出典 http://www.a-saida.jp/russ/vetvi/muhin.htm 原典 アムールスカヤ・プラウダ 2010.5.3
石光真清の手記第4部『誰のために』は私にとっては戦場での「類は友を呼ぶ」物語である。第4部は内容ゆえに真清が公表をはばかったものである。ご子息の真人が戦後編集出版した。
ソヴィエト政府の誕生によって激変した世界とロシアの情勢は極東に無政府状態を生み出した。政権と軍事力の希薄もしくは空白である。日本はこれを好機と捉えつつも英仏両国とりわけ米国の鼻息をうかがいながら単独先行出兵を自制していた。いわば待機状態であるが、最大公約数的目標に向かって準備をした。
その目標は「露国人をして、我支援の下にまずバイカル以東の地方をして、独墺に対抗する独立自治の地区を形成せしむるにあり」(田中義一訓令草案)
それを緩衝国家に発展させ、その政府と交渉してシベリアと満蒙の利権を維持、拡大するという満州国樹立につながる構想の最初のスケッチがこれである。
参謀本部は田中義一次長直々の指名で真清をブラゴヴェシチェンスクに派遣した。武市こそ「独立自治の地区」候補であった。1918年1月15日真清は武市に入った。追いかけるように10余日後に日露協会会長を名乗って情報部長中島少佐以下武官等6名が隠密旅行で来武した。
来武の目的は、東西両州からボルシェヴィキ勢力に包囲されつつあるアムール州と武市の共和制政権を現状維持すること、崩壊中のコザック部隊を立て直すこと、将来の構想実現に向けて工作機関を設けることだった。真清にとっては新任務である。諜報から謀略への任務拡大である。
石光は自分の意見を述べた。「私の乏しいロシア知識によっても、有力な国の武力干渉さえなければソビエト革命は成功すると信じていた。革命が成功すればスラブ伝統の軍国主義は官僚的共産主義と結びついて世界の脅威になることは確実である」「諜報の経験はあるが謀略についてはまったく知識も経験もない」
シベリア出兵の首魁は、山県元老の懐刀田中義一中将、参謀本部諜報・謀略のナンバーワン中島正武少将である。真清は田中に恩義があった。迷いに迷った末、そんなに期待されているのならば、と承諾した。頭から謀略任務なら真清は受諾しなかっただろう。
中島は武市を去る時石光に短いメモを遺した。「蜀を守ることは一に老兄団の御奮闘に信頼す」 アムール州武市を三国志劉備の本拠地蜀にたとえて、我等まさに漢中に鹿を逐[追]う(極東の覇権を争う)と結んでいる。
策士田中義一はこの年9月原敬新内閣の陸軍大臣となり、出兵を推進した。9年後策に溺れて長閥最後の総理大臣の座と自らの命を失うことになる。満蒙に関する外交と謀略の二途作戦が制御不能な満蒙独立計画となって張作霖爆殺を引き起こし昭和天皇の不興を買ったためである。
真清は6名の雇員(久原鉱業の鳥井肇三が先鋭活動家)で石光機関を立ち上げた。後日積極論者中山蕃武官が加わった。参謀本部から軍資金が出るが肝心の機関長の身分は退役の嘱託、国士扱いである。事務所を財閥久原鉱業の事務室に置いた。
東シベリアは3州からなる。沿海州、ザバイカル州、両州の間にアムール州が在る。それぞれの州都はハバロスクと武市とチタである。武市のほかはソヴィエト政権下にある。武市のみが社会革命党(エスエル)温和政権である。
その市長は州長を兼ねるエスエルのアレクセーエフスキーである。革命の闘士で1905年の革命後日本亡命の経験があった。共和主義者で憲法制定会議に出席してそのまま首都に居残っていた。
各州の特務機関の共通使命は「独立自治政府」の首魁となる人物を発掘することである。首領たちの中から将来の緩衝国家の大統領を立てねばならないがまだ武市においても頭領たる器が確かでない。
