自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

石光真清とムーヒン/ブラゴヴェシチェンスクの謀略戦

2017-02-21 | 体験>知識

  出典 http://www.a-saida.jp/russ/vetvi/muhin.htm  原典 アムールスカヤ・プラウダ  2010.5.3

石光真清の手記第4部『誰のために』は私にとっては戦場での「類は友を呼ぶ」物語である。第4部は内容ゆえに真清が公表をはばかったものである。ご子息の真人が戦後編集出版した。

ソヴィエト政府の誕生によって激変した世界とロシアの情勢は極東に無政府状態を生み出した。政権と軍事力の希薄もしくは空白である。日本はこれを好機と捉えつつも英仏両国とりわけ米国の鼻息をうかがいながら単独先行出兵を自制していた。いわば待機状態であるが、最大公約数的目標に向かって準備をした。
その目標は「露国人をして、我支援の下にまずバイカル以東の地方をして、独墺に対抗する独立自治の地区を形成せしむるにあり」(田中義一訓令草案)
それを緩衝国家に発展させ、その政府と交渉してシベリアと満蒙の利権を維持、拡大するという満州国樹立につながる構想の最初のスケッチがこれである。

参謀本部は田中義一次長直々の指名で真清をブラゴヴェシチェンスクに派遣した。武市こそ「独立自治の地区」候補であった。1918年1月15日真清は武市に入った。追いかけるように10余日後に日露協会会長を名乗って情報部長中島少佐以下武官等6名が隠密旅行で来武した。
来武の目的は、東西両州からボルシェヴィキ勢力に包囲されつつあるアムール州と武市の共和制政権を現状維持すること、崩壊中のコザック部隊を立て直すこと、将来の構想実現に向けて工作機関を設けることだった。真清にとっては新任務である。諜報から謀略への任務拡大である。
石光は自分の意見を述べた。「私の乏しいロシア知識によっても、有力な国の武力干渉さえなければソビエト革命は成功すると信じていた。革命が成功すればスラブ伝統の軍国主義は官僚的共産主義と結びついて世界の脅威になることは確実である」「諜報の経験はあるが謀略についてはまったく知識も経験もない」
シベリア出兵の首魁は、山県元老の懐刀田中義一中将、参謀本部諜報・謀略のナンバーワン中島正武少将である。真清は田中に恩義があった。迷いに迷った末、そんなに期待されているのならば、と承諾した。頭から謀略任務なら真清は受諾しなかっただろう。
中島は武市を去る時石光に短いメモを遺した。「蜀を守ることは一に老兄団の御奮闘に信頼す」 アムール州武市を三国志劉備の本拠地蜀にたとえて、我等まさに漢中に鹿を逐[追]う(極東の覇権を争う)と結んでいる。
策士田中義一はこの年9月原敬新内閣の陸軍大臣となり、出兵を推進した。9年後策に溺れて長閥最後の総理大臣の座と自らの命を失うことになる。満蒙に関する外交と謀略の二途作戦が制御不能な満蒙独立計画となって張作霖爆殺を引き起こし昭和天皇の不興を買ったためである。
真清は6名の雇員(久原鉱業の鳥井肇三が先鋭活動家)で石光機関を立ち上げた。後日積極論者中山蕃武官が加わった。参謀本部から軍資金が出るが肝心の機関長の身分は退役の嘱託、国士扱いである。事務所を財閥久原鉱業の事務室に置いた。

東シベリアは3州からなる。沿海州、ザバイカル州、両州の間にアムール州が在る。それぞれの州都はハバロスクと武市とチタである。武市のほかはソヴィエト政権下にある。武市のみが社会革命党(エスエル)温和政権である。
その市長は州長を兼ねるエスエルのアレクセーエフスキーである。革命の闘士で1905年の革命後日本亡命の経験があった。共和主義者で憲法制定会議に出席してそのまま首都に居残っていた。

各州の特務機関の共通使命は「独立自治政府」の首魁となる人物を発掘することである。首領たちの中から将来の緩衝国家の大統領を立てねばならないがまだ武市においても頭領たる器が確かでない。
石光は大胆にもアムール州・武市ボルシェヴィキの指導者ムーヒンに会いに行った。ムーヒンは無警戒にほかの数人とあばら家に居住していた。治安について考えを問うと「平和を望みます。平和を。同邦の間で血を流すほど悲惨なことはない。戦争よりもっともっと悲惨です」それを避けたいためにアレクセーフスキーが首都の憲法制定会義から帰還するのを静かに待っている。ロシアでは民主主義の基礎が弱く、共和制は向かない。「強力な統制力を持った政治機構でなければならない」と筋道を立てて力強く弁じた。

