自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

廃村八丁・幻の土蔵/北山行

2019-01-23 | 生活史

恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 
和泉市信太森葛葉稲荷神社に伝わる葛の葉子別れ伝説から。葛の葉は白狐の化身、子は「安倍清明」。江戸時代、浄瑠璃や歌舞伎となって庶民に親しまれた。今でも、きつねうどん、稲荷ずしを「しのだ」ということがある。[前頁問題に対する回答]

自分史への復帰にあたって起点と軸になる人間関係を明らかにしておく。
1964年春、卒業式後数日して親友溝尾を京都北方の岩倉に訪ねた。そう、岩倉具視が籠って討幕の陰謀を練った、あの岩倉である。そこで、そのご無二の親友となる大浜と初めて出会った。やがて医者になった大浜は岩倉に新婚の巣を設けた。訪れる度に通り抜けた路地の入り口に名刹実相院があるが私は一度も拝観しなかったことが今になって惜しまれる。
やがてわが師友・井ノ山さん一家も岩倉のさらに奥まった新興住宅地に伏見桃山の税務署官舎から移り住んだ。
私もまた下鴨北園町に離れの勉強部屋を借りて転居した。
こうして私の紹介で井ノ山、大浜両家族が出会い、それに家族を持った私の一家も加わった、三つ巴の家族的付き合いが始まるが、それはずっと後のことである。

大浜と溝尾の付き合いは下宿が同じだった?からと思われるが定かではない。二人の趣味が登山だったことは確かである。私の山行は二人に感化されて始まった。最初の山行は廃村八丁だった。京阪三条から京都バスで北上し広河原で下車、一泊用の装備を担いで登山開始、海抜770mのダンノ峠から海抜600mの八丁に至る。
5家族がようやく生計を維持できた谷間の小盆地である。八丁山は森林資源が豊富だったから古くから北と南の村が入会権をめぐってたびたび争った。
一番古い記録は1307年である。歳月が流れて明治維新による地租改正で地権の確定が施行されたとき代々山番をつとめていた5家族の共有となった。訳ありの隠居・元会津藩士の原惣兵衛が知恵を貸して5家族共同経営方式に加えて分家は山を下りるというちょっとした掟を導入して共倒れを予防したという伝説が残っている。明治維新で有力者が代表署名して田畑、山林、原野を私物化した歴史事実をかんがみると感嘆を禁じ得ない。土蔵も一つを5家族で共有していたと想像できる。これは必要が生んだ小さなコミューンではないか。

近代化が原因で太平洋戦争までに八丁は消滅した。1934年初頭に3mの大雪で盆地が埋まったことがダメ押しとなったといわれている。京大の山田名誉教授が過疎の語源は八丁にありとする論文をPDFで発表しているらしいがネット上で検索したが見つからなかった。
私たちの山行でかろうじて記憶に残っている印象を記す。ダンノ峠を過ぎると自然林のトンネルがあった。今は森林浴推奨スポットになっているのではなかろうか。さわやかな樹木の香りと枝葉のざわめきが涼しい風にのって身体を包む感じは幼いころのジャングル体験とはまた違った感覚を呼び覚ますものだった。ジャングルではサルや野鳥の鳴き声があちこちから木魂し積もった落ち葉の蒸れた匂いがひんやりした空気に充満していた。
登山者、ハイカーを引き寄せた土蔵は、ほかの建物が朽ちて背の高い雑草に埋もれる中ひっそりと建っていた。この土蔵ゆえに廃村を実感できたが現地は明るい開けた盆地にすぎず無常の野とか秘境とかを感じさせるものは何もなかった。私たちは土蔵の屋根裏に上がって一泊したが幽鬼に眠りを邪魔されることはさらになかった。
土蔵を有名にした最大の原因はその7,8年前に白い外壁の一面に描かれた高層ビルと街路の壁画である。今では熱心な研究者によって作者も作成時期も、土蔵の倒壊時期すらも解明されている。参照HP:柴田昭彦氏「廃村八丁の土蔵の歴史」

廃村八丁には4,5回行った。最初の時1966.7写真を撮っていれば、と悔やまれる。今回掲載した写真は1969年夏に撮ったものである。その時にはもう、心ない輩が焚火にしたのか外壁下部の板張りが剥ぎ取られて土壁が露出していた。
土蔵が亡くなって廃村を偲ばせるシンボルがぜんぜん無いにもかかわらず、名ばかりだが「廃村八丁」は山行コースの目玉として生き続けている。せめて写真で往時を偲んでほしいのでこの写真に限り自由に(できればソースを明示して)使って頂きたい。


世界を見てしまった男たち/変わらぬものは心なり/自分史再開の口上

2019-01-05 | 近現代史

今年元号が変わる。当BLOGも本筋に戻って自分史中断時点1964年から再出発する。その中で近現代史を挿話風に考えたい。
1964年(日本の経済復興を世界にPRした東京オリンピック開催年)の自分史を摘録して自分史再開の移行措置としたい。

