自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

日本軍の野望/「次の戦争」像/対米戦争

2017-11-21 | 体験>知識

  シベリア出兵 帝国書院『図設日本史通覧』

政府は陸軍主導で青少年に軍事教育を実施し在郷軍人の活動を活発化させた。国難という言葉先行だった。では当時の軍事専門家と政治家は次の戦争にどんなイメージを抱いていたのか、それが本稿の主題である。

1920年3月、シベリアでは赤軍もしくはパルチザンが西から反撃してきて沿海州にすでに浸透していた。そして、不利な対日戦を回避するレーニン政府の方針により、ハバロフスク~ウラジオストクで足踏みし日本軍と対峙あるいは共存混在していた。戦況不利のもと沿海州では傀儡地方政権の変心と白衛軍の脱走、寝返りが続出した。4月1日米軍が撤兵を完了した。参謀本部上原総長と派遣軍大井軍司令官は、原敬内閣と田中陸相の条件付き撤兵宣言を勝手に解釈して4月4日午後10時を期して地方政権、露軍、パルチザンに奇襲をかけ、武装解除名目でロシア人、朝鮮人を数千人斃して沿海州を制圧、支配した。これを日本側は4月事件と云い被害側は4月惨変という。統帥権を錦の御旗にする参謀本部、軍令部を政府、田中陸相は抑えることができなかった。
この時点では政府と陸相は満州・朝鮮の東端部を赤色ロシアに絶対譲れない接壌[地]としていたが派遣軍は沿海州に野望を抱いていた。開戦と同時にチェコ軍救出と関係のない尼港と北樺太まで進軍して占拠している。
さて上掲の地図に再度目を転じてみよう。派遣軍幹部ならずとも沿海州と北樺太を切りとり日本海を内海にしたい願望にかられるだろう。それ以前から日本海内海構想が語られていたとしても不可思議ではない。
このようなシベリア戦争における軍部と政府の方針がずれる軍事×政治関係と、強欲な勢力圏構想に類似したイメージの事件が、大正末期から昭和の初期にかけても見られた。山東出兵と済南事件である。その時期満蒙切り離しor切り取り構想が陸軍
の中で有力になった。同時期の米国、日本、中国が考えた仮想敵、国防計画と戦略シュミレーションをこれから2回にわたって検討する。

シベリア戦争中はアメリカに牽制され、それ以前は露英米仏独列強と清帝国食いちぎりを巡って、日本は外交戦で苦戦した。アメリカは一貫して中国市場(製品と資源)の門戸開放を譲らなかった。また自国への貧しい中国人、朝鮮人、日本人移民の殺到に苦しんでいた。日本人移民の差別と迫害はついに1924年排日移民法に結実した。表面に低賃金雇用問題、背景に東洋人差別(黄禍論)と国粋主義的団結(同化しにくい移民)に対すアメリカ人の反感とがあった。
研究したことはないが、これだけの理由で上下両院が日本政府の厳重抗議を無視して法案を可決するとは思われない。朝鮮独立運動の最中にキリスト教徒の村が教会もろとも焼かれ教徒が虐殺された事件が全米でたびたび報道されて、醸成された反日世論が議会の背中を押したのではないか。3.1万歳事件の一環である堤岩里(チェアムリ)惨変は全米で2カ月間40回報道された。間島事件の一つ獐巌洞(ノルバウィゴル)惨変は長老派教会の医師マルティンにより全世界に発信された。また前年の関東大震災時の軍による王希天(中華YMCA幹事=メソジスト教会牧師)と大杉夫妻の甥橘宗一少年(キリスト教徒、オレゴン州生まれの米国籍)の虐殺もアメリカの世論を刺激したと考えられる。
日米とも相次いで太平洋で海軍大演習を実施した。日本国内の世論は沸き立ち反米右翼が叢生した。

