自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

樺さん死の真相/鑑定書はかく創作される

2015-04-15 | 体験>知識


「6.15」警察による強制排除の惨劇  重傷者と獲物を取り囲む私服達
(エコノミスト別冊) 
瀕死の重傷者が新議員面会所地下に運ばれ、血と汗と薬と埃の異臭が
ただよう中に、長時間拘束放置された。
樺さんは現場から救護班が運び出して救急車で直警察病院へ運ばれた、
という報道がある。

樺さんの遺体の解剖所見に基づく見解については樺夫妻に真相究明を
頼まれて終生それを心がけて来た丸屋博Drの論考「樺美智子さんの
死の真相」(
2010年)で必要十分な知識が得られる。
まずそれの要点から。
①から⑤まで、草野Drの中館執刀医の口述筆記に基づく所見。
① 死体の血液が暗赤色流動性であり、
② 肺臓、脾臓、腎臓などの実質臓器にうっ血があり、
③ 皮膚、漿膜下、粘膜下、などに多数の溢血点がみとめられ、
これらが窒息死によって起こったもの(窒息死の三徴候)であることは
疑いのないところである。
④ さらに窒息死の所見以外には、膵臓頭部の激しい出血、
⑤ および前頸部筋肉内の出血性扼痕があった。

《特に中舘教授や助刀のDr中山助手も驚かせたという、膵臓頭部の激
しい出血については僕(丸屋Dr)も慶応大学・法医学教室を訪ねて臓器
そのものを見せてもらっている。
これは樺さんの腹部に固い鈍器での強い衝撃が、膵臓頭部を脊柱との
間に挟んでの外傷性出血で、途中で見学にこられた東大の上野教授も
この出血を見て、中館教授に無言でうなずきながら腹を強く突く所作をし
しばらくして退室して行かれたと、[立ち会った]中田・坂本先生の話であ
った。》

中田・坂本両Drにまとめ役を頼まれた丸屋Drは、《樺さんは腹部に(警
棒様の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵臓頭部出血と、さらに扼頚に
よる窒息で死亡した、という結論をまとめた。》

その結論を持って中田・坂本Drが記者会見を開いた。
死因は窒息。
「窒息の原因はノドボトケの両側に筋肉内出血があり、特に右側がひど
いので右手による扼死の可能性がいちばん強い。
胸を圧迫されたための窒息ということは立証する所見がない。」
中館教授の執刀に立ち会った中田友也Drと坂本昭Drの結論はまとめ
を依頼した丸屋Drの前述の結論と眼の付け所が違う。
膵臓頭部損壊より扼頚が重視されている。
司法解剖をした慶応大学の中舘教授が数日後検察庁に提出し突き返
された鑑定書
ではどうか?
『鈍器で腹部を突かれ膵臓挫滅出血、首を絞められた(頚部扼こん反
応)』
修正して再提出した鑑定書では上記の死因に「人なだれによる胸腹部
圧迫」が加えられた。
《この「人なだれによる胸腹部の圧迫が窒息の原因」は六月十五日に,
樺さんの死体を検察局で検視した[東京都]監察医務院医師・渡辺富雄
氏の「監察医意見書」として検察当局に提出されていたものでした。
なお追記すれば渡辺監察医は[翌日の]慶応大学の司法解剖には立ち
会ってい
ません。*司法解剖は監察医の本来の業務でない。
この第二次の中館鑑定書は検察局の受け取るところとなりましたが、
当局はこの内容に不満で東大・法医学・上野教授へ「再鑑定」の依頼
しました。
上野教授からは「人なだれによる圧迫死・内臓臓出血も窒息による」と
したようです。
この上野再鑑定書によって、鑑定書は公表されないまま社会党の告訴
はとりさげられ、樺美智子さんの死の真相は闇に葬られたこととなりま
した。》

樺さんの死因は政局の火を左右する、水=人なだれ、と油=虐殺、だっ
た。
検察庁が死因を機動隊の暴行に帰することは金輪際ない。
死因を学生側の
「人なだれ」にするためなら鑑定書の歪曲、捏造はいつ
もの流れであり奇異なことではない。
また真相追及者丸屋Drの眼が、ほかの追及者にも言えることだが、鑑
定書から目撃談、体験談、関連事故記録の探求に向かうのも自然な流
れである。
「虐殺」の証拠を求めて、と付け加えておこう。
 
死因は絞られた。
学生たちの人なだれによる胸部圧迫か?
四機と学生に踏まれた?
四機の警棒による突き?
警察官(私服公安)による扼殺?




