、全員参加の民主主義を保証することである。役職の男女比に差はない。MSTは、土地を占拠するまでの待機キャンプで、あるいは土地占拠闘争の中で、皆が組織の運営を学びあう。
待機キャンプの運営は全員参加が原則である。炊事や薪取りは家族ごとか共同か?飲酒を許すか?などキャンプ運営に関わるあらゆることが議論され、納得するまで話し合われる。大集団の場合は、まず「意識の高い」10~20家族で「核グループ」を構成し、各グループから代表を選び、教育・健康・ジェンダー・生産の各部門別会議で議論をし、全体の意思を形成する。

定住後も、男女別なく全員何らかのグループに属し、役割を与えられる。生産委員会は、入植者が生産に困らないようにプロジェクトを推進し、生産物を流通させるルートを探す。また、いったん土地を得た人々は、これから土地を得たいと思う人々の援助をする。

⑤MSTは、労働党に投票し、かつMSTの議員も出しているが、みずからの政権志向はない。政党でないことと集権的でないことが分裂しない要因になっている。各共同体がそれぞれの実情に合う活動を実践することが常態となっている。

⑥行政が収用した土地の耕作権を共有し、生産組合をつくって協力し合って生産し、人と土地の健康に資する有機・循環型農業を営む。販路を開拓し、流通の自己決定権を貫き、世界貿易機関WTOと新自由主義的グローバリズム経済を拒否する。
モンサント社(除草剤グリホサートとそれに耐性のある遺伝子組み換え種子を研究、販売したアメリカの多国籍企業)の施設を占拠したこともある。

⑦気候変動・地球環境保全で広く国際NGOと協力関係を築いている。UNESCOとUNICEFから資金援助を受けている。ジェノサイドにさらされているガザに大量の救援食料を送っている。

⑧私の力不足で、占有後公認された土地所有権がどうなっているのか不明のままになった。所有権の譲渡が自由であれば売買され、MSTに「意識化」してない会員が入ってくる危惧があり、共同体そのものが危うくなる。

⑨MSTは本部をサンパウロに置き1州を除く全州に支部を置いている。会員数は150万、定住家族数で約40万、ほかに待機家族数が約7万である。


2024年10月、国会議事堂周辺で農地改革の促進を求めるMSTデモ
 Photo:José Cruz/Agência Brasil

おすすめの資料

・里見  実著「パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』を読む」 
太郎次郎社 2010

・田村 徳子「 ブラジルにおける土地なし農民コミュニティに対する教育-土地なし農民運動(MST)に着目して-」  検索☞PDF 
京都大学大学院教育学研究科紀要 第59号 2013 

・田村梨花「土地なし農民運動とコミュニティ再生」
日本ブラジル中央協会会報『ブラジル特報』2006年5月号掲載 
 
・https://mst.org.br   検索☞日本語版、英語版
豊富なニュース、画像をフリーで利用可

・MSTのラディカルな占拠、デモは、メディア、行政と軍警、大土地所有者に敵視され、無数の犠牲者をだした。行政の調査資料で暗殺、行方不明の数を集約した研究論文のPDFを保存していたが見当たらない。犠牲者の大半はMSTに属さない弱い立場の土地なし農民だったと記憶している。

 

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グアラニー族布教区の興亡/イエズス会ユートピアの出現

2024-08-22 | 移動・植民・移民・移住

パラグアイのトリニダ遺跡 世界遺産 出典 web : Jesuitas y Guaraníes en la Sudamérica colonial
広場の右奥に教会。手前は長屋風アパート。イエズス会は家族ごとに壁で仕切って居住させ、一夫一婦制を推進した。グアラニーはそれまでマロカとよばれる藁ぶきの大きな平屋に、家を支える柱を目安にして家族ごとにかたまって、カシーケを中心にせいぜい100人が共同生活を営んでいた。グアラニーは住居の外見が似ていたので抵抗なく受け入れた。伊藤慈子著 p73.

後年、大ミッション地方の布教区は、イエズス会の名を冠し、帝国とも共和国とも呼ばれるようになる。私は、カトリックの世界布教を掲げたイエズス会によるグアラニーのコミューン(自治区)と定義する。
先例として、コミューンなる語を史的用語に変えたパリ・コミューン(1871)がある。ロシア革命もコミューンを至上目的とした時期があった(戦時共産主義、1917~21)。いずれも、周りを取り囲む世俗世界の壁と敵意に阻まれ、短期間で歴史の幕を閉じ、ユートピアの語源のとおり、どこにもない国になった。
どこにもないから私にとってひいき目もしくは憧憬の対象にもなるのである。それでは、布教区はいかにして創られたか考えてみよう。

