岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

水無沢両尾根登降山行(4) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(33)

2010-04-15 05:18:52 | Weblog
 (今日の写真は、水無沢左岸尾根ブナ林内で見たブナ幹への刻字である。あえて、格好良く言えば「篆刻」となるのだろうか。だが、篆字ではないので、そうは呼べないだろう。 篆刻とは「木や石、金などに印を彫ること」だ。その文字に多く「篆書(てんしょ)」を用いるからそのように呼ばれている。
 左側の幹には「四月十九日」右側の幹には「カネ」と刻まれている。これを見て、私は不届きで、不心得なことだが、「どうして『年』も刻んでくれなかったのか。残念だ。」と、先ず思ったのである。
 何故かというと、年を刻んでくれると、その年の「4月19日」の積雪量が、正確ではないが分かるからである。
 人が立木に文字を刻む場合の高さは、大体決まっている。それは胸の高さである。その高さが一番作業に適しているからだ。地上から、あるいは積雪上から1.5m乃至は2m程度の部分が最適だろう。
 その日の、その辺りの積雪は1.5mから2.0mほどだった。仮にこれを刻んだ時の積雪もほぼ同じだったとすると、この位置よりもさらに、70cmから1mほど上部に「刻まれる」ことになるはずである。
 ということは、いつだか分からないその年の「4月19日」は今季よりも「積雪」が少なかったということが分かるのである。
 まあ、この「カネ」さん、よほどのへそ曲がりで腰を下ろした体勢で彫ったか、あるいは背丈の極端に低い人であったかも知れない。
 撮影した日は4月11日、これを刻んだのは「4月19日」だ。仮に晴天で「暖かい日」が1週間以上続くことがあるとすれば、「積雪の解け方」は尋常ではない。
 標高600~700mのブナ林内では、幹が太陽熱で暖められて、そこから輻射される熱で、樹木のない雪原よりも「解け方」が速いのだ。場所によっては1日で10cm以上「沈む」のである。そうすれば、「8日間」の違いは80cmだ。
 この写真に見える雪上からの距離に80cmをプラスすると大体、150cm程度になるから、これを刻んだ「年」も今季と同程度の積雪であったと推測することが出来るのである。
 この「刻字」はそれほど古いものではない。だが、私はこの時季に、このルートを何回か登っているが、この「刻字」に出会っていない。見落としたのだろうか。そんなはずはない。これほど明瞭であり、目立つものだ。恐らく、私が以前にここを登った時は「刻字」されていなかったか、積雪の下に隠れていたのだろう。
 白神山地でブナに刻字したとして、マスコミが大騒ぎをし、森林管理署まで問題視して右往左往していたが、私はそれほど騒ぎ立てることではないと思っている。
 「至る所に」となれば「度が過ぎるいたずら書き」と同様、社会問題化するだろうが、この程度ならば格好の「標識」である。それに、この程度の「刻字」で「ブナ」が枯れるということは絶対にあり得ない。
 だからといって、私はこのような行為をしているのかというと、それは絶対にない。ブナの幹が愛しいからだ。) 

◇◇ 水無沢両尾根登降山行(4) ◇◇
(承前)
 …その日の青空には「滴り落ちる透明感を持った青」がなかった。「透き通る透明感」がないのだ。その日、11日の東京の最高気温は23.2℃で、5月中から下旬並みの暖かさとなったそうだ。だが、岩木山の標高1000m付近では「霧氷」が付着するほど気温は低かった。晴れてはいたが「寒気」は冬であったのだ。
 だが、東京では、翌12日は3月下旬並みの14.3℃までしか上がらないなど、日ごとの気温差がすごく大きいのである。
 そして、昨日14日には、北日本の上空1500mで氷点下9℃というこの時期としては強い寒気が流れ込んだのである。
 今季、特に4月に入ってから、「寒暖の差」の激しい天気が続いている。気象庁によると、「平年より強めの寒気と暖気が日本列島付近でせめぎ合っている」ことが原因だそうだ。昨日は、強い冬型の気圧配置となった。東北の日本海側に暴風雪警報が出され、北海道の広尾町では風速40mを超すほどの強い風が吹くなど、東北と北海道を中心に大荒れの天気となった。今朝も気温が上がらず、この時点で外気温は4℃ほどだ。
 このように「寒暖の差が激しい原因」は、寒気と暖気双方の勢力が平年より強いことだ。北極付近の気圧が高く、日本など中緯度付近の気圧が低い状態が続いているため、北極付近の寒気が中緯度帯に流れ込みやすくなっている。
 これが、寒さが続く要因であり、青空から「滴る透明感」を削いでいるのである。
 ところが、もう一方、太平洋赤道近くの海面水温が高くなる「エルニーニョ現象」の影響などで暖気も強いというのである。
 その「暖気」が日本列島をすぽっりと覆うようになると「滴る透明感を持った青空」が、この岩木山の上空を全宇宙的に染め上げるのだ。そうなるにはやはり、あと20日以上は待たねばなるまい。(明日に続く)
 
◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(33)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 …劇作家の「井上ひさし」が亡くなった。一昨日の朝日新聞「天声人語」には、そのことに関して、次の一節があった。
 …庶民の戦争責任を問う「夢の痂(かさぶた)」を上演したあとだった。戦犯を悪者にして知らぬ顔を決め込んだ日本人の戦後を、滑稽(こっけい)味をまじえて問う劇である。脚本を書くうち、(井上ひさしは)日本語を問題にすることになったと話していた。「日本語は主語を隠し、責任を曖昧(あいまい)にするのに都合が良い。その曖昧に紛れて多くの人が戦争責任から遁走(とんそう)した」と。…

 私はこの小論を書きながら、これを読み、この中の次の部分に釘付けとなってしまった。
「戦犯を悪者にして知らぬ顔を決め込んだ日本人」と、「日本語は主語を隠し、責任を曖昧(あいまい)にする」、それに「その曖昧に紛れて多くの人が戦争責任から遁走(とんそう)した」…というところである。 そして、手遅れかも知れないが、深く反省した。
 まさに、「精神的、道義的、文化的に”根無し草”」であり、何事にも他人事となってしまう、どのようなことでも他人事にしてしまうという日本人の体質である。加えて、「総括の出来ない」日本人である。
 戦争を仕掛け、完敗(スコンク)したというのに、敗れた理由や原因なりを総括もせず、反省もせず、そのまま別のものに容易に移行し、簡単に「愚かな覚醒」して、いい気になっているのが日本人である。(明日に続く)

水無沢尾根登下行 (3) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(32)

2010-04-14 04:56:25 | Weblog
 (今日の写真は、大黒沢源頭の源頭部にあたる場所だ。水無沢右岸のほぼ上端部から撮ったものである。
 平年ならば、とはいっても少雪傾向がここ10年近く続いているから、10数年前は4月の上旬から春山と言われる時季の5月上旬には、この写真に見られるような「コメツガ」と「ダケカンバ」の疎林は見られなかった。いや、今季はやはり異常な「少雪」なのである。例年はこの時季、この疎林は「積雪」の「下」になっていて、「ない」のである。
 だから、春スキーを楽しむ人たちは、障害物の全くない「大きな大きなカール」状の斜面を、大黒沢の本流口を目指して勇壮に滑降していくことが出来るのである。
 「カール」とは元々ドイツ語で、「圏谷(けんこく)」と訳されている。「氷河の浸食によって山地の谷頭部に生じた半円形の窪地」のことを言う。
 だから、岩木山にはないが、そのような「カール」地形を彷彿させるに足る地形になっている唯一の場所であるのだ。日本には、日本アルプスや日高山脈の頂上付近にある。
ところが、今季は、この「カール」状にとんだ「夾雑物」が生じてしまった。明日から、「スカイライン」が開通して、スキーヤーを運ぶらしいが、これだと、滑降の醍醐味も半減だろう。
 だが、この上端には殆ど「雪庇」が出来ていないから、頂上から、または「耳成岩」方向からやって来るスキーヤーは、ダイレクトに「カール」状の先端に達することが出来ようというものだ。
 次の文は、10数年前の5月下旬の頃の記録である。
…弥生から登る。大長峰の途中から残雪が現れだすと、花は一種も顔を見せなくなった。続くブナ林は幹を白く染め、萌葱色の若葉を空に踊らせていた。根開きはあるものの周囲には3m以上の固く締まった積雪帯が広がっている。
 そして、表面には芽吹きに若葉が脱がせた無数の褐色の莢が敷き詰められていて、まだブナの若葉と積雪だけの世界だ。ブナ林を抜け出ても固くて、厚い積雪帯が続く。
 厳鬼山から耳成岩に連なる肩に着いた。だが、そこには「積雪の特に厚い雪庇」が西から東に向かって横たわっている。高さ(厚さ)は3~4mほどあろうか。ほぼ垂直になっているその雪壁をよじ登ってから、反対側の緩やかな壁を滑り降りて、ゴツゴツとした剥き出しの岩稜帯に、ようやく立った。…
 4月11日には、この「雪庇」、つまり「積雪」の城壁は全く存在していなかったのである。)