 


6.15事件総括

2015-04-05 | 体験>知識


6.18  33万人怒りの国会包囲  これほどの市民運動は後にも先にも無い

明治維新来この方日本の支配階級は富国強兵を国是としてきた。
その間田中正造翁が足尾銅山鉱毒垂れ流しに体を張って抵抗し「亡国に至るを知らざればすなわち亡国なり」と警鐘を鳴らしている。
夏目漱石は日露戦争勝利で「一等国」入りに沸く世論を意識して作中人物についには「滅びるね」と言わせている。
三四郎が、ますます発展するでしょうね、と問うたのに対する答である。

行き着いた敗戦で実際に存亡の危機に瀕したが、東西冷戦と朝鮮戦争に助けられて蘇り、再度富国強兵に邁進してきた。
さすがに鎧だけは「平和」の装いで隠し続けたが。
戦後、支配階級とその政党人、軍と官の幹部はほぼ生き延びた。
そしてかれらがほとんど満洲人脈に由来することを調べれば調べるほど思い知らされる。
東条英機に重用された岸首相と児玉誉士夫は言うに及ばず吉田首相だってそうだ。
そして安保条約の争点と密約の内容はすべて岸の孫の安倍首相の時代に「晴れて」陽の目をみようとしている。
国民は経済成長のスローガンに弱い。
その先に亡国があることを見ようとしない。
過去も見ようとしない。

さて安保闘争を振り返ると後智恵だが戦後の反政府抵抗運動の分水嶺だったことが分かる。
総労働対総資本の対決だとマスコミにキャッチコピーを付けられた三池闘争を境に労働運動は労使協調、経済成長路線に取り込まれ無力化していく。
学生運動は孤立に向かい先鋭化してゆく。

ブントと全学連は暴走気味の機関車となって安保闘争を牽引した。
ところが5.19の岸内閣の暴挙によって運動の輪が爆発的に広がると全学連はその渦に呑み込まれるように影が薄くなった。
ブントは闘争の主導権を取り戻すために6.15に首都決戦を仕掛けた。
当時ブント同盟員はたかだか3000名だったそうだ。
わたしみたいに覚悟のできていない地方の末端同盟員を含めての数である。
だからブント指導部が頼りにし指導できた精鋭は東大、明大と中大からなる先頭集団5~600名ではなかったか。
対する警察は2000余の警察隊、機動隊を配置できたが主力は「鬼の四機」こと第四機動隊である。
双方の精鋭が南通用門で正面対決した。
双方に準備があり作戦があった。
そして焦りがあった。
焦りの一因に共産党系のハガチー闘争の思いがけない高揚があった。
アイゼンハワー大統領特使のハガチーの車が警備の手違いから来日阻止デモの中に巻き込まれ身動きできなくなって特使一行が米軍ヘリに救出されるという事件があったばかりである。
ブントは体を張って戦うのは自分たちだけだと改めて示威する必要があった。
警察は曝け出した治安の脆弱性から威信を回復するためにも国会突入を阻止しなければならなかった。
樺さんの死までは双方作戦通りだったと見える。
警察隊のリトリート、四機の突入、分断包囲、殲滅逮捕。
ところが数分で死者が出た。
あとは憤激憎悪に火が付き、アメリカ大使館警護に当たっていた1500名が合流した機動隊と後続デモ隊4000人との乱戦が深夜まで続いた。
一晩中放送されたラヂオを聴いて現場に駆けつけた市民も少なからずいた。
《窪田アナがその男たちに「あんた方は学生か」と聞いた。
すると、入れ墨をした者もまじえた男たちは「俺たちはオデン屋組合の被用人だ。120人で来た。警官なんかやっつけちまえ。弱虫の学生とは違うんだ」と云いながら消え去った。》

警察力だけでは治安が保てないことが明白になった。
翌16日岸首相は安保の仕上げの儀式となるアイク訪日を断念し退陣を決意した。
ブントは前衛を志向して首都騒乱を想い描いたが国会占拠を方針化するだけの力が無いことを思い知らされた。