布教区成立の制度的・組織的条件
まず、イエズス会が法王庁に所属し、国王によって直接管理されたカトリック修道会であったことをおさえたうえで、その布教村がスペイン人の立ち入り制限を法令によって保障されたことが挙げられる。布教村はクニ境をもったクニである。
さらに、グアラニー語族はインカ文明からも隔絶した地で、自給自足できる自然環境に恵まれたため、トゥピー語族と違って、部族間に深刻な対立がなかった。せいぜい200人ほどの集落をカシーケがまとめていた。集落の人口が限界を超えると「分村」が起きるのはミツバチと同じである。
このような集落を各2名ほどのイエズス会士が武力ではなく説得で集住、定住させた。改宗で集住した村をレドゥクシオンという。大ミッション地方には最盛期に30のレドゥクシオンがあり14万の住民が居た。その領域はフランスほどもあったから驚く*。まとめてミシオネスmisionesというが単一のレドゥクシオンをミシオンmisiónということもある。
*村外の立ち入り禁止でない遊牧地をふくむ。ウルグアイ川左岸は大西洋まで領土未確定で、野生の牛馬が繁殖していた。グアラニー人を主とする先住民、スペイン人、ポルトガル人が争奪戦を繰り広げた草原である。サン・ミゲルなど七村は最盛期にその地をそれぞれの牧場、茶畑にしていた。
先住民の集住はスペイン人のエンコミエンダにとっても絶対条件であった。一か所に住まわせないかぎり働かせることは不可能であるからだ。
イエズス会は集住と改宗を成功させ、あわせて集団労働を実現させた。
集住村の人口は平均して4000人前後であった。人口の多い村を一村あたりせいぜい3名の会士が指導運営できる道理はない。グアラニーの伝統であるカシーケ(首長=呪術師)と戦闘指導者の協力で始まり、次第に役割が決まり役職化された。村長(コレヒドール)以下、法秩序*、労働監督、祭祀、財務、寄合議長、書記等の役員が毎年選挙によって決められた。
*法秩序の例として財務監査、規律の維持、懲罰をあげることができる。
以下、前掲『パラグアイを知るための50章』中の武田和久論文に依拠しながら論述する。
イエズス会はグアラニーの風俗習慣を尊重したからほとんどのコレヒドールは終身だった。役員就任にはミッション全体を監督するイエズス会管区長、国王が派遣する総督の承認が必要だった。多分、会士の意向に沿った人物が役員に選ばれたと思う。
ほかに村々に複数の自営組織ミリシアが設けられ役職が振り分けられた。成人男性はいずれかの部隊に所属することを義務付けられた。軍隊経験のある会士が、銃や馬の扱い方をはじめ必要なスキルと戦闘訓練を指導した。イエズス会パラグアイ管区長モントヤは国王に銃の保持許可をたびたび請願していた。1649年、既述のカルデナス騒動の最中、ついに銃の保持とミリシアのスペイン正規軍化が副王によって制度化された。

軍事 ミリシアの国軍化
布教村のグアラニーは保護と特権を与えられた替わりに軍事動員の義務を負った。費用は布教村負担である。その出動は多岐にわたった。ラプラタ湾両岸の植民都市防衛のほか、より野性的で好戦的な先住民の討伐で活躍した。イエズス会ユートピアの限界の一つである。
中でもアスンシオン市民の反総督の乱(コムネロスの乱 1721~35)鎮圧は大ミッション地方の政治・経済的および軍事的優位を如実に物語っている。アスンシオン市民は、マテ茶輸出の減益(高い関税とブエノスアイレス商人が取るコミッションが原因)とエンコミエンダの減退で、イエズス会布教村寄りの総督と繁栄する布教村を敵視するようなり、チャルカス(現ボリビア)の国王出先機関アウディエンシアに窮状と対策を訴えた。総督の留任決定に憤激した市民は総督を監禁し、別の人物アンテケラを越権就任させた。アンテケラは「パラナ川北岸の4つのミッションを襲撃し50人近くのグアラニーを捕虜とし、支持者[エンコメンデーロ]に分配した。」
ペルー副王はアスンシオンのライバル、リオ・デ・ラプラタ総督サバラに事態の収拾を命じた。1727年、サバラが動員した2000のグアラニーと3000のアンテケラ軍がアスンシオン南部で戦ったが決着がつかなかった。グアラニー軍が6000に増員されるに至ってアンテケラは市内から脱出し、紆余曲折を経て1731年ペルー副王によって処刑された。
アスンシオンでは20カ月間監禁されていた総督が解放され、騒乱は収まるかに見えたが、アンテケラ処刑の報に市民は激怒してさらなる蜂起を準備した。みずからコムネーロス(自治体comúnの自由市民の意)を名乗り、評議会を結成した。新総督を追い返し、1733年には再派遣された新総督を阻止し殺害した。
1735年、反乱は頂点に達し、合戦を経て、数で勝るグアラニー軍に鎮圧された。                                                                            

「ミッション独自の土地制度と生産物」
イエズス会のミッションは単に布教することではなかった。明確なクニ造りのプランを有してグアラニーを説得して集住させ、集団労働、共同利用という新生活になじませた。ロシア革命も中国革命も農業集団化で躓いたことと照らし合わせると、イエズス会ミッションの成功は興味深いばかりでなく高い評価に値する。
まず土地制度である。土地を「人間の土地」と「神の土地」に分け、前者を自給自足用として家族と親族に分け与え、後者を公用のための共同生産の場とした。
公共用の土地では、飢饉・軍事のための備蓄作物、副王域内の輸出用マテ茶が主に生産された。牧場、石切り場、美術工芸品作業場、武器製造所もあった。集住・定住社会に不可欠の、遊動民時代には全くなかった生産活動である。
大ミッションの東部では牛馬の牧畜が、中・西部ではマテ茶生産が盛んで、域内で産物の交換がおこなわれた。また、「教会用の鐘の鋳造、銀細工、織物、鉄鉱石の抽出、鉛丹生産や聖像の作成、本の出版などが始まり、各ミッションの特色が徐々に開花していった。」
特産物は村々の間で交換された。言うまでもないことだが、貨幣のない社会だった。

