◆2018年4月24日(火)川口リリア・音楽ホール 19:00開演(開場18:30)
【オール W.A.モーツァルト・プログラム】
4手のためのピアノ・ソナタ ハ長調 K. 19d
4手のためのピアノ・ソナタ ニ長調 K. 381/123a
ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調K. 576 (グリゴリアン)
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ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調K. 330/300h (ピリス)
4手のためのピアノ・ソナタ ハ長調 K. 521
ピリス現役最後の姿を脳裏に焼きつけるべく川口リリアホールに向かった(26日の浜離宮公演には行けないため)。
オール・モーツァルト・プログラムで、今宵はソロではなく、弟子のリリット・グリゴリアンとのデュオ・リサイタルである。
結論を述べると、サントリーホールでの2夜を越える体験とはならなかった。
第一に共演者グリゴリアンとピリスの芸格に差がありすぎたことだ。
グリゴリアンのピアノは、よく言えば雄弁だが、表現過多。
上半身を大きく動かしながらのダイナミックな身振りから生まれる音楽は、あまりにも威勢が良くて、モーツァルトの音楽に備わる陰影というものが吹っ飛んでしまっている。
グリゴリアンが上声部を弾いたK.19dを弦楽四重奏に喩えるなら、経験豊かな渋いヴィオラ、チェロの上で、やんちゃなヴァイオリン2人が怖いもの知らずにガンガン弾きまくっているといった有様なのだ。
残るK. 381/123a と K. 521では、ピリスが上声を受け持ったため、そこまでの違和感は覚えなかったが、2人の奏者がお互いに高め合う、というようなデュオの醍醐味には遠かった。グリゴリアンの方からピリスに何か、霊感らしきものをもたらすということがなかったためだろう。
というわけで、休憩後のピリスのソロを楽しみにしたものだが、それもサントリーホールでのパフォーマンスに較べると精彩を欠いていた。重たいプログラムによる一連のリサイタルやNHK交響楽団との共演を終えて、お疲れがでたのか、緊張の糸が切れたのか、あるいは、グリゴリアンと同じ舞台に乗ることで集中を殺がれたのか、その全てなのか分からないが、特に第1楽章ではミスタッチも多く、演奏に精気が感じられなかった。第2楽章以降、ようやくピリスの本領は発揮されかけたが、その時間はあまりにも短かったのである。
さて、本コンサートには、演奏以外の点で、いくつか不満がある。
第1にステージマネージャーらしきものの不在。
デュオとソロの変わり目で、ピアノ椅子や譜めくり椅子を奏者2人が自ら移動させていたのは如何なものか?
手作りのコンサートらしくて微笑ましいと思えなくものかったが、見た目に美しいとは言えなかったと思う。
第2にソロの曲で残りの1人がステージ下手奥の椅子に座して聴くという演出について。
グリゴリアンのソロの時は、弟子の演奏を温かく師が見守るという体で不自然さはなかった。むしろ、グリゴリアンの演奏に不足するものを端正な姿勢で座すピリスの存在感が補ってさえいた。
ところが、ピリスの演奏時にはグリゴリアンの姿が視界に入ることが煩わしい。聴衆はピリスの音楽に没入したいのだ。
師の演奏を聴くのに(増して、聴衆の面前で)ガバッと足を組むというのもどうかと思うが、師が第1楽章を演奏している間に、ペットボトルから紙コップに水を注いで飲む、というのはいかにも品のない行為だと思われる。芸風そのものといえば気の毒ではあるが・・。
第3に譜めくりの人選ミスについて。
譜をめくるタイミングが早すぎたり、遅すぎたりで、明らかに2人の奏者への妨害となっていたし、聴衆からしても、「次は上手くめくるだろうか?」と心配になって気が気でない。
もう少し音楽を知る経験豊富な人材は居なかったのだろうか?
ピリス、日本での最後のステージとなる浜離宮ホールの公演は、美しいものであって欲しい。
もし、関係者が拙文を読んでくれたなら、上記の問題点を改善して頂きたいものである。