OSHOの言葉が深く沁みています。。。
「あなたが深く愛した人の死の瞬間は、あなた自身の死を思い起こさせる。死の瞬間は、大いなる啓示だ。それはあなたを無能に、無力に感じさせる。それは、あなたはいないと感じさせる。存在という幻想が消え失せる。
誰もが揺さぶられるだろう――突如として、足元の地面が消え失せたことを知るからだ。あなたにはどうすることもできない。愛する人が死のうとしている。自分の命をあげたいとさえ思うが、それは叶わない。どうすることもできない。人はただ、深い無力感の中で待つだけだ。
その瞬間は、あなたを落ち込ませることもできる。その瞬間はあなたを悲しませることもできれば、真理のための大いなる旅――探求への大いなる旅へとあなたを送り出すこともできるのだ。この生とは何なのか? もし、死が来て奪われてしまうものなら、この生とは何なのだろう? もし人が死に対してこれほど無力ならば、この生に、どんな意味があるのか? そして覚えておくことだ、あらゆる人が死の床についているということを。誕生したからには、あらゆる人は死の床にいる。それ以外のありようはない。あらゆるベッドは死の床だ。誕生の後で確実なものは、ただ一つ、死だけだからだ。
今日死ぬ人もいれば、明日の人も、明後日の人もいる。基本的に、何が違うのだろう? 時間には、大した違いは作れない。時間は、生という幻想を作ることはできる。しかし、死で終わる生は、真の生ではないし、そうではありえない。それは夢に違いない。
死は大いなる啓示だ。もし死がなければ、宗教もなかっただろう。宗教が存在しているのは、死のためだ。ブッダ(覚者)が生まれるのは、死のためだ。死の理解ゆえに、あらゆるブッダは生まれる。
あなたが死にゆく人のところへ行き、そばに座るときには、あなた自身を気の毒に思うがいい。
あなたも同じ舟に乗って、同じ苦境に立たされているのだから。
死は、いつの日にもあなたの扉をノックするだろう。準備しておきなさい。死が扉を叩く前に、家に戻ることだ。途中でつかまるわけにはいかない。さもなければ、この生のすべては夢のごとく消え失せ、あなたはとてつもない貧しさ、内なる貧しさの中に置き去りにされることになる。
生は、真の生は、決して死なない。それなら、誰が死ぬのか? あなたが死ぬ。その「私」が、エゴが死ぬのだ。エゴは死の一部だが、生はそうではない。だから、もし無我の状態になれれば、あなたにとって死は存在しなくなる。もし絶えずエゴを落とせるなら、あなたは死を克服する。もしあなたが本当に気づいていれば、それはたった一歩で落とせる。あまり気づいてなければ、徐々に落とさなくてはならないだろう。それはあなた次第だ。しかし、エゴは落ちる必要がある、それだけは確かだ。エゴが消えれば、死も消える。エゴが落ちると同時に、死もまた落ちる。
死に直面している人を気の毒に思わないように。自分自身を気の毒に思うがいい。死があなたを取り囲むにまかせ、その味わいを得てごらん。無力さを、非力さを感じることだ。無力だと、非力だと感じているのは誰だろう? エゴだ――というのも、あなたにはどうすることもできないと分かるからだ。あなたは彼女を助けたいが、できない。あなたは彼女に生き延びてほしいが、何もすることはできない。
その無力感を、できるだけ深く感じなさい。この無力感から、ある気づき、ある祈り、ある瞑想が立ち現われてくるだろう。その人の死を活用しなさい――それは、一つの機会なのだ。すべてを、機会として活用してごらん」
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