福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

真夜中にライプツィヒからの吉報

2018-09-29 02:45:43 | コンサート


真夜中にライプツィヒ・バッハ・アルヒーフよりの吉報届く。
余りに素晴らしいニュースだったゆえ、いち早く知らせるべく、敢えて日本時間の深夜2時であっても電話したのだとか。



主任牧師様も我々の演奏に感動した上、オーケストラ、ソリスト陣ともども演奏の質の高さを讃え、さらに聴衆からの献金も半端ない数字が集まった。これは、余程聴衆が心動かされたのでなければ考えられない数字とのこと。

上記をふまえ、この度、福島章恭、および大阪フィルハーモニー合唱団宛に聖トーマス教会からの正式な感謝状が出されることになったというのである。

バッハの墓前にて、またとない体験をさせて頂き、感謝すべきはこちらのところ、誠に有り難いことである。



写真は、終演後の打ち上げにて、ザクセンバロックオーケストラ、コンミスのカテリーナ・アレントさん、代表のハルトムート・ヴェッカーさんとともに。
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ロ短調ミサ 公演 成功裡に終わる!

2018-09-26 01:47:02 | コンサート


トーマス教会に於けるロ短調ミサ公演、終わりました。
筆舌に尽くしがたいほど素晴らしいコンサートとなりました。



終演後、礼拝堂に降りると初老の男性に「本当に感動的だった。有り難う」と握手を求められました。聞くと、少年時代にトマーナコーアの団員だったとのこと。
「ギュンター・ラミン、クルト・トーマス、マウエルスベルガー、ロッチュを愛しています」と歴代のトーマス・カントルの名を挙げながら返事をしたところ、「あなたは、ギュンター・ラミンをしっているのか!」と嬉しそうに驚いておられました。





打ち上げパーティーの席上、ザクセンバロックオーケストラのリーダー、ハルトムート・ベッカーさんより、「素晴らしいコーラスだった。大阪フィル合唱団とはまた共演したい」とのお言葉を頂戴し、感激を新たにしたところです。

さて、先ほど二次会より部屋に戻り、ただいま午前2時。そろそろ眠ります。
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聖トーマス教会「ロ短調ミサ」オケ合わせ終了!

2018-09-24 22:00:24 | コンサート


今夕は、本番の会場である聖トーマス教会にて、4名のソリスト、およびザクセンバロックオーケストラとともに、待望のオーケストラ合わせ。



ザクセンバロックの妙なる響きに、大阪フィル合唱団も力を貰って、たいへんに素晴らしい演奏が展開されました。





明日25日は、午後のゲネプロを経て、19:00にはいよいよ開演です。本日、ここまでできれば、本番の成功は間違いなし、と言ってしまってもよいでしょう。楽しみになってきました。



豪華ソリスト陣は以下。

ソプラノ:ゲジーネ・アドラー http://www.gesineadler.de

カウンターテナー:ダーフィット・エルラー https://daviderler.de

テノール:トビアス・フンガー http://www.bach-cantatas.com/Bio/Hunger-Tobias.htm

バス:トビアス・ベルント https://www.tobiasberndt.com



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聖トーマス教会にて合唱稽古!

2018-09-24 00:26:47 | コーラス、オーケストラ


大阪フィル合唱団のメンバーとともにベルリンよりライプツィヒに到着。
今宵は、トーマス教会にて、オルガンによるコーラス稽古。

こんな素晴らしい場所で稽古をさせて頂けるとは何という贅沢、コーラス一同、まことに幸せ者です。



皆さん、長旅の疲れを物ともせず! と言いたいところ、さすがに若干の疲れは隠せかった模様。明日のオケ合わせ、明後日の本番と、ボルテージを上げていきましょう。



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素晴らしきハーディング&ベルリン・フィル のブルックナー5番

2018-09-22 21:47:24 | コンサート


4日連続ブルックナーを実演で聴くのも生まれてはじめてのことだが、わずか4か月のうちに、ベルリン・フィルのブルックナーを二度聴くというのも稀少な体験であろう。

6月にコンセルトヘボウで演奏されたラトル指揮の「9番」は、当ブログにも書いたとおり、音の暴力とも呼べるまったくひどいものだったが、ハーディング指揮による「5番」は文句なしに素晴らしかった。(9月21日、22日、23日の3公演の本日は中日)。

