1月19日は、OSHOが肉体を去った日。
光明を得た師という存在はつねに、私たちに究極の真理を指し示し、
私たちの本質が身体でも心でもないという真実を指し示してくれている。
マスターは月を差す指なんだよ、
でも月そのものではない、指に噛み付かないようになんて言うわけだけど・・・
師という存在について、そして師と弟子とのつながりについて、言葉で説明するのはとてもむずかしいよね。
それでも、これほどリアルな出会いはないし、
この出会いには、どんなに感謝してもしつくせないんだ・・・
この命日に、OSHOのこんな言葉が目に入りました。
「私に関していえば、あなたがあらゆる人からーー私からもーー自由になるよう、そして、あなたが探求の道においてただ独りになれるよう、あらゆる努力をしている。
存在は、勇気をもって独りで真実を探求する人を尊重する。
追随者は、存在にはまったく尊敬されない。
だから覚えておくように。私が逝くとき、あなたは何かを失うわけではないということを。おそらくあなたは、まったく気づいていないものを手にするだろう。
私は今、肉体に宿った姿、ある特定の形に幽閉された形でのみあなた方に出会うことができているが、
私が逝くとき、私がどこに行けるというのかね?
私はここにいるだろう、風のなかに、海の中に。
そして、あなたが私を愛したなら、私を信頼したなら、あなたは私を千と一つの形で感じるだろう。
あなたの静けさのなかに、突如として私の臨在を感じるだろう。
今のところ、あなたは私の元へと来なくてはならないが、私が身体から解き放たれれば、私の意識は普遍的なものとなる。
そうなれば、あなたは私を探し求める必要はない。
あなたがどこにいようとも・・・あなたの渇き、あなたの愛が・・・そしてあなたは私を、あなたのハートのなかに、あなたの鼓動そのものに見いだすことだろう」
じつは私がOSHOの瞑想センターを訪れたのは、彼が身体を去って3年目のこと。
だから実際に人の形としての彼には会ったことはないのです。
それでも、この言葉はほんとうに沁みるし、
そのとおりだよねと涙、涙・・・
そして今、自分がこうしてあるのは、OSHOのおかげ以外の何ものでもない、
今回、図らずも死についてのOSHOの本を訳すことになったのも、
まさに存在の導き以外の何ものでもないと感じられるから・・・
感謝以外の何ものでもないよーーーー
永遠のいのち、永遠の神秘、時を超えたもの、