◇◇ 水無沢尾根登下行・大黒沢源頭(3) ◇◇
(承前)
 
 …それにしても、ミズナラなどが伐採された跡地には、「マンサク」が多い。その多さを印象づけるのは今が満開だからだろう。登り始めた頃には、「ちらほら」という感じで見え隠れしていたものが、次から次へと出て来るので、いささか、「食傷気味」であった。 私はその気分を紛らわすために、その多い「マンサク」の中に、「マルバマンサク」と「ニシキマンサク」を区別するように、目で追いながら登って行った。
 圧倒的に「マルバマンサク」が多かったが、「ニシキマンサク」が全くないというわけではなかった。
 「タムシバ」の蕾はかなり大きくなっていた。もう少し大きくなると、この蕾は太陽方向に湾曲する。つまり、陽光を受ける側が「早く育って」太くなるのだ。
 これを以て「タムシバ」は「南を教える」花だとされている。南側が太くなり、蕾の先端が北を指すというわけである。だが、この日の「タムシバ」はそこまで育ってはいなかった。
ようやく、伐採地を通り過ぎて、ミズナラとブナが混成する「ミズナラ林」上端と「ブナ林」の下端に入った。
 梢越しに覗く空は青い。だが、妙に薄い白いベールで覆われているような感じだ。やはり、これは5月の空ではない。植物や雪解けなどが示す季節は1ヶ月早く「進んで」はいるが、「空」の色は、まだ「冬」を湛えていた。
 5月上旬の「山」で見る青空には「滴り落ちる透明感を持った青」がある。だが、その日の青空には「透き通る透明感」がない。空全体が「ベール」を張り巡らして、私たちの視線を遮っているようなのだ。(明日に続く)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(32)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 …火野葦平の「革命前後」という作品には「長崎原爆投下直後の写真に報道部員が絶句する場面」がある。実際、葦平は「残虐行為を証明する貴重な資料」である写真を、米軍に押収されないよう友人らに持ち帰らせていたというのだ。
 彼は、「胸ぬちにたぎる思ひを火となして命すつべしゑ(え)みし撃つべし」という短歌を遺している。「ゑ(え)みし」とは、ここでは「アメリカ」のことである。彼の、「原爆や空襲を経験した」末の「ゑみし撃つべし」というこの言葉は、明らかに、米国の「非人道的行為への非難」であろう。また、「アメリカ探検記」では、原爆の投下が「戦争犯罪に問われない不思議さ」についても書いているのだ。
 なお、1956年に米軍占領下の沖縄を描く「ちぎられた縄」を発表し、土地の強制収奪や犯罪の横行を告発し、主人公に「東京政府は、沖縄や、日本国民の幸福を考えるよりも、アメリカの鼻息をうかがうことの方が忙しいらしいからな」とまで語らせているのである。
 断筆時に書いた「悲しき兵隊」の「日本を敗北にみちびく原因になったものが、そのまま戦後もズルズルベッタリに引きつがれるということになれば、…考えるだに空恐ろしい」という一節は胸に突き刺さる。私も今日までこの体制下で生を全うしてきた以上、引き継いできた者の1人なのだろう。そういうことになるのだ。
 葦平は「革命前後」を脱稿後「或(あ)る漠然とした不安のために」と遺書に記して自殺したのである。

 「米軍」に対して、飼い犬のように尻尾を振り、御薦(おこも)のように「ものをねだ」ってから、60年、日本は一向に変わっていない。相変わらず「道義の退廃と、節操の欠如」は存続したままなのだ。(明日に続く)

水無沢左岸霧氷樹と太陽(2) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(31)

2010-04-13 05:19:56 | Weblog
 (今日の写真は、標高1000mほどの水無沢左岸で見た光景である。11日のことである。
11日は岩木山の水無沢左岸の尾根末端から登り始めて、その尾根の左端をひたすら登って、赤倉キレットからの稜線ピーク「赤倉御殿」と標高1457mピークとの鞍部にたどり着いた。この光景はその途中のものである。
 その鞍部から赤倉御殿まで移動した後で戻って、今度は1457mピークの尾根先端まで行き、そこから、その細い尾根、稜線を辿りながら水無沢に区切られている尾根末端まで下山して、朝に尾根に取り付いた場所に戻ってきた。
 大きくて、広くて深い水無沢の景観を、左から見て、真上から見て、右から見て、末端から見るというまさに全方位、魚眼レンズ的な把握の仕方で、楽しめた山行であった。
 「登って降りるのが登山」だが、登るルートと降りるルートを違えるだけでも、そのバルエーションは大きく変わる。既成の登山道をただ辿るだけの登山やガイドブックに従うだけの登山では味わえないものが沢山あるのだ。それを支えるのは「登る」人たちの自主性と感性であろう。)

