福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

バチカン&アッシジで歌うツアー- なかにしあかね先生とともに 成功裡に終わる その1

2023-11-01 23:15:41 | コンサート

バチカンとアッシジで歌う演奏旅行(参加者61名、主催:国際親善音楽交流協会 = IGMEA)が、10月23日~31日の日程で行われ、去る10月31日に無事に帰国しました。コロナ禍前から始まっていた企画ですから、足かけ4年ほどをかけて成就されたツアーとなります。

Coro Verità e Pace(合唱団" 真実と平和”)と名付けられた合唱団は、東京と大阪(中村貴志先生のご指導)のふたつの練習会から成り、現地で合流し、下記のふたつの本番に臨むこととなりました。

1.2023年10月26日 バチカンのサン・ピエトロ大聖堂に於ける(17時の)ミサに於ける聖歌の奉納

2.2023年10月28日 アッシジの聖フランチェスコ教会に於けるコンサート

かねてより私は、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂にて「水のいのち」を演奏したいという夢を持っており、それを軸に企画を膨らませていくことにしました。
なぜ「みずのいのち」か?
というと、過去に二度、この地を訪れたとき、街の清澄な空気感、大聖堂の神秘にして神聖な空気が髙田作品を演奏するに相応しいと直感したからです。
もちろん、髙田三郎先生の典礼聖歌「(アシジの聖フランシスによる)平和の祈り」に導かれたということもあったでしょう。

しかし、何か足りない。
「水のいのち」の海外演奏は、過去何度も行われています。
わたし一人に限っても、2004年にウィーンのムジークフェラインザール、ザルツブルクのモーツァルテウム、翌2005年に、プラハのスメタナホールと、髙田留奈子先生、髙田江里先生(プラハではピアノ担当)のお立ち会いの下、それぞれの土地での初演指揮をさせて頂きました。

ゆえに、もう一つ、新しいツアーへ心を駆り立てる決定的な柱が欲しい、と考えていたときに閃いたのは、
「邦人作曲家に新作のラテン語による宗教音楽を委嘱する」というものでした。
そうすれば、バチカンとアッシジに日本の宗教作品を届けるという、ただの自分たちの楽しみに終わらない、重大な使命を帯びたコーラスとすることが出来ます。
この閃きを、主催者である国際親善音楽交流協会(IGMEA)の丸尾氏に提案したところ、
「素晴らしいアイデアです」と大賛成して頂きました。

ではどなたに?
数名の候補が頭をよぎりましたが、結論は一瞬でした。

「なかにしあかね先生にしましょう!」

厚木市合唱連盟による「よかったなあ」委嘱初演の時より、先生とは面識はあり、
さらには、星野富弘の詩による「今日もひとつ」を演奏しながら、
特に、「いちじくの木の下」などに、その音楽にキリスト教の空気感を感じていたからです。
もちろん、星野富弘がクリスチャンのなので「当たり前のことではないか」と突っ込まれそうですが、音楽と詩が見事に融合してひとつの有機体となっている、ということを指してこう言っているのです。

わたしは勝手気儘にアイデアを述べるだけで、実際に動いてくださるのはいつもIGMEAの丸尾さんです。
丸尾さんは、既にご面識のあった某先生の仲介を経て、なかにし先生へのご依頼に漕ぎ着けてくださいました。
そして、幸いなことに、ご快諾頂いたわけであります。

さて、この2曲だけでは、一本のコンサートとして尺が足りない。
そこで、選ばれたのが、モーツァルト「戴冠ミサ曲」でした。
作品のクオリティの高さ、知名度、演奏時間、難易度など、すべてをクリアする作品だったので、これもスンナリと決まりました。
実は、ほかに、上述の髙田三郎先生の典礼聖歌「(アシジの聖フランシスによる)平和の祈り」も演奏するつもりだったのですが、
とある、やんごとなき事情が生まれ、実現できませんでした。
無念ではありますが、やり残したことがある、というのは、素晴らしいことでもあります。
再チャレンジしようという気持ちを持ち続けられるからです。
もし生あるうちに再びの機会が与えられるなら、
わたしたちをアッシジに導いてくれた「平和の祈り」を演奏しなければならない、と考えています。
(その2へつづく)

