大阪フィル2017/2018シーズン 定期演奏会・自主公演ラインナップ
ようやく解禁となりました!
身内の贔屓目抜きにも、魅力的な公演が目白押しだと思います。
http://www.osaka-phil.com/news/detail.php?d=20161129
そのうち、確定している大阪フィル合唱団の出演は以下となります。
演奏時間の短い作品とはいえ、エリシュカ先生との再会、音楽監督就任直前の尾高先生との「第九」。臨時団員を募集して大々的に歌い上げる大植先生との「カルミナ・ブラーナ」。そして、井上先生の十八番ショスタコーヴィチ!
しかし、なんといっても、最大の山場は、井上道義先生とのバーンスタイン「ミサ曲」でしょう。これは、とんでもないことになりそうです。
第507回定期演奏会
2017年4月25日(火)19:00開演 26日(水)19:00開演
指揮:大植英次
ソプラノ:森麻季
テノール:藤木大地
バリトン:与那城敬
合唱:大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指導:福島章恭)
児童合唱:大阪すみよし少年少女合唱団
曲目:
ベートーヴェン/交響曲第7番 イ長調 作品92
オルフ/世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」
第512回定期演奏会
2017年10月19日(木)19:00開演 20日(金)19:00開演
指揮:ラドミル・エリシュカ
ソプラノ:木下美穂子
バリトン:青山貴
合唱:大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指導:福島章恭)
曲目:
ドヴォルザーク/テ・デウム 作品103
ドヴォルザーク/交響曲第6番 ニ長調 作品60
第516回定期演奏会
2018年3月9日(金)19:00開演 10日(土)15:00開演
指揮:井上道義
ピアノ:アレクサンデル・ガジェヴ
合唱:大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指導:福島章恭)
曲目:
バーバー/ピアノ協奏曲 作品38
ショスタコーヴィチ/交響曲第2番 ロ長調 作品14「十月革命に捧げる」
ショスタコーヴィチ/交響曲第3番 変ホ長調 作品20 「メーデー」
第9シンフォニーの夕べ
2017年12月29日(金)19:00開演 30日(土)19:00開演
会場:フェスティバルホール
指揮:尾高忠明
独唱:(未定)
合唱:大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指導:福島章恭)
曲目:
ベートーヴェン/交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付」
創立70周年特別企画
第55回大阪国際フェスティバル2017
バーンスタイン「ミサ」
2017年7月14日(金)19:00開演 15日(土)14:00開演
会場:フェスティバルホール
総監督/指揮/演出:井上道義
ミュージック・パートナー:佐渡裕
美術:倉重光則
照明:足立恒
振付:堀内充
[キャスト]
司祭:大山大輔 ほか ソリスト16名
合唱:大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指導:福島章恭)
ボーイソプラノおよび児童合唱団(公募によるオーディション)
長岡のモツレク。
いよいよポスターとチラシが完成しました。いちだんと気合いが入ります。
チケット発売は12月17日(土)。
合唱団員数100余名のところ、長岡リリックホールの座席数は700ということで、完売は必至でしょう。ご希望の方はお早めにお申し込みください。
モーツァルト レクイエム 長岡演奏会
モーツァルト
交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」
レクイエム 二短調K.626
日時・2017年3月5日(日) 14:00開演
会場・長岡リリックホール
全席指定 ¥3,000
ソプラノ: 高橋絵理
メゾ・ソプラノ: 山下牧子
テノール: 大槻孝志
バリトン: 山下浩司
長岡アマデウス合唱団
長岡アマデウス管弦楽団(コンサートマスター: 崔文洙)
赤坂・サントリーホールの仇をドレスデン・ゼンパーオパーで討つ?