◇◇ 水無沢左岸霧氷樹と太陽雪原、それはひとときの天空の戯れ事 ◇◇

 …天気予報はまたまた「大荒れ、雨降り」だった。だが、低気圧は前日に早々と東に移動して行った。その日の早朝は、その尻尾を引きずっていて、岩木山は雲に覆われていた。
 朝、7時に拙宅を出発した。弥生登山道標識1合目の300mほど手前に「駐車」して、7時45分に登山を開始した。
 その頃になると、覆っていた雲が中腹部から薄くなり、登るべき左岸尾根の稜線まで上がった頃には、南には「青空」が覗くようになった。「大荒れ、雨降り」はどこに行ったのか。まあ、「天気予報が外れることは毎度のこと」だから、腹も立たない。なまじ信ずるから腹も立つのである。はなから「信じていない」と腹も立たないというものだ。むしろ、「自分の見立」が当たるのだから、「名医になった」ような気分で嬉しい。 積雪が少ないので、ミズナラなどが伐採された跡地には、その「ヒコバエ」やタムシバ、マンサクなど陽樹の若木が雪面に出ていて、それが邪魔をして歩きづらい。
 1996年に水無沢と大黒沢の末端の尾根では、「ミズナラ」が皆伐されてしまった。一部はスギが植林されたが、その他は「皆伐」したままで、それが、いま、「歩きづらい」原因をなしているのである。これでも、手入れのなされていない「スギ」の植林地を辿るよりは大いに楽だといえるのだ。(明日に続く)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(31)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 敗戦で世相は一変した。「人々は米軍におもねり」、火野葦平は糾弾された。葦平はそのことを「道義の退廃と、節操の欠如こそ、敗北の真の原因」と書き残して、敗戦1カ月後に断筆した。
 つい、さっきまで敵対する「鬼畜米英」だった「米軍」が、日本にまるで「幸」をもたらす存在でもあるように、あるいは「平和の使者」であるかのごとく、日本人は「挙って」阿(おもね)り諂(へつら)う。これを葦平は「道義の退廃と、節操の欠如」と指弾する。
 「鬼畜」とは「鬼と畜生」のことだ。「鬼畜にも劣る行い」などと慣用的に使われる。
そして、「残酷な行いをする者。恩義を知らない者」という意味を表している言葉だ。
 私は米軍のことを「平和の使者」などと思ったことはない。私は直接、米軍の弾丸を受けたこともないし、爆撃にさらされたこともない。
 だが、この「鬼畜」という形容・呼称が間違いではなかったと思っている。
…だからといって「鬼畜米英」と言わせた日本軍国主義を認めているわけではない。逆に絶対許せないと思っている。…
 それは、敗戦が確実になって、「日本軍」がもはや「戦闘能力」を失いつつあった時点で、非戦闘員である多くの日本人市民を、艦砲射撃で、飛行機による爆撃の焼夷弾で、撃ち殺し、焼き殺すといった所業を、平気でやったということである。
「焼夷弾」とは「少量の炸薬(さくやく)」が使われているから「爆発力は弱い」が、同梱されている大量の焼夷剤が火の海となるのである。日本人の木造家屋を焼き払い、そこに住む人民を焼き殺すにはうってつけの「砲弾・爆弾」であったのだ。おそらく、米軍はそのためにこの「焼夷弾」を開発したのであろう。これを小型化し爆発延焼率を高度化したものが「ベトナム戦争」で大量に使用された「ナパーム弾」であることは想像に難くない。
 そして、まさに「鬼畜」としての所業は、広島と長崎への「原子爆弾」の投下である。
 日本の降伏が目に見えていたのに「無条件降伏」を手に入れて、連合国の一員として「日本統治の占有権」をほしいままにするために、日本人を恐怖のどん底に落として、従わせて支配するために、「世界で初めての大量殺人兵器」である原子爆弾を使ったのだ。
 その「アメリカ」が民主主義のためといって、大量殺人化学兵器を所有しているとして「イラク」を攻めた。「目くそ」が「鼻くそ」を攻め、「目くその一片」である日本は、それに追随した。小泉首相は「私が大量殺人化学兵器がイラクにあるというからあるんです」と詭弁を弄して、アメリカについた。
 「原爆」投下は「鬼畜」の所業である。それは、「人間に対する犯罪」でもある。だが、これまで、「原子爆弾」を「被爆」した日本が、その「戦争犯罪」を追及したことがあるか。
 犯罪者である「アメリカ」は一度たりとも日本に対して「原爆投下」について「謝罪」をしたことがあるか。ないだろう。
 「アメリカ」からすると「謝罪要求」がない限り「犯罪を犯した」という意識もないだろうし、だからこそ「謝罪」もない。日本に対して、中国や韓国などが「侵略戦争」としての「謝罪要求」をし続けた結果ようやく「遅きに逸した」が「村山談話」という形で、それが出された。連立でなく頑迷な保守政権単独の政府であったなら、恐らくいまだに「謝罪」はなかったかも知れない。
 原爆投下という戦争犯罪は永遠に「追及」されるべきだし、「謝罪要求」も続けるべきである。日本国民全員が「広島原爆資料館」を訪れるべき」という一項目を憲法の条文に盛り込むことを私は期待している。そこまでしなければ「国民の総意である謝罪要求」は出てこないだろう。
 ドイツでは、その憲法に「アウシュビッツで非人間的な虐殺行為という事実を否定する」だけでも罰せられるという条文があるということだ。(明日に続く)  