※写真は、10月26日、サン・ピエトロ大聖堂に於けるミサを終えての記念撮影。

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光と歌の大伽藍 ~ パッパーノ&聖チェチーリア音楽院管のブルックナー

2023-02-02 00:16:21 | コンサート


ハンブルク滞在最後の夜に、愛すべきエルプフィルハーモニーで、このような素晴らしいブルックナーを聴けたことは、本当に幸せなことである。

今宵はパッパーノ&聖チェチーリア音楽院管のハンブルク公演2夜目。初日の昨夜は、プロコフィエフ「古典交響曲」、ラヴェル : ピアノ協奏曲、シベリウス「5番」というプログラムで、ピアノ独奏は、アルゲリッチの代役としてヴィキングル・オラクソンであった。昨夜は驚愕の天才オラクソンに尽きた。それについては改めるとして、いまはまずブルックナーを語りたい。

実のところ、パッパーノには甚だ失礼ながら、今宵の演奏には大きな期待をしていなかった。というのも、昨夜のシベリウスが、わたしには余りにエネルギッシュで力強過ぎたからである。パッパーノの指揮もフォルテになると力んだり、足を踏みならしたりで、シベリウスに求められる透明な詩情、冷たくな張り詰めた空気感などと全く無縁だった。「ブルックナーにも、こんなに力尽くで臨むのだろうか?」と危惧してしまったのも無理はないのである。

ところが、ブルックナーの音楽がそうさせたのか、今宵のパッパーノには、無駄な力みも、これ見よがしな効果狙いも皆無。目の前には、ブルックナーの美にひたすら献身する音楽家が居るばかり。

彼らのブルックナーを、独墺系のオーケストラと大きく隔てるのは、イタリアならではの艶やかに輝くサウンドと陰影のあるカンタービレである。それが、ブルックナー作品の中でも息の長い歌のつづく「7番」の美を最大限に引き出していた。光が眩いほど影も深い。儚く揺れたかと思うと強く押し寄せる歌の波、至福の音楽。

しかし、カンタービレという横軸だけでこの演奏を語るべきではなかろう。今宵の演奏の真価は、プロテスタントの質実剛健とはまったく異なる、贅を尽くしたカトリックの大聖堂のようであった点にある。即ち、まるでバチカンのサン・ピエトロ大聖堂を思わせる巨大で堅牢な造形と大理石のような艶やかな質感に優れていたのだ。ブルックナーの音楽はよく音の大伽藍に喩えられるが、今宵のブルックナーほどそれを感じたことはない。このアプローチが、遠い存在に思われがちなイタリアとブルックナーを一気に結びつけた。

言い方を変えるなら、パッパーノと聖チェチーリア音楽院管は、ブルックナーが、紛うことなきカトリックの音楽家であることを、強烈に印象づけたのである。彼らの演奏から、ライプツィヒのトーマス教会を想起する者はなかろう。

昨年12月に聴いたティーレマン&ベルリン・シュターツカペレとの「7番」とは、まるで違っていながら、それぞれに大きな感動があった。ブルックナーの音楽の仰ぎ見るような偉大さを改めて感じた夜であった。







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「ムツェンスクのマクベス夫人」に打ちのめされる

2023-02-01 10:50:47 | コンサート


ショスタコーヴィチ「ムツェンスクのマクベス夫人」
指揮: ケント・ナガノ
演出:アンジェリーナ・ニコノーワ
カテリーナ: カミラ・ニールンド
セルゲイ: ドミトリー・ゴロヴニン
ボリス: アレクサンダー・ロスラヴェッツ
ジノーヴィ: ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー
ソニェートカ: マルタ・シヴィデルスカ
アクシーニャ: キャロル・ウィルソン

ハンブルク州立歌劇場で鑑賞した4公演のうち、強く印象に残ったのは、1月25日(水)と28日(土)の「ムツェンスクのマクベス夫人」である。このプロダクションを観られただけでも、ハンブルクを訪れた意味があった! 充実したキャストと読み替えなしの正統的な演出(ここ、とても大事!) - しかも、洗練されている ー によって、心よりの満足と興奮を味わった。