先日の「ラインの黄金」座席選び失敗を、ドレスデンの「リング」全曲で挽回するほかない、と思い始めている。それほどの痛恨なのだ。あの日、このパンフレットを受け取るために出掛けたのだといえば、自分に申し訳が立つではないか。
2つのチクルス、2018年1月13日~20日、或いは1月29日~2月3日。仕事の休みやすい方で行きたい(幸い大阪フィルとの本番は今のところ重なっていない)。公演のない日には、ライプツィヒを訪ねることもできる。
ティーレマン&SKDの最強の組み合わせに、夢の空間ゼンパーオパーと極上の音響!
ある意味、バイロイト以上に凄い「リング」になるのではないか? チケット争奪戦も凄まじいものになろう。
しかし、その前に貯金しなくては。これが一番苦手なところ(笑)。
今朝もクレツキのシューベルト「未完成」を聴いていた。
何だろう。この音の背後に広がる悲しみは。深い闇には違いないのだけれど、そこに諦念、赦し、美しき過去への追憶などが含まれているような気がしてならない。
ほかにもクレツキを聴いてみたいと思ったところ、我が家にベートーヴェンのレコードが数枚あることを思い出した。
2004年、ウィーン合唱フェスティバルにて高田三郎「水のいのち」の指揮を終え、はじめて訪ねたプラハにて手に入れたものである。「95」と値札のあるのは、勿論ユーロではなく、チェコの通貨コルナのことである。1コルナが日本円にして4~5円(当時はもっと安かった気もする)ということだから、かなりの安価である。
当時のわたしは、レコード蒐集のビギナーで、レーベルの知識などを殆ど持ち合わせていなかった。お宝の眠る山から当てずっぽうで選ぶほかなかったのが悔やまれる。しかし、それらの中にクレツキ&チェコ・フィルによるベートーヴェン「5番」「田園」「9番」の3点が含まれていたのだ。
残念なのは、「9番」の盤面がピカピカの割には雑音の多いことである。これらのレコードの再生環境が良くなかったのでは?と疑われる。悪い針や調整の出来ていないアームが、溝を傷めてしまったのだ。
それでも、そのシクシクと鳴る雑音の中から、この演奏の高貴な佇まいはヒシヒシと伝わってくる。シューベルトのような「死」「悲しみ」ではなく、人間の強さ、美しさ、理想を求める精神が、厳しい造型によって明らかにされていく。クレツキは、シューベルトとベートーヴェンの本質の違いを本当によく分かって指揮をしているのだ。
さて、クレツキのベートーヴェン交響曲全集はSACD加されている模様。我が家の雑音だらけのレコードと同じ、或いは超える感動を与えてくれるのか、気になるところである。
ラトヴィアから届いたレコード。サヴァリッシュ&チェコ・フィルのモーツァルト:交響曲第38~41番の2枚組(チェコ・スプラフォン)。
サヴァリッシュの若き日のウィーン響、コンセルトヘボウ管、そしてバイロイトでの指揮があまりに素晴らしいので、こちらも入手してみたのだが、演奏は規範的でよろしい。規範的という言葉は「真面目だけど面白みに欠ける」という使い方をすることもあるけれど、この場合、音楽的なニュアンスも申し分なく、「恣意的な解釈や極端な表現のない名演奏」ということで、わたしにとって、本当に手本となり、勉強となる演奏、という意味だ。
ただ、残念なことに、「ジュピター」第2楽章に致命的なキズがあった。音楽が美しいだけに悔やまれる。おそらく、前オーナーが針を落下させたときについたキズであろう。
早速、出品者にその旨を伝えると「写真を送れ」と言ってきた。レコード盤のキズを写真に撮るのは意外に難しいのだが、照明の加減や様々な向きを試しつつ、なんとか撮影できた。
これで伝わるだろうか?