石光は大胆にもアムール州・武市ボルシェヴィキの指導者ムーヒンに会いに行った。ムーヒンは無警戒にほかの数人とあばら家に居住していた。治安について考えを問うと「平和を望みます。平和を。同邦の間で血を流すほど悲惨なことはない。戦争よりもっともっと悲惨です」それを避けたいためにアレクセーフスキーが首都の憲法制定会義から帰還するのを静かに待っている。ロシアでは民主主義の基礎が弱く、共和制は向かない。「強力な統制力を持った政治機構でなければならない」と筋道を立てて力強く弁じた。
1月19日 レーニン政府、憲法制定会議を解散
当時の武市の情況をみておこう。市庁とアムール州政庁は州のコザック部隊2000名(アタマン=ガーモフ)の武力を頼りにしているがコザック部隊は脱走兵続出で崩壊しつつある。ほかに市民自衛団1000名、旧帝政将校団、資本家団(金鉱山業中心)、官僚団がある。そのほか中国人7000名、日本人350名(3分の2は女性)と、もちろん35000のロシア人市民がいる。ボルシェヴィキ側には地方ソヴィエト、守備隊、水兵団、帰還兵農民団がいるが、それらの構成員はソヴィエト支持者であるが共産主義者とはかぎらない。
市内に敵味方が混在し、しかもかならずしも旗幟鮮明ではない。たとえば代理市長はソヴィエト出身だがエスエルでコザック幹部ともども日本の出兵を懇願している。双方武器が足らない。互いの武器庫から武器を奪ったり奪われたり小競り合いしているがまだ戦闘には至らない。
ムーヒンは自重する一方で市と州政庁に対してソヴィエトに行政機関と銀行を引き渡すことを要求した。職員は二派とも職場を放棄した。沿海州からボルシェヴィキの応援が来始めた。市当局とコザック部隊の要請もあって石光は居留民に働きかけて自衛義勇軍を編成し対岸黒河鎮からも応援を求めた。特務機関指導のもとに両義勇軍合わせて70名がもっとも先鋭で勇敢な部隊となる。一触即発の非常事態となった。
ムーヒンは不慮の衝突を避けるために護衛2人を伴って深夜石光を訪問した。護衛は事務所の階段を緊張で震えながら登った。彼は石光に言った。砲火を交える日が来ても外国人の生命財産の安全を守る決心だ。「その日が来たならば、日本人は各戸に日本の国旗を掲揚してください。万一、同志の中に無頼の徒があって、貴国人に危害を加えたならば、このムーヒンが無限の責任を負います」
ムーヒンを送り出したあと石光は部屋に戻って無量の感にうたれた。「ムーヒンに値する人物が一人でも共和国派や保守派にいるだろうか、と。いや、日本においても彼のように、己を棄て身を張って国家、民族のために闘える人物が幾人いるだろうか,と。もし彼がシベリア共和国建設のために身を挺するなら、私は現在の地位を去って、彼に一肘の力をかしてもよい、と考えた」
3月3日 ブレスト独露講和条約調印
3月5・6日、極東ソヴィエト代表クラスノシチョコフとムーヒン、シュートキンが政庁で代理市長と州会シシロフ議長に政権移譲を迫る。庁舎の外で砲兵隊(守備隊)、武装労働者が市民自衛団と日本義勇軍、それにコザック部隊、将校団とにらみ合いもみ合いを続けた。中山武官がこれらの部隊の戦術指導を行っていた。
「閃光と一発の銃声を合図に」どっと黒い波が市庁舎に殺到して3人のほかボルシィキェヴ10数名を捕縛して引き揚げた。これは「ガーモフの反乱」と称されることもあるがガーモフ指導の任を帯びていた石光機関が煽った蜂起であった。ムーヒンは「日本軍」が来た(次稿:ムーヒン調書)と供述している。砲兵隊も武装労働者も実力で取り戻すことをしなかった。水兵団は姿を現さない。
3月7日、石光はコザック幹部、代理市長、州会議長に会ってクラスノシチョコフたちの処置を問うた。処刑とコザック部隊の再出動を勧告したが応じて来なかった。石光はその理由を政権が温和なエスエルであることに求めている。
それだけではないと思う。ソヴィエト側が連合軍の派兵を恐れて平和的に政権交代を求めているかぎり、市民も、日本人会さえも、流血を望んでいないことは、石光もよく承知していた。クラスノシチョコフたちを人質にすると「赤軍を誘」って事態を悪化させるだけだ、と石光は脅かし扇動したが、処刑すればかつて石光が目撃したアムールの大虐殺の二の舞になることを想像しなかったのだろうか?