どのシーンも絵的に美しい。まさにこれだけでも第一級の芸術作品。そして、時折、背景に投影されるビデオの何と効果的だったことか、と思って、ニコノーワのプロフィールを調べてみたら、彼女は著名な映像作家でもあり、プロデューサーでもあることを知り、成る程と合点した。

歌手では、カテリーナの移ろう心情を圧倒的な声と芝居で表現し尽くしたカミラ・ニールンドに心を奪われた。その声を聴くだけで、カテリーナの寂しさ、心の飢え、愛欲、絶望が胸に響いてくる。この公演後4日経つのに未だに我が胸に余韻が燻っているほどだ。

セルゲイ役のドミトリー・ゴロヴニンも、このどうしようもない男の性を、輝かしくもヤクザな声で歌いきった。立ち居振る舞い、顔つき、全てがセルゲイであった。

また、セルゲイが心を移すソニェートカ役、マルタ・シヴィデルスカは、ポーランドの若きメゾ・ソプラノ(と言っても年齢は知らないが・・)で、その美しさと深く豊かな声で、聴衆の心を掴んだ。そして、ストッキングをねだったり、履いたりするとき、また、セルゲイと抱き合うときに見せた生足の美しいこと! また、この見せ方(演出)が心憎い。 

ところで、アクシーニャ役はどこかで観た姿と思ったら、ヤンソンスによるネーデルランド・オペラのDVD (ライヴ)でも歌っていたキャロル・ウィルソン。はまり役なのだろう。今回は衣服を剥がされるような暴力的な演出でなく、ホッとした。



この優れたプロダクションは、「音による心理描写にかけて、ショスタコーヴィチはモーツァルト以後最高のオペラ作曲家ではないか?」
を改めて思わせてくれた。

「ムツェンスクのマクベス夫人」がスターリンの不興を買ったことで、以後、ショスタコーヴィチにオペラを書く機会の生まれなかったことは、大きな損失だった。でなければ、5年後、10年後にどんな大傑作が生まれていたことか!














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聖ヤコビ教会のシュニットガー・オンガン

2023-01-27 09:15:28 | コンサート

一昨日(1月26日)、ペトレンコ指揮ロイヤル・フィルハーモニーを聴く前の夕、聖ヤコビ教会に於けるオルガン・コンサート(無料)を聴いた。

ここに設置されているオルガンは、1689年から1693年にかけて、史上もっとも名高いオルガン製作者のひとり、アルプ・シュニトガーによって製作されたもの。設置当初から今日に至るまで、その構想に大きな変化はなく、古い配管や見込み管はほぼ原型のまま保存されているとは、まこと驚異的なことである。1700年以前に作られた現存するオルガンの中では最大のもので、保存されているバロック楽器の中では最も優れたものの1つとされている。



奏者は、聖ヤコビ教会のカントル、ゲルバルト・レフラー。バッハとブクステフーデという美しいプログラム(写真参照)。



いや、なんと言おうか。
冒頭の一節が鳴り出した途端、異世界へ連れ去られるような感覚。これまで聴いたどのオルガンとも違う音の実在感。
生々しく鮮烈であり、どこまでも高く、どこまでも遠く、そして、無限なる深さを湛えた響き。
30分がまるで10分ほどにしか感じられない至福のひとときであった。
次のオルガン・コンサートはわたしの帰国後となるので、ただ1度の機会となったが、1度でも聴けたことを天に感謝したい。

ところで、教会でのオルガンは、背後から人々に降り注ぐ。我々が祭壇に正対しているためである。帰宅して、オルガンのレコードを聴くときは、椅子の向きを180度置き替えて、背中から聴いてみようと思う。





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4年ぶりのエルプフィルハーモニー

2023-01-27 08:31:23 | コンサート

4年ぶりにハンブルクを訪れている。前回は2019年6月、ベルリンにおけるドイツ・レクイエムを終えての小旅行であり、コロナの足音もまったくなく、初夏の陽気も穏やかであった。

その時に聴いたエルプフィルハーモニーでのエッシェンバッハ指揮のブルックナー「ロマンティック」の清涼で美しい響きと州立歌劇場でのノイマイヤー・バレエ団の完成度の高い舞台が忘れられず、ドレスデン・ゼンパーオパーでのティーレマンの「リング・チクルス」に心惹かれつつも振り切って、再訪したのである。