第1楽章は力強い場面より弱音の美が光った。フォルティシモこそ、ハーディングの力の入ったタクトにベルリン・フィルが反応しすぎて、無機的なサウンドとなることもあったが、メゾピアノからピアニシモに至る段階の無限さ、弦を中心とする繊細な表現には全く恐れ入った。レガートを駆使したクライマックスもお見事。

第2楽章になるとフォルテもまろやかとなり、滔々たるブルックナー・サウンドに身を浸す至福に酔ったものだ。

しかし、当夜の白眉は、スケルツォ以降にあった。ベルリン・フィル生来の気品を壊さない範囲で、些か粗野な民俗的舞踊が躍動し、それがなんとも言えない魅力で迫ってくる。主部ラストの只ならぬ高揚感は、トリオの融通無碍さと好一対であった。

フィナーレはさらにその上をゆく。
フーガ主題で、アクセントのある音、抜く音を徹底させた結果、立体的かつすべての綾が透けて見えるようなテクスチュアの妙を聴かせた。
弦も歌うべきときは、ここぞとばかりにヴィブラートをかけ、静謐な場面では抑制されたヴィブラートでもって、一本の張りつめた銀糸のような美を創出する。
クライマックスに至るまでの伏線の張り方は心憎いばかりで、コーダに於ける輝かしさ、力強さは、まさに王者の音楽であった。



ゲルギエフを3夜つづけて聴いた直後に痛切に感じたのは、ハーディングの精神と肉体の健全さ、そして誠実さだ。

常に腰をくの字に折り曲げつつ、顔面はスコアに埋め、さらに両腕も思い切り広げられることもなく、アクションは唐突で、指先を常にチョロチョロ蠕動させるゲルギエフの指揮は、視覚的にオーケストラのプレイヤーにどう写っているのかは知らないが、少なくとも聴衆のひとりであったわたしの心身を伸びやかにはしてくれなかった。そのことを、ハーディングの爽やかな指揮姿を見ながら悟ったのである。



ハーディングをヨーロッパで聴いたのは二度目。最初はウィーン・ムジークフェラインにて、ウィーン・フィルを振ったマーラー10番だった。いつだったか記憶が定かではないのがもどかしい。もしかすると、ハーディングのウィーン・フィル・デビューの演奏会だったのかも知れない。

あのとき、演奏はともかく、ウィーン・フィルを前に緊張気味で、やや遠慮がちに見えたハーディング。当然ながら、今宵の自信に溢れた指揮姿とは別人のようであった。今後のさらなる円熟、成熟を期待するとともに、ブルックナーの他のナンバーも聴きせて欲しいと願うものである。




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期待外れに終わったゲルギエフのブルックナー8番

2018-09-21 21:59:09 | コンサート


「2番」の好演から大いに期待された「8番」であったが、結果は今ひとつであった。

もっとも、特別な凡演というわけではない。随所でオーケストラがよく鳴っていたことも含め、普通に良い演奏と呼ぶことはできようが、チェリビダッケ、ヴァント、マタチッチ級の特別なブルックナーとして語ることはできないのである。

両端楽章で顕著だったのは、第1主題、第2主題、第3主題のキャラクターの描き分けが弱いこと。ゲネラルパウゼ後もそれ以前と同じ空気感で進行してしまうので、ブルックナー特有のオルガン的な構成美が見えてこない。

第3楽章では、ビッグバン的なクライマックスへ至るゼクエンツ、その積み重ねのプロセスが脆弱で、いつの間にかシンバルが鳴っていたという、呆気なさがあった。

さらにフィナーレのコーダの加速は、いかにも唐突で、音楽から気品を奪っていた。最後のミレドが腑抜けた感じだったことは、赦すとしても。

しかし、なにより、全曲を貫く大きな柱に欠けること。ブルックナー作品に於ける絶対的造物主への畏敬、神秘性、大自然の息吹、宇宙の鼓動などを一切思わせることなく、単なる音響美の追求となっていたことなどが、根本的な欠陥なのだろう。このあたり、「2番」では通用しても、「8番」には歯が立たないところ。音楽の深さ、高さが桁違いなのだ。

また、一昨日の「9番」同様、まだゲルギエフが作品をモノにできていないのでは? という疑念も残る。良い部分と凡庸な部分の継ぎ接ぎ感があったり、有り得ない振り間違いから、アンサンブルの乱れた、或いは乱れかけた箇所がいくつかあったことは事実である。