1月19日 レーニン政府、憲法制定会議を解散

当時の武市の情況をみておこう。市庁とアムール州政庁は州のコザック部隊2000名(アタマン=ガーモフ)の武力を頼りにしているがコザック部隊は脱走兵続出で崩壊しつつある。ほかに市民自衛団1000名、旧帝政将校団、資本家団(金鉱山業中心)、官僚団がある。そのほか中国人7000名、日本人350名(3分の2は女性)と、もちろん35000のロシア人市民がいる。ボルシェヴィキ側には地方ソヴィエト、守備隊、水兵団、帰還兵農民団がいるが、それらの構成員はソヴィエト支持者であるが共産主義者とはかぎらない。
市内に敵味方が混在し、しかもかならずしも旗幟鮮明ではない。たとえば代理市長はソヴィエト出身だがエスエルでコザック幹部ともども日本の出兵を懇願している。双方武器が足らない。互いの武器庫から武器を奪ったり奪われたり小競り合いしているがまだ戦闘には至らない。

ムーヒンは自重する一方で市と州政庁に対してソヴィエトに行政機関と銀行を引き渡すことを要求した。職員は二派とも職場を放棄した。沿海州からボルシェヴィキの応援が来始めた。市当局とコザック部隊の要請もあって石光は居留民に働きかけて自衛義勇軍を編成し対岸黒河鎮からも応援を求めた。特務機関指導のもとに両義勇軍合わせて70名がもっとも先鋭で勇敢な部隊となる。一触即発の非常事態となった。

ムーヒンは不慮の衝突を避けるために護衛2人を伴って深夜石光を訪問した。護衛は事務所の階段を緊張で震えながら登った。彼は石光に言った。砲火を交える日が来ても外国人の生命財産の安全を守る決心だ。「その日が来たならば、日本人は各戸に日本の国旗を掲揚してください。万一、同志の中に無頼の徒があって、貴国人に危害を加えたならば、このムーヒンが無限の責任を負います」
ムーヒンを送り出したあと石光は部屋に戻って無量の感にうたれた。「ムーヒンに値する人物が一人でも共和国派や保守派にいるだろうか、と。いや、日本においても彼のように、己を棄て身を張って国家、民族のために闘える人物が幾人いるだろうか,と。もし彼がシベリア共和国建設のために身を挺するなら、私は現在の地位を去って、彼に一肘の力をかしてもよい、と考えた」

3月3日 ブレスト独露講和条約調印

3月5・6日、極東ソヴィエト代表クラスノシチョコフとムーヒン、シュートキンが政庁で代理市長と州会シシロフ議長に政権移譲を迫る。庁舎の外で砲兵隊(守備隊)、武装労働者が市民自衛団と日本義勇軍、それにコザック部隊、将校団とにらみ合いもみ合いを続けた。中山武官がこれらの部隊の戦術指導を行っていた。
「閃光と一発の銃声を合図に」どっと黒い波が市庁舎に殺到して3人のほかボルシィキェヴ10数名を捕縛して引き揚げた。これは「ガーモフの反乱」と称されることもあるがガーモフ指導の任を帯びていた石光機関が煽った蜂起であった。ムーヒンは「日本軍」が来た(次稿:ムーヒン調書)と供述している。砲兵隊も武装労働者も実力で取り戻すことをしなかった。水兵団は姿を現さない。
3月7日、石光はコザック幹部、代理市長、州会議長に会ってクラスノシチョコフたちの処置を問うた。処刑とコザック部隊の再出動を勧告したが応じて来なかった。石光はその理由を政権が温和なエスエルであることに求めている。
それだけではないと思う。ソヴィエト側が連合軍の派兵を恐れて平和的に政権交代を求めているかぎり、市民も、日本人会さえも、流血を望んでいないことは、石光もよく承知していた。クラスノシチョコフたちを人質にすると「赤軍を誘」って事態を悪化させるだけだ、と石光は脅かし扇動したが、処刑すればかつて石光が目撃したアムールの大虐殺の二の舞になることを想像しなかったのだろうか? 
大虐殺が起こるかどうかは指揮官次第だと私は思う。謀略は思考を麻痺させるようだ。流血をいとわないのが武人コザックなら納得できるが、そうではなく石光と武官と義勇軍であることに唖然となる。

