萩行って来ました(またかい。ってか隣の市だが)
有備館の特別公開最終日です。
有備館は、藩校(こういうのが変換の真っ先に出るうちのパソコンは、よく調教されていると思うw)明倫館の中にあった武道場です。
ふだんは非公開。
外観だけ見るにしても、ここは萩市立明倫小学校の敷地内で、最近の防犯事情から、なかなか近くにまでは行けませんでした。
今年の春から何回か日を決めて公開され、今日が最後。
萩博物館の、一坂太郎さんの歴史トークもありました。
「坂本龍馬立志のまち、萩」ってことなんですよ。
文久2年(1862)1月、武市半平太の手紙を久坂玄瑞に渡すために萩にやってきた龍馬。
長州から戻り、突如3月に脱藩。
萩で相当刺激を受けたんじゃないかと一坂さんは話しておられました。
久坂が先生譲りの、ものすごいアツい論を説きまくった
「もーね、諸大名とか公家とかアテにならんでしょ。
自分らみたいなのが力を合わせてやる以外、ないっしょ。
こんなこと言っちゃナンだけど、土佐がつぶれても長州がつぶれても、大きな義の前にはかまわん、つか、しょーがないのよ」
ってやつです。
そしてまた、土佐に帰った龍馬は、長州の熱さや吉田松陰のスゴさを、ものすごいイキオイでみんなにしゃべったであろうと。
のちに武市が獄中で描いた自画像も松陰先生の影響。
中岡慎太郎も松陰の言葉を書き残してる。
土佐人はずいぶん影響を受けてるようだ、とか、そういうお話でした。
龍馬自身、松陰先生の
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむになまれぬ 大和魂」
(あーゆーことすると、こーゆーことになるとわかってたけど、やらんわけにはいかん)
に対して
「かくすれば かくなるものと 我も知る なほやむべきか 大和魂」
と答えていると。
ま、そんなわけで「立志のまち」なんですが、でも、それもいいけど、他藩の人気者を持ち出さなくても、萩や長州全域に、もっともっと知らせて欲しい人材や史跡もいっぱいあるよ…。
それはおいといて。
萩に来た龍馬はこの有備館で剣術をやったのです。
意外と狭い!
町道場くらいしかないっす。
(私が知ってる道場ってのが、165畳ある武徳殿しかないんだけどさ)
ていうか、ここって明倫館に通ってた高杉晋作も使ったんだよね?たぶんね。
よくまあ明治後に建物を壊さなかったなあ。感心
道場らしく、神棚もあっていいなあ、ここ。
ここでトークがあったんですが、行儀悪い私も、道場となると自然に正座してしまう
なんでですかね…なんかが血の中に流れておるのでしょうw
着物を可愛く着たお嬢さんがたは、体育座り!でしたけど
藩校明倫館は、上・中級武士の子どもしか通えなかったけど、それ以下はほったらかしではないんですよ、と一坂さんの話。
ここで学んだ人が私塾を開き、私塾で学んだ人が寺子屋を開き…と、学問はちゃんと広がっていってたそうです。
ちなみに幕末長州の寺子屋の数は1400だそうな。
「コンビニより多いんじゃないですか」と一坂さん。
この教育好き、人材好きは、今の山口県にも続いています。
どーでもいーけど、道場の柱に刀傷
誰だよ、真剣を抜いた上にこんなとこに切りつけちゃったやつは
1ヵ月半ぶりの萩で、またネタを拾ってきたので、おいおい書いて行きたいと思います。
今日山口であった、岩国藩鉄砲隊の演武(というのか?)も見たかったけど、まあ火縄銃だしいいか…と萩を選ぶ私だった。
これが幕末銃だったらヨダレたらして見ますけどっっ
アートふる山口っていう催しの一環なんですが、始まった当初は「オトナのおまつり」という感じでしゃれてて楽しかったこのイベント、今はもう思い切りおこちゃまに迎合して騒がしく、つまんなくなってしまいました…。
残念…。
なイベントがあればいいなあ。
走り回る子どもとか、スピーカーのうるさい音楽とか、そーいうのがないやつ…。
年に1回くらい、いいじゃないね?