興味深いのは、ロシア、中国では、集団農場の生産性が自家用に比べて低かったが、ミシオンでは逆だったことである。先住民は蓄える習慣がなかったから自家用地では余分な労働をしなかったのである。
「神の土地」では生産性が高かったばかりでなく、製品の品質が高く、布教村のマテ茶は高値で取引された。彼らの労働意欲が高かった理由はグアラニーがキリスト教を受け入れ、信者集団として労働に勤しんだからである。また、労働の成果が平等に分配され、石造りの聖堂、聖像、家族ごとに空間を仕切った石造の長屋住居、学校、病人・未亡人用施設、集会場、作業場、畑、倉庫、墓地、牢屋、行事が行われる中央広場といった目に見える風景となって還元されたからである。グアラニーは十分に創造の喜びを感じながら労働したのだ。
イエズス会士はそれを神の恩寵と説いたにちがいない。もともと厄災も死もない地上の天国をもとめて移動する旅の風習があったと言われるグアラニー族だから、感激して涙を流しながら会士の説教に聞き入ったと思われる。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

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グアラニー族布教区の興亡/大ミッション地方とバンデイランテ

2024-07-26 | 移動・植民・移民・移住


再移動、再建、新設と変遷を重ねたこれらの教化村は「1720年代の時点で、ミッションの総数は30に達し、人口も12万1168人を数え、その繁栄ぶりは遠くヨーロッパへも伝わった。*
」
*田島久蔵・武田和久編集『パラグアイを知るための50章』  配置図出典は『幻の帝国』

グアイラ地方から移動後のスペイン人町ビリャ・リカもロレトとサン・イグナシオ・ミニも移住先を確認できる力作画像である。スペイン人町が三つしかないことが、イエズス会ミッション村の自立性を物語っている。イエズス会ユートピアは確かに存在したのだ。

まずは、その後のバンデイランテの爪痕をたどってみよう。
上掲図で、パラグアイ北部にイエズス会ミッション村が無いのが目立つ。そこイタティン地方にはグアイラ地方から撤退したイエズス会外国人会士4人が創った200から400家族からなる四つの教化村があった。
1648年末バンデイランテにより三つの村が破壊された。布教長スエルクが陣頭に立って守り通した一村は、バンデイランテとエンコメンデロ双方の魔手から逃れるため、点々と移動をつづけ、10年後の1659年、南部にサンタマリア・デ・ラ・フェとサンティアゴを築き今に至っている。上掲図のパラグアイ側ミッション「パラナ右岸地方」にその名がある。

イエズス会のパラグアイ管区教化地はパラナ川とウルグアイ川によって三つの地方に分かれる。パラナ川右岸地方(現パラグアイ)とパラナ川左岸地方(現アルゼンチン、ミシオネス州)とタペ地方(現ブラジル、リオグランデ・ド・スル州)である。地図では一目瞭然分かれているが、布教は一体として行われた。したがって、以後ひっくるめて大ミッション地方と呼ぶことにする。大ミッション地方布教の最大の貢献者は二人のメスティソ(混血)神父、ロケとモントヤである。

ウルグアイ川の東南部のタペ地方はグアラニー語で大きな村の意味のとおり人口が多かった。大西洋に流れ出る川が多く水に恵まれた土地だが、地形が険しく先住民(勇猛で知られる狩と漁の遊動民も居た)の抵抗も激しかった。ミッション地方のパイオニア、ロケ・ゴンサレスの主導で教化村は13村にまで発展していた。その間ロケは一部のカシケに恨まれて殉教した。
イエズス会管区長はバンデイランテ襲来に備えて、ブエノスアイレス司令官に少数の銃の所持を求めたが拒否された。管区長は許可を得ないまま銃を購入し、元兵士であった修道士に銃の扱い方、戦闘訓練を開始させた。
1636年末、予期した通りバンデイランテの大部隊がタペを襲った。
かのモントヤが指揮をとったが戦力差は如何ともしがたかった。教化村はじりじりとウルグアイ河畔に追い詰められていった。13あった教化村の名は最終的には入れ替わって上掲図では一つしかない。サン・ミゲル(世界遺産「グアラニーのイエズス会伝道所群」の一つ)である。
モントヤはアスンシオン、ブエノスアイレスの両司令官に援軍を求めたが黙殺された。モントヤは以後現地を離れて、スペイン王室、ペルー副王に長年陳情し続けた。
その間グアラニー語の辞典を作り布教手引きを発行した。王室にパラグアイの布教活動を広く知ってもらうために書いた『パラグアイの精神的征服』は、グアラニーミッションの旗手としてのモントヤの名を不動のものにした、と伊藤慈子さんは綴っている。
1639年1月、モントヤたちの努力が実って国庫から得た150丁の鉄砲と弾薬に勇気百倍のグアラニー軍がアサバ・グアスの戦いでバンデイランテを初めて打ち破った。しかし、布教長アルファロ(法令発布者の息子)は戦死した。捕虜になった2000のマメルーコと17人のパウリスタは罰せられることなく釈放された。教化村には罰する権限がなかったのである。

