福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

素晴らしきハーディング&ベルリン・フィル のブルックナー5番

2018-09-22 21:47:24 | コンサート


4日連続ブルックナーを実演で聴くのも生まれてはじめてのことだが、わずか4か月のうちに、ベルリン・フィルのブルックナーを二度聴くというのも稀少な体験であろう。

6月にコンセルトヘボウで演奏されたラトル指揮の「9番」は、当ブログにも書いたとおり、音の暴力とも呼べるまったくひどいものだったが、ハーディング指揮による「5番」は文句なしに素晴らしかった。(9月21日、22日、23日の3公演の本日は中日)。

第1楽章は力強い場面より弱音の美が光った。フォルティシモこそ、ハーディングの力の入ったタクトにベルリン・フィルが反応しすぎて、無機的なサウンドとなることもあったが、メゾピアノからピアニシモに至る段階の無限さ、弦を中心とする繊細な表現には全く恐れ入った。レガートを駆使したクライマックスもお見事。

第2楽章になるとフォルテもまろやかとなり、滔々たるブルックナー・サウンドに身を浸す至福に酔ったものだ。

しかし、当夜の白眉は、スケルツォ以降にあった。ベルリン・フィル生来の気品を壊さない範囲で、些か粗野な民俗的舞踊が躍動し、それがなんとも言えない魅力で迫ってくる。主部ラストの只ならぬ高揚感は、トリオの融通無碍さと好一対であった。

フィナーレはさらにその上をゆく。
フーガ主題で、アクセントのある音、抜く音を徹底させた結果、立体的かつすべての綾が透けて見えるようなテクスチュアの妙を聴かせた。
弦も歌うべきときは、ここぞとばかりにヴィブラートをかけ、静謐な場面では抑制されたヴィブラートでもって、一本の張りつめた銀糸のような美を創出する。
クライマックスに至るまでの伏線の張り方は心憎いばかりで、コーダに於ける輝かしさ、力強さは、まさに王者の音楽であった。



ゲルギエフを3夜つづけて聴いた直後に痛切に感じたのは、ハーディングの精神と肉体の健全さ、そして誠実さだ。

常に腰をくの字に折り曲げつつ、顔面はスコアに埋め、さらに両腕も思い切り広げられることもなく、アクションは唐突で、指先を常にチョロチョロ蠕動させるゲルギエフの指揮は、視覚的にオーケストラのプレイヤーにどう写っているのかは知らないが、少なくとも聴衆のひとりであったわたしの心身を伸びやかにはしてくれなかった。そのことを、ハーディングの爽やかな指揮姿を見ながら悟ったのである。



ハーディングをヨーロッパで聴いたのは二度目。最初はウィーン・ムジークフェラインにて、ウィーン・フィルを振ったマーラー10番だった。いつだったか記憶が定かではないのがもどかしい。もしかすると、ハーディングのウィーン・フィル・デビューの演奏会だったのかも知れない。

あのとき、演奏はともかく、ウィーン・フィルを前に緊張気味で、やや遠慮がちに見えたハーディング。当然ながら、今宵の自信に溢れた指揮姿とは別人のようであった。今後のさらなる円熟、成熟を期待するとともに、ブルックナーの他のナンバーも聴きせて欲しいと願うものである。




コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 期待外れに終わったゲルギエ... | トップ | 聖トーマス教会にて合唱稽古! »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。