2014年熱めで。。。あと2日。
中学生のときに、父、母を越すと話して、自ら母に言った。
熱く話したのを覚えている。
それは、小学生の時から思い続け、母、父の良いとこは残し、悪いところを改善しないと自分もこのような暮らしになってしまうと、本当に考えたことがあった。
その環境あって、自分をつくりあげ、全てを作り上げたのは環境だ。
ただ、苦しみは一つとしてなかったが、決して楽な環境ではなかった。
父は自衛隊あがりの、厳しい父親だった。
負けの笑顔は、食事も喉を通せなくなるほど厳しく、サッカーを楽しいでできるというのは、いつの間にかなくなっていた。
小学生で、メンタルを鍛えるべくのスポーツ、負ければ笑顔で帰ることはできなかった。
そんな、父が帰ってくる前には、玄関の靴の整理、帰ってきそうになると鍵を開ける。
そんな毎日をすごしていくことで、それは当たり前の行動となり、外からの足音で父と気づくようになった。
もちろん父は、重たい鞄を持って帰ってくる訳だから、わざわざ鍵を開けるなんて行動はもってのほかだった。
自分の住んでいた、中学生までの家は道営住宅の小さな家。
お湯は出なく、お風呂はなく、冬場は冷たい水で顔や、お風呂がないので、頭を洗い、体をふいたりしていた家。
母は、冷たい水で食器洗をしていた。
そんな家だから、もちろん玄関は狭い。
靴を整理しないと、父が仕事で疲れて帰った時に、足の踏み場がないと、雷ものだった。
布団が4枚ひける広さと、小さな居間があると言えば、わかりやすいですかね。
夜中トイレで起きると、母が電卓を打ちながらお金のやりくりを必死に考えていたのを思い出す。
母の夜中の姿は、その電卓をうって家計を考える姿と、年末の年賀状を夜通し手書きで書いていた姿を思い出す。
よい部分、すなわち年賀状は私も続けている。
母、父、とても苦しい家庭の中でも、尊敬をこす凄さがある。
それは1度もお金に苦しいと子供の前で言わなかったことだ。
父、母の、喧嘩は本当はそんな理由があったかもしれない。
しかし、私と姉の前で「お金がない」とこの言葉を発したことがなかった。
よっぽど根性のある母だと思う。
そんな父、母。
とにかく年間の行事、イベント事、どの家族よりも大切にしたのでないかと思う。
誕生日はもちろん、クリスマス、子供の日:鯉のぼりをベランダに飾り、花火大会:同じ道営住宅に住む子供を私が誘う、七夕:父と自転車を走らせ2人で河川敷へ笹の葉を取りに行った。
今でも涙出るほど覚えている。
そんな、温かく熱い父、母、には心から感謝している。
七夕で笹を持ってきた時にも、道営住宅に住む、たかしの友達呼んでこいとみんなで、願いを込め飾りつけしたのを覚えている。
そんな事を、毎年していた。
そんな、行事を大切に育ててくれた父、母。
良い部分、そのお陰で新潟から始まった10年間のクリスマス子供達への色紙やプレゼントが始まり、続けれた。
そして、年末となると、父が率先し、母、私と姉を掃除を徹底的にさせられたものだ。小さい時は、そりゃ始めは嫌々だ。
しかし、今はそれが新年を迎えるにあたり大切なこと。
新年を迎えるにあたって、家に感謝し、家を綺麗にする。
父の背中から、そんな伝えを受けた。
その良い部分が昨日、一昨日と掃除に繋がった。
別に自分の家ではない。他人の家といえば家だ。
しかし、住まさせていただいていると同時に、温かい家に住めていることへの感謝が一番なんだとおもう。
あまりお金に余裕がなかった、そんな環境ではあったが、自分が前々から欲しかったサッカーシューズがあった!
