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長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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宮古湾海戦異聞~もう一つのアボルダージュ

2011年03月25日 | ★松岡磐吉・旧幕府海軍・箱館等
今日、3月25日は宮古湾海戦があった日(そりゃま、旧暦だから厳密には違うけどさ)。

宮古湾海戦といえば、次のような知識が一般的でしょう。
「新政府の甲鉄艦を奪取(あるいは撃沈)するべく、箱館政府の回天・蟠龍・高雄の3艦が出撃したが、
 嵐で離散・故障してしまい、結局回天のみでアボルダージュ(接舷攻撃)を敢行した。
 しかし接舷斬り込みは失敗に終わり、艦長の甲賀源吾も戦死した」


では、その後何が起きたか、ということになると、これってあまり書かれていませんよね。

甲鉄・春日など新政府の艦は、蒸気機関が動き始めるのを待って、追撃に移りました。
そりゃそうだよね、やられっぱなしで済ませるはずがない。

高雄(古川節蔵艦長)はそれに発見され、汽罐故障のため逃げ切れず投降。
回天は荒井郁之助が艦長代理を務めながら箱館に戻る途中、蟠龍と出会い、
「箱館の防衛が手薄なので、至急戻れ」
と命令して、速力の遅い蟠龍を置いて(追記:信号による意見交換で蟠龍が曳航を断った)先に北上しました。


で、蟠龍です。
そうです、アタシノ松岡磐吉艦長ですッッ ←
なんと、この人、追跡してきた甲鉄を相手に、蟠龍でアボルダージュをしようとしていました!

何度か登場した、林董(はやしただす、のちの外務大臣・伯爵。当時10代で蟠龍には勝手にもぐりこんでいたw 当時の名は董三郎)の40年後の談話です。
「史談会速記録 明治42年11月16日午後3時」という記録より、抜粋します。
これは口語なのでそのまま載せようかと思ったのですが、言い回しが昔風すぎてピンと来なかったり、センテンスがやたらと長かったりするので、やはり現代語訳にしてみます。

蟠龍は、はぐれた時はここで待つと決められていた鮫浦港で待っていたのですが2艦とも来ない…という状況の時のこと。
もちろん既に海戦が行われたことは知る由もありません。

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風も凪いだので、約束通り鮫浦に行ってみたが、他の艦は来ていません。
しかし、かなたに煙が見えるので、
「何かの合図だろう、ここで安閑と待っているわけには行かない。命令を受けて来たからには箱館に引き返すことも、無論ならない。となれば、命令どおり宮古へ行かなければならない」
として、艦長松岡磐吉は南に進路をとり、宮古へ近付いていきました。

すると煙が上がるのが見え、回天がやってきました。
この回天と言う艦は、元はイギリスのイーグル号という船で、セバストポールの戦にも出た古い船です。
私も箱館戦争ではこれに乗っていましたが、弾があたったところに手を入れてみれば、もう木が朽ちていて手でつかめるような有様でした。

この回天に、艦隊司令長の荒井郁之助が乗っており、他の艦が見えなかったので単独で宮古に乗り入れ、甲鉄を奪おうとしておよそ3、40分激戦しましが、艦長の甲賀源吾をはじめ、だいぶ大勢戦死してしまったといいます。ある本には戦死16名、負傷30余名ともあります。

荒井は「箱館の防御が手薄いから、直ちに帰還せよ」という命令を出し、7ノットの速度でどんどん行ってしまいました。
蟠龍は3~4ノットしか出ません。尻矢崎の近くまで戻ったとき、後ろに2本マストが見えました。
「高雄だろう」と思っていたところ、近付いて来るのを見ればなんと甲鉄です。

私は若い時のことでもあり、あまり死ぬことは怖いと思わなかったのですが、その時はぎょっとするほど怖かった。
松岡と言う人は落ち着いた人でしたから、
「君たちは頭が見えないように、甲板に伏せていなさい。
側まで乗りつけたら私が合図をするから、その時甲鉄に飛び乗るがいい」

と言います。

それから松岡は艦長室に入って顔を洗い、シャツなどを着替えて悠然としているのです。
「今日は死ぬつもりだから、艦長として見苦しくないように洒落ています」
と冗談を言っていました。
そんな様子だったので、一時騒々しかった船員もみんな落ち着きました。