 

ハンブルクに到着して3夜目の昨夜は、エルプフィルハーモニーに於けるヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会。

ヴォーン=ウィリアムズ: 「すずめばち」序曲、グリーグ: ピアノ協奏曲イ短調
休憩
プロコフィエフ: 交響曲第5番変ロ長調

という魅惑のプログラムで、ピアノ独奏はエルプフィルハーモニー大ホールのアーティスト・イン・レジデンスに指名されたカナダの俊英ヤン・リシエツキ。

写真の通り、正面最上階にての鑑賞。リシエツキの強靱なテクニック、幅広いダイナミズム、美しく粒だつ音色は、高所恐怖症である私に、束の間、ここが高所であることを忘れさせるに十分であった。ペトレンコ指揮のオーケストラも美しく、特に第2楽章に於ける憂愁に打たれた。

アンコールは、ショパン: 夜想曲第20番。グリーグでの感心を感動に塗り替えてくれる名演で、弱音の寂寥感、魂の孤独、その繊細な感性に彼の本物を確信した。
レシエツキは今年の東京春祭でオール・ショパンのリサイタルを開催する(4月7日 東京文化小ホール)。しかも、昨夜聴いた夜想曲第20番もプログラムに入っている! と歓んだものだが、生憎、自分のレッスンと重なって行けないことが判明。都合のつく方、ぜひ、聴いてみてください。

休憩後は、この高さに耐え得る自信がなくなり、下の階のやや左サイドの空席に移動させて貰っての鑑賞。音が近くなり、音圧はグッと上がったけれど、音のブレンド具合は最上階の方が良かったかも知れない。

プロコフィエフ5番は、元々ロイヤル・フィルのサウンドが重量級でないこともあって、ロシア系、東欧系のゴリゴリとした感触とは無縁のノーブルなアプローチとなった。はじめは、それに物足りなさも覚えたが、音楽性に間違いはないし、歌心もあるし、徐々に熱を帯びてきての最終的な迫力は申し分なく、大いに満足した。

しかし、彼らの本領はアンコールのエンターテイメントにあった。1曲目(知っているメロディなのに曲名が思い浮かばない。無念・・)の軽音楽や映画音楽にも通じるような肩の力の抜けた洒落た味わいは、聴衆から演奏途中での拍手や笑いを獲得するほどであり、2曲目のハチャトリアン: レズギンカ(「ガイーヌ」より) の怒濤には、エルプフィルハーモニー全体がロック・コンサートの会場のように、或いは贔屓のサッカーチームが決勝ゴールを決めたときのような歓声に響めいたのである。やはり、コンサート会場で声を出せるって、良いなぁ。

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髙田三郎を歌うジョイントコンサート(直前告知御免)

2022-04-13 22:53:25 | コンサート


直前となりましたが、「髙田三郎を歌う ジョイントコンサート」の告知です。

本来、ヴェリタス・クワイヤー東京と混声合唱団ヴォイスは、、2020年5月、この紀尾井ホールにてベートーヴェン「ハ長調ミサ」をメインとする演奏会を開催する予定でした。
ご承知の通り、コロナ禍により演奏は叶わず、二度にわたる順延をもって、ようやく本日を迎えることとなりました。
日々のレッスンすら侭ならなかった苦難の日々を思い出すと、感慨もひとしおです。

諸事情から入場無料となっておりますが、チケット予約が必要です。
一般受付は終了していますが、わたし個人の持ち分が10枚程度ございますので、お手数ですがヴェリタス・クワイヤー東京宛てにメールしてください。

メールアドレスは veritas.choir.tokyo@gmail.com となっております。

当ブログにはリンクを貼る機能がありませんが、ヴェリタス・クワイヤー東京HPのトップページにリンクがございますのでご利用ください。

ヴェリタス・クワイヤー東京HP
https://www.veritas-choir.com

なお、締め切りは、15日(金)の午後0時とさせて頂きます。

どうぞ、よろしくお願いします。

 