卒業と同時に自活を始めた。親のすねかじりを絶ち独自の活動を三つの領域で始めた。
その1)近現代の革命とは?の問いに答えるために、マルクスとレーニンの著作を読み通し、もろもろの革命と動乱の書物を読み漁ること。これをほぼ日課とした。松田道雄座長のロシア史研究会で人物に焦点を当てた近現代史の面白さに目覚めた。それが横道にそれるきっかけとなった。今後このテーマを革命研究と名付ける。
その2)地域労働学校、労働組合立ち上げの試みと既存組合への情宣活動。着手はしたが手応えがなかった。今後発想を変えて、工場労働とは何か、労働研究(テーマ名)に手を染める。
その3)西陣のお寺で小学生対象の学習塾を立ち上げ生計を立てた。
生きる糧も大事である。しこしこ生きる様を「生活史」と名付けてテーマとする。
今後の記事は上記三つのテーマに沿って展開される。では、物怖じしない国際人を育てるヒント集、という大袈裟なタイトルはどうなる? あふれるほどの観光客や出稼ぎ、留学生と接触する機会がある今日、日本人はすでに国際人の資格をモノにしている、こんなタイトルでものを書くことは照れくさい。こんな風に考えていたが、たまたま下掲の本を読んで気がかわった。国際性に新旧、国籍はない、と。

 ちくま文庫 初版 1988年文献

気どりもなく、おそれもなく、〈人間と人間とは互いに理解し得るものなのである〉という、現代人が忘れがちな、素朴だが普遍性のある信念だけをたよりに、自分自身の身の丈にあった姿で外国人と交わった庶民たちの姿に、私はよい意味での国際性の根源をみる。こう、著者・春名徹氏は「初版あとがき」に記した。
そして『はじめてのアメリカ』と題する記事のサブタイトルに、とある漂流民の言葉、顔貌着衣は異なっても「変わらぬものは心なり」を引用した。われわれは西郷が奄美群島という「異郷」でこの人間観を脳裏に焼き付けたことを見たばかりである。

天保年間、永住丸という商船(樽廻船の系統)が嵐にあって漂流し乗組員13人がスペイン人の密貿易船に救われ、こき使われ、メキシコ/カリフォルニア半島に置き去りにされた。13人はばらけていくつかのグループとなりメキシコ人に救われ、それぞれ養家で家族並みの待遇を得た。労働をする居候生活である。言葉はわからないが心は通じる。ままならぬ意思疎通によっておこるハプニングはユーモラスである。
やがておおぜいの村人に見送られ、今生の別れを惜しんで抱き合い大泣きして、旅立った。マカオ、中国経由で異国船を乗り継いで相次いで帰国した。旅費もまた道中の善意と村人のカンパに支えられた。地方官のサポートがあったとはいえ国家の介在なしに国籍・国境を越えた民間人のリレーで数年後に無事それぞれの故郷の土をふむことができた事実は驚嘆に値する。
それはアメリカ人、メキシコ人に限ったことではなく、日本の民間人も外国人を救助し帰還を援助した美談が各所に残っている。
一例を挙げる。関ヶ原の記憶があたらしい1609年、千葉の御宿沖でスペイン船サン・フランシスコ号が台風で遭難した。村人は総出で村人口を上回る生き残り漂着者317名に1か月以上「同情されるほど貧しい」なかで衣食を提供した。宿には寺社をあてた。もちろん藩の支援が有ってのことであろう。遭難者は翌年家康の援助で無事メキシコ(一部フィリピン)に帰還できた。この故事から400年たったが、それは今も日墨間の友好・交流の縁となっている。
本題に戻ろう。実際の帰国者は5人で8人は滞在地は分かっているが帰国した形跡がない。その内一人は断罪されかねない鎖国下の日本への帰国を断念して途中の清国に留まった。5人は長崎奉行所とそれぞれの藩で尋問を受けた。また医者等の知識人が聞き書きを残した。それらがアメリカ漂流記となって市井の注目を集めた。中浜万次郎がアメリカ合衆国から帰国する6~8年前の出来事である。ちなみに、下記に名が出る善助ともう一人は寄港したハワイで万次郎の仲間と出会い、万次郎が才能を見込まれて渡米したことを知った。
帰還の詳しい経過は省いて代わりに船頭格の善助が後ろ髪を引かれる想いで現地に残した覚書のなかの和歌を披露する。一見読みづらいが私は近現代史の古い文献に触れてきたおかげで読み解けた。脳トレと思ってトライしてはいかが?  次号にて
解説する、とことごとしく言うほどのことではないが。

恋しくはたつね来て見よ和泉なるしのだの森のうらみくすの葉