3月7・8日、反乱側、停車場占領に続いてゼーヤ河港の水兵団を攻撃する。 
3月9日、それまで防戦していた水兵団が反撃を開始してコザック、将校団、日本義勇軍に死傷者が出た。反ボルシェヴィキ側は、百にも満たない(と義勇軍は自嘲気味に少なく言う)水兵団に苦戦した。氷点下40度に近い夜間の厳寒が休戦をもたらした。停戦会議は義勇軍鳥井代表の抵抗で散会になった。危うく義勇軍、自衛団解散の合意が回避された。
日本義勇軍3人の葬儀で反ボルシェヴィキ側は盛り上がった。
3月11日、コザック連隊は赤衛軍討伐の宣戦布告を発した。代理市長の非常訓令に応えて武器庫から銃を手にした大勢の市民がバリケードを築いて配置についた。
3月12日、クラスノシチョコフ、ムーヒン、シュートキンたちボルシェヴィキが獄中から奪回された。午前8時ごろ意外にも要所要所の大きな建物の窓が一斉に開かれ潜んでいた赤衛軍が路上を掃射した。「銃は棄てられ、雪は血を吸い、負傷者はもがき、死体は黒く散らばって、全市は一瞬のうちに地獄になった」
逃げることのできる者は皆凍結したアムール河を渡って対岸黒河鎮に避難した。コザック武隊は銀行から金塊(主に砂金)を取り出して「まっ先に」対岸に逃れた。
石光は赤衛軍の増援を得て優位に立つ敵と戦えばこうなるのは分かるべきだった。石光は戦の勢い、成り行きにずるずる流された。
義勇軍結成を容認した罪、武官と義勇軍の勇み立ちを指導しきれなかった罪、居留民総引き揚げの機会を失った罪、温和なエスエル政権を維持できなかった罪を背負って中島少将の居るハルピンに向かった。「日米間の微妙な外交交渉に不利を招き、陸軍が国から責任を問われるようなことがあったら・・・」自決しよう。

結局慰留されてまた黒河鎮に戻った。石光はハルピンで、シベリア共同出兵が内定していること、アタマン=セミョーノフ、東支鉄道長官ホールヴァトが反革命政府樹立を準備中であることを知った。
対岸の武市では市庁でムーヒンが、州庁でクラスノシチョコフが初めて統治の困難と闘っていた。コザックが避難するとき国立銀行から金塊3000万ルーブルを黒河鎮に運んだためムーヒンは給料の支払いに窮した。コザックは昔から特権で、農民は2月革命で、私有地を得ていた。武市は飢えていた。結局レーニン政府同様の共産主義的政策をとるほかに打開策はなかった。集団農場化と食糧徴収。政策が発せられるとムーヒン市長兼州長の人気が陰り始めた。アムール州26ケ村の村民大会は自治と赤衛軍解散を求め、農産物の供出を拒否した。
人気のあるアレクセーフスキー前市長が帰還と同時にソヴィエトに逮捕され裁判にかけられた。先の3月事件で市民自衛団を結成し3月事件を発生させた責任を問われた。かれは3時間におよぶ反レーニンの弁論で傍聴者をを熱狂させた。「昨日の友たる日本に刃を向け、勝ち見なき戦いを挑み、この上さらに同邦の血を流させんとするはレーニンだ。ロシアを亡ぼすもの、その暴君はレーニンだ」 裁判長シュートキン、陪席ムーヒンがひそかに姿を消すほどの名演説だった。アレクセーフスキーは4年の刑を宣告され下獄した。
石光によればシュートキンら強硬派による暗殺をさけるためにムーヒンがアレクセーフスキーを病人に仕立てて入院させたそうだ。ムーヒンは声明した。「彼は学識深く高潔な人格者である。このような人物はロシア広しといえども得がたい」
石光は80日ぶりに黒河鎮事務所から武市に赴きムーヒンと会見した。各地の反革命の烽火についての意見を聞くとシベリアをとられてもいつかは本国の手に戻る、と楽観論を述べた。この楽観論はロシア人に広く共有されているように私には映る。ナポレオン、ヒットラーを追い出した史実を思い浮かべた。