水無沢右岸雪原 / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(30)

2010-04-12 05:14:20 | Weblog
 (今日の写真は、岩木山の水無沢左岸尾根から見た「対岸」の雪原である。このように急な斜面が一気に谷底へと落ち込んでいる。
 実は、撮影ポイントであるこの場所からも「水無沢」へは急激に、まるで垂直に近い感じで谷底に落ち込んでいるのだ。
 水無沢は旧い「爆裂火口」なのである。岩木山には12もの爆裂火口があるが、この「水無沢爆裂火口」はその中でも旧い方に入る。
 「水無」という名称に、この沢の特性が含まれている。この沢は「湧水」という「水源」を持たない。しかも、両尾根で集められた「雨水」や「積雪」からの水は、「大量」の場合は目に見える水として、沢を流れ下るが、その大半は「地下に潜って」しまうのである。
 いわゆる、「扇状地形」の沢であり、砂漠の「ワジ(涸河)」に似ている。つまり、沢を流れ下る水が表面上は見えない、水が「無い」沢ということなのである。)

◇◇ 水無沢右岸雪原、それは白のキャンバス ◇◇

 前置きが長くなったが、今日の写真で言いたいことは、この広くて急峻な雪原に描かれている「模様」のことだ。
 遠くから見ると、一面凹凸のない単なる「斜面」である。稜線の先端から転げ落ちたり、滑落して、「セルフビレイ(自己確保)」が出来ないと、谷底に真っ逆さまだ。
 それは「広くて急峻な氷の滑り台」なのだ。滑り台というと、子供たちが大好きな公園の遊具である。だが、この「」はそのような子供心をくすぐるような「可愛らしく愛着のある」ものではない。「滑ったら最後」死へ向かってのダイビングになってしまうのだ。
 運がよければ、全身打撲、擦過傷程度だろうが、大概は「命尽きる」はずだ。そのようなことしか考えさせてくれない。いわば、恐怖の急斜面ということだ。
 だが、「雪原」は一様ではない。遠目には滑らかに見えても、鉋で削ったように突起物が無く、凹凸が無いわけでもない。

