自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

正木ひろし弁護士を囲む会/狭山事件「造花の判決」

2016-10-14 | 体験>知識

わたしは、迷宮事件、冤罪事件に深い関心があるが、それは新聞、ラジオ、TVの報道と関連本読書の影響だと思う。ちょうどこの時期、大学の法学部自治会が正木ひろし弁護士を呼んで講演会をもった。講演の後法経教室地下で囲む会があった。
そこで正木氏が日本の良心であり体制の司法部に喰い込む能力と実行力の持ち主であることを知った。
かれは戦時中個人月刊誌「近きより」を発行し交友を広げながら巧みに時局(東條内閣)批判をつづけた。購読者に法曹関係者をはじめ政府・軍部の要人もいたらしい。発禁と廃刊圧力はあったが潰されなかったことからの類推である。

映画にもなった「首」なし事件の話には驚いた。一炭坑の現場主任が微罪嫌疑で拘束され警察署で死亡した。家族には脳溢血による病死と知らされた。
依頼を受けた正木氏は東大法医学教室の古畑教授と謀って深夜墓を掘り返して首を切り取って持ち帰り鑑定した。そして死因は暴行による脳出血であると「近きより」でキャンペーンを張り、巡査部長と警察医を告発した。
権力中枢の一角を占める裁判所と検察の最上部を相手にする戦いだからふつう勝ち目はない。個人の告発が通るはずもない。曲折と挫折があったが節々で「近きより」のコネとバネが働いて起訴に持ち込むことができた。コネの中に岩村司法大臣(検事総長から転任)や軍部の切れ者石原莞爾、国粋会の大立者頭山満の名前がある。
かれは戦後まで続いたこの裁判で勝ち、拷問が常態であった時代に拷問者を法で罰することができた。
「義を見てなさざるは不義なり」 かれは座右の銘どおり職を賭して正義を貫いたのだった。ちなみにかれの思想は反全体主義で共和主義であった。座右の書は聖書であった。

正木ひろしは1955年に起きた「丸正事件」では在日韓国人トラック運転手(無期懲役)と日本人運転助手(懲役15年)の再審請求にも献身した。被告は強盗殺人罪で起訴された。裁判中に「強奪された通帳と実印」を被害者の母親が押し入れで発見したにもかかわらず、一審有罪、控訴、上告で上記の刑が確定した。
運転助手の一時の自白がすべての反証に優先した。再審請求から関わった正木弁護士は青木弁護士とともに最高裁の開かずの門の前で身を切る非常手段に訴えた。被害女性経営者の身内3人を真犯人と特定、告発し、逆に名誉棄損で訴えられた。
わたしたちが囲む会で話を聞いたのは名誉棄損の裁判進行中だった。その裁判は敗訴し、丸正事件の再審請求も叶わなかった。運転手は22年後仮釈放となった。助手は19年後!満期出獄した。二人の出所までの期間は異常である。正木ひろしが存命していたら、コナン・ドイル同様、「出所理由を明らかにせよ」と法務省に迫ったにちがいない。
運転助手は、自白は「血を抜く」拷問による、と翻意を説明した。まさか、と疑うのがふつうだが、担当の静岡県警紅林麻雄刑事は拷問と証拠捏造の手法を考え出すアイデアマンで、幸浦事件、仁保事件、赤堀事件で被告の死刑判決、小島事件で無期懲役判決を引きだしている。最終的に4事件すべて無罪が確定している。

正木氏が実験により真相を究明してゆくくだりは知的興奮を刺激しないではおかない。丸正事件は本にもTV映像にもなっているので見てほしい。


http://televisioninfo.blog.fc2.com/blog-entry-11.html?sp

正木ひろしが狭山事件の弁護団にいたら、社会経験の乏しい検察や裁判官の荒唐無稽な推論に、別人には思いつかないような実験をして痛快な反撃をしただろうと確信する。
それにしても、わたしが足尾鉱毒事件の田中正造翁以来の偉人、弁護士の鑑とする正木ひろしの狭山裁判判決批判が、ネットで下記のように歪曲援用されるのを黙視することはできない。援用者は石川有罪判決支持者である。
設問そのものにも誘導がある。差別裁判か、と設問すべきだ。特殊と一般。

Q.狭山裁判が差別裁判だというのは本当でしょうか? 
A.[一部省略]数々の冤罪事件の弁護で活躍した正木ひろし弁護士も狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件が差別裁判だということになると批判しています。

設問そのものにも誘導がある。差別裁判か、と設問すべきだ。特殊と一般。
かつ引用記号「」を作為記号として利用している。作為の証拠がコレダ!➷

  1974.11.1 朝日新聞記事 
 


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