5月14日チェコスロヴァキア軍がチェリアビンスク駅構内で独墺軍捕虜と些細な衝突をした。独墺捕虜4万の内3万はボリシェヴィキ寄りである。チェコ軍6万は祖国の独立のためロシア側で独墺軍と戦った。レーニン政府がブレストリトフスク条約でドイツと講和を結んだため浦潮回りフランス経由で西部戦線に復帰する予定だったが不幸にも途次シベリア鉄道で「宿敵」独墺捕虜団とすれ違って喧嘩になった。武器に関する移動条件に違反していることをレーニン・トロツキー政府がとがめると、チェコ軍団は武装解除要求を拒否して蜂起し、瞬く間に西シベリア鉄道沿線を占領した。それが列強を連合させて干渉させる口実とはずみになった。
どのみち連合軍の干渉は避けられなかったと思うが慎重なレーニン政府打った不用意な一手だった。ボルシェヴィキがシベリアでも優位に立った後だけに軽率な判断が悔やまれる。
7月 チェコ軍浦潮ソヴィエト政府を打倒 赤衛軍西へ潰走 
   アムール・コザック(アタマン=ガーモフ)が黒河鎮に終結
   東支鉄道沿線のハルピン、チチハル、満州里にも日本軍と白軍集結
   (ホール
ヴァト臨時政府とセミヨーノフ頭領)
   西シベリア騒然 チェコ軍団猛威 ウラル・ソヴィエト皇帝一家を
   処刑
   
   アムール州騒然 農民・コザック村動員・供出拒否 鉄道従業員職
   場放棄 
中国人商人反抗 「ムーヒン紙幣」価値下落
9月1日 ムーヒン、ハバロフスク極東人民委員会議(議長クラシニチョコフ)から帰還し、西も東も戦況不利につき「東西から挟まれたアムール州の運命は迫っている。この際いたずらに州民の血を流さず政権を農民団に譲って一時退き、将来を期すべきである」とソヴィエトと軍事革命委員会に提案した。武市周辺の農民・コザック41ケ村代表がソヴィエトに対して政権移譲を要求した。エスエルのアレクセーフスキーが政権を引き継ぐことになる。

石光の使命は終わった。「蜀」(武市)は守ったが「漢中」(シベリア)での覇権争奪戦はこれからである。ムーヒン達政権側は戦わずに撤退しアムール州でのパルチザン活動に入る。石光は一人黒河を渡って州庁にムーヒンをたずね、別れの挨拶をした。ムーヒンは「一本のローソクでもモスクワ全市を焼くことができる」という諺を引いて勝利への信念を述べ真清に敬意と謝意を表した。真清は「私の生涯において、こんなに胸をうち魂をゆさぶられた経験はなかった」と友誼と邦人保護に感謝した。
「もし皆さんのうちで、将来窮境に落ちることがあったら、必ず私の名前を言って救いを求めて下さい。私は責任をもって保護いたしましょう」
ムーヒンはクラスノシチョコフにもらったステッキを記念に真清に贈った。

