1968メキシコオリンピックにおける日本代表の活躍に刺激されて、はじめてTVを買った。カラー時代なのにシロクロだった。
年が明けるとTVの前にくぎ付けになる大事件が起こった。
まず1月18,19日の全共闘と機動隊による東大安田講堂攻防戦である。
発端は卒業生(インターン)の無給研修制反対闘争だった。機械制大工業の時代にギルドの徒弟制を想わせるやり方で医師の養成が行われていることは驚きであった。
50年経っても50の大学付属病院で2192人の無給医(労基法違反)がいることが文科省の調査(報告制)でわかった。日大532人、東大239人、慶大200人など無給医かどうか精査中の大学附属病院がまだあるから実数は3000人以上になるのではないか? 自己研鑽目的の自発的な無給勤務を除く数字だそうだ。無給医ゼロと報告した大学でも月給1万円の医師が多数いるという。中世、最初の大学はギルドの殻を破って自由に羽ばたいたというのに・・・。
大学はどこもブラック企業に沈淪しつつある。非正規雇用でなんとかやりくりしている。ちなみに山中伸弥所長の言によるとIPS細胞研究所の職員は9割以上が非正規である。責任は、若い医者にアルバイトをさせる政府、有能な科学者を金策のために走り回らせる政府の大学管理体制にある。
安田講堂攻防戦は35時間全国放送され全国の大学でバリケード封鎖が常態化した。京都大学では、寮の自治をめぐって寮委員会が学生部を封鎖していたが本部時計台封鎖に拡大することを恐れた奥田総長以下の大学当局が率先して資材とヘルメットを用意して逆に大学を封鎖してしまった。安田攻防戦直後の数日間のことである。当局と民青の合作で強固なバリケードが設けられ検問(「外人部隊」排除名目の学生証確認)がおこなわれた。
風聞にもとづく空騒ぎだったことが分かると風向きが変わりパニックを煽った大学と民青「五者協」に対する責任追及を経て教養部の無期限スト、医学部、文学部のストに発展した。バリケードの中で講演会、自主講座等がおこなわれた。
わたしは高槻から教養部に通ったが何の貢献もできなかった。1回だけレーニンの国家資本主義論を講じた。学生の反応はなかったが創刊間もない『情況』誌の編集部の目にとまり記事連載が決まった。
2月18日東大とともに全共闘運動の二大焦点であった日大のバリケードが陥落した。3月、ノンセクト・ラディカルの先頭に立って日大の強権的支配体制と果敢に闘った日大全共闘議長・秋田明大が潜伏先の渋谷で逮捕された。昨年アメフト部の危険タックルでクローズアップされた日大当局の体質は旧態依然+みんなが従順になった分だけ悪化、したように見える。
1968年の世界的な文化革命の共通項はコンフォーミズム(権威主義、管理主義、画一主義、男性中心主義)は嫌だ、という気持ちであった。今はどうだろう? どこの大学もいっそう閉塞状態が強まり、また政府以下会社はもちろん、あらゆる機関、学校でやりたい放題の規則ずくめ統治がおこなわれている。
かの京大でも学生部が戦前のように学生取り締まり部に変容しかかってないか、寮の自治は生き残れるか? 自由圧縮のニュースを聞くたびに気になる。
11月祭で正門に、京大がみずからの「看板」として誇ってきた「反戦自由」の大看板を学生が立てたら、やはり撤去されるのであろうか? 見苦しいといわれないように美術を凝らしてもムダか?
参考:5月革命(1968年、パリ)で有名になったポスター「街頭のヴィーナス」
二つ目のTVに釘付けは7月のアポロ11号の月面着陸だった。人類の宇宙飛行で後れを取ったアメリカが国を挙げての開発競争でついにソ連を追い越した瞬間だった。当時ソ連はアメリカと覇権を争う超大国でその勢いに脅威を感じてアメリカは「ドミノ理論」を掲げてベトナム戦争を戦っていたほどであった。
アームストロング船長の名言を引いて終わりとしよう。
That's one small step for [a] man, a giant leap for mankind.
50年後の感想。それを人類の終わりの始まりの「第一歩」にしてはならない。宇宙を利用した最終兵器の出現は妄想ではない。