自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

8月15日BSスペシャル「遠い祖国~ブラジル日系人抗争の真実~」

2014-08-14 | 体験>知識

8/15・16  22:00  標記特別番組をぜひ観てほしい。
4年前の今日、このブログで「勝ち組と負け組/1946年 移民社会の激震と対立」を
書いた。
今、この広報を書き込むに当たって、「勝ち組対負け組」のテーマが日本においても
消し去ることのできない今日的問題であることを思い知らされて、あの戦争の遺した
傷痕の深さに驚いている。

TVの放送予告では「終戦記念特別番組」のサブタイトルがつく。
わたしは敗戦による終戦だから「敗戦記念…」と書き始めて、はたとすわりが悪いことに
気付いた。
戦後70年目に入る日本で「勝ち組」の心理が街頭のみならずネット上、ペーパ上そして
TV画面で、比喩的に言えば「日章旗を振り廻している」。

わが生地ロンドリーナの「勝ち組」についての追記
新しい国際移住地で日本人の密集度も低かったので運動そのものは顕著でなかった。
戦時中弾圧、排斥も子どものわたしは感じなかったが、それでも密告により警官による
家宅捜索を受けた。
密告者はうちのコロノ(雇用農)で「ガイジン」だった。
両親が一番心配したのは「御真影」(昭和天皇・皇后の写真)とピストルを押収されること
だった。
それらは離れたところにあったコーヒ豆倉庫に保管されていたので発見されなかった。
数日後そのコロノが警官に連れられて去るのが見えた。

我が家が離伯後の1953年、ロンドリーナで桜組挺身隊が結成された。
集団帰国と国連義勇軍として朝鮮戦争参戦を目標に掲げた。
信じられない。たまたま移民が多い同市に集結したということでないか?
最後の「勝ち組」運動として歴史の一齣にも値しないが、これはもはやカルトである。
かれらはそのごサンパウロ郊外サントアンドレの日系養鶏場で婦女子をふくめて100人
以上で集団生活をし、1955年2月3日、たすきがけで軍歌を歌いながらのぼりを押し立
てて最初のデモ行進をし耳目を驚かした。
幟のスローガンは「40万同胞総引き揚げ」要求だった。
最後のデモは5月16日でサンパウロ市総領事館前に座る込み警察沙汰になって終結し
た。
共同生活は軍によって強制解散させられた。
最高幹部は養鶏場本宅に寄宿していて黒めがねで素顔を隠した紳士であたかも天皇の
ように近寄りがたく「先生様」とよばれ崇められていた。

{朝香宮」を騙る詐欺団の顛末
名うての詐欺師川崎三造と加藤拓治はかねてから「天皇の特使朝香宮」を騙り勝ち組
から献上金を騙し取っていたが、1953年頃からサンパウロ州内シッポー農場で日本
帰国に備えて修養と称する集団生活を組織していた。
1954年幹部による暴力事件で警察の捜査が入り大スキャンダルに発展した。
逃げ出した信者による告発が露見の発端だった。
200人の団員が周囲から隔絶した外出禁止の農場で新聞のない窮乏生活をおくって
いた。
財産を献上した上無償で野菜作りに従事していた。
宮様こと加藤に娘まで献上した信者もいた。
詐欺団の末路はやはりカルトだったか。
大騒ぎになったスキャンダルは両名の不起訴で終結した。
莫大な資金で非日系弁護士の力を借りたらしい。

文責は筆者にあるが、事実関係の多くを下記の連戴記事に負っていることを感謝を込
めて記す。執筆者外山脩二氏の執念の研究に敬意を評したい。
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-toyama1.html


 




 



 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