 ご子孫伝承のムーヒン形見のステッキ 

9月18日コザック・アムール隊と日本軍先遣隊が武市に無血上陸した。州会の推薦を受けてアレクセーエフスキーは市長兼州長に返り咲き、治安維持をコザック軍に依託し、州の独立を宣言した。日本軍の最低目標「地方穏健政権の維持、頭領の擁立、独立宣言」は達成した。かくて極東三州はボルシェヴィキから奪回された。
が・・・。
石光は任務解除を申し入れて逆に招集されてしまった。アレクセーエフスキー政権を盛り立てる任務を授けられた。
ところがハナから日本軍は占領軍のように振る舞い、やることが支離滅裂だった。
家宅捜査を行い暴行、金品略奪で市民の不信を招いた。武力で鉄道を占有し船舶と物資を徴発して市民生活を圧迫した。
アレクセーエフスキー政権はムーヒン政権と同じ苦境に陥った。奪われた国立銀行の準備金はホールヴァト政府に渡り還って来なかった。政権は、コザックと職員の給与支払いにも窮しムーヒン紙幣を増刷する始末だった。日本政府の経済援助は得られなかった。政権は崩壊するほかない。
石光は直接浦潮の大井師団長に以上のような事情を報告し崩壊を食い止めることができないならいっそ撤兵すべきだと越権の進言をした。
「君は誰のために働いとるんだ、ロシアのためか?」
「任務を解除して戴きます。不適任です」
「よかろう、辞め給え」
1919年2月11日、アレクセーエフスキーと石光真清は敗残兵のように寂しくブラゴヴェシチェンスクを去った。
アレクセーエフスキーはイルクーツクでオムスク政府最高指導者コルチャークの審問と極東共和国の創設にかかわったエピソードを遺して晩年をパリで過ごし交通事故で亡くなった。石光真清は事業の整理と借金返済に追われるも晩年を念仏三昧で過ごし機密書類を燃やして静かに激動の生涯を閉じた。
ムーヒンとクラスニシチョコフは・・・?

 


石光真清の手記/百年読み継がれる魂の自伝

2017-02-07 | 体験>知識

 石光真清 1868.10.15~1942.5.15 

「シベリアの冬は暮れやすく、人の生涯は移ろいやすい。青年将校の軍服を脱いでブラゴヴェシチェンスクに初めて留学した日から二十年の歳月が流れている」 石光真清は足掛け五十歳の身をふたたび諜報勤務員として同地に投じた。十月革命直後の1918年正月のことだった。
宿泊することにしたホテルは暴漢達に荒らされて支配人のほかにひと気はなかった。そこへズックの小袋を持った背の高い電気工が入って来て故障した電燈を直した。
「ポルコーウニック(大佐)よ、視察に来たのですか」 意外にも、短いほほヒゲのなかの顔が微笑していた。
「・・・・・・」
「大佐よ、貴方は私を知らないと思う。私も貴方に会うのは今夜が初めてだから・・・」
「・・・・・・」
「大佐よ、ロシア市民は苦しんでいます。・・・しかしわれわれには希望がある。大佐は帝政時代のわれわれの生活をよく知っていると思う。ロシア市民が今なにを求めているかもおわかりだろう。大佐は必ずわれわれを激励してくれるものと思う」
電気工は虚を突かれた石光をのこして微笑を浮かべて立ち去った。
「革命の嵐の中で幾たびか彼の頑丈な大きな手を握る日が来ようとは思わなかった」
アムール州ボルシェヴィキの指導者ムーヒンが石光の首実検に来たシーンである。
手記第4部『誰のために』の一場面である。

菊地先生に薦められていっきに読み通した手記4部作にはそれぞれに半世紀余り経った今でも鮮明に想いだすことができる情景がいくつもある。

第1部『城下の人』の城は熊本鎮台である。人は、官軍であり賊軍であり、あるいは真清と周囲の人々である。真清が10歳のときに西南戦争が起きた。真清が髷を結って朱鞘の刀を差して西郷軍の陣地に遊びに行った光景は鮮やかに憶えているが、この1冊が今行方不明のため会話までは確かめられない。官とか賊とか分類されても真清には双方に顔見知りがいる。世間が区分けしても、真清にまず見えるのは人間という大本の類、核である。真清の波乱万丈の生き方に流れるのは幼少年期のこの体験から発するヒューマニズムである。
もう一つ脳裏に焼き付いているのは真清が長じて青年将校として日清戦争中、台湾征討に従軍したときの一場面である。戦火の中を子供を背負って戦う母親の姿を真清がとらえて記録に遺した。女性子供も参加したゲリラ戦が石光の真心に響いたと思われる。生死を賭けた戦いの中で犠牲者さらには抵抗者に思いをはせる真清の生来の優しさをわたしは強く印象付けられた。この優しさが後年シベリアと満州で、ときには敵将兵に敬意を払う寛容な態度、時々頼ってくる馬賊、海賊の頭領、からゆきさんを親身になって匿い助ける温床となる。