 林 信吾・清谷信一訳『太平洋大戦争』(2001)
1925年英国の海軍評論家バイウオーターが架空戦記『太平洋大戦争』をロンドンで発行した。小説は当時の知見をもとに展開されるから空母による遠洋攻撃(太平洋艦隊本拠地真珠湾攻撃)は構想外である。
小説は、中国における利権をめぐって日米交渉中に1931年3月3日早朝大型商船「明石丸」がパナマ運河で自爆して運河を使用不能にした驚愕事件をもって事実上の日米開戦としている。原因は日本国内の内政の行き詰まりと中国における日米の利権争いである。

大本営発表「3月6日午前、・・・帝国南洋艦隊は、マニラ湾外において米国アジア艦隊と遭遇、激闘3時間に及ぶも・・・これを全滅せしめたり」3月20日マニラ入城、4月4日艦隊中継拠点グアム島占領。西太平洋の制海権をにぎるが、本拠地ハワイを衝く能力はない。グアム沖あたりで太平洋艦隊を迎撃して葬り、いっきに対米戦争に決着をつける作戦だった。米大西洋艦隊がパナマ運河閉鎖で南米回りして遅れるので日本軍は連合艦隊に対する勝利を確信していた。
米太平洋艦隊は本拠地ハワイから西進しポナペ島、トラック島、ヤルート島を奪回し兵站基地を築きつつグアム近海に迫った。グアム攻略作戦は日本艦隊を欺くための囮作戦で狙いはペリリュー島を攻略して「飛び石伝いに拠点を確保していき」フィリピン植民地を奪回することだった。
ここで思い出すのは南洋諸島が日本の信託統治に決まる直前に米国が島々の主要港湾の海深を測量した事実である。まさに水面下の準備である。アメリカの日米戦構想には戦略マップにデータの裏付けをつける姿勢があるようだ。
米軍は1週間足らずで、ペリリュー島を制圧し滑走路まで完成させた。南太平洋の制海権で優勢に立った米軍は西にも北にも、フィリピンはもちろんグアム、サイパン、小笠原へも、思いのままに出撃できる戦略的拠点と自由を手にした。
洋上艦隊決戦が対米戦争の帰趨、行方を決することになった。米軍がヤップ島をうかがう姿勢を見せると大本営は連合艦隊に出動命令を下した。またしても偽装陽動作戦に引っ掛かり米艦隊の挟み撃ちに遭ってヤップ沖海戦で有史以来の大敗北を喫した。
制海権とシーレーンを完全に失って軍事的経済的に孤立した日本は、フィリピンを奪回され、東京空襲にさらされるにおよび講和に応じるほか道はなかった。「この時すでに、日本はもはやいかなる意味でも継戦能力を失っていた。中国、朝鮮を抑える力はすでになく、これでソ連が参戦でもしようものなら、もはや破滅である」

日米戦争の予言は当時両国で広く語られていた。日米間を1万キロ隔てる太平洋と中間補給基地がないことを考えると主力艦隊決戦と敵の領土攻撃はありえない、と考える軍事専門家も少なからずいた。バイウオーターはその疑問を一蹴したばかりでなく、戦闘場面に航空機と潜水艦の活躍を不可欠の新戦力として細かく織り込んだ。そして航空母艦の機動力と艦載機の運動性能、航続距離が十分に延びた暁には日本軍による長駆真珠湾奇襲、ミッドウエイ決戦を予想したであろうことが、この小説から読み取れる。
バイウオーターの小説は、前年に出た米海軍の対日戦シュミレーション「オレンジ計画」と大筋で一致している。日本の対米戦方針とはどうだろうか。

先ず1907年に山県有朋元帥の命で田中義一中佐が作成した帝国国防方針草案を取り上げよう。日露戦争後~ロシア革命前の国防方針である。
「主要ナル敵国ハ露西亜ニシテ国利国権ノ伸張ハ先ツ清国ニ向テ企図セラルルモノト想定ス」「米国ト事ヲ構フルニ至レハマニラヲ占領シフィリピン諸島ヲ攻略ス」 さらに仏領インドシナの攻略、対独膠州湾の攻略を想定している。
田中義一は、サハリンからフィリピンまで、日本海から南シナ海まで国防圏を拡げた。この大風呂敷に対しては、秀吉もそうだったが、軍略あって外交なし、軍備軍拡あって経綸(経済財政の裏付け)なし、と評せざるを得ない。人力も資源も資金も大陸で調達するとなると勢い大陸侵略とならざるをえない。より慎重な山県は米国以下の想定を削除した。