あれほど楽しみにしていたティーレマン&シュターツカペレ・ドレスデンによる「ラインの黄金」であるが、本日は惨敗。
否、演奏は素晴らしかったはずなのだが、如何せん座席が悪かった。普段、サントリーホールでは2階サイドのRB、LB席を取ることにしているのに、今回は「ティーレマンの息吹を間近に聴こう」と色気を出して1階前方の下手(向かって左)寄りを取ってしまったのが運の尽き。
まず、第一に歌手たちの歌い演じるステージがステージ後方のP席の高さにあるため、座席からの高低差が半端ない。字幕がさらに上に吊されていて見難いばかりか、オーケストラの音と歌声が別々に聴こえてしまって音楽に集中できないのである。
つまり、この状況をオペラハウスに置き換えると、歌手たちより低いオーケストラのステージがピットに相当し、わたしの席はピットの底よりさらに低い位置となる。これでは楽しめる筈もない。
第二に第1ヴァイオリンというよりは、コントラバスの前に位置していたため、冒頭の変ホ音の持続こそゾクゾクときて良かったものの、対向配置の第2ヴァイオリンが殆ど聴こえなかったり、ステージ後方の管楽器の音も浮き出てこないのも致命的であった。
そういう悪条件からでも、随所にティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの底力を伺い知ることはできたが、心底からの感動には至らなかったのである。
歌手たちについての感想もいろいろあるが、いまは述べないでおこう。
いざというときに、色気を出すべからず。平常心でゆくべし。
全く高い授業料となったものだ。
先週の水曜日、長岡へのお出掛け前に聴いた音楽。
シューベルト: 交響曲第7番「未完成」(ボクには未だ「未完成」=「8番」なのだが・・)&劇音楽「ロザムンデ」
クレツキ指揮ロイヤル・フィル レコード番号は英EMI ASD296
このシューベルトは深い。表面は淡々としているのに、冥界をさまようような、或いは死の淵をのぞき込むような瞬間がある。ナチスに両親や姉妹ら肉親を虐殺され、自らはナチスやスターリン政権の魔の手から逃げながら指揮活動をつづけたポーランドの生んだ孤高の巨人。
そんな前知識がなくても、この演奏から「死」を思わない者はあるまい。それほど、この美の裏側に横たわる闇は深い。
さて、このレコード。音質良好ながら、「未完成」の最後に痛恨のノイズあり。いずれ、買い直さなくては。
クレツキのベートーヴェンやマーラーも聴きたくなった。
今朝はティボール・デ・マヒュラが独奏するドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴いた。モラルト指揮のモノーラル録音(蘭フィリップス・未入手)ではなく、アルトゥール・ローター指揮ベルリン交響楽団とのステレオ録音。独オペラ・レーベルである。録音年の記載はないが、1950年代後半から60年代前半であろう。紙ジャケットの左右2辺が接着剤によらず糸で縫われている。
ティボール・デ・マヒュラは、ベルリン・フィルとコンセルトヘボウ管の首席奏者を歴任した名手であり、フルトヴェングラー指揮のシューマンの協奏曲の名演奏によっても知られるが、派手さよりも実直さを追求する演奏姿勢は、どこか同じハンガリー出身のペレーニを連想させる。
演奏効果を狙う人ではないこともあり、ドヴォルザークの協奏曲ほど大きな作品になると、ややスケールの小ささを思わせるものの、チェロという楽器に殉じるような直向きで清々しい様子が録音からも伝わってくる。こういう邪念のない演奏を耳にすると、自分の心まで綺麗になったような錯覚に陥るから不思議なものである。否、錯覚ではあるまい。少なくとも、聴いている間だけは・・。
ところで、この古いレコード。最初に針を下ろしたときは、バチバチというひどい雑音で鑑賞に耐えうるものではなかったのだが、カートリッジをライラ・タイタンからフェーズテック・P-1に交換したところ、嘘のように静かな再生音となった。恐らく、溝に対する両者の針の当たりどころが異なるために起こった現象であろう。アナログ・レコードとその再生は本当に面白い。
追記 カップリングされたゲオルク・ルートヴィヒ・ヨッフム(オイゲンの弟)指揮のボロディン「中央アジアの草原にて」とグリンカ歌劇「皇帝に捧げた命」序曲が出色の名演。これは思わぬ拾い物でった。
盤友にして畏友の音楽ライター板倉重雄さんが、先日の大阪フィル定期2日目に東京から駆けつけてくださいました。
さらには、Facebookでのご感想がとても嬉しく、大阪フィル合唱団団員やオーケストラ関係者、さらには広い範囲での音楽ファンの方にもお届けしたく、写真も含めここに転載させて頂きます。
まこと、ここまでテキストや音楽を理解し、また、演奏上の意図を汲みつつ聴いて頂けるとは、音楽家冥利に尽きます。
まさにそのように準備し、そのように練習を重ね、そして、シモーネ先生の棒の下で花を咲かすことができたのですから!