  日清戦争 1894~1895

第2部『曠野の花』  馬賊・からゆき編
コリアをめぐる日清戦争で一番得をしたのはロシア帝国だった。三国干渉を経て旅順、大連を租借し、ザバイカルから浦潮を結ぶ東清鉄道敷設権を確保した意味は大きかった。シベリア鉄道のショートカットが満州を横断する。小さな寒村に過ぎなかったハルピンの一本の楡の木を目標に東西(浦潮~満州里)から鉄道建設が始まった。
日清戦争後、時代が要請するロシア語を学ぶために真清は参謀本部付予備役としてアムール河[黒竜江]北岸ブラゴヴェシチェンスク[略称武市]に留学した。軍役でないので私費である。真清の妻は借金返済のため生活に窮した。
武市はシベリア・ロシア軍の最大根拠地で、支配下に置きつつある満州に東清鉄道建設用資材・要員と軍需品・兵員を送る軍用港、貿易港だった。真清はその人と物資の流れを監視報告する情報員を兼ねていた。
列国の華北侵蝕に無論清国は抵抗した。瑞郡親王が「攘夷」を決行した。攘夷農民と義和拳法による義和団の乱が起こると日本軍が列強連合軍の主力となって鎮圧した。その後攘夷派官軍が黒竜江省の馬賊と結託して愛琿で蜂起を企図し武市に砲弾を打ち込んだ。その頭目が後述する女馬賊お花の主人宋紀である。チチハルを根拠に配下800名をもつと評判の宋紀はこの戦乱で落命した。お花によれば確かではないが武市に潜入して蜂起準備中に大虐殺に遭ったらしい。
これを機にロシアは大々的に満州侵略を強めた。武市の清国人3000人を全員「支那街」に封じ込め、安全地帯に誘導するという口実でアムール河岸に連行しカザック兵に虐殺させ老若男女一人残らず濁流に流した。真清の寄留先ポポーフ大尉一家のボーイもロシア官憲に指し出された。
ロシア軍は対岸の清国黒河鎮、愛琿城を焼き払い逃げ遅れた清兵、住民を虐殺した。愛琿の歴史陳列館には黒竜江に押し込まれる清国人の画像が展示されている。
撮影者の了解を得て掲載する。ロシア人の残虐性を読み取らないでほしい。ヒトの性は善である。状況次第で鬼にも仏にもなる。・・・と私は思う。日中ロ友好万歳!

チチハル公路を逃げる避難民の中にいたお花は、はてしなく続く一本の羊の群れのような避難民の列に追いかけて来たカザックが馬上から射撃を浴びせた、と語った。
「アムールの波」というワルツの名曲には罪はないが、万単位の犠牲者を出した「アムール流血の大津波」と名付けて記憶すべき大虐殺だった。
北満のロシア支配が確定した。同時に日本では恐露症と国難意識が深く広く浸透した。

官が国内流通を仕切れない時と所では馬賊、海賊が闇で流通を仕切る。割拠する馬賊が連携して「通行料」をとって道中を保護する漉局ルーチーとよばれる仕組みがそれだ。同様の賊はシルクロードにもシーレーンにも瀬戸内海にもいた。官が強くそれが途切れると集団強奪、群盗に変わる。鉄道沿線でロシア守備隊の手薄なところを狙って義和団を名乗る清兵と馬賊がロシア人を虐殺することもあった。
満州の馬賊は、清軍に、義和団の乱後はロシア軍にも、追われ、捕まれば即刻殺された。この第2部には馬賊のさらし首の写真が載っている。皆血を啜りあう盟約をして拷問にも口を割らず平然と斬られたと真清は云う。真清は馬賊の頭目を庇い尊敬と信頼を得て友誼を結ぶ。