髙田三郎を歌うジョイントコンサート 

​2022年4月16日(土) 14:00開演  紀尾井ホール

入場無料(全席指定、要事前予約)

ヴェリタス・クワイヤー東京

* 髙田三郎 混声合唱組曲「水のいのち」

​ドヴォルザーク ミサ曲ニ短調より

「キリエ」「グローリア」

混声合唱団 ヴォイス

* 髙田三郎 混声合唱組曲「心の指揮」

 なかにしあかね 「今日もひとつ」より
​ 「いつだったか」「いちじくの木の下」「今日もひとつ」    

合同演奏      

 * なかにしあかね 「ケヤキ」

指揮:福島章恭

ピアノ:小沢さち、清水亜希子

新型コロナウイルス感染症予防対策とご来場の皆さまへのお願い(紀尾井ホール)
https://kioihall.jp/c-19request

 

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東響には東響コーラスが必要!

2021-09-18 21:31:30 | コンサート

ミューザ川崎に出かけるのの、東響を聴くのも久しぶりである。

東京交響楽団 名曲全集 第169回

指揮:原田慶太楼
ソプラノ:小林沙羅
バリトン:大西宇宙

ヴォーン・ウィリアムズ:グリーンスリーヴスによる幻想曲
ヴォーン・ウィリアムズ(ジェイコブ編):イギリス民謡組曲
ヴォーン・ウィリアムズ:海の交響曲

ミューザ川崎シンフォニーホール




ヴォーン・ウィリアムズだけの作品による演奏会というのも珍しいが、この作曲家の第1交響曲である「海の交響曲」を実演で聴いたのは初めてである。

前半は、「グリーンスリーヴスの主題による変奏曲」から「イギリス民謡組曲」へ間を置かず、あたかも一つの組曲のように扱ったのは自然な流れでよかった。
特に印象に残ったのは、変奏曲。ピアニシモからピアノの間に幾重もの階層とニュアンスがあり、その繊細さと静かな呼吸に打たれた。
原田慶太楼の指揮に接するのははじめてであったが、この繊細さだけをとっても非凡な音楽家であることが分かる。
「組曲」も優れた演奏であったが、やはり、この作品はオリジナルのミリタリーバンドで聴く方が愉しい。このあたり、作曲者自身のオーケストレーションでない弱みのあるのは仕方なかろう。

メインの「海の交響曲」。
東響コーラスが圧倒的であった。
この長大なテキストと音符を暗譜するというだけでも、いつものことながら正気の沙汰ではなく、信じがたいことであるが、そのパフォーマンスも見事であった。
感染防止のため不織布マスクを着用のまま、さらに大きなディスタンスをとり、人数制限(出演者の大半を前後半で入れ替える)をするなど、何重ものハンディキャップを抱えながらも、「海の交響曲」を壮大なスケールで描ききった実力には脱帽する。

わたしの座席が、1階席下手寄りの前方だったこともあり、オーケストラがトッティで強奏すると聴こえにくくなったのは残念。
また、マスク着用の対策として発音をもっと明瞭にする、長いフレーズの後半に於ける発声の維持、転調時にハッとするようなハーモニーの色合いの変化などが為されていれば、さらに完璧だったと思われるが、全体の感動の前には小さな疵に過ぎない。

原田慶太楼の示す道筋は一点の迷いもなく明朗であり、オーケストラは柔軟に、そして自由な表現力で棒に応えてゆく。
小林沙羅と大西宇宙のお二人も、この作品の法悦感を見事に表現していた。

さて、大フィル合唱団の指揮者として、オーケストラ付き合唱団の置かれている立場の厳しさは分かっているつもりである。
本番に於けるハンディのみならず、レッスン会場の確保の難しさ、レッスン時の制約、また、経営側から見たときの団を維持するための負担など。

ただひとつ、本日の演奏を体験して、心底感じたことは、「東響には東響コーラスが必要」と言うことである。
「東響には、東響コーラスが似合う」と言い換えてもよいだろう。
新国立歌劇場をはじめとするプロの素晴らしさは認めつつも、どのオケの「第九」に出かけてもプロの合唱団では楽しくないではないか。
アマチュアにはアマチュアなりに、時間をかけてじっくり作り上げる音楽があり、ひとつの演奏会にかける想いも強く、それぞれの団の個性も羽ばたき、それが音楽文化の裾野を広げるのだ。
東京交響楽団と東響コーラスには、この受難の日々を乗り越えて頂きたい、と願いつつ、会場を後にした。

