自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

2.26事件/村中孝次と栗原安秀・坂井直/旭川連隊

2018-10-09 | 近現代史

話によれば、陸軍は本事件を利用して昭和十五年度迄の尨大軍事予算を成立せしめたりと、而して不肖等に好意を有する一参謀将校の言ふに「君等は勝った、君等の精神は生きた」 と。不肖等は軍事費の為に剣を執りしにあらず、陸軍の立場をよくせんが為に戦ひしにあらず、農民の為なり、庶民の為めなり、救世護国の為に戦ひしなり、而して其根本問題たる国体の大義を明かにし、稜威を下方民に遍照せらるる体制を仰ぎ見んと欲して、特権階級の中枢を討ちしなり。(村中孝次)

   平澤是曠『叛徒 2.26事件と北の青年将校たち』 1992年  道新選書

上掲書はこの記事の主たる典拠である。本書は、北の青年将校たちに焦点をあてて生い立ちから受刑までと遺族の苦難の一端を書き綴っているが、左右から攻撃された者たちの無念の真実を正当に評価した通史としても一般読者に推薦できる良書である。

 大正の初め、軍都旭川の第7師団将校子弟のための小学校で後年共に慟哭のドラマを織りなすことになる幼友達3人が学んでいた。斉藤史は長じて父親と幼友達の悲劇の面影に憑かれた著名なモダニズム歌人として、栗原安秀と坂井直は2.26事件の主要な実行者、刑死者として、昭和史に名を遺した。史の父斉藤瀏少将は連座して反乱幇助罪で禁錮5年となった。栗原が多分最後に電話した人物だったことが戒厳司令部の盗聴記録から読み取れる。栗原が瀏を師とたのんでいたことは他の史料でも裏付けられる。

「少年たちはポプラ並木と白いクローバの花咲く校庭[北鎮小学校]を駆け、柏のある低い丘のふもとでアイヌの矢尻などを拾って遊んだことがあった」

栗原安秀と史は同級だった。たがいにフミ公、クリコと性別を入れ替えて名を呼び合う仲だった。坂井直は2級下で「史姉さん」とよんでいた。安秀と直は父親たちが斉藤瀏少佐と同じ佐官級で懇意であったことから家族ぐるみのつき合いのなかで瀏を「おじさん」と呼びなついていた。

昭和の初め軍都旭川の第7師団に二人の将軍がいた。渡辺錠太郎師団長と斉藤瀏参謀長である。共に教育総監部とかかわるほどのインテリである。そのころ村中孝次が士官学校を卒業して故郷の連隊に配属された。学究肌で西洋かぶれと言われるほど欧州事情に通じていた渡辺はドイツ語に堪能で理知的、哲学徒のような村中の才能と誠実で温厚な人柄を愛した。軍務と自我の矛盾に煩悶し名曲と文学に泪する村中もまた、近代思想を研究しドイツ軍事史学に精通する学者風の渡辺を敬愛した。
時は流れて2.26事件で、渡辺と村中は、軍律を教え正す教育総監対蹶起した討奸隊の智謀将校として敵味方となった。予備役であった斉藤瀏も成人した3人の仲良しグループも事件の渦中にあった。

そうなった背景に東北以上に厳しい自然環境と社会環境があった。北海道は元来自然と一体化して共同生活を営むアイヌの天地アイヌモシリであった。その生活領域はアムール下流域、樺太、千島列島、北海道と広範囲であった。フビライが服属するギリヤーク族の要請を受けて樺太に数度渡海遠征軍を送ってアイヌを駆逐しようとした、元寇に先んじる史実から、その勢力域の大きさがうかがわれる。
松前藩と幕府によってアイヌが半奴隷的状況に追い詰められて人口を激減していたところへ明治政府の国策的開拓がダメ押しの一撃を加えた。アイヌはアメリカ大陸の先住民同様の境遇「旧土人保護法」下に置かれた。
北海道の原野は、明治維新によって官有地とされた後、困窮士族を尖兵とする屯田兵集団に、後には華族、資本家に払い下げられた。皇室ご料地200万ha、本州資本家100万ha等巨大不在地主制が成立し全国一の小作地帯となった。北海道は、移民を受け入れ本州に産物と資源と人的資源を供給するばかりでなく北方警備の要地として旭川にのちに師団となる鎮台が置かれた。