1641年3月、バンデイランテの大部隊、450人のパウリスタと2500人のマメルーコが250艘の船と多数のカヌーで 、ウルグアイ川を下ってきた。
アサバ・グアスの戦い以来、ミッションの村々は厳戒態勢を敷き、戦備を整えていた。秘かに銃を購入し、二人のカシケに陸軍と水軍を分担させた。事前に来襲予報をつかんで川の上流に見張りを配置した。総指揮は元兵士の修道士がとった。黒澤明監督の名作「七人の侍」はフィクションだが文明社会からもっとも遠い、隔絶したミッション地方で類似の現実ががあったことに心が弾む思いをした。
ムボロレー河畔を戦場に選んで待ち伏せして、差し掛かった船団に不意撃ちを加えた。あわただしく上陸して隊列を整えるバンデイランテを4000のグアラニー部隊が包囲した。八日間のにらみ合いの末、バンデイランテは和平を申し出た。拒否されて夜陰に乗じて血路を開いた。翌日の昼すぎまで続いた激しい戦闘でバンデイランテの損失は2000人に達し、600艘のカヌーと400丁の銃が残された。
ムボロレー教化村はウルグアイ川西岸にある。グアラニー軍の勝利は期せずして西岸がスペイン領(今日のアルゼンチン領)になる根拠となった。ムボロレーの戦いの後、グアラニーの軍事組織は次第にアスンシオンとブエノスアイレスの軍司令官に頼られる存在になっていく。勝利の報に感動した国王は翌年、グアラニー教化村を領土防衛に利用する計画を発案した(武田和久論文 takeda2010.pdf)。
バンデイランテの矛先も大ミッション地方をあきらめて西北方面、ラ・プラタ湾方面に方向転換した。グアラニーの民兵がその方面の領有権防衛のためにその都度動員された。スペイン国王の保護に対する見返りである。

この間、イエズス会教化村は、その特権と繁栄をねたむアスンシオンのパラグアイ管区司教カルデナス(フランシスコ会士*)とエンコミエンデーロ、市会議員と市民に長年中傷、告発され続けていた。暴動になった例をあげる。
* アスンシオン周辺のグアラニーはフランシスコ会教化村に属しエンコミエンダ制に服していた。
上掲イタティン地方が1641年末からバンデイランテに侵寇されたとき、アスンシオンは珍しく「援軍」を送った。バンデイランテが住民を捕らえて去ったあと、スペイン人は唯一残った村に入るやいなやイエズス会士に替えて在俗教会の神父を後釜に据え、住民をエンコミエンデーロに分配しようとした。グアラニーたちは逃げ隠れしたり、派遣されてきた役人や神父に食べ物を供給することを拒んだりして、スペイン人たちを撤退させた。
折しもアスンシオンではパラグアイ総督が死亡し、それを奇貨としてカルデナス司教は全市民の集会を招集して拍手で己を総督に選ばせた。聖俗両権を握ったカルデナスに扇動された市民は暴徒と化し、異端と目された同市のイエズス学院=コレジオを襲い内部を焼き払い、会士を追放した。司教が「有る」と宣伝していた金銀は探したがなかった。学院の牧場から牛や羊を残らず奪い去った。
カルデナスの暴挙と勝手な統治は王室の怒りを買い、新司令官が大ミッション地方から招集したグアラニー・ミリシア(民兵)3000人によって鎮圧された。

次回はイエズス会教化村の150年間の繁栄と終焉を対象とする。

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イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアイラ地方とバンデイランテ

2024-06-21 | 移動・植民・移民・移住

イエズス会によるペルー布教は1568年に始まった。エンコミエンダ制の行き詰まりのかたわらで、先住民布教にめざましい活躍をするイエズス会のミッションに目を付けたペルー副王トレドは、海抜4000メートルのティティカカ湖畔のフリ村(人口9000人)の布教をイエズス会に委ね、イエズス会士以外のスペイン人の立ち入りを禁止した。
「会士たちは布教に携わるだけではなく、村のカシケ[首長]と一緒になって、行政や経済活動、あるいは村人の生活にいたるまでをこと細かに指導し、フリの住民の生活をめざましく改善することに成功した。*」
*この章においても、典拠を明記してない出典はすべて前記伊藤慈子著『幻の帝国』である。それだけではない。ほかに類書が無いので、関連の章は創作ではなく、主題の文脈にあわせて同書の「まとめ」で代用した。