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有備館の特別公開最終日です。
有備館は、藩校(こういうのが変換の真っ先に出るうちのパソコンは、よく調教されていると思うw)明倫館の中にあった武道場です。
ふだんは非公開。
外観だけ見るにしても、ここは萩市立明倫小学校の敷地内で、最近の防犯事情から、なかなか近くにまでは行けませんでした。
今年の春から何回か日を決めて公開され、今日が最後。
萩博物館の、一坂太郎さんの歴史トークもありました。
「坂本龍馬立志のまち、萩」ってことなんですよ。
文久2年(1862)1月、武市半平太の手紙を久坂玄瑞に渡すために萩にやってきた龍馬。
長州から戻り、突如3月に脱藩。
萩で相当刺激を受けたんじゃないかと一坂さんは話しておられました。
久坂が先生譲りの、ものすごいアツい論を説きまくった
「もーね、諸大名とか公家とかアテにならんでしょ。
自分らみたいなのが力を合わせてやる以外、ないっしょ。
こんなこと言っちゃナンだけど、土佐がつぶれても長州がつぶれても、大きな義の前にはかまわん、つか、しょーがないのよ」
ってやつです。
そしてまた、土佐に帰った龍馬は、長州の熱さや吉田松陰のスゴさを、ものすごいイキオイでみんなにしゃべったであろうと。
のちに武市が獄中で描いた自画像も松陰先生の影響。
中岡慎太郎も松陰の言葉を書き残してる。
土佐人はずいぶん影響を受けてるようだ、とか、そういうお話でした。
龍馬自身、松陰先生の
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむになまれぬ 大和魂」
(あーゆーことすると、こーゆーことになるとわかってたけど、やらんわけにはいかん)
に対して
「かくすれば かくなるものと 我も知る なほやむべきか 大和魂」
と答えていると。
ま、そんなわけで「立志のまち」なんですが、でも、それもいいけど、他藩の人気者を持ち出さなくても、萩や長州全域に、もっともっと知らせて欲しい人材や史跡もいっぱいあるよ…。
それはおいといて。
萩に来た龍馬はこの有備館で剣術をやったのです。
意外と狭い!
町道場くらいしかないっす。
(私が知ってる道場ってのが、165畳ある武徳殿しかないんだけどさ)
ていうか、ここって明倫館に通ってた高杉晋作も使ったんだよね?たぶんね。
よくまあ明治後に建物を壊さなかったなあ。感心
道場らしく、神棚もあっていいなあ、ここ。
ここでトークがあったんですが、行儀悪い私も、道場となると自然に正座してしまう
なんでですかね…なんかが血の中に流れておるのでしょうw
着物を可愛く着たお嬢さんがたは、体育座り!でしたけど
藩校明倫館は、上・中級武士の子どもしか通えなかったけど、それ以下はほったらかしではないんですよ、と一坂さんの話。
ここで学んだ人が私塾を開き、私塾で学んだ人が寺子屋を開き…と、学問はちゃんと広がっていってたそうです。
ちなみに幕末長州の寺子屋の数は1400だそうな。
「コンビニより多いんじゃないですか」と一坂さん。
この教育好き、人材好きは、今の山口県にも続いています。
どーでもいーけど、道場の柱に刀傷
誰だよ、真剣を抜いた上にこんなとこに切りつけちゃったやつは
1ヵ月半ぶりの萩で、またネタを拾ってきたので、おいおい書いて行きたいと思います。
今日山口であった、岩国藩鉄砲隊の演武(というのか?)も見たかったけど、まあ火縄銃だしいいか…と萩を選ぶ私だった。
これが幕末銃だったらヨダレたらして見ますけどっっ
アートふる山口っていう催しの一環なんですが、始まった当初は「オトナのおまつり」という感じでしゃれてて楽しかったこのイベント、今はもう思い切りおこちゃまに迎合して騒がしく、つまんなくなってしまいました…。
残念…。
なイベントがあればいいなあ。
走り回る子どもとか、スピーカーのうるさい音楽とか、そーいうのがないやつ…。
年に1回くらい、いいじゃないね?
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