甲鉄はだんだん近付き、かの有名な300ポンド砲が今にも火を噴くかと思っていると、天の助けか、ひどく風が出てきました。
波が高くなると、甲鉄は船べりが低いので波が打ち込み、操艦性が悪くなって砲撃ができないのです。
速力はあるのですが、働きが不十分と言うわけです。

蟠龍の方はマストが長いので、ふだんは4ノットくらいでも、帆をあげれば7ノットから8ノットくらいで走るのです。
「これならば」と松岡艦長は帆をあげさせて、箱館に逃げることができました。

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驚いたのは、赤文字の部分!

甲鉄艦相手に、蟠龍一艦で接舷攻撃をしようとしていたとは。
そんな超ツボに来る話、誰も書いてくれてないじゃないですかぁぁ!ひゃーっ♪

もちろん、成功するとは思ってないでしょう。
もともとのアボルダージュの作戦は、「蒸気も炊かず、甲板上にも当直くらいしかいない」という状態の甲鉄に接舷して斬り込み、ハッチを閉鎖し、舵を奪うというもの。

蟠龍を追ってきた甲鉄は、蒸気もガンガン炊いているし、当然戦闘要員は甲板に充満していたはず。
でも、何もしなくても砲撃で木っ端微塵にされることは火を見るよりも明らかだから、それならやるだけやって死のうじゃないかということなんでしょう。

もともとの計画では、蟠龍と高尾が両側から接舷して斬り込み、回天は総指揮と援護射撃、ということでした。
だから蟠龍には新選組と彰義隊が乗ってました。
土方歳三は検分役ということだったので、旗艦である回天に乗ってましたが)

この新選組・彰義隊の隊士たちをギリギリまで甲板に伏せさせ、接舷したら移乗、斬り込みをしようと言ってたんですねー。
びっくりしました。
かっけーーー、かっけーぞ松岡ぁぁ!

もし実現していたら、松岡自身も剣を抜いて斬り込んでいたでしょう。
もう帰ることはないのだから、操艦なんてどうでもいい。
松岡は神道無念流の皆伝だったともいいます。
きーーー。超かっけえええーーーーーーーッッ
生粋の武士でもなんでもないんですけどねー!

結果的には、神風のごとき風が吹いたために、快速ヨットの性能を発揮して疾走して帰投することができ、アボルダージュはしなかったのですが、驚きましたー!
知られていないけれど、「もうひとつのアボルダージュ」というわけです。




それはいいが、ばんちゃんのセリフが原文では
「君達は頭の見えない様に、船の上に伏してお出(い)でなさい、側迄乗附けたら私が合圖をするから、其の時甲鐵へ飛乗るが宜(よろし)い」
で、水戸黄門っぽいwwww とピグで大うけwwwwwwwww
「格さん、懲らしめておやんなさい」みたいだとwww
絶対砲撃中止の時なんかは「永倉君、木村君(←砲手)、もういいでしょう」とか言いそうだw

これはの談話なので、もちろん本当のセリフがこの通りだったかどうかなんてわからないのですが、どう考えても、松岡ってえっらい丁寧な、おっとりしたしゃべり方をする人だったんじゃないかと思うwww
しゃべり言葉をもう一度伝える時って、こまかい言い回しは変わっても、言い方なんかはけっこうオリジナルを残してると思うんですよね。

この林董の講演、中島三郎助のかっけー話なんかも出てくるし、かなり面白い。
ていうか「史談会速記録」自体がまた美味しすぎる本なんですよねー。
田村銀之助が語る伊庭八郎とかさ。
あの食いしん坊万歳イバハチとは別人のようにかっこいいw
くーっ。家にほしいわ、史談会と旧幕府と同方会…(・ε・)  (追記:同方會はその後全巻買ったわい)


あっそーだ。
ちなみに追撃した春日は、蟠龍を見つけそこねて追い越してしまい、甲鉄は甲鉄で上記のとおり蟠龍に逃げられ…。
「なんであんなちっこい船一隻沈められんのか」って怒られたかもねー。やーいやーい ←
5月11日にはつくづく「あん時沈めとけば」って思っただろうなあ。





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