その当時、1万5000円を越す高価なシューズだった。
今まで6000円やそれ以下のシューズしか買ったことなかった。
絶対に無理なシューズと思っていた。
今でも鮮明に覚えている。
両親が「貴之、このスパイクが欲しいの??」
答えはもちろん決まっている。。
その日に買ってくれたスパイク……1週間は頭の上に置いて寝た。
母からそろそろ履いたらと言われ、「まだだよっ!」
そんなやりとりをしたものだ。
そして、一回履いたらシューズを磨き
、一回履いたらシューズを磨き、本当に大切にしたものだ。
良い部分をいかすならば、なんでも安いものだけが答えではないということ。
私は服を買うとき、物を買うときに、本当に考える。
服は良いものを買うときは、5年先、10年もつかなど。
安い高いでなく長く大切に持つという考えも、グッドだ。
高価なものは買う際は、一生もつものなのかを考え買う。思考を使う。
一生大切にし、大切に持つということのプロセスはとても大切だ。
ときに、私の子供の代までなんていうことも考える。
私が、サッカー選手になり試合に持参するポーチは、母が初めて小学の時、宿泊学習のために、買ったポーチだ!
これは、2人で口論しながら、買った物。
今も使っているが、母には、もう捨てなさいと言われるが、ボロボロでも捨てる気はない。
もちろん車には、素敵なポーチもあるが、それとこれとは別な思い出な品だ。
実家に帰ると、幼稚園の時に使っていたバスタオルが何枚かある。
母にこれ捨てなよ。といっても捨てない。
互いに物を大切にという心は変わりない のかもしれない。
値段でなく、大切に持てるものを買うことが大切なのだ。
父、母、何年か前に住んでいたマンションはプレゼントできた。
そして、お世話になっていた方々へお金もお渡しした。
父、母、を越すとは、サラリーの部分だけではない。
今の自分が、あの時の父の掃除レベルを越しているか……あの時の父のように行事ごとを大切にし、周りの子供達や子供に限らず人様に与えれているか……。
母の背中のように、弱音吐かず、未来に強い意志を常に持ち続けているか、冷たい水で茶碗を洗っていても、弱音吐かない。物を大切にできる志し。
誰にでも平等に優しい……父と母。
あらゆる分野で全てを越すということなくして、越すには繋がらない。
どんな小さなことにでも感謝の言葉をしめしてくれた、母。
共働きの父と母。
小学生の時の趣味は、3分クッキングの録画、そして、安い食材で作れる料理を作ることだった。
父と母が帰ってきた時に、喜ぶ顔、帰ってきた時に布団がひいてあると喜ぶ顔、そして何よりも嬉しかったのが………「ありがとう、貴之」という母の言葉があったから、継続できたし、さらに色々なことをやりたいと増えていった。
それが、やがて中学生活の新聞配達へと繋がったのだ。
母から、父から、でる「ありがとう」という言葉は子供達にとんでもないやる気を掻き立てる。
それは、自分も絶対に続ける。
父、母、に甘えることの忘れた私。
というより、メンタルが異常にまで強くなってしまったといったほうがいいかもしれない。
年に1度しか帰れない。
本当にそんな1年に1度しか会えないことが、親孝行なのかと時に考えることがある。
ただでさえ、遅めの子供。
父と母に甘えている暇など自分にはない。
ちょっとの充電で、またさらに強くなってスタートだ!!
なぜなら、父と母への親孝行は、これからがさらなるスタートだから!
そして、最高のハピネスの渦をつくりあげようといつも考えている。
甘えることの忘れた、私。
人生最後は、前のめりで倒れること。
一歩でも、一歩でも、目標にたどり着く。絶対に……絶対に一歩でも。
天を見上げての倒れ方は学んでない。
甘れる唯一の1人は、1人!!
1人いれば、十分なんです。
こんな熱い心で、
極寒の地も、半袖で乗り込みます。。。
blogを、通して皆様に伝えたいことは、皆様のお陰で強くなり、出逢った皆様が私の心のピースとなっています。
いつも気にかけて皆様のことを見ています。
逢えることが全てでない。
心が繋がって互いに、更に、
今まで見たことない自分を引き出すことが全てです。
日本に生かす。生命果たすこと。
それが、熱い人生、熱い生き方。
今までで、一番胸張って札幌に、実家に帰ろう!!
それでは、皆さん。
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