竹内栖鳳と弟子たち
-重要文化財 「班猫」登場
2006年9月30日から11月19日
山種美術館
竹内栖鳳の「班猫」を拝見しに山種美術館に向かう。
いつも、山種美術館は九段下駅からは遠いなと思っていた。晴れていれば散歩気分で東京国立近代美術館から歩ける。別の美術館のついでに車で寄ったこともある。ある時は時間がなくて、タクシーで行ったりもしたことがある。たまたま半蔵門線の出口案内を見ていると半蔵門駅のところに英国大使館方面とかいてある。なんだと、半蔵門駅で降りて見ることにした。九段下よりの出口を出て、一番町の閑静な通りを内堀通りまで歩くと、もう山種美術館。意外に平らな道です。直接を山種美術館を訪れる時は、往路はすくなくとも、半蔵門駅下車が正解と今頃気がつきました。目印がないのではじめて訪れる方には薦めませんが。
さて、竹内栖鳳についての説明を見ながら拝見。竹内栖鳳は、棲鳳の雅号を用いていたが、欧州から帰国後に栖鳳に変えた。描写の仕方に西洋画的な風合いがあるのは気がついていたが、雅号を変えていたとは初めて知る。昭和12年(1937)に制定された文化勲章を横山大観とともに受章。西の第一人者だったということになります。
今回の呼び物は、重要文化財 「班猫」(1924)(第一回淡交会展)。沼津で歩いていて見かけた猫に表現欲がむらむらと湧いたという。徽宗皇帝の猫がいるぞと思い、再三交渉。沼津から京都までつれて帰り描いたそうだ。栖鳳らしい、猫の毛並みの表現、背中を丸くしたポーズが、なんともいえません。でも徽宗皇帝の猫は、どこに行けば見れるのでしょうか?
さてこのほかの栖鳳の作品のいくつか。
「潮来小暑」(1930)(第六回淡交会展);揚州のようなと栖鳳は形容していますが、長閑な風景です。彩色。
「晩鴉」(1933)(第七回淡交会展);墨画。水の吸い込みのよい特製の栖鳳紙に描かれている。墨の滲んだところもいいですが、細線で描かれた樹木に惹かれます。
「蛙と蜻蛉」(1934)(第15回帝展);西洋画的描写が日本的画題と技法に溶け込んだ栖鳳らしい作品。
「憩える車」(1938)(第4回春虹会展)
「艶陽」(1940)(紀元2600年奉祝日本画大展覧会);えんどう豆と蛇です。ちょっとした庭先の風景でしょうか?これも栖鳳らしい作品。紀元2600年奉祝日本画大展覧会に出展された作品のようですが、どういう意味だったのでしょうか?
「色紙十二ヶ月」(艸影帖)(1938頃)。どの色紙も魅力的だが、「鯛」は栖鳳の真骨頂。
弟子としては、
上村松園の「蛍」(1913)「砧」(1938)など;昨年の11月にも山種美術館で(記録はこちら)鑑賞しましたが、一年たっても「砧」は迫ってくるものがあります。
西村五雲
橋本関雪
土田麦僊「大原女」(1915、第9回文展)、「香魚」(1926-35); 今年は、土田麦僊の作品に思いがけず会えた年でした。「舞妓林泉」(1924)(記録はこちら)、「湯女」(1918)(記録はこちら)。そして六曲二双の作品「大原女」を鑑賞。土田麦僊らしい黄緑色を背景に、土田麦僊らしいおおらかな女性が描かれています。同題の作品「大原女」が京都国立近代美術館に所蔵されているようです。「香魚」は栖鳳の弟子らしい作品。
村上華岳「裸婦図」(1920、第3回国画創作協会展);この作品はよく図版では見たことがありますが、実際に鑑賞するのは始めて。実際大画面を目の前にするとインド的な風貌や衣裳が迫ってきます。<永遠の女性> の一部として描いたという。
福田平八郎「筍」(1947、第3回日展);この作品も代表作ですね。実物は、背景が雲母摺りのようで美しい。
