榎本脱走海軍の艦船にあまり名前を挙げてもらえない船があります。
「第二長崎丸」(長崎二番とも)。
艦隊の品川沖脱走より前に出帆し、ぐるっと回って庄内藩支援に向かいました。艦長は松岡磐吉の7つ上の実兄、柴誠一(旧名は弘吉)。
しかし秋田沖の嵐で座礁破船。しかも時遅く庄内藩は既に降伏してました。
乗組員は上陸して陸路や外国船などで箱館を目指した者あり、おそらくはそのまま逃亡した者あり・・・。
艦長の柴の行動は詳しく分かっていません。結果だけ言えば彼は投降し、幽囚の身となったのち、明治3年赦免され、その後、柴貞邦の名前で、明治海軍の少佐になりましたが、明治7年、39歳で病死しています(おそらく結核)。
彼の性格からして、投げ出して投降したのではないことはほぼ間違いない。なにか任務があったとか、なにか画策するものがあってぎりぎりまでとどまってるうちに、もう箱館へは向かえなくなったとしか思えない。
何があったんだろうなあ・・・。
つまり、柴誠一は榎本軍の構成員でありながら、箱館に行っていません。それなのに例の選挙では得票しています。いない人に入れるやつもどうなんだって話だが、人望があったのでしょう。
その第二長崎丸の引き上げ品にこんな↑洋食器があります(江戸東京博物館収蔵。展示はされてないみたいです)。
やっぱオサレだわあ、幕府海軍。
「第二長崎丸」(長崎二番とも)。
艦隊の品川沖脱走より前に出帆し、ぐるっと回って庄内藩支援に向かいました。艦長は松岡磐吉の7つ上の実兄、柴誠一(旧名は弘吉)。
しかし秋田沖の嵐で座礁破船。しかも時遅く庄内藩は既に降伏してました。
乗組員は上陸して陸路や外国船などで箱館を目指した者あり、おそらくはそのまま逃亡した者あり・・・。
艦長の柴の行動は詳しく分かっていません。結果だけ言えば彼は投降し、幽囚の身となったのち、明治3年赦免され、その後、柴貞邦の名前で、明治海軍の少佐になりましたが、明治7年、39歳で病死しています(おそらく結核)。
彼の性格からして、投げ出して投降したのではないことはほぼ間違いない。なにか任務があったとか、なにか画策するものがあってぎりぎりまでとどまってるうちに、もう箱館へは向かえなくなったとしか思えない。
何があったんだろうなあ・・・。
つまり、柴誠一は榎本軍の構成員でありながら、箱館に行っていません。それなのに例の選挙では得票しています。いない人に入れるやつもどうなんだって話だが、人望があったのでしょう。
その第二長崎丸の引き上げ品にこんな↑洋食器があります(江戸東京博物館収蔵。展示はされてないみたいです)。
やっぱオサレだわあ、幕府海軍。