 この写真は、そのことを明らかに教えてくれる。その凹凸は円を描いている。その円は渦巻きである。まるで、雪面のトルネード、そうかと思うと直線上に走る穿ちもある。
 黄砂をしみこませて薄黄色に変色した部分もある。流れては湾曲し、途切れては次の曲線を描く。「平面」に見える雪原は、白のキャンバスである。だが、それは余白でもなければ空白でもない。
 描き手はすべて「自然」だ。画材もすべて自然そのものだ。そこには「人工物」はない。そして、明暗と輪郭を明らかにするものは太陽だ。よく晴れた天気だった。太陽はこの写真の上方に位置している。舞台の照明には、この「操作」は出来まい。一点を照らし出して「ライトアップ」は可能だろうが、全方位的に、魚眼レンズのような光の放射は出来ない。太陽はそれをやってのける。偉大な太陽がこの芸術作品の幕を開けたのである。
 それを「鑑賞」するのが、私一人だとするとこれは余りにも贅沢な話しだろう。だが、この「贅沢」は、そこに行かないと手に入らない。
 これは、雪原全体が「ナスカの地上絵」なのである。登山とは、ただ頂上だけを目指すものではない。ピークハンターほど、多くのものを見ていないものはないと私は思う。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(30)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 そして、このような歴史的事実の基に、その後「密約」を交えながら確固として存在し続けてきた「日米安保条約」、いままた「日米同盟」である。多くの日本人は50年前の歴史的な事実を思い出しながら、顧みながら「日米同盟」のことを見ようとはしない。
 この国の首相自らが、余りにも安易に「日米同盟」を捉え、口にする。政治家たちにあっては、「日米同盟」という言葉が、ためらいもなく口にされるようになった。
 緊近の「米軍普天間飛行場の移設」問題では、沖縄の民意より「同盟堅持」を優先しようとの意図が透けて見える。
 果たして「同盟」とは何なのだろう。ましてや、「日米同盟」とは何なのだろう。
 「同盟」とは、「個人・団体もしくは国家が互いに共同の目的のために同一の行動をとることを約すること。また、その結果として成立した提携関係」であり、「同盟国」とは、「互いに同盟関係にある国家、すなわち同盟条約の当事国」とあり、「同盟条約」とは「」第三国に対する攻撃または防御のために相互に援助を約する条約」であると広辞苑にはある。
 ここに言う意味どおりに捉えるならば、「日米同盟」の「共同の目的のために同一の行動をとること」とは何を指すのだろう。日本は戦後一貫してこの「日米同盟」という条約に縛られてきた。
「同盟条約」にいう「第三国に対する攻撃または防御のために相互に援助を約する」こととは「戦争放棄」と「専守防衛」を規定した現憲法に対して明らかに「違反」である。「攻撃」という言葉がそれを如実に示しているではないか。
 これまでの「密約」はこのことを踏まえた上で、政府与党がしてきたことに他ならない。つまり、「日米同盟」が持つ日本国憲法との矛盾を国民に知らせないために、「密約」を堅持してきたのである。大多数の国民が選んだ政党が、その主権者である「国民」を欺いてきたのである。国民は完全に政府与党から馬鹿にされていたのである。もちろん欺く方が悪いに決まっているが、欺かれる国民にも、欺かれる要因はあった。それは、やはり「根無し草」いや、ネナシカズラであったことに因るだろう。 
 「自主憲法制定」とか「憲法改正」を声高に言う人たちがいる。つい最近も「憲法改正」を唱って、老年「新党」が出来た。私は「憲法改正」よりも先に、この「日米同盟」を「解約」する方が先だと思っている。また、現行憲法はその作られ方を問題にする前に、世界的なレベル、つまり、「世界の平和」というレベルで、その中身を問うべきだと思っている。「世界の平和」に貢献できる中身、内容であるならば、「改正」は改悪になるだろう。
 
 話しを、4月7日に毎日新聞電子版「記者の目」欄に「『日米同盟50年』賛美への異議」という小論が載ったことに戻す。火野葦平のことだ。
 そして、この「『日米同盟50年』賛美への異議」を借りながら、少し書いてみたい。
 火野葦平はヒューマニストだった。例えば「麦と兵隊」は兵隊の日常をつづったルポルタージュで、中国兵惨殺の場面も登場する。戦後の代表作「花と龍」をはじめ、作品の登場人物は庶民ばかりである。
 葦平は早大在学中は米文学に親しみ、社会に出てからは労働運動も体験しているが、一方で「戦前教育を受けた皇室崇拝者」でもあった。
(明日に続く)

「プリムラ」と「桜草のこと」(4) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(29)

2010-04-11 05:06:53 | Weblog
 (今日の写真は、日本在来種の「サクラソウ科サクラソウ属」で、「プリムラ・シーボルディー(Primula sieboldii)」と呼ばれる「サクラソウ(桜草)または、ニホンサクラソウ(日本桜草)」である。北海道・本州・九州に分布しているとされているから、この弘前周辺でも、かつては明るく湿った草地、低地の河川敷や山麓の疎林下など、人里に近いところに自生していたものと考えられる。
  やはり、「プリムラ・ポリアンサ」の日本を代表する仲間だ。葉の格好や、その縮れ方と裂片はまさに、「プリムラ・ポリアンサ」そっくりである。
 それに、花と花びらの裂け方、色具合が何と、「ミチノクコザクラ」に似ていることか。葉の形の違う、大きめの「ミチノクコザクラ」が、かつては岩木山山麓の水辺の草地にいっぱい咲いていたのかと思うと、それを見ることの出来ない自分を含めた現世の多くの人たちの「悔い」を感ずるのだ。
 …恐らく、誰かの庭に、かつて自生していたものを掘り採ってきて植えたものが、生き続けているのではないだろうか。それを探し当てたいものである。)

◇◇ プリムラ・ポリアンサと「桜草のこと」(4)◇◇
(承前)

