長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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吉田稔麿と屠勇隊

2009年09月12日 | ★幕末維新の長州
吉田松陰誕生地は、松下村塾(松陰神社)の側の小道を山登りしたところにあります。
チャリで行くと、多少根性が要ります(なので今回は車で行った)。

その途中、まず目に入るのがこれ。



いや、としまるじゃないから…
残念ながら、なんも残っていません。この石碑と説明板だけです。


↑あ。新選組のセンの字が「撰」だ~。


これを過ぎると伊藤博文(俊輔)旧宅が残ってます。
このあたりに、山田顕義誕生地もあります(行き着いたことがないけど…馬鹿には見えないとかなのかっっ?

ここらへん、要するに足軽クラスの家があった場所ってことでしょうね。
(松陰先生んちは足軽ではないんですが、火事で焼け出されてここら辺に引っ越してきたそうな)

松下村塾って言っても、要は寺子屋のようなもので、別にハナっから政治的思想をガンガン教え込もうみたいなことで作られたわけではない。
(松陰は2代目であり、創始者でもない)
上士の子どもは藩校、明倫館で学ぶけど、足軽の子はそこらの商家の子などと混じって、近くの寺子屋へ行くわけで、その「近くの寺子屋」が、たまたまモノスゴイところだった、と。
明倫館クラスの家の子なのに、わざわざ遠くから来てたのもいることはいますが、な、高杉晋作
久坂くんちも近くない。

で。

その吉田松陰誕生地の側に一群の墓があります。
これがまあ…そうそうたるメンバーで。
もともとは杉家(松陰)の墓所なんですけど、幕末から明治に、今は亡き門弟がみんな先生の近くに葬られちゃって、「死んでる松下村塾」かここは
招魂墓なのでお骨があるわけではありませんが…。

ここに、吉田稔麿の墓もあります。



贈従四位、まで刻んである。
この人のお墓も、招魂墓を含めてあちこちにあるけど、その一つです。お骨の入ってる本当のお墓はどこなのか知らないんですが。


あ。お墓のしきびがコケてる。気付かなかった。直してくればよかった。
それにしても神式なのにシキビかい…そこはサカキなんじゃ…
あれ、神式なのに線香立てがあるみたいだからいいのか…すごく混ざってる^^;


さて、吉田稔麿というと、諸隊の一つ「屠勇隊」を創設した人です。
屠勇隊は、諸隊の中でも特異な存在でした。
というのは、幕府が定めた被差別階級の人たちの隊だったのです。
被差別階級には、もともと根拠等ない。
(生活が苦しい者の不平を「おまえたちよりももっと下がいる」ということでそらせるために作られたものだと、私は小学校で習いましたが、近年これは否定されてる)
穢多・非人など、名前からして、人間とも思っていないような酷い階級名で呼ばれ、人が嫌がる(でもなくては困る大切な)汚れ仕事をさせられ、さまざまなことを禁じられ、その貧困は戦前くらいまでは家にたたみすらなかったそうです…

そういう人たちから募って作られた屠勇隊は、正直言って他の隊からも差別は受けていたそうな。
しかし、どの戦場でも勇敢に戦ったそうです

まあ、そういう隊を作ってしまったことで、身分制度はまたひとつ壊されていたわけですね~。
(決してその場で消えてなくなったわけではなく、現代でも「あの地区は」というようなことを言う人はいます。
 それでも山口県は他県よりは、部落解放運動が進んでいるらしいです。としまるくんのおかげかもしれません)

この人、死ななかったら総理大臣になってただろうと言われてます。
どういう政治家になったかなあ。


以上、吉田稔麿くんの、ゆりかごと墓場でした(何がじゃ)。



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2 コメント

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Unknown (エノカマ)
2009-09-15 22:25:58
こんばんは!
いつも興味深く記事読ませていただいています。
さて文中にあります吉田稔麿の墓のことですが、先日ちょうど専門の先生に聞いた所
なんですよ!
亡くなったのは池田屋ではなく、稔麿は翌朝早くに出立の予定があって一足先に池田屋の会合
(一般的に古高の奪還計画とされていますが)
を抜けて藩邸に帰ってるんです。
そこに「池田屋襲撃」の報があり、藩邸を抜けて向かおうとした時に警戒中の会津藩兵に
遭遇して、殺害されてしまったんです。
そしてその遺体は藩邸の方に収容されています。
この流れだったら。従来から多い霊山の長州墓地に埋葬されたのではと言うことです
(ちょうど入江や久坂と並んでいる所です)
今、京都・岩倉の三縁寺と言う寺にも宮部鼎蔵、大高又次郎と言った池田屋殉難士の墓と
並んで墓石は建っていますが
そんな経緯なので、こちらは墓標のみだと思われます。

暗殺のころ、稔麿は彼の人脈で悪化する一方の長幕間の折衝に入っていたともされていて
この死はどちらにとっても大変不幸な出来事でした。
Unknown (内藤昶)
2009-09-16 01:05:42
エノカマさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。
私は全然研究家とかではないので、間違ってたらぜひ指摘してくださいね^^;

稔麿の亡くなり方については諸説ありましたが、会津の藩兵の手にかかった説、有力のようですね。
それだったら確かに霊山にお骨がありそうです。

萩の高杉の「墓」にへその緒が入ってるというくらいなので、ほかの人のお墓にも、それぞれ何かゆかりのあるものが入ってるのかなあ・・・。

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