 

 

 

 

 

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神童も微笑んだ! 尾高マエストロの戴冠ミサ

2021-04-22 11:13:44 | コンサート
大フィルとのブルックナー9番、都響とのエルガー1番と、このところ、尾高マエストロの音楽に心を揺さぶられっぱなしであるが、今回の「戴冠ミサ」にも魂を奪われた。

ピアノとの合唱稽古、尾高マエストロの棒によるグローリアの天衣無縫さに、モーツァルトの微笑むのが見えたような気がした。その音楽の煌めきに、最初こそ対応しきれなかった大フィル合唱団も、歌い進めるうちに、波長を合わすことができた。その対応力に合唱団の成長を感じられたことは嬉しいものであった。

そして、昨夜のオーケストラ合わせ。モーツァルトの天才性に打ちのめされた。当時のザルツブルク宮廷礼拝堂の編成によるヴィオラを欠いた弦楽セクションは、実質、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、と低弦(今回はチェロ+コントラバス)の三声しかない。しかし、その音楽の豊さ、雄弁さは、どうだろう。

そのオーケストレーションの天才性をまざまざと教えてくれる尾高マエストロと崔 文洙さんをトップに置く大フィルのなんという芳醇なサウンド! 感謝の言葉しかない。

わたしとしても、コロナ禍にあって、毎度「今日が最後かもしれない」との想いで、大阪に通い、渾身のレッスンを重ねてきた。オケ合わせ2日目となる今宵、そして本番と、大フィル合唱団は、マスク+ディスタンスというハンディキャップをものともせず、更に羽ばたいてくれることだろう。

緊急事態宣言発令を直前に控えた落ち着かない情勢ではあるが、否、そんな今だからこそ、聴衆の皆様にも、心の平安と歓びのため、会場に足をお運び頂き、モーツァルトの微笑みを感じて欲しい。






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Instagramに挑戦 ベートーヴェン「7番」よりの動画をアップロード

2021-04-22 00:50:00 | コンサート
インスタ映えという言葉は知っていても、Instagramとは無縁に暮らしてきたわたしであるが、「いまやFacebookやTwitterは若者に流行っていない。Instagramを始めるべし」とのアドバイスを複数受け、遅ればせながら取り組むことにした。

まずは、4.17コンサート直前に集客のためにリハーサルの様子を披露しようしたが、これが四苦八苦。パソコンで編集した動画をパソコンから直接、何度試みてもアップロードに失敗してしまうのだ。様々な投稿要件は満たしている筈なのだが・・。

致し方なく、パソコンで再生したものをスマホで撮影し、さらに往年の巨匠の記録のようにモノクロ化してアップロードしたものがこれ。15秒以内という制約のあることも、はじめて知った次第。

リハーサル初日 ベートーヴェン「7番」フィナーレより

コンサートは既報通り、大成功に終わったが、そのご報告としてアップロードしたのが以下である。15秒以上の長尺の動画を上げるにはどうしたらよいのか調べたら、IGTVというスタイルを選べば可能だと知る。ただし、今度は60秒以上必要というから、いろいろ面倒くさい。

コンサートのご報告として、ベートーヴェン「7番」フィナーレ、上のモノクロ動画と同じ部分を選んでみた。
舞台上手(かみて)奥に置いたビデオカメラの映像であり内蔵マイクの音で、もちろん正面から聴いた音とは違ったバランスで聴こえる。
https://www.instagram.com/tv/CN3zzb8pFDh/?igshid=8n5ouvkmzk7j

もう一本は、同じくベートーヴェン「7番」より第1楽章のラスト1分ちょっと。二階席左サイドのバルコニーより撮影したもので、やはり、音と映像はビデオカメラのもので、けっして良い音ではない。

先日の記事で触れたスケルツォのトリオに於ける「音の柱」は、あまりに巨大で、ビデオカメラのマイクには収まるものではなかった。ゆえに皆様に公開するのは、CD用の音源が届いてからとなりそうである。