 …「サクラソウ」が「絶滅危惧種」に指定されているからといって、まったく「全国的」に自生地がなくなってしまったわけではない。そのわずかに残っている「自生地」でも、草刈りなどが行われなくなったために「サクラソウ」が衰退し、消滅し続けている。
 ところが、その消滅を最近、どんどんと加速させることが起こっている。それは、「サクラソウ」が種子をつけなくなってきていることである。
 何故か、自然生態学的にも、行政的にも全く「無計画な都市化にともなう周辺の開発」によって、「自生地」が孤立してしまっていることに因る。つまり、「生物多様性」が失われてしまったのだ。
 そのため、「サクラソウの花粉を媒介する昆虫がいなく」なり、受粉し、種子をつける機会が減ったからなのである。日本の行政にも、住んでいる人にも「生物多様性」という視点はいまだに非常に少ない。

 「絶滅危惧種」を出さないためには、「単にその種のみに注目するのではなく、その種が生きる環境そのものも考えなければいけない」のである。

 「小林一茶」の俳句に「我が国は草も桜が咲きにけり」というのがある。かなり、ユーモアたっぷりで、ふざけたものだが、このような俳句の詠まれること自体、「我が国、日本にはサクラソウが多かった」ことを示しているものだろう。
 『私の国では、木の桜だけでなく草に桜があってそれが咲くのであるよ。』と解釈すると、一茶の自慢げな顔が浮かんでくるような気分になる。

 サクラソウの仲間には「オオサクラソウ」とオオサクラソウの北海道版ともいえる「エゾオオサクラソウ」がある。私はこの2種類ともに出会ったことはない。何しろ「咲く」という場所に出かけていないからだ。ひょっとすると一生会えないかも知れない。
 「オオサクラソウ」は、あの残雪の多い白馬岳、大雪渓のはじまる「白馬尻」付近で見られるそうだ。雪渓を少し登って、積雪が溶けたばかりの斜面にポツポツと咲いているという話しである。
 「エゾオオサクラソウ」は、名前通り北海道でしか見られない。これは、アポイ岳のものが有名だ。アポイ岳を登り始めると、直ぐに出会えるという。
 樹林の下で、鮮やかなピンク色で咲いているそうだ。最初は疎らな咲き方だが、登って行くに従い「一面に咲く」姿に出会えるという。きっと、見事なものだろう。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(29)◇◇
(承前)

 …「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 …「19歳の私」は忘れない。間もなく、69歳になるが、この年になっても忘れない。忘れられないのだ。
 1960年6月14日から15日にかけての「事件(虐殺)の流れ」は大まかに言うと次のようになる。
 14日の午前中、総評・中立系労組580万入が参加した第2波実力行使が行われた。これもすごい数である。この頃の労働者はあくまでも労働者であって、中流意識などは持っていなかった。
 その日、参議院第2通用門付近にいた「全学連反主流派と労組、新劇人などのデモ隊」に対して、右翼の「児玉誉士夫」率いる維新行動隊が突人したのである。右翼の行動隊は女性参加者の多いデモ隊をねらって襲いかかった。
 警官隊は右翼の行動を放任した。右翼は警官隊の目の前で、女優たちに暴行の限りを尽くしたのである。
 右翼というと戦争中に「鬼畜米英」を声高に叫んだ集団だ。それが、その時も、それからもその主義を180度変えて「鬼畜の手下」となっていくのである。これもやはり、「ネナシカズラ」である。
 実力排除を開始した警官隊は、逃げる学生を後ろから警棒で乱打し、全員を外に押し出した。降りしきる雨で足をとられる負傷者を手当たりしだいに捕まえ、護送車に送って逮捕していった。
 門外へ押し出されたデモ隊には、再突入の力はもはやなく、ただ国会を取り囲むのみだった。ところが16日末明に、警官隊は催涙弾を発射し、警棒を持ってこれらの人々に襲いかかったのである。
 これらの衝突で死者1人(樺美智子)、負傷者は重傷43人を含め589人にのぼり、逮捕者は182人を数えた。
 樺美智子が殺された6月15日7時10分から15ごろと推定される。解剖を行った医師は「眼にひどいうっ血があった。これは首を強くしめつけられたため。ひどいすい臓出血は上から踏みつけられたもの」と述ベ、警官隊の暴行による死亡を認めた。

「樺美智子」の墓誌には次の詩が刻まれている。    
「最後に」       
誰かが私を笑っている/向うでもこっちでも/私をあざ笑っている/でもかまわないさ/私は自分の道を行く/笑っている連中もやはり/各々の道を行くだろう/よく云うじゃないか
「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と
でも私は/いつまでも笑わないだろう/いつまでも笑えないだろう/それでいいのだ/ただ許されるものなら/最後に/人知れずほほえみたいものだ