1578年、副王はフリにスペイン王の直轄地にするという恩恵を与えた。普通、他教団は住民の改宗に成功するとその村を在俗教会の手に委ね、次の部族の布教に向かう。失敗すれば、武力制圧に任せる。
「いずれの場合も、スペイン人が入ってきたとたん、村にはエンコミエンダ制が敷かれ、村役人や在俗教会の僧、エンコメンデロ(エンコミエンダの持ち主)から徹底的に搾取される、というのが先住民をコロニアル社会にくみこんでいく一般的な図式だった。」
イエズス会はこうした図式の改革を理想としていて、フェリペ2世にミッションを認められて、フリで初めて自治的村づくりに成功したのであった。
「太陽の沈まぬ帝国」の王として名をはせたフェリペ2世のこの施策は、過酷な強制労働と反抗・討伐に加えて、伝染病で、急激に減少する先住民の人口・使役対策であった。したがって、布教村に、自治と保護を与える代わりに労働徴用に応じる義務を課した。「住民は一年のうち三ヵ月は漁業、牧畜、農業など各自の仕事に従事し、残りの九ヵ月はこれまでと同じようにポトシに出向いて王室の鉱山で働かなければならなかった。」
厳しい労働条件であるが、徴税、徴発を免除されていたので、村内の四つに分かれた教区は、イエズス会士の指導により、それぞれ住民の手で細部にインカの伝統を活かしたヨーロッパ風教会を建設することができた。この建築様式と自治の制度はその後のミッション村建設の模範となった。


南米におけるイエズス会グアラニー布教村の最初の成功例はグアラニーの人口が多いグアイラ地方に1610年に創設されたロレトとサン・イグナシオ・ミニである。グアイラはパラナ川の支流パネマ川の南岸地方を指し、肥沃なパラナ高原の一部である。Londrinaをふくめたパラナ州のほとんどを占めている。ただしグアラニーは大河川にそって居住していた。パネマ川の北岸はサンパウロ州である。

初代イエズス会パラグアイ管区長ポリョ(フリで布教村を統率した経験者)は各地に会士を派遣して布教村の設立に務める一方、スペイン王室にエンコミエンダにおける先住民の悲惨な状況を訴え、その保護を懇願した。巡察使が派遣されポリョが同行して調査が行われた結果、「アルファロの法令」(1616年)が発布された。
それは、イエズス会のグアラニー教化村の先住民はなんらかの新しい措置がとられるまで、エンコミエンダでの使役と納税を免除される、という優遇措置を前面に出した、画期的で徹底した先住民保護法であった。先住民をエンコミエンダで働かせる場合は、契約に基づかねばならず、給料は一日一レアル以上[未満で再検討]、徴税は年間五ペソ・労働で支払う場合は一ヵ月[六ペソ・二ヵ月]、そのうち一ペソを僧に渡す、とされた。
当然在地スペイン人は死活問題として猛列に反対し本国に撤回を求めた。王室のインディアス審議会は1618年若干の修正(上記[])を加えて法令を正式に承認した。

アルファロ法令が追い風となってグアイラ地方とパラナ地方の布教村は大発展を遂げた。この章ではグアイラ地方に絞ってグアラニー族布教村の転変を扱う。

グアイラ地方の布教村は、スペイン人を父、「インカ人」を母とするイエズス会布教長モントヤの指導で大発展を遂げ、10万人が洗礼を受けた。1629年1月、大部隊のバンデイランテ(パウリスタ900人、マメルーコ2000人)がサン・アントニオ村を襲い、宗教祭で集まったグアラニー人を捕らえ、鎖でつないだ。
抗議に駆け付けたモントヤを邪教を伝える悪魔とののしり耳をかさなかった。メンドサ(後にタペ地方最初の殉教者となった)は矢を受けて負傷した。モントヤは僧衣の胸をはだけて撃てるものなら撃てと叫んだと伝えられている。ブラジル側では足元にひれ伏して村人の釈放を乞うたと伝えられている。
侵寇は3年にわたって繰り返され、10万のうち6万人がサンパウロに連行され、奴隷市場で売られた。ロレトとサン・イグナシオ・ミニの12000人は無事だった。襲われた村は焼き払われた。
同地にはマテ茶生産のスペイン人町が二つあった。ロレトとサン・イグナシオ・ミニの住民は、村を建設してから10年の免税期間を過ぎていたため、年に2ヵ月間スペイン人町で労働することで税金を代納していた。皮肉なことに二村はエンコミエンダの使役に救われた形になった。
しかし逃亡者を受け入れて保護したスペイン人町ビリャ・リカがバンデイランテに包囲され降伏するに至って、布教長モントヤは布教村二村を安全な場所に移すほかないと決心した。移動先はパラナ川を600キロ下った現アルゼンチン・ミシオネス州*で、そこにはすでにイエズス会の布教村がいくつかあった。
*ミッション州。上掲地図で言うとパラグアイの「パラナ地方」と「ウルグアイ地方」の中間である。以下、仮に「ミシオネス地方」と呼ぶ。