というわけで、はじめてみたものの洗練には程遠い投稿ばかり。だが、Instagramにアップロードすると、設定次第で自動的にFacebookやTwitterにも投稿されるため、手間がほぼ変わらずに助かっている。

「ジュピター」やアンコール2曲からも、何箇所かアップしたい場面があるのだが、ただいま大フィル定期を控え大阪に滞在しているため、作業ができないでいる。しばしの辛抱である。

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珠玉のモーツァルト&ベートーヴェン 無事終演

2021-04-18 16:34:00 | コンサート

昨日、4月17日(土)福島章恭シリーズ2「珠玉のモーツァルト&ベートーヴェン」、無事に終演致しました!
コロナ禍という外出しにくい環境の中、多くのお客様にご来場頂いたことを心より感謝致します。

”OVERCOME COVID-19 CONCERT with Amadeus & Ludwig" というサブタイトルとおり、モーツァルトとベートーヴェンの音楽によって、ささやかな日常の歓びを取り戻したい、音楽の素晴らしさを再認識したい、という願いを込めて演奏会を企画しましたが、聴衆の晴れやかなお顔を拝見し、「ああ、やってよかったなあ」としみじみと感じているところです。実際、演奏を聴きながら涙が止まらなかった、という声がいくつも届いております。それだけ、人々の心が乾き、音楽に飢えていたという証かも知れません。また、音楽にはそうした心を再生する神秘の力があるということでしょう。

今回は、ベートーヴェンの交響曲を振る最初の機会になります。少年時代、はじめて「運命」「第九」を聴いたときの衝撃、あの感動の大きさが今もなお継続しているからこそ、今日も音楽を生業としているわけであり、ブルックナーという絶対的な作曲家を知ったあとでも、ベートーヴェンは至高の存在であり続けています。その不滅の作品を振るということは畏れ多い行為ではありますが、挑戦したいという衝動は抑えきることができませんでした。

今回、自らに課したミッションのひとつは、「スケルツォ」を克服すること。
「7番」は、もちろん大好きな作品ではありますが、「スケルツォ」は演奏次第では単調、冗長に陥りやすいのも事実。そこで、わたしは、全リピートを敢行しつつ、一瞬たりとも退屈な瞬間のない音楽づくりを目指しました。そして、それは達成できたと自負します。それが出来たのも、マタチッチ最後の来日公演で聴いた「7番」の感動を、皮膚感覚で憶えていたからでしょう。あの記憶が、わたしの心を鼓舞してくれました。

と、自ら書いたところで自画自賛となりますので、わたしのブルックナー8番でコンマスを務めてくれた愛知祝祭管の高橋広さんの文章(Facebook「丹沢ブルックナー楽友協会」)をご紹介しておきましょう。奇しくも、スケルツォへの似たような想いが綴られているのが愉快です。
(なお、Web版で閲覧される方のために、改行のみ、こちらで追加しました)

