八幡平トレッキング
大浜は登山愛好者で登山に詳しかった。山行に興味を抱き始めた私を八幡平トレッキングに誘った。初めて聞いた地名だった。登山ではなさそうなのでOKした。すべて彼が計画した。わたしは言われるままに登山用ザックを買ってキャンプに必要な物をこれまた指示に従って詰め込んだ。山行に不相応なわたしの身なり(上掲写真)がすべてを語っている。服装がまるでなっていない。運動靴を手にもって裸足で歩いている。大浜は100mほど先を歩いている。大浜の気持ちを察する余裕はわたしにはなかった。半ば後悔しながら、てくてくついていくしかなかった。
山歩きの出発点は田沢湖だった。日本一深い湖とも知らず水浴びした。
秋田県田沢湖 1965年頃
乳頭山 これも私の撮影
乳頭温泉郷は、まもなく秘湯ブームが来て不動のランクを占めたが、当時宿は多分一軒しかなく農閑期の湯治場であった。室町時代の市場の絵巻物にあった小屋の連なったような一棟の長屋という印象をもった。木の皮葺きの屋根、土間に板を敷いたような低い床...。
当時この温泉の由緒を知っていたら私の脳裏には対象そのものから得た別のイメージが刻印されたにちがいない。ここは江戸時代秋田藩主の湯治場で、私が見た長屋は警護の武士が詰めた茅葺き屋根のしっかりした長屋であり、今では「本陣」の名称で登録有形文化財になっている。
乳頭付近 川湯?野湯?
八幡平では小さな池塘が散在する湿地帯に苦しんだ。今のように木道がないので足をとられてザックが肩に食い込んだ。テント、ホエーブス・ストーブと白ガソリン、水・食料等共用物を分けて背負っていた。私の負担は大浜の半分位だったが未熟錬の悲しさ、口もきけないほど疲れた。
山を越えて滝上温泉(現在の滝の上温泉)に出た。一軒の家も人影もなかった。少し上に地熱発電所があった。一帯は地熱が高く、川岸に窪みを掘ると熱い温泉が湧いた。川の水を引き入れて温度を調節した。もちろん手造りの温泉で疲れを癒した。
手造り温泉
もう一つそこで将来の趣味につながる体験をした。さして大きくない渓流に潜ったとき岩陰でトラ猫と鉢合わせになったと一瞬思った。猫ほどに大きなイワナだった。釣り道具を持参していれば・・・と悔やまれた。これが後に渓流釣りに嵌るきっかけとなった。
雫石では柱状節理の岸壁に見入った。振り返ると雄大な岩手山がガレ場を赤っぽく染めていた。ガレ場とは石がゴロゴロの斜面をいい、石が一つでも転がるのを見たらラク[セキ]と叫んで周囲に危険を知らせるのが山のマナーである、と大浜に教えられた。このように山行に必要なことはすべて彼から学んだ。
雫石市からバスで盛岡市に向かい何らかの交通手段で陸中海岸の浄土ケ浜に出た。
ここは浄土ケ浜の何処?
キャンプ地の写真である。背景は日出島である。ネットで調べたが写真に写っている自分達の居場所を解明できなかった。
浄土ケ浜の思い出は地元の暮らしにいくぶん触れたことである。山行ではそういうことは全くなかった。午前中に渡し船で島か半島に渡った。夏休みだったので昼間は水遊びの親子連れがかなりいたが夕方には迎えの船でみんな引き揚げてしまった。キャンプについての記憶が失われてしまったので、その「島」で一泊したとは言い切れない。
「島」では自給自足の真似事を経験した。中学生らしいグループが潜って岩礁域にいるアイナメを鉾で突き刺してとっていた。ご飯だけ持参しておかずは現地調達の焼きアイナメである。われわれも大きな牡蠣を堪能した。どこかの養殖棚から縄がちぎれて海底の窪みに流れ着いたものである。海水温18度は泳ぐには冷たすぎると知った。
われわれが浄土ヶ浜にキャンプしたころ同じ宮古市の田老地区に最終的には総延長約2.4km,海抜10mになる大防潮堤がX字型の右脚部を残して完成した。
過去明治と昭和2回の大津波で人口の83.1%1867人、32.5%911人の犠牲者を出して津波太郎の異名をとった田老悲願の大事業を人々は「万里の長城」とよび、誇りにしかつ安住した。
ところが平成の大津波でも田老地域は人口の約4%181人の犠牲者を出した。それでも流失・全壊・撤去*棟数83.8%を考慮すると防潮堤の命を守る効果は大いにあったと評価できる。
*高台移転のためをふくむ。
防潮堤右腕部が全壊 出典 河北新報
堤防右腕部
の跡形、確認困難
へそ曲がりのわたしはすぐ戦時中日本が高唱した大帝国「大東亜共栄圏」を連想してしまう。津波についても歴史から教訓を学びたい。
巨大防潮堤の過信、これが第一の教訓(ハード面)である。集落の高台移転がベストと分かっていたが適地が少なく、国の予算と生計の都合ですったもんだの末大堤防の建設となった。巨大堤防を過信して逃げ遅れた人がかなり出たと思う。