『2016年11月12日(土)フェスティバルホールにて大阪フィル第503回定期演奏会を聴きました。指揮はオーストラリア出身で本場ドイツで実績を積んだシモーネ・ヤング。合唱指揮は畏友、福島章恭。
開演前、人生初めてフェスティバルホールに入り、建物のスケールの大きさと内装の美しさに驚かされました。普段、せせこましいホールでクラシックを聴いているのだなあ、と感じました。もう一つ、プログラム冊子を見て、合唱指揮の福島さんの写真が載っているのは当然ながら、楽曲解説の担当が学生時代からの友、舩木篤也、そして大阪フィルの指揮者就任&デビューの記事が掲載された角田鋼亮は私の出身高校の後輩と、何だか演奏前からぐっと親しみを感じてしまいました。
大阪フィルのメンバーが舞台に出てくると、一見普通の新配置(弦楽器が左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、右奥にコントラバス)ながら、よく見ると第2ヴァイオリンとヴィオラが入れ替わっていて、旧配置と新配置をミックスした配置となっていました。ヤングが1週間前に東響を振った時は純然たる旧配置だったので何か意図があったのかも知れません。
そしてシモーネ・ヤングが登壇。オール・ブラームス・プログラムの1曲目は悲劇的序曲。冒頭からテンポは速く、決然とした進行を見せます。東響の時と同じ偉大な統率力を実感するとともに、各楽器がブレンドした豊かで暖かい響きに感じ入りました。そして表現が驚くほどの深みに達するのは弱音部分。やはり彼女の弱音表現はゾクゾクするほど素晴らしい。音楽は神秘的な表情を浮かべ、テンポも緩やかに落ちて行き、魂の奥底へと引き込まれるかのよう。その後、再び音楽が力を得た時の喜びの表情!テーマを歌うヴィオラのなんとも言えない音色に陶酔させられました。ラストの嵐のような高揚も圧巻でした。
2曲目「運命の歌」。大阪フィルハーモニー合唱団が登場。拍手はまばら。団員も心なしか緊張気味に見えます。そしてヤングが登壇。「ゆっくりと、憧れに満ちて」と表示のある冒頭のオケだけの部分。音楽はpで始まりppの密やかさになり、一度だけfに盛り上がるも、すぐにpの静けさに戻るデリケートさ。それでいて「表情豊かに」とか「情緒豊かに」といった指示も現れます。この部分の美しさだけで私はしびれました。旋律を繊細に歌う木管群とヴァイオリン群に、金管や低弦が深い彩りを加え、柔らかなハーモニーが立ち上る美しさ!背後で気づくか気づかないかくらいの弱音でリズムを刻むティンパニも、感受性に満ち満ちていました。そして合唱団がまずアルトだけで歌います。
「御身ら 空たかく光りに包まれて やわらかな地をゆく 浄福の霊よ!」
情緒豊かな弱音に魅せられたのもつかの間、フレーズの繰り返しでソプラノ、テノール、バスが加わって、突然色合い豊かなハーモニーが湧き上がる感動!あゝ、この部分を聴くだけでも大阪へ来た甲斐があった‼︎ ヤングの指揮する大阪フィルと、福島さんが指導する大阪フィル合唱団の芸術的な共同作業が、ブラームスが作曲技術と芸術性の粋を凝らした瞬間を最高に美しく現実の音とした瞬間でした。
この繰り返しが済んだ後、合唱が抜けて弦楽器だけがppで後奏する場面 ーこれは第2連の「運命を知らず あたかも眠れる 乳飲み児のように 息する天上の者たち」の後でも起きますがーのハッとするような美しさもヤングと大阪フィルは絶妙でした。この後、音楽はアレグロとなってオケと合唱は、第2連までの天上の神々の世界に対する、地上の人間の苦悩をはげしき、恐ろしく、ドラマティックに描きます。