真清は乱後浦潮に帰還し参謀本部に武市と北満の激変の情況を報告した。同時に現役に復帰してロシアが東清鉄道支配の拠点にしていたハルピンに潜行を命じられた。女郎だけでも100人居たハルピンの日本人だが乱後みな東に避難して、在留邦人は13名を残すのみだった。ハルピンの荒廃は推して知るべし。そこに至るルートも山地あり密林ありで険しい上に住民がみな避難していて鉄道工夫とそれを保護するカザック兵の他は馬夫か馬賊しかいない。
真清は決意する。「身を寄せる高い樹のない満州では高粱の陰に身を伏せ」ようと。ハバロスクで出発の手づるを求めている時に馬賊の愛妾お君と出会い、その頭目増世策を紹介されて同志となる。東清鉄道沿線と松花江沿岸で配下2000名を従える増頭目とお君の実行力がなかったら真清は単独行の任務を果たせなかったであろう。馬夫も支那宿の主人も増の賓客といえば跪座の礼で応対した。行路の情報も、ロシア軍洗濯夫になりすました旅券も船券も馬賊の人脈で入手できた。
途中金鉱から避難中の女郎3人の行倒れを助けた。自分は任務が大事だから、と私なら非情になるところだ。縁とは不思議なもので女郎の一人お米が後に瀕死の真清を牢獄から救出する幸運の女神になる。
ハルピンに着いて菊地正三の変名で洗濯屋になった。開業にあたり韓国人スパイがロシア軍に口利きをした。ロシア軍人を得意先として洗濯屋は大繁盛し、訪ねて来た女馬賊お花を番頭にすえた。義和団事件以来の再会だった。
余裕ができた真清はロシア士官にもらったパスポートで商人を装って視察旅行に出かけた。情報を収集するためだけでなく人脈を広く太くするためである。増頭目の護照とパスポートが効いて馬車もカザック兵の哨舎も利用できた。
だがその先は通行厳禁で1週間以上逗留している時清兵と馬賊らしい部隊が哨舎を襲った。露清の争闘に巻き込まれた真清は日本人を名乗る韓国人露国スパイと疑われて獄舎に放り込まれた。そして1日5個の饅頭と一杯の水を与えられる以外はまったくの放置状態に置かれた。衰弱死を待っていたのであろう。
痩せて骸骨みたいなって朦朧としてぼんやり格子越しに外を見ていた時一人の婦人が通りかかった。行倒れを救われた後行方不明になったお米だった。お米は戦乱の中真清を探し回るうちに拉林馬賊の頭目宋の妾婢になっていたのだった。事情を聴いて宋頭目は間違いを謝罪し、真清が持つ増頭目の護照をみてかしこまった。頭目はお米の旅費を出して帰国を勧めた。
真清も同意見で諜報の報告と相談を兼ねて一時浦潮に帰還することにした。
浦潮に行くには厳冬の老爺嶺の嶮を越えねばならない。真清は闇夜の密林の中で焚火用の枯れ枝を探しているうちに命の恩人お米が失踪したことを知る。自身の体力の限界を知って真清の身を思っての行動であろう。大頭目増の処刑を耳にした後だったので真清は二重に打ちのめされた。

大病をはさんで、牢獄、難旅行でいくたびか死線を越え死地を脱した末、真清はひとり浦潮に帰還した。命の恩人お米をくにに還してやれなかった真清の無念が思いやられる。
浦潮は当時ロシアの動向をにらむ日本の情報機関、商務官、商人、大陸浪人の根拠地であった。町田少佐、武藤大尉に石光大尉が満州情勢を報告して協議の結果つぎの結論に達した。「ロシア軍の満州占拠は既に経営時代に移って本格化して来た」 情報網を黒竜江北岸のロシア領と全満州に張り、中心をハルピンとし、そこに商館を設ける。
かくて石光の新任務は単独情報収集行から諜報網組織者に変わった。

第2回ハルピン行きである。ハルピンは避難していた人々が帰還しロシア商人も来始めて騒動前の賑やかさを回復していた。日本人も200名を優に越していた。真清は文字通りの軍資金3000円で写真館を開業した。ロシア人の信用を得て軍と東清鉄道の御用も務めるようになった。洗濯屋はお花に任せた。

ハルピンの菊地写真館は繁盛し館員10人の大所帯になった。横河・沖の志士、二葉亭四迷等の浪人、駐露武官を離任した田中義一が寄宿し、小さな梁山泊の観があった。大庭柯公が日本人会に事務員として寄宿していた。
要所大連に写真館支店を置いたのをはじめ、ほぼ満州全土と武市に諜報網を張り巡らした。ロシア軍の守備地と東清鉄道の写真、地図、満州経営の進行状況を参謀本部に逐次送った。

真清は再度南下の旅に挑戦することになった。洗濯屋を日本商人に売却した譲渡金と儲けの金をお花に渡して帰国させることにした。旅の手配はお花がした。ロシア軍の請負馬車隊の炊事係という触れ込みだった。カザック兵の護衛付きである。視察しながら南下したが長春、奉天に近づくことはできなかった。列強のスパイに漏れてはならない第一級のロシア軍事機密がそこにあったからである。
西に方向転換してチチハルをまわってハルピンに帰り通常のルートで浦潮に還った。お花とは永久の別れとなった。お花といい山塞に潜伏しているお君といい何とたくましい生き方であることか! 真清はこの逞しさを「無知の胆力、実行力」と敬意をこめて表現した。 