大移動の様相をモントヤの記録でたどる(すべて前掲書に拠る)。
「川原はにわか仕立ての造船所となり、カヌーやいかだを建設する物音がひびくなかを人びとは家財道具をまとめ、食料を準備するために忙しくたち働いた。」総勢六、七人の会士は指導をとるかたわら、教会の装飾品や装具をまとめ、埋葬されていた三人の神父の遺骨を壺に納めた。
700のカヌーといかだに1万2000人と家畜と必要な物を乗せて大移動が始まった。
途中川幅の狭い所で、労働力の流失を阻もうとしてグアイラのもう一つのスペイン村シウダード・レアルが総出でバリケードを築いて抵抗したが無事突破できた。「七つの滝」と呼ばれる実際は15の滝があった難所*では、試みに300のカヌーを放ったがすべて無に帰した。
*現在は世界一の発電量を長江三峡ダムと競い合うイタイプ―水力発電所が築かれ観光名所となっている。
一行は残ったカヌーと荷物をかついで高巻きしてカヌーを出せる岸辺まで道なき森林を歩いた。その距離130キロというから声を失う。食糧やあらたにカヌーを作る大木を求めて密林に消えた人々もいた。制止を振り切ってにわか仕立ての小舟や筏で勝手に川をくだろうとして命を落とした集団もいた。事故や傷病で亡くなったひとも数知れずいたであろう。「やっとミシオネス州の教化村からの救援がとどいたのは、旅がほとんど終わりかけていたころである。グアイラをでて八ヵ月、無事目的地に着くことができたとき、隊はわずか四〇〇〇人になっていた。」ちらっと紅軍の大長征の物語が脳裏をよぎる。

その翌年にあたる1632年、大掛かりなバンデイランテの侵寇によりグアイラ地方の先住民は消滅し、したがって二つのスペイン人村もパラナ川を越えて西に移動を余儀なくされた。それ以来、グアイラ地方はポルトガル人の占有地となり、最終的にはブラジルのパラナ州となった。
次章「大ミシオネス地方・・・」につづく。

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ブラジル史初期のレジェンド/ポルトガル人・先住民・マメルーカ

2024-02-24 | 移動・植民・移民・移住

 河出書房新社 2022年 
本章記述中の数字はこの一冊に依拠している。

 植民地ブラジルの創成期は三期に分けることができる。
「パウ・ブラジルと先住民」収奪期 封建制 ブラジル人祖型
「サトウキビと奴隷」搾取期 カピターニア制 先住民蜂起 
「大ファゼンダとイエズス会」植民地確立期 総督制 三結合
項目分けはしてないが記述の流れで見えてくると思う。

ブラジル史は贈り物の交換から始まった。
1500年、発見者カブラルの到着地は後にポルト・セグーロ(現バイーア州の南部、州都サルヴァドールから700キロ)と呼ばれた。カブラルは10日間滞在し、トゥピニキン族から水と食料と薪を贈られた。パウ・ブラジルを発見し即ポルトガル王に報告のための船を先発させた。他日役立たせるために二人の受刑者を残置した。

1502年、領土と資源を独占所有するポルトガル王が大商人貴族ロローニャに利益の5分の1前後を与える条件でパウ・ブラジルの伐採と輸出を許可した。フランス人商人に許可した例もある。先住民がその労働をになった。斧、山刀、小刀、針、釣針、ハサミ、装身具、布地、銃等などとの不等価物々交換。
 
1510年、ポルトガルから一攫千金目的で「ブラジル」に向かった船が嵐で北東部海岸バイーアに漂着した。船乗りジオゴ・コレイア(以下Diogo)がトゥピニキン族の敵対者トゥピナンバー族の虜(異説あり)になった。鉄砲のお陰もあって畏敬を得て、有力者となった最初のポルトガル人と云われている。さらに、人種的・文化的に混交した家族をもったブラジル人の祖型として伝説の人となった。
後にDiogo(トウピ語のあだ名カラムルー)は首長の娘グアィビンパラーと結ばれてフランスに旅行した。グアィビンパラーはヴェルサイユ宮殿に招かれた最初の先住民となった。フランス国王フランソワⅠ世立会(異説あり)の下でカトリック式の結婚式を挙げた。洗礼親は船長夫妻だった。1528年のことである。
ブラジル在住の作家・中田みちよさんは、ポルトガル人のDiogoがフランスに行ったことから、それはパウ・ブラジルの密貿易支援に対する船長からの褒美だったのではないか、とWEB : 女たちの「ブラジル物語」(このブログ記事の基になった)で真相に迫る見解を述べている。そのころはまだ統治機構がなかったし、Diogoのような通訳、仲介人はパウ・ブラジルの取引に欠かせない存在だった。
グアィビンパラー(洗礼名カタリーナ)は才色兼備の女性で、ポルトガル人とIndigena(インジオの正式名称)の間に立って調停、宥和に努め、晩年サルヴァドールにベネディクト会礼拝所を建立した。遺言により全財産を寄付している。
また、子や孫の教育に熱心で、貴族、王室と婚姻関係を結んだ。ポルトガル人貴族と結ばれた娘マダレナはブラジル語識字者第一号でしかも黒人奴隷解放を格調高い手紙(1561年)で司教に訴えた(後出)。3人の息子は総督によりナイトに叙せられた。
夫Diogoの勤務と出世がそれを可能にした。