「滅し そして落ちてゆく 悩める人間どもは」
「滝が 岩から 岩へ打ちやられるように はてしなく 底しれぬ闇の中へと」
この部分も彼女は決して粗野になることなく、有機的で陰影の深い音とメリハリの効いた表現で曲想をスケール大きく描いていて見事でした。「滝が」「岩から」と言った単語が聴き手に投げつけられるような書法を、大阪フィルと合唱団は聴き手の肺腑をえぐるように演じてくれました。
演奏が終わると客席は大喝采となり、ヤングは福島さんを舞台へ呼び出して、自分は舞台袖に退いて熱い拍手を送っていました。聴衆の拍手により福島さんは幾度も舞台の呼び戻されました。オーケストラの団員が引き上げた後、合唱団が舞台を降りる時には再び拍手が湧き上がり、合唱団員の最後の一人が下がるまで拍手が途切れることはありませんでした。この事だけでも、この日の合唱が聴衆に与えた感動の深さが証明されるでしょう。
後半のブラームスの交響曲第2番についても書きたいのですが、少々疲れたので今日はここまでにしたいと思います。』
板倉重雄
シモーネ・ヤング先生とのブラームスの1週間は実り多いものであった。これまでの我が音楽人生の中でも一際高いランクの体験であったことは間違いない。
いま1週間と書いたけれど、コーラスのみの稽古は1日、オケ合わせ1日、あとは本番の2日間なので大阪フィル合唱団とは4日間のお付き合いということになるが、わたしにとってシモーネ先との日々は、5日(土)の東響との「4番」から始まっていた、という意味において1週間(厳密には足かけ8日間)なのである。
今回、シモーネ先生から学んだことの第一は、「信念を曲げない」ということである。わたしも、よく人から「(音楽づくりを)諦めないですね。我慢強いですね」と言われる口であるが、シモーネ先生のそれは桁違いである。音楽的なキャラクターづくり然り、音程、フレージング然り、楽器間のバランス等々、およそ演奏とアンサンブルに関するあらゆる事項に於いて明確なイメージを提示し、それが達成されるまで練習を繰り返す。といえば、当たり前のことに思われるかも知れないが、殊に客演指揮者の場合、ある程度イメージを伝えて、あとはオーケストラに任せる、というケースの方が多いのだ。そして、シモーネさんの指示通りの演奏が達成できたときの説得力が半端ではない。
この世界、指揮者の指示通りに音価を変えたり、ダイナミクスを加減してみても「だから何なの?」ということもありがちなのだが、今回は、そういう事態はなく、必ずや所定の成果を生んでいたことは、偉とすべきであろう。
第2にはピアニシモの追求である。本番の会場がフェスティバルホールの場合、その巨大な空間を考慮して、音はやや強めに作るのが常であり安全なのであるが、シモーネ先生の信念はここでも揺るがなかった。ピアニシモを遠くに届かせる、生きた音のまま大きな空間を満たすというのは、楽器にとっても、声にとっても技術的に至難なことには違いないのだが、我々への生半可な温情はなく、最上級の理想を求める。
そして、実際に挑戦してみると、今までにない美しいピアニシモがホールの空間を震わせたのである。もちろん、コーラスに関して言えば、地道な呼吸法と発声トレーニングの成果がでたということになるのだが、こうした美しい成果に導かれることで、オーケストラや合唱の今後の可能性すら広がったのを感じさせるのである。