岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

水無沢尾根登下行 (3) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(32)

2010-04-14 04:56:25 | Weblog
 (今日の写真は、大黒沢源頭の源頭部にあたる場所だ。水無沢右岸のほぼ上端部から撮ったものである。
 平年ならば、とはいっても少雪傾向がここ10年近く続いているから、10数年前は4月の上旬から春山と言われる時季の5月上旬には、この写真に見られるような「コメツガ」と「ダケカンバ」の疎林は見られなかった。いや、今季はやはり異常な「少雪」なのである。例年はこの時季、この疎林は「積雪」の「下」になっていて、「ない」のである。
 だから、春スキーを楽しむ人たちは、障害物の全くない「大きな大きなカール」状の斜面を、大黒沢の本流口を目指して勇壮に滑降していくことが出来るのである。
 「カール」とは元々ドイツ語で、「圏谷(けんこく)」と訳されている。「氷河の浸食によって山地の谷頭部に生じた半円形の窪地」のことを言う。
 だから、岩木山にはないが、そのような「カール」地形を彷彿させるに足る地形になっている唯一の場所であるのだ。日本には、日本アルプスや日高山脈の頂上付近にある。
ところが、今季は、この「カール」状にとんだ「夾雑物」が生じてしまった。明日から、「スカイライン」が開通して、スキーヤーを運ぶらしいが、これだと、滑降の醍醐味も半減だろう。
 だが、この上端には殆ど「雪庇」が出来ていないから、頂上から、または「耳成岩」方向からやって来るスキーヤーは、ダイレクトに「カール」状の先端に達することが出来ようというものだ。
 次の文は、10数年前の5月下旬の頃の記録である。
…弥生から登る。大長峰の途中から残雪が現れだすと、花は一種も顔を見せなくなった。続くブナ林は幹を白く染め、萌葱色の若葉を空に踊らせていた。根開きはあるものの周囲には3m以上の固く締まった積雪帯が広がっている。
 そして、表面には芽吹きに若葉が脱がせた無数の褐色の莢が敷き詰められていて、まだブナの若葉と積雪だけの世界だ。ブナ林を抜け出ても固くて、厚い積雪帯が続く。
 厳鬼山から耳成岩に連なる肩に着いた。だが、そこには「積雪の特に厚い雪庇」が西から東に向かって横たわっている。高さ(厚さ)は3~4mほどあろうか。ほぼ垂直になっているその雪壁をよじ登ってから、反対側の緩やかな壁を滑り降りて、ゴツゴツとした剥き出しの岩稜帯に、ようやく立った。…
 4月11日には、この「雪庇」、つまり「積雪」の城壁は全く存在していなかったのである。)

◇◇ 水無沢尾根登下行・大黒沢源頭(3) ◇◇
(承前)
 
 …それにしても、ミズナラなどが伐採された跡地には、「マンサク」が多い。その多さを印象づけるのは今が満開だからだろう。登り始めた頃には、「ちらほら」という感じで見え隠れしていたものが、次から次へと出て来るので、いささか、「食傷気味」であった。 私はその気分を紛らわすために、その多い「マンサク」の中に、「マルバマンサク」と「ニシキマンサク」を区別するように、目で追いながら登って行った。
 圧倒的に「マルバマンサク」が多かったが、「ニシキマンサク」が全くないというわけではなかった。
 「タムシバ」の蕾はかなり大きくなっていた。もう少し大きくなると、この蕾は太陽方向に湾曲する。つまり、陽光を受ける側が「早く育って」太くなるのだ。
 これを以て「タムシバ」は「南を教える」花だとされている。南側が太くなり、蕾の先端が北を指すというわけである。だが、この日の「タムシバ」はそこまで育ってはいなかった。
ようやく、伐採地を通り過ぎて、ミズナラとブナが混成する「ミズナラ林」上端と「ブナ林」の下端に入った。
 梢越しに覗く空は青い。だが、妙に薄い白いベールで覆われているような感じだ。やはり、これは5月の空ではない。植物や雪解けなどが示す季節は1ヶ月早く「進んで」はいるが、「空」の色は、まだ「冬」を湛えていた。
 5月上旬の「山」で見る青空には「滴り落ちる透明感を持った青」がある。だが、その日の青空には「透き通る透明感」がない。空全体が「ベール」を張り巡らして、私たちの視線を遮っているようなのだ。(明日に続く)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(32)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 …火野葦平の「革命前後」という作品には「長崎原爆投下直後の写真に報道部員が絶句する場面」がある。実際、葦平は「残虐行為を証明する貴重な資料」である写真を、米軍に押収されないよう友人らに持ち帰らせていたというのだ。
 彼は、「胸ぬちにたぎる思ひを火となして命すつべしゑ(え)みし撃つべし」という短歌を遺している。「ゑ(え)みし」とは、ここでは「アメリカ」のことである。彼の、「原爆や空襲を経験した」末の「ゑみし撃つべし」というこの言葉は、明らかに、米国の「非人道的行為への非難」であろう。また、「アメリカ探検記」では、原爆の投下が「戦争犯罪に問われない不思議さ」についても書いているのだ。
 なお、1956年に米軍占領下の沖縄を描く「ちぎられた縄」を発表し、土地の強制収奪や犯罪の横行を告発し、主人公に「東京政府は、沖縄や、日本国民の幸福を考えるよりも、アメリカの鼻息をうかがうことの方が忙しいらしいからな」とまで語らせているのである。
 断筆時に書いた「悲しき兵隊」の「日本を敗北にみちびく原因になったものが、そのまま戦後もズルズルベッタリに引きつがれるということになれば、…考えるだに空恐ろしい」という一節は胸に突き刺さる。私も今日までこの体制下で生を全うしてきた以上、引き継いできた者の1人なのだろう。そういうことになるのだ。
 葦平は「革命前後」を脱稿後「或(あ)る漠然とした不安のために」と遺書に記して自殺したのである。

 「米軍」に対して、飼い犬のように尻尾を振り、御薦(おこも)のように「ものをねだ」ってから、60年、日本は一向に変わっていない。相変わらず「道義の退廃と、節操の欠如」は存続したままなのだ。(明日に続く)