対照的なのは、浄土ケ浜の対岸・重茂omoe半島の姉吉漁港である。重茂地域のほかの7漁港同様姉吉漁港も壊滅したが、高台の姉吉集落(11世帯40人の小集落)は無事であった。重茂地域全体の犠牲者数は49人である。
姉吉の海から800m海抜60m辺りに昭和大津浪記念碑がある。
碑文「此処より下に家を建てるな 明治二十九年にも昭和八年にも 津浪は此処まで来て は全滅し生存者僅[わず]かに前に二人後に四人のみ* 幾歳経るとも要心何従[なにより]」 今回姉吉を襲った津波の最高遡上高度は40.5mで観測史上最高記録を競っている。
*それぞれ人口60人、100人以上。
出典 『岩手県東日本大震災の記録』
第二の教訓も田老に関するもの(ソフト面)である。田老で生まれ育った田畑ヨシさんは、明治の大津波を経験した祖父の教えを守って昭和の大津波で8歳ながら山に逃げ命拾いをした。成人して紙芝居を活用した防災語り部として「津波てんでんこ」の普及に努めた。もちろん平成の大津波も生きのびて、多くの人に津波が来たら「てんでに」早く高いところに逃げる重要性を訴え続けた。田老地域が物理的に壊滅的損害を被った割には犠牲者が少なかったのは田老地区がこうした防災教育、訓練に熱心であったゆえでもある。
第三の教訓は浄土ヶ浜に関わる船舶避難についてである。観光名所・浄土ケ浜には遊覧船が3隻あった。2隻は流されたが、沖へ逃げるチャンスにめぐまれた1隻は2日後帰港できた。「動ける船は沖へ」は、私が知っていたぐらいだから、船長たちの間では常識であった。それでも一番津波の到達が早く波浪が高かった本州最東端・重茂漁協は所属船814隻中798隻を流失した。
最後に重茂漁協の逞しい復興物語を・・・。
重茂漁協は全漁港施設の機能を喪失した。切り立ったリアス式海岸の狭い浜はえぐられガラクタで船の置き場もない。倉庫も冷蔵・加工施設も、養殖設備も漁具も、すべて流失した。茫然自失していては、いつになるかわからない公的支援を待っていては、その間に若者が流出してハマが潰れる。見通しを立てねば離漁者が出る。
津波から29日後の4月9日漁協は全組合員400人余の集会で速やかに海に出ることを宣言した。「船は漁師の飯茶碗である」 流された船を集めて修理し、また日本海側に人を派遣して中古船を調達した。無事だった船をふくめて漁船をすべて漁協徴用とした。働けるものは共同作業に出た。費用は漁協持ち、収益は頭割りで分配した。一家に一隻船が行き渡るまでの応急措置である。いわば非常時共産制である。
早くも5月21日70隻ほどで天然ワカメ漁を再開させて全国ニュースになった。新造船も加えて船数はどんどん増加して、2年後には目標の400隻に達した。見事な自助、共助である。
なぜこういうことが可能になったのか?
重茂地域の特殊性に因るところが大きい。陸の孤島のような狭い僻地に1700人弱の住民。山と海だけで農地がないので生業が漁業だけ、しかもサッパ船(船外機で走る小型の磯船)で養殖ワカメとコンブ、ウニとアワビを採る家内漁業。船が無ければイエもハマもたちまち潰れる。
重茂漁協HPによれば藩政時代に先例があった。「音部地区では漁船が少なかったこともあり、コンブ、わかめ、鮑など共有の船で採捕し、生産物はひとまとめにした上で、民に分割し、平等に消費する共同経営体的な漁場利用がおこなわれていた」
共同体には精神と掟が不可欠である。重茂には「人は人中」精神があった。人は人間、と言い換えてもよい。説明は不要であろう。
相互扶助の精神があるということは伝統的共同体が生きていたということでもある。それが漁協だった。競争と利潤追求の会社ではなく漁民の協同組合である。
それにしても一丸となれる漁協があって平時と非常時にそれを正しい方向にまとめ上げる人物(船で言えば船長)がいたということは何と幸せなことだろう。初代組合長は「天恵戒驕」という、縄文以来の先人の教えに通じる漁協訓を遺した。それに従って重茂漁協は代々「人と環境」にも留意して森と海の資源を守ってきた。自然との共生である。半島で一番高い十二神山は遺伝子保存林、55kmの長い海岸線は魚付き保安林として、原生林の伐採規制を維持している。また合成洗剤使用反対、核燃料再処理工場稼働反対にも地域をあげて取り組んでいる。
こういうことができる漁協だから重茂漁協は生産から販売まで事業の一貫化、総合化にも成功して復興に備える資金の蓄えがあった。更に、拡大復興にも挑戦して新商品の開発により高齢化と後継者不足問題でも全国の先駆けとなっている。OMOEブランドを思えておきましょう。