1530年、ブラジルの植民地化は、ポルトガル王が沿岸部に遠征艦隊(武装船7隻、植民者400人)を送り込むことで始まった。その目的は長大な沿岸部を探検調査して入植地と砦を建設し、先有=占有の実効をあげることであった。フランスが沿岸部を侵犯してパウ・ブラジルを伐採、密輸していたから、それの駆逐と防砦の築造が焦眉の急であった。
そのためにポルトガル国王(占領地と貿易を独占していた)はしかるべき功臣(貴族、貿易商人)に「封土」capitaniaを授与、領有させて自主財源で防衛と植民と砂糖生産を義務付けた(カピターニア制)。

写真出典   関 眞興 『一冊でわかるブラジル史』 河出書房新社   2022年 
 
沿岸部から西へ短冊形に区切られた15のカピターニアが創設され、Diogo はバイーアのカピタ~ン・コウチーニョに仕えた。そして現サルヴァドールで植民地開拓を支援した。コウチーニョがナンバー族を奴隷扱いしたためナンバー族の蜂起を招いて植民事業は崩壊した。板挟みになった仲介役のDiogoの苦労が思いやられる。

定住と労働の習慣がない先住民をいかにして働かせるか、労働力の供給がネックになったことはいうまでもない。初期には先住民(主食の生産はしていたが貨幣も経済もなかった)の社会規範であるホスピタリティ・マインドを利用していたが、ほどなくポルトガル人の監督が銃と鞭で先住民に労働を強いる奴隷化に移行した。奴隷にされたのは先住民間の戦いに敗れた種族である。
どのカピターニアも資本不足と先住民の襲撃で行き詰まった。15のカピターニアのうち経営が成り立ったのは南部のサンヴィセンチと北部のペルナンブーコだけだった。いずれにも有力な先住民首長の娘と結婚したポルトガル人がいて両民族の関係を調整できたという共通点がある。
レヴィ=ストロースがボロロ族で観察した半族間交差いとこ婚の慣習が異なった形でこの期の首長の娘とポルトガル人男性との結婚でも観ることができる。
交差いとこ婚の社会では、男が首長の妻(つまり娘の母親)一族のために「気前よく」働くことを伝統としている。本来一族の安寧と安保のためにできた社会慣習であるが、白人たちはその伝統をパウ・ブラジル労働のリクルートに逆用した。つまり、多重婚で得た多くの「妻」の親族を労働に動員したのである。
その上、半族社会のあらゆる社会的祭祀的行為は、相手方半族の補助、協力を前提としていたから、パウ・ブラジルのための動員は部族全体に及んだ。
なお、先住民社会はハチやアリの社会に似ていて首長あっての集団である。首長次第で友好か反抗が決まった。パウ・ブラジルの伐採、運搬の重労働も首長が首肯したから従事したと考えられる。

1532年以後のことであるが、遠征艦隊の提督マルチン・アフォンソがサンヴィセンチ・カピターニアのカピタ~ンとして最初の植民地を今日のサントスの隣町サンヴィセンチ島に設置した。ついで西のピラチニンガ高原に本拠地を構えた。
ここに至るまで2,3年かかっているが、その間ペルナンブーコを奪還してフランス交易所を破壊している。ポルトガルにもっとも近いペルナンブーコは交易の最先進地だった。1516年に早くもマデイラ島からサトウキビを移植している。
サンヴィセンチにはニキン族の首長チビリサの娘バルチラ(洗礼名イザベル)と結婚した漂流者ラマーリョが先住民に混じって生活していた。カピト~ン・アルフォンソは首長とラマーリョらの協力でブラジルで最初の植民地経営を軌道に乗せた。その功によりアルフォンソがインド総督に栄転した後、その妻アナが新カピタ~ンを支えてピラチニンガ高原にサンパウロ市の基礎を築いた。強力な同盟者がいなかったらサンヴィセンチ・カピターニアの確立はなかった。フランスと同盟を結んだタモイオ連合の襲撃に堪えられなかったに違いない。
ラマーリオは当時珍しくなかった多重婚で多数の混血児mamelucoを生んだ。子や孫はサンパウロの実力者と結婚し、サンパウロ人の祖となった。ということは、バンデイランテスの祖にもなったということである。ラマーリョには「バンデイランテスの大主教」の異名がある。
後年、砂糖生産で肥大したサンパウロのファゼンデイロたちが結成した奥地奴隷狩り隊バンデイランテスには多くのマメルーク兵士が加わった。そのあまりの残忍行為に近親憎悪をみる著作もある。

1549年フランシスコ・ザヴィエルの鹿児島上陸と時を同じくして、イエズス会の宣教師ノブレガ神父らが国王任命の初代総督トメ・ジ・ソウザと共に北東部のサルヴァドール・ダ・バイーアに上陸した。カピターニア制から総督制 への統治制度の変更である。200名の兵士、100名の官吏、犯罪者400名を含む700名の植民者が総督に随行した。
国王と総督とイエズス会の三結合による本腰を入れた集権的行政と植民地開発が始まった。枯渇したパウ・ブラジルに代わって砂糖が主産物になって、奴隷(先住民→黒人)の搾取でスーパ農園ファゼンダ---高価なサトウキビ絞り装置エンジェーニョのほか製材所、鉄工所、牧場などを擁する---が出現する。
先住民の習俗を体験、熟知したDiogoとグアィビンパラが総督に重用され、サルヴァドール建設に貢献した。サルヴァドールは政庁(総督府)となり、砂糖の大生産地バイーアの州都さらにはブラジルの首都になる。