大虐殺が起こるかどうかは指揮官次第だと私は思う。謀略は思考を麻痺させるようだ。流血をいとわないのが武人コザックなら納得できるが、そうではなく石光と武官と義勇軍であることに唖然となる。
3月7・8日、反乱側、停車場占領に続いてゼーヤ河港の水兵団を攻撃する。
3月9日、それまで防戦していた水兵団が反撃を開始してコザック、将校団、日本義勇軍に死傷者が出た。反ボルシェヴィキ側は、百にも満たない(と義勇軍は自嘲気味に少なく言う)水兵団に苦戦した。氷点下40度に近い夜間の厳寒が休戦をもたらした。停戦会議は義勇軍鳥井代表の抵抗で散会になった。危うく義勇軍、自衛団解散の合意が回避された。
日本義勇軍3人の葬儀で反ボルシェヴィキ側は盛り上がった。
3月11日、コザック連隊は赤衛軍討伐の宣戦布告を発した。代理市長の非常訓令に応えて武器庫から銃を手にした大勢の市民がバリケードを築いて配置についた。
3月12日、クラスノシチョコフ、ムーヒン、シュートキンたちボルシェヴィキが獄中から奪回された。午前8時ごろ意外にも要所要所の大きな建物の窓が一斉に開かれ潜んでいた赤衛軍が路上を掃射した。「銃は棄てられ、雪は血を吸い、負傷者はもがき、死体は黒く散らばって、全市は一瞬のうちに地獄になった」
逃げることのできる者は皆凍結したアムール河を渡って対岸黒河鎮に避難した。コザック武隊は銀行から金塊(主に砂金)を取り出して「まっ先に」対岸に逃れた。
石光は赤衛軍の増援を得て優位に立つ敵と戦えばこうなるのは分かるべきだった。石光は戦の勢い、成り行きにずるずる流された。
義勇軍結成を容認した罪、武官と義勇軍の勇み立ちを指導しきれなかった罪、居留民総引き揚げの機会を失った罪、温和なエスエル政権を維持できなかった罪を背負って中島少将の居るハルピンに向かった。「日米間の微妙な外交交渉に不利を招き、陸軍が国から責任を問われるようなことがあったら・・・」自決しよう。
結局慰留されてまた黒河鎮に戻った。石光はハルピンで、シベリア共同出兵が内定していること、アタマン=セミョーノフ、東支鉄道長官ホールヴァトが反革命政府樹立を準備中であることを知った。
対岸の武市では市庁でムーヒンが、州庁でクラスノシチョコフが初めて統治の困難と闘っていた。コザックが避難するとき国立銀行から金塊3000万ルーブルを黒河鎮に運んだためムーヒンは給料の支払いに窮した。コザックは昔から特権で、農民は2月革命で、私有地を得ていた。武市は飢えていた。結局レーニン政府同様の共産主義的政策をとるほかに打開策はなかった。集団農場化と食糧徴収。政策が発せられるとムーヒン市長兼州長の人気が陰り始めた。アムール州26ケ村の村民大会は自治と赤衛軍解散を求め、農産物の供出を拒否した。
人気のあるアレクセーフスキー前市長が帰還と同時にソヴィエトに逮捕され裁判にかけられた。先の3月事件で市民自衛団を結成し3月事件を発生させた責任を問われた。かれは3時間におよぶ反レーニンの弁論で傍聴者をを熱狂させた。「昨日の友たる日本に刃を向け、勝ち見なき戦いを挑み、この上さらに同邦の血を流させんとするはレーニンだ。ロシアを亡ぼすもの、その暴君はレーニンだ」 裁判長シュートキン、陪席ムーヒンがひそかに姿を消すほどの名演説だった。アレクセーフスキーは4年の刑を宣告され下獄した。
石光によればシュートキンら強硬派による暗殺をさけるためにムーヒンがアレクセーフスキーを病人に仕立てて入院させたそうだ。ムーヒンは声明した。「彼は学識深く高潔な人格者である。このような人物はロシア広しといえども得がたい」
石光は80日ぶりに黒河鎮事務所から武市に赴きムーヒンと会見した。各地の反革命の烽火についての意見を聞くとシベリアをとられてもいつかは本国の手に戻る、と楽観論を述べた。この楽観論はロシア人に広く共有されているように私には映る。ナポレオン、ヒットラーを追い出した史実を思い浮かべた。