本日4月17日の福島先生の演奏会の感想を友人限定タイムラインにアップしたところ、同じ演奏会に来あわせた友人から、「折角だから『丹沢ブルックナー楽友協会』カテゴリに転載したら?」とコメントを頂いたので、友人が登場する部分など一部カットして掲載致します。
~~~~~
今日は、奇跡のような演奏体験となった愛知祝祭のブルックナー8番(2014年)を指揮して下さった福島章恭先生の自主公演を神奈川県橋本まで聴きに来ました。コンマスを務めるテアトロ練(名古屋テアトロ管弦楽団)とかぶっていたこと、コロナの状況、距離などがあり、前日まで迷いに迷いぬいたのですが、やはりあのとてつもないブルックナーを振った福島章恭という漢(おとこ)が、今どんな境地に到達しているのかをどうしても自分の耳で確かめたく、さらにこんなアゲインストな時期に敢えて自主公演を行う心意気に打たれ、結局テアトロ練前半を休ませてもらい、こちらに参加することになりました。
前プロはフィガロの結婚序曲。曲調と小編成オケであることから、さすがに巨大な演奏ではないものの横振りを多用されることによる音楽の流れや生命力が横溢する快演でした。
続いてジュピター交響曲。モーツァルトの交響曲の中でも最愛の作品であり、今回一番楽しみにしていた曲でもあります。これも愛知祝祭とのブルックナーのような巨大さはないものの、ややゆったり目のテンポの中で、実に深い呼吸感で自然に、豊かに、深々と鳴り渡ります。弦の人数は6-6-4-3-2という極めて小編成ながら、全くそれを感じさせない大らかで充実した響きがホールを満たしました。いや、小編成ながらというよりは、この編成だからこそ出来る最良のサウンドを見事に引き出し、かつオケも福島先生の意図を微細な点までしっかり汲み取り、ベストな演奏でそれに応えていたというべきでしょう。そしてティンパニとトランペットが実にいい仕事をしており、闇雲に存在をアピールするのでなく、普段はしっかりと音楽の隈取りをつけながら、ここぞの場面では文字通り乾坤一擲のサウンドでハッとさせる頂点を作り上げてくれました。最後列中央に位置するティンパニ奏者の井手上氏と福島先生の一本の太いラインが音楽を壮麗な高みへと牽引していく様は圧巻でした。特にどこまでも昇りつめていく終楽章の、決して踏み外したり割れたりすることなく、しかし凄まじい熱量で高揚していく様は、大オーケストラを指揮する往年の大巨匠の演奏に些かもひけを取らない、偉大な演奏でした。
休憩後はいよいよメインのベートーヴェン交響曲第7番。実は個人的にはベートーヴェンの交響曲中一番好きじゃない作品で、しかもあのジュピターの偉大な名演の後だけにかなり分が悪かろうと心配していましたが、第一楽章の第一音目でその懸念が吹っ飛びました。前半のモーツァルトとは全く違うストレートでシャープな、鮮烈なサウンドが鳴り響いたのです!ジュピターではフィナーレの最高潮の箇所でも決して出さなかった突き抜けるサウンド。前半だけでは分かりませんでしたが、モーツァルトの際は、極限まで薄い紗幕で包まれたような夢幻的であったオケのサウンドは、後半になって一変したのです。これだけ違うサウンドを引き出した福島先生の指揮も魔術的なら、それに完璧に応える東京フォルトゥーナ室内管弦楽団もスゴい!第一楽章序奏部からオケの決して力みはない力強さが見事で、低弦は上述の如くチェロバスで5人しかいないはずなのに、豊かで濃く熱いサウンドで福島ベートーヴェンの土台を磐石なものにしていました。続く第二楽章見事で、福島先生を含め36人が一つの有機体となってこの楽曲の核を演奏している感がありました。冒頭の方でチェロが旋律を演奏する箇所の subito p はゾッとするほどの緊張感であり、隣に座っていた聴き巧者の友人はここでブルッと体を震わせていたほどです。第三楽章は僕が一番苦手なところで普段は往年の巨匠の録音を聴いている時さえ冗長さを感じてしまうのですが、今日は退屈する暇もありませんでした。モーツァルトでも書いたここ一番のティンパニとトランペットのサウンドも、さらに鮮烈さをもって見事に決まっていました。そして遂に終楽章。ここはテンポとしては巨匠風というよりはむしろ速めで圧倒的な推進力と生命力が溢れだしていましたが、中盤の高弦と低弦が掛け合う箇所のドラマティックなルバートは、福島先生が外面的には現代的な演奏スタイルながら内面は往年の巨匠の風格も併せ持っていることをよく示していました。そしてラストはさらにテンポをさらに追い込みつつ巨大で熱狂的な音楽となって終結しました。この小編成で、しかもチェリビダーケのような遅いテンポでもないのに、フル編成のベルリンフィルの実演に接した時に勝る壮絶な体験でした。
アンコールの洒落ていながら極めて明晰なピチカートポルカ、そして愉悦感に満ちたラデツキー行進曲は、明るく楽しく生きよう!という福島先生のメッセージが深く胸に届きました。
福島先生、素晴らしい演奏会を本当に有難う御座いました!

相原千興さん率いる東京フォルトゥーナ室内管弦楽団メンバーへの謝辞も書きたいのですが、些か長くなってしますので、別の記事に書きたいと思います。

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