ピラチニンガでは、イエズス会神父アンシエッタが、礼拝堂と学校を併設し、1554年1月25日にノブレガの臨席を得て落成のミサを捧げた。その日がサンパウロ市制記念日となった。

最後に、Diogoとグアィビンパラーの娘マダレナの魂の遍歴を一端だけエピソードとして挙げておく。
混血ブラジル人マダレナ・カラムルーの司教宛て手紙(1561年)について、作家中田みちよさんの上掲「ブラジル物語」から引用する。
[マダレナは]「親から隔離され、神も知らず、我々の言葉も解せず、やせて骸骨のようになりながら奴隷小屋に軟禁されている子らが、虐待から救われますように」と嘆き、働く力もないかわいそうな子らのために金貨30枚を寄付しています。
昨日まで、純朴な人々のふるさとであったバイーアが、奴隷商人に牛耳られる守銭奴の町になったことを嘆き、「舟が着くたびに浜に吐き出され、競売に付され、売られてゆく愚直な黒人たち・・・もっと、ほかに人間的な道があったかもしれないのに・・・」
裕福な家庭に育った人間の鷹揚さ。大変、心優しい、ヒューマンな手紙です。しかも格調高いポルトガル語。

晩年、マダレナはドメニコ会に近づき清貧を貫き、全財産を寄付している。母グアィビンパラーがベネディクト会礼拝所を建立し全財産を寄付したことは前に述べた。母と娘が同じ葛藤を共有していたことは想像に難くない。それは何だったか・・・? 
なぜ教会、イエズス会ではなく小さな修道会を選んだのか? 次章に続く。


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破壊的スピードの発展/Londrina開拓に見る

2023-05-09 | 移動・植民・移民・移住

アマゾンの1頭の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす、というたとえ話がある。近年自然破壊による地球温暖化と異常気象が生物の生存を脅かすに至って、非常に小さな事象の集積が大きな変動につながる、という意味で、バタフライ効果が現実味を帯びてきた。
まずは小さなロンドンLondrinaの物語から始める・・・。
1929年、ブラジル南部のパラナ州の密林に、イギリス資本の北パラナ土地開発会社の本拠が置かれた。地名はロンドンにちなんでロンドリナと名付けられた。10アルケイル=24.2ヘクタール≒24町歩に小分けされた分譲地に、東部のサンパウロ州から多くの日本人移民が移住した。
私の父母になる男女はそれぞれ1933年と1934年に移住し密林を開拓した。市のメモリアルにパイオニアとして記名されている。
開拓会社はまず鉄道を敷き、サンパウロの貿易港サントスに至る鉄道網に繋いだ。それにより、世界的に需要が高まったcafé の輸出で大発展する礎が築かれ、ロンドリナは数年で都市化し1934市制が敷かれた。翌年父母が結婚し1938年わたしが誕生した。
一連の写真で環境と生活の変貌を伝える・・・。

21世紀初頭のロンドリナ市のパノラマである。
開拓期の手前Igapo湖の写真(同位置)を下に掲載する。

近くの粘土地帯に母方の父母、兄弟がれんが-かわら工場を建設して成功を収めた。父は赤土の丘陵地帯にコーヒー農場を開いた。両地とも今では市街地に変貌して昔の面影はない。
残念ながら開拓を象徴する大木の伐採と天を焦がす山焼きは撮影されてない。開拓の道具は揃えたがどの家族もカメラをもっていなかったからである。とりあえず写真数葉を掲載する。

我が家の農地にも同様の切り株があった。足場を設置して写真の上端あたりで二人挽き大鋸で伐採した。切り株から食べられるキノコが採れたことをわたしは記憶している。

1938年母方長男結婚記念写真 後列左端父、前列左母と私(お腹の中8か月) 
ほかは母の父母ときょうだい

掘っ立て小屋で誕生 3カ月 

母方一家の煉瓦-瓦工場 背景に切り残りの樹木と大邸宅

私が10歳のころ、わが一家は帰国前に一時ここに身を寄せた。煉瓦積みを手伝って小遣いをもらったことがあった。手前の湿地帯で小鳥、小魚を捕った。手作りのパチンコ、釣竿で。


1940年頃 我が家の農場  実が生りはじめる樹齢4年ぐらいのコーヒの樹   

80年ほどでジャングルがコンクリートジャングルに変貌した。振り返って、その広がりとスピードの影響におののいている。地球環境はそのストレスに耐えかね悲鳴を上げはじめた。
生態系は商品作物と牧場にとってかわった。高原の赤土は洗い流され化学肥料と農薬なしでは大豆も牛も育たない。次章で失われた生物多様性を体験的に綴る。
  

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ブラジル産Ⅱ世 12歳まで未入学 遊びと農作業の日々 来日編入学 義務教育体験 久大附設高に進学 浪人体験 京大で安保闘争加担 独学研究 開塾体験 高槻FC創立 結婚/育児 舌癌・狭心症・大腸癌手術
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