5月14日チェコスロヴァキア軍がチェリアビンスク駅構内で独墺軍捕虜と些細な衝突をした。独墺捕虜4万の内3万はボリシェヴィキ寄りである。チェコ軍6万は祖国の独立のためロシア側で独墺軍と戦った。レーニン政府がブレストリトフスク条約でドイツと講和を結んだため浦潮回りフランス経由で西部戦線に復帰する予定だったが不幸にも途次シベリア鉄道で「宿敵」独墺捕虜団とすれ違って喧嘩になった。武器に関する移動条件に違反していることをレーニン・トロツキー政府がとがめると、チェコ軍団は武装解除要求を拒否して蜂起し、瞬く間に西シベリア鉄道沿線を占領した。それが列強を連合させて干渉させる口実とはずみになった。
どのみち連合軍の干渉は避けられなかったと思うが慎重なレーニン政府打った不用意な一手だった。ボルシェヴィキがシベリアでも優位に立った後だけに軽率な判断が悔やまれる。
7月 チェコ軍浦潮ソヴィエト政府を打倒 赤衛軍西へ潰走
アムール・コザック(アタマン=ガーモフ)が黒河鎮に終結
東支鉄道沿線のハルピン、チチハル、満州里にも日本軍と白軍集結
(ホールヴァト臨時政府とセミヨーノフ頭領)
西シベリア騒然 チェコ軍団猛威 ウラル・ソヴィエト皇帝一家を
処刑
アムール州騒然 農民・コザック村動員・供出拒否 鉄道従業員職
場放棄 中国人商人反抗 「ムーヒン紙幣」価値下落
9月1日 ムーヒン、ハバロフスク極東人民委員会議(議長クラシニチョコフ)から帰還し、西も東も戦況不利につき「東西から挟まれたアムール州の運命は迫っている。この際いたずらに州民の血を流さず政権を農民団に譲って一時退き、将来を期すべきである」とソヴィエトと軍事革命委員会に提案した。武市周辺の農民・コザック41ケ村代表がソヴィエトに対して政権移譲を要求した。エスエルのアレクセーフスキーが政権を引き継ぐことになる。
石光の使命は終わった。「蜀」(武市)は守ったが「漢中」(シベリア)での覇権争奪戦はこれからである。ムーヒン達政権側は戦わずに撤退しアムール州でのパルチザン活動に入る。石光は一人黒河を渡って州庁にムーヒンをたずね、別れの挨拶をした。ムーヒンは「一本のローソクでもモスクワ全市を焼くことができる」という諺を引いて勝利への信念を述べ真清に敬意と謝意を表した。真清は「私の生涯において、こんなに胸をうち魂をゆさぶられた経験はなかった」と友誼と邦人保護に感謝した。
「もし皆さんのうちで、将来窮境に落ちることがあったら、必ず私の名前を言って救いを求めて下さい。私は責任をもって保護いたしましょう」
ムーヒンはクラスノシチョコフにもらったステッキを記念に真清に贈った。
ご子孫伝承のムーヒン形見のステッキ
9月18日コザック・アムール隊と日本軍先遣隊が武市に無血上陸した。州会の推薦を受けてアレクセーエフスキーは市長兼州長に返り咲き、治安維持をコザック軍に依託し、州の独立を宣言した。日本軍の最低目標「地方穏健政権の維持、頭領の擁立、独立宣言」は達成した。かくて極東三州はボルシェヴィキから奪回された。
が・・・。
石光は任務解除を申し入れて逆に招集されてしまった。アレクセーエフスキー政権を盛り立てる任務を授けられた。
ところがハナから日本軍は占領軍のように振る舞い、やることが支離滅裂だった。
家宅捜査を行い暴行、金品略奪で市民の不信を招いた。武力で鉄道を占有し船舶と物資を徴発して市民生活を圧迫した。
アレクセーエフスキー政権はムーヒン政権と同じ苦境に陥った。奪われた国立銀行の準備金はホールヴァト政府に渡り還って来なかった。政権は、コザックと職員の給与支払いにも窮しムーヒン紙幣を増刷する始末だった。日本政府の経済援助は得られなかった。政権は崩壊するほかない。
石光は直接浦潮の大井師団長に以上のような事情を報告し崩壊を食い止めることができないならいっそ撤兵すべきだと越権の進言をした。
「君は誰のために働いとるんだ、ロシアのためか?」
「任務を解除して戴きます。不適任です」
「よかろう、辞め給え」
1919年2月11日、アレクセーエフスキーと石光真清は敗残兵のように寂しくブラゴヴェシチェンスクを去った。
アレクセーエフスキーはイルクーツクでオムスク政府最高指導者コルチャークの審問と極東共和国の創設にかかわったエピソードを遺して晩年をパリで過ごし交通事故で亡くなった。石光真清は事業の整理と借金返済に追われるも晩年を念仏三昧で過ごし機密書類を燃やして静かに激動の生涯を閉じた。
ムーヒンとクラスニシチョコフは・・・?