自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

マッサン /やってみなはれ精神/タイムトラヴェル

2014-11-28 | 体験>知識

赤玉ポートワイン、サントリーの角、次いでダルマに親しんだ世代として、また北摂
連山に曲想を得て創られた戦後歌謡「青い山脈」、山紫水明の天王山麓、山崎蒸
留所を近くに見て生活するわたしは時間が合えば朝ドラ・マッサンを興味深く観て
いる。
キャプテン翼のロゴ入りグッズが爆発的に売れ始めた頃、わたしは主宰する高槻
フットボールクラブの資金稼ぎにキャプテン翼のキャップを創った。
大量に売れると信じて郵便局で通販用BOXを数千個買った。箱代100円/1個
デパートに卸すことを計画して学部OBの鳥井さんに面識がないのに手紙を書いた。
ほかにも下手な手紙をほとんどのデパートに出したが、扱いましょう、という返事を
くれたのは阪急の鳥井社長(?)だけだった。
阪急百貨店が扱ってくれると高島屋も大丸も阪神もそごうも松坂屋も阪神地区の
名だたる百貨店が品物を置いてくれた。
帽子の卸屋をはじめ関係商人はだれもが裏事情を知りたがった。
商品を直接卸すためには百貨店に口座なるものを開かないといけないが信用皆無
の若造がどんなバックアップでそれを手に入れたかは相当な関心事らしかった。
売り場を訪問し、品切れが近づくと搬入口で並んで検品を受けなければならない。
骨折り損のくたびれもうけ、あまり売れなかった。売り上げ300万円未満
また、ネットショッピングのない時代、通販は取らぬ狸の皮算用に終わった。
商社伊藤萬に前払いしたロイヤルティが72万円、帽子製造代を差し引くと儲けは
ゼロ!
ただ自分に商才がないことを学んだ授業料がタダで済んだのはハッピーだった。

サントリーには後日談がある。
当初からわたしはサントリーの名称を創業者(名言「やってみなはれ」  朝ドラでは
鴨居姓)の3子息にちなんだ3鳥井に由来すると思い込んでいた。
このたび正解は赤玉→太陽→サン→+鳥井トリーだったことがわかった。
創業者の三男が、どこの馬の骨とも分からぬわたしにトライさせてくれた道夫氏
(サントリー名誉会長、故人)である。

二つ目。わたしはかねがね戦中戦後の食糧難の時代にサントリーがどうして大麦で
角瓶やオールドを製造でき熟成したか疑問に感じていた。
当時学生にとって貴重だった角瓶は戦時中に熟成したものだった。
両銘柄の販売こそできなかったがその間海軍ご用達で軍用ウイスキーを造っていた
のだった。
安全な場所でウイスキーを賞味する軍エリート、戦地で泥水を飲み戦病死する兵士、
この命の格差に唖然とする。

三つ目。東日本大震災の折、南相馬市原の避難所で年寄りがお茶がないため弁当
を呑み込みにくいということがあった。
取次ぎに電話するとすぐ業務用袋入り粉末2,000スティックをその避難所に送って
くれた。
値段不定のため後日請求書が送られて来る事になった。
いまだに来ない。
大震災の時は皆が同じ気持ちだったのでことさら取り上げることでもないが、それ以
来伊右衛門の名に愛着を覚えるようになった。



 

 


始めに言葉ありき/北小路さん/共産主義者同盟(ブント)

2014-11-07 | 体験>知識

その夜遅くブントの北小路敏さんがわたしをオルグするために真如堂近くの下宿に来た。
はなから社学同で活動するつもりだったので共産同の勧誘は屋上屋を重ねるようでピンと来なかった。
それほど社会主義、共産主義に疎かったし、社学同が公然かつ大衆組織で共産同が隠然たる指導組織であることにも無知だった。

権力にも反権力にもネガと抜け道がある。
岸首相は巣鴨プリズンの盟友、満州国時代からの政商右翼児玉誉志雄を介して右翼暴力団を動員した。
後述する安保国会では「神聖なる」議会傍聴席に右翼暴力団を侍らせた。
前年秋の東大教養部自治会選挙でブントは共産党に勝つために投票用紙をすり替えた。
新旧左翼間ではこれを「ボル選挙」とよんでいたそうである。
ボルはロシア共産党ボルシェヴィキのことである。
社学同と共産同の違いは同盟員がこういう陰謀と作業に従事できるかできないかにある。
学生運動の方針を決定するのは共産同で、実行するのが社学同である。

北小路さんは府学連の先行活動家の間では説得力ある弁舌と貴公子然とした風貌で人気があった。
またかれは詩的雰囲気ゆえに女性、芸術家にも愛された。
わたしはその頃まだ彼のことを知らなかった。

4月3日共産同は4月26日に学生ゼネラルストライキと戦闘的な国会包囲デモにより労働者階級の決起を促す方針を決定していた。
「学生運動の先駆性」を活かして「労学提携」を図るのだ、と説明を受けた。
この方針に異存はなかった。
むしろそれゆえに活動家になる決心をしていた。

北小路さんが力説したのは革命の路線問題だった。
なぜ共産党と決別して共産同を設立したか?
根本的な、原理的な違いは何か?
違いはスターリンの一国社会主義路線にまでさかのぼる。
レーニンはロシアで史上初のプロレタリア革命政権を樹立したが、後続する先進工業
国を核とする世界革命なくしては、社会主義は実現できないと考えていた。
後継したスターリンはソ連社会主義建設と称して農業集団化と重工業建設を強行し、
強制収容所と大粛清の恐怖政治、個人崇拝で史上例のない犠牲者を出した。
世界の共産党をソ連擁護の道具化し、世界革命を裏切った。
ブントは革命運動の障碍となった日本共産党に抗して世界革命のために戦っている。
ブントは安保批准国会を包囲し死を決して国会に突入し物情騒然たる状況を創る。
その渦中で日本帝国主義を打倒する闘いのための前衛党を建設する。

狭い下宿で胡坐をかいての座談は延々と続いた。
無知なわたしは単なる聞き役で質問の種になる常識をもちあわせてなかった。
世界革命という、つかみどころのない遠大な理想は心に響かなかった。
安保粉砕、岸内閣打倒から先のヴィジョンを描けないまま、わたしは全学連主流派の果敢なデモと孤立、単純思考だがフレッシュで明るく開かれた組織に惹かれて、言われるままにブント同盟員になった。
ブント加盟で自動的に社学同加盟となった。本末転倒である。

活動家時代、ブントの方針の立案、反省会によばれることは一度もなかった。
実質社学同の活動家に過ぎなかった。

北小路さんは4.26の全学連単独国会突入デモで唐牛以下幹部が逮捕された後を受けて全学連の委員長代行になり、6.15国会突入事件の総指揮を取り、府学連の星から全学連の星になった。
国会南通用門で先導するYシャツと学生ズボン姿の彼のTV映像は歴史に残るが、腰に
下げた白い手ぬぐいが彼の人柄を語っているようでわたしには印象的だった。