1904年が明けるころにはハルピンの邦人のうち婦女子はほとんど引き揚げてしまった。
増世策、宋紀は道半ばで斃れてもういない。石光はひそかに傳家旬の頭目・王尓宝を訪ねた。延吉の孫、五常の唐、呼蘭の高と鳴りを潜めている大人の名を挙げて開戦時の決起を促した。「私の考えは彼らが団結して蹶起するならば、帰国を見合わせて、彼らの一団に身を投じ、ロシア軍の輸送を妨害する計画であった」

第3部『望郷の歌』  日露戦争~海賊編
日清戦争に勝って韓国支配を強める日本であったが、清国はさらに弱体化し、三国干渉により地歩を固め満州を制したのはロシアであった。義和団事件でも日本がロシアのために露払いをしたことは上記で観たとおりである。
ロシアが満州を軍事支配すれば日本の韓国支配が危うくなる。日本が韓国を軍事支配すればロシアの満州支配がヤバくなる。にらみ合いの末国交断絶となった。
   日露戦争 2004~2005

そして物力で劣る方にありがちなサプライズ・アタックで火蓋が切られた。
1904年2月11日 対露宣戦布告
真清はハルピン写真館を閉じて帰国の途に就いた。日本は桜が満開の季節だった。
石光は帰国と同時に召集され第2軍司令部付副官として参戦した。緒戦の激戦南山戦を詳しく描写している。機関銃対銃剣に象徴される「肉弾戦」だった。「さっさと逃げるはロシアの兵 死んでも尽すは日本の兵」と数え歌で歌われ、わたしも親が子守唄代わりに歌うのを聞いて育ったが、戦勝国のおごりが歌わせたものだ。日露戦争はまさに死屍累々たる死闘だった。石光の筆の運びには始終おごりがない。

1906年正月に石光は凱旋した。石光が心の中の空虚に気づき始めたころ、参謀本部の田中義一大佐が石光の諜報活動に報いるためか、対満方針が決まるまでしばらく関東都督府陸軍部で通訳として待機してもらえないかと勧められた。
後の関東軍となる司令部に出頭すると「書類の整理でもやってもらおうか」と命じられた。即辞表を出して旅順の街にさ迷い出た。軍は戦前とは「較べものにならないほど組織化され規律化されていたのである」

真清は軍が満州で市民を敗戦国民扱いしているのをみて心を痛めた。そして自分のみじめさにも嫌になった。両手に余るほどの商売に手を付けたが一つも生業にならず無一文になった。「満州ごろ、満州浪人・・・あゝ嫌だ」
そして渤海湾の海賊を匿った縁で海賊の客人になった。その間ルーチーに替わる日支合弁の海上保険公司を作って海賊を真っ当な生業に就かせようと夢のような企画を立てて清国奉天政庁に働きかけた。そして頭目2人の名を不用意にもらしたためにその一人高景賢を誘殺されるという取り返しのつかない大失態をやらかした。
さらに戦前写真業をロシア軍に売り込んでくれた大恩人の東清鉄道庶務部長アブラミースキーの信頼を企画の頓挫で2度裏切って絶交された。
絵に描いた餅では算盤を弾けなかった。自信も信用も失った真清は失意を抱いて日本に帰るしかなかった。

1909年 世田谷村で三等郵便局長
1910年 韓国併合
1914年 第1次世界大戦
1917年 十月革命
 

日本は、第一次世界大戦が勃発してアジアで欧州列強の力が手薄になった隙をついて中国に対して屈辱的な対華21カ条の要求を突き付けて中国侵略の大きな一歩を踏み出した。
世田谷で日々これ好日の幸せに浸っていた真清にまた関東都督府から渡満の誘いがあった。満蒙貿易公司の錦州商品陳列館開設事業である。その事業が成功し繁盛していたところに参謀本部次長に出世した田中義一の直々の指名で出頭命令が来た。用件は十月革命直後のロシア潜入だった。[次稿 手記第4部 に続く]