そして1918年に陸海軍は仮想敵を露米支とする改訂を行い、シベリアに出兵した。対米=ルソン島攻略、迎撃作戦。対支=権益・在留邦人保護のため事変あれば出兵する。
シベリア出兵(1918年~1922年)について田中大将と宇垣大将が内輪の将校たちに語った本音(家村新七少尉証言)はこうだ。大分連隊で田中大将「シベリア出兵の真の目的は沿海州を占領することにあったんだ。その理由は地図を見ればわかるように、沿海州を日本の領土にしておかなければ、日本の国防は成り立たんのだ」 熊本の教導学校で宇垣大将「日本海は日本の内海にしなきゃいかん」(橋本治『派兵』第一部)

さら1923年日本は対米ソ支を仮想敵とする大改訂をおこなった。
先制かつ攻勢を本領とする。速やかに局を結ぶ。対米短期決戦論である。
国際的孤立を避け、露支に対しては親善を旨とし、権益・在留邦人保護のため事変あれば出兵する。
作戦①主敵は米国である。ルソン島を攻略し西太平洋の戦略拠点グアムを破壊し米艦隊を迎撃する。
作戦②
対ソ戦緒戦でシベリア出兵時と同じく南部沿海州、ザバイカル州を制圧し、必要であればアムール州に進出するが、主作戦は満州である。

作戦③対中戦ではすみやかに北支那を攻略し、ほかに政略上、作戦上の要地を占領する。

   前坂俊之編・訳  松下芳男著 『水野広徳  海軍大佐の反戦』(1993年)

この新国防方針について軍事評論家水野広徳が新聞スクープ記事をもとに分析して「新国防方針の解剖」を中央公論に発表した。日本の敗北を断言してアメリカでも注目された。「次の戦争は空軍が主体となり、東京全市は一夜にして空襲で灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の戦争となるため、日本は国家破産し敗北する以外にない-と予想、日米戦うべからずと警告した」([pdf]『日米戦えば日本は必ず敗れる』-水野広徳の反戦平和思想  by前坂俊之 http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/25.pdf)

水野広徳は海軍軍人で日露戦争に従軍、2度欧州を私費(ベストセラー日露海戦記『此一戦』の自著印税等)で視察した。ロンドンで空襲を体験し西部戦線激戦地ヴェルダン戦跡の爪痕(死傷者100万)に愕然としベルリンの悲惨な戦後窮乏と混乱を目の当たりにして、帰国後加藤友三郎海相に「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と報告した。加藤海相はワシントン軍縮会議全権代表として条約締結に貢献した。水野広徳が日米未来戦の中で描いた東京空襲の光景は実際に起こった東京大空襲を想わせるほど真に迫ったものである。

新国防方針は日米戦争を想定した。開戦となれば経済力10倍の国と総力戦を戦うことになる。方針は観念的な短期決戦論である。水野広徳は、そうは問屋が卸さない、長期の持久戦になる、また「帝国が封鎖を受けたる場合には食糧および作戦資材を隣邦に需める必要がある」とする方針の根本に対しては、銃を突き付けて握手を求めるに等しい、と批判し、日本と同盟する国は一国もないだろう、と断じた。

1931年軍部の暴走は満州事件を起こし国際的に孤立した。次第に評論ができなくなった水野は心友松下への書簡で時評を歌に託すようになった。
1934年の一句「戦へば必ず四面楚歌の声 三千年の歴史あはれ亡びん」

1939年12月30日の日記にある一句「反逆児知己ヲ百年ノ後ニ待ツ」に私は言葉を失う。
1945年10月18日今治市で腸閉塞により他界、享年71歳。









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