池田遙邨「まっすぐな道でさみしい-山頭火-」(1986、山種美術館開館20周年記念展);91歳の時の作。信州馬籠宿から十曲峠への旧中仙道。信州飯田にて病む身になった山頭火を情景して描いた。ススキや黄色の花咲く石畳の道、お地蔵さんがたつ。
(10月29日)
-重要文化財 「班猫」登場
2006年9月30日から11月19日
山種美術館
竹内栖鳳の「班猫」を拝見しに山種美術館に向かう。
いつも、山種美術館は九段下駅からは遠いなと思っていた。晴れていれば散歩気分で東京国立近代美術館から歩ける。別の美術館のついでに車で寄ったこともある。ある時は時間がなくて、タクシーで行ったりもしたことがある。たまたま半蔵門線の出口案内を見ていると半蔵門駅のところに英国大使館方面とかいてある。なんだと、半蔵門駅で降りて見ることにした。九段下よりの出口を出て、一番町の閑静な通りを内堀通りまで歩くと、もう山種美術館。意外に平らな道です。直接を山種美術館を訪れる時は、往路はすくなくとも、半蔵門駅下車が正解と今頃気がつきました。目印がないのではじめて訪れる方には薦めませんが。
さて、竹内栖鳳についての説明を見ながら拝見。竹内栖鳳は、棲鳳の雅号を用いていたが、欧州から帰国後に栖鳳に変えた。描写の仕方に西洋画的な風合いがあるのは気がついていたが、雅号を変えていたとは初めて知る。昭和12年(1937)に制定された文化勲章を横山大観とともに受章。西の第一人者だったということになります。
今回の呼び物は、重要文化財 「班猫」(1924)(第一回淡交会展)。沼津で歩いていて見かけた猫に表現欲がむらむらと湧いたという。徽宗皇帝の猫がいるぞと思い、再三交渉。沼津から京都までつれて帰り描いたそうだ。栖鳳らしい、猫の毛並みの表現、背中を丸くしたポーズが、なんともいえません。でも徽宗皇帝の猫は、どこに行けば見れるのでしょうか?
さてこのほかの栖鳳の作品のいくつか。
「潮来小暑」(1930)(第六回淡交会展);揚州のようなと栖鳳は形容していますが、長閑な風景です。彩色。
「晩鴉」(1933)(第七回淡交会展);墨画。水の吸い込みのよい特製の栖鳳紙に描かれている。墨の滲んだところもいいですが、細線で描かれた樹木に惹かれます。
「蛙と蜻蛉」(1934)(第15回帝展);西洋画的描写が日本的画題と技法に溶け込んだ栖鳳らしい作品。
「憩える車」(1938)(第4回春虹会展)
「艶陽」(1940)(紀元2600年奉祝日本画大展覧会);えんどう豆と蛇です。ちょっとした庭先の風景でしょうか?これも栖鳳らしい作品。紀元2600年奉祝日本画大展覧会に出展された作品のようですが、どういう意味だったのでしょうか?
「色紙十二ヶ月」(艸影帖)(1938頃)。どの色紙も魅力的だが、「鯛」は栖鳳の真骨頂。
弟子としては、
(10月29日)
竹内栖鳳、まとまって見るのははじめてですが、弟子たちの作品と並べられると、独特な魅力を感じました。
大いなる影響力があった人なんですね。
半蔵門からいって、迷いました。
ホントに徽宗皇帝の猫ってどこにいるんでしょう。
あの手の猫が大好きです。
『裸婦図』は華岳の作品中最愛です。
遙邨『まっすぐな・・・』など大好きな作品に再会でき、とても嬉しい展覧会でした。
茅場町の時代を思えば駅から遠くて不便ですが、だいぶ慣れてきました。
絵というのは観るまでに勝手にイメージを
こちらでこしらえてしまっているようで、
まさかあんなに大きな絵とは思ってもいませんでした。
栖鳳は雅号の字を変えているのですね!!!
線画のタッチが西洋風だったのは意図したものだったとは…
また一つ勉強になりました。
弟子たちの栖鳳に対する尊敬の念のこもった言葉も印象深かったです。
上村松園の作品を幾つか見れたのもこれまた良かったです。