村中が士官学校を卒業して旭川の原隊に帰った大正末期、移民の逆流が始まっていた。わが母方の家族もブラジルに再移住した。養子になって一人残った私の叔父*は同師団に召されて中国か満州か樺太か千島で戦死した。それほど北海道の小百姓は冷害凶作で困窮続きだったのである。村中は初年兵の「身上調査をして其境遇の哀れなるに一掬の涙なき能わず」と日誌に記している。
1930~35年の農村大不況に1931年からの大凶作がかぶさった。

村中が貧農出身兵に寄り添った体験記述を残したかどうか知らない。処刑前のほぼ1年間、思いを綴る手記、手紙等遺書が一切ない! 封じ込めが徹底したためである。その間の村中・磯部と北・西田の思想の遷移の様が遺ってないのは昭和史にとって取り返しのつかない大きな損失である。間接的に彼の立ち位置をうかがわせるそれ以前の獄中手記を引き続き引用する。
「或は言ふ昭和十五年度より義務教育年限が八年に延長せらるる、これ君等の持論貫徹ならずやと。
謬見も甚し。・・・六年制に於てすら地方農民は非常なる経営困難にして、職員に対する俸給不渡りに陥り、又弁当に事欠く欠食児童を多発しあるに非ずや、八年制の地方農山漁村に与ふる惨害や思ひ半ばに過ぐ、不肖等は頃来義務教育費全額国庫負担を主張し来れり、地方自治体はこれによりて大いに救はるべし、更に一歩を進めて教科書、昼食等を官給せば、児童と其父兄とは又大いに救はるべし、然る後に教育年限を八年とすべく十年とすべし。今の八年制は形骸を学んで大いに国家を謬るもの、官僚の為す所斯くの如し」(続丹心録)

次にあげる栗原の体験は聞く者の心身を凍らせる。「あるとき、栗原は斎藤[劉]に、自分の部下には農村出が多く、満州事変で両手、両足を失い、辛くも命を保ち得た兵が、一家の没落を支えるため、最愛の妹が遊女になっており、それに自分は何も出来ず、樽の中に据えられて食べるのも着るのも人手によらねばならない。なぜ自分は生き残ったか、そしてこの眼で貧しい家の生活、両親の苦労を見ねばならぬのか、なぜ死ななかったのか、と悔む在郷兵のことを涙ながらに語ったことがあった」 数年後治安維持法で捕らわれて虫けらのように斃仆した鶴彬が詠んだ反戦川柳「手と足をもいだ丸太にしてかへし」(1937年)を連想させる挿話である。

死刑執行の近づいたある日、予審中の斉藤瀏の監房に小さな紙屑が投げ込まれた。"お世話になりました。ほがらかに行きます"  坂井からのものであった。"おわかれです。おじさんに最期のお別れを申します。史さん、おばさんによろしく クリコ"・・・斉藤は、二つの紙片を呑みこんでしまった」

史が詠んだ歌四首
 ひそやかに決別の言の伝わりし頃はうつつの人ならざりし
 いのち断たるるおのれは言はずことづては虹よりも彩にやさしかりにき

   ひきがねを引かるるまでの時の間は音ぞ絶えたるそのときの間や
   額の真中に弾丸をうけたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや


*叔父 勇(17歳)1934.9.11撮影 戦死年月日不明 子の無い裕福な家に養子にやられて肉親のいない環境でいかばかり寂しかったか察するに余りある。せめて甥の私が追悼しないと浮かばれない。合掌

 

 

   



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