聴衆はかなり熱狂していたが、あんなに持て囃しては、演奏者のためにならないように思うのだが・・。



写真は開演間際までさらう、ミュンヘン・フィルのコントラバス軍団。こういう光景はなかなか良いものだ。



さて、明朝はいよいよベルリンに飛び、後発の大阪フィル合唱団と合流となる。夜はベルリン・フィルハーモニーにて、ハーディング指揮のブルックナー5番を鑑賞予定。

4夜続けてのブルックナー鑑賞とは、全くの偶然であるが、なかなか体験のできないことである。来年6月に行われるブラームス「ドイツ・レクイエム」公演の会場下見も兼ねて、出掛けてこよう。
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ガスタイクの印象

2018-09-21 13:07:45 | コンサート


「残響が少なく、音響的にはよろしくない」
というのが、事前に聞いていたガスタイクの評判である。

しかし、少なくとも、わたしの座席、即ちGブロック右サイドの最前列(ちょっと乱暴だが、サントリーホールでいうと2階センターブロックのかなり右寄り)で聴く限り、ブルックナーでの音は素晴らしく、大いに満足した。



このように、舞台下手後方、わたしのほぼ正面にコントラバスが配されていたこともあり、音響のピラミッドに於ける基礎というか底辺が、常に明瞭に聴こえたことが大きい。

反対にステージ上手寄りの第2ヴァイオリンやヴィオラの音は、やや弱くなってしまうのだが、鑑賞に支障をきたすほどの疵ではなかった。それよりも、弦楽器、管楽器、打楽器を問わず、すべてのパートが混濁することなく聴き分けられ、さらにひとつのサウンドとして調和している点に感銘を受けたのである。

チェリビダッケのブルックナーが、ここにどんなに神々しく響いたかと、想像するだけで、胸が熱くなったほど。



ところが、モーツァルトとなると話は違ってくる。金管とティンパニの居ない「40番」だから尚更だったのかも知れないが、終始、弦楽器のセクションが遠く、薄く聴こえるため、「なるほど、こう来たか」と感心はするものの、大きな感銘にまでは至らないのだ。

いずれにせよ、平戸間でどう響くのか、実質二階のセンターブロックの後ろ寄りや更に後ろのブロックならどうなのか? などは、一切分からない。



それにしても、左右非対称という、最近流行のホールの形状は、座っていてどこか落ち着かないものだ。

また、入口から客席に至るまでの階段の多さには閉口する。エレベーターもあるにはあるのだが、客席数に比すると全く非力であるし、そもそも目立たない位置にあるため、見つけにくい。事実、杖をつきながら、苦しそうに階段を昇るご老人の数は、ひとりやふたりではなかった。



トイレも地階のクローク横か最上階サイドにしかないため、Gブロックのあるフロアから出掛けるのは、まるで小旅行のような趣ですらある。

まあ、その地階に向かう階段の踊場で、チェリビダッケ像に出会えたのだから、文句も言えないかな。


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ゲルギエフ&ミュンヘン・フィルのブルックナー2番

2018-09-20 22:38:48 | コンサート


今宵のブルックナーは素晴らしかった。隅々にまで、ゲルギエフの意思が通い、昨夜とはまるで違う自信に溢れたブルックナーとなった。

どこを切り取っても、生気に満ちた推進力のある音楽で、フレーズに気が通い、すべての和声に意味深さがあった。さらには、ミサ曲第3番からの引用箇所には静かな祈りすらあった。

ミュンヘン・フィルの弦楽セクションに於けるピラミッド型の音バランス、木管の涼やかな詩情、時に輝かしく、時に深々とした金管群、激しく打ち込むティンパニなど、ステージ上のすべてがブルックナーの美に貢献しているという光景は、何という至福であろう。



今宵の演奏に注文を付けるとするなら、スケルツォのラスト。ティンパニによる強打の直前の沈黙に、あとほんのひと呼吸の溜めが欲しかった。さらにその後のトゥッティに、もう1目盛上の高揚が欲しかった、というささやかなもの。それほどまでに素晴らしいブルックナーだったのである。我がブルックナー人生に於いても記憶に残るものとなりそうだ。

前プロのモーツァルト「40番」については、語らなくともよかろう。一言だけ述べるなら、第3楽章メヌエット以降、グンと良くなった。

なお、プログラム的には地味な「2番」ということで、昨夜より客足の鈍ることを心配していたが、意外にも今宵の方が座席は埋まっていた。モーツァルト効果なのか、シリーズ別の定期会員数の違いなのか、理由は分からない。






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フェルメール「青衣の女(手紙を読む女)」との再会

2018-09-20 15:35:52 | 美術


大阪フィル合唱団とのライプツィヒ公演に先立つミュンヘン訪問は、ただただゲルギエフ&ミュンヘン・フィルのブルックナーを聴くのが目的。クナッパーツブッシュの墓参さえしてしまえば、観光の類は一切必要ないのだが、市内交通機関の3日間チケットもあることだし、清掃の時間に部屋を空けなければいけないし、とのことで、トラムに乗り込み、アルテ・ピナコテークという歴史ある美術館に出掛けてみた。



まさか、ここで再会できると思っていなかったのが、去る6月にアムステルダムで拝んだばかりのフェルメール「青衣の女(手紙を読む女)」である。今月末までの特別展示がされていたのだ。



それにしても、フェルメール前のこの静けさよ。日本だったら黒山の人集りとなること必至だが、実にゆったりとした気持ちで鑑賞することのできたのは有り難い。











その他、ラファエロ、レンブラント、ルーベンス、ファン・ダイク、ティツィアーノ、ピーテル(父)・ブリューゲル(順不同)など、半日では堪能しきれないほどの作品が展示されていたが、すべてに真剣に対峙すると疲れてしまうので、流すべきは流してホテルに戻った次第。

夜のブルックナーに備え、しばしの休息だ。


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ゲルギエフ ブルックナー3夜連続演奏会 初日

2018-09-20 08:31:15 | コンサート


ゲルギエフ&ミュンヘン・フィルのブルックナー3夜連続演奏会。

初日「9番」の前プロは、ベルント・アロイス・ツィマーマンの「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」。



結果的に、この前半が、昨夜のクライマックスとなった。

「2人の話者、バス独唱、オーケストラのための福音宣教的アクション」との副題が添えられており、テクストは旧約聖書「伝道者の書」により、一部ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第2部・第5篇「大審問官」からも採られている。

何という衝撃的な音楽だったろう。
否、音楽という括りには収まり切れない、演劇的要素も含んだ時間と空間の前衛芸術。
痛切なホーン・セクションの叫び、心の苦しみを抽出したかのような弦楽器群、肺腑を抉る打楽器群はまさに慟哭。

2人の話者の言葉は放たれた矢のように、或いは機関銃のように聴衆に迫り、バス歌手は歌い、語り、嘆きながらも、遂には存在そのものが絶望の涙となる。

悲劇的なラストが訪れる。
金管群によりコラール「我は足れり」が奏され、不協和音に満ちた世の中が平安となり、希望が訪れたかと思いきや、突如断ち切られ、暴力的に閉じるのだ。

ツィマーマンは、この作品を書き終えた5日後に、拳銃自殺を遂げたという。人に理解されず、世に受け入れられないことに苦悶した作曲家の魂は、果たして救われたのだろうか?

ふたりの話者とバス歌手は、絶賛に価する超絶のパフォーマンス。さらに、この難解なスコアを音にしたミュンヘン・フィルの底力には圧倒された。

Georg Nigl, Bariton
Michael Rotschopf, Sprecher
Josef Bierbichler, Sprecher

Leitung: Valery Gergiev

Eine Produktion der Münchner Philharmoniker in Zusammenarbeit mit Berliner Festspiele/Musikfest Berlin anlässlich des Bernd Alois Zimmermann Jahres 2018

(MPhil)



メインのブルックナーについては、これから「2番」「8番」と聴くので、多くは触れないでおこう。

ただ、ひとつ感じた疑問は、ゲルギエフが未だブルックナーを自らの音楽とできてはいないのでは? ということである。

トゥッティでガンガンいくところは、凄まじい音響が現れる(流石、ミュンヘン・フィルはブルックナーをよく知っている、と思わせる)のだけれど、ゲルギエフが確信を持って振れていないだろう箇所で、オーケストラは度々乱れるなど、全体に緩いアンサンブルとなっていた。

何より、チェリビダッケのような至高の美学、ヴァントのような徹底的な構築美、というような、ゲルギエフ独特の何か、が感じられなかったのが、惜しまれる。

しかし、これは、時差ボケの解消されないわたしの第一印象。今宵の「2番」、明晩の「8番」で、わたしの感じ方を覆してくれることを期待したい。


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