 その樺美智子の願いも空しく「ほほえむ」季節は遠のくばかりだ。(明日に続く)

「プリムラ」と「桜草のこと」(3) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(28)

2010-04-10 05:21:36 | Weblog
 (今日の写真、またまた「プリムラ・ポリアンサ」である。一見して思うことは、「どうして、こんなに色鮮やかなのだろう」ということである。
 長いこと、岩木山の高山帯や林縁、原野などで「野生の花」と出会ってきた者としては、この「感慨」は一入(ひとしお)である。
 中には「どきつい色合」のものがないわけではないが、「野生」の花は総じて、その色合いは「淡泊」である。単純に言うと「花」の色合いは「受粉」を「媒介」してくれる「虫」を引き寄せるためのものだ。虫媒花にあっては、皆そうだろう。そのために、同種であれば「色」は大体同じだが、「模様」などは違いがある。
 間もなく咲き始める「カタクリ」は花弁の模様が、仮に1万本あれば、皆違うと言われている。これは、「カタクリ」自身が「自己」を虫にアピールしていることだ。何という「個性的」な営みではないか。そして、これが、「生物多様性」の一事象でもある。
 「植物」も「動物」も、「人手」を借りずに「自然に沿って」進化してきた。「自然」という絶対の前で、「不変の自然に逆らうことなく」己たちを変化させることで、長い長い時間をかけながら進化してきたのだ。
 ところで、この「どうして、こんなに色鮮やかなのだろう」という「感慨」は私を恐怖のドン底に突き落とすのである。
 この「プリムラ・ポリアンサ」は園芸種として、人間によって「造り出された」品種である。日本在来種の「サクラソウ科サクラソウ属」の花で、このような「色彩」のものはない。人間が「自分好み」で交配をして、このような「色」のものを「自然界」に創り出したのである。その動機は、あくまでも「個人的であり、利己的」である。そのために、「自然の植物界」における「ルール」を無視したのだ。これは、植物だけではない。動物にあっても同じだ。家畜や魚類の養殖も同じだ。「ウナギ」までも「養殖」が可能になったというから、驚きを越えて恐ろしい。
 もしも、私たち人間以外の生物が、この地球上にいて、その「生物の好み」で、「私たちが飼育されたり、遺伝子組み換えなど」されたら「許すこと」が出来るか。そのようなことを人は、人以外の生き物にしているのである。
 この花の色合いは「血の色」である。狂牛病も、牛肉を食べるための人工飼育に対するしっぺ返しだろう。そろそろ、「自然に関与すること」を止めよう。すべてにおいて「あるがまの自然」で満足しようではないか。
 この「プリムラ」は私が「歩く」加藤川沿いの道端に咲いていたものだ。川が増水した時に、上流のどこかの庭から「漂流」してきて、根づいたものだろう。これで、この場所の「本来の自然」は攪乱されるのである。)

◇◇ プリムラ・ポリアンサと「桜草のこと」(3)◇◇
(承前)

…もう1種日本在来種の「サクラソウ科サクラソウ(プリムラ)属」がある。それは「プリムラ・シーボルディー(Primula sieboldii)」と呼ばれる「サクラソウ(桜草)または、ニホンサクラソウ(日本桜草)」である。
 これは、北海道・本州・九州に分布している耐寒性の多年草で、草丈が15~30cmの花茎を伸ばし、その先端に7~20個のピンク色の花をつける。花の径は2~3cmで花期は2~5月である。
 今日の写真のような「西洋桜草」に対して、すっきりとした花姿の「在来種サクラソウ」である。学名のシーボルディー(sieboldii)とはドイツ人の「シーボルト」とのことであり、その「シーボルト」が西洋に紹介したことに由来している。
 最近、「プリムラ」などという外来種に日本人はうつつを抜かしているが、そうしている内に「在来種」の「サクラソウ」はすっかり陰を潜めてしまった。いまや、「絶滅危惧II類(VU)」とされている。
 「サクラソウ」は本来、明るく湿った草地を好み、低地の河川敷や山麓の疎林下など、人里に近いところに多く自生していた。
 だが、都市の拡大や農耕地の開発によって多くの「自生地」が消滅してしまった。それと、併行して「園芸目的の乱獲」が祟り、「絶滅危惧II類(VU)」に指定されるほどに激減したのである。もう一度言おう。私はまだ、自生する「サクラソウ」を見たことはない。 昔、群生地は、春の生育期には十分な日光があたり、夏の休眠期には草や木の陰になり、晩秋には堆肥や燃料として原野の草刈りが行われたりして、保護されていたのである。(明日に続く)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(28)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 4月7日に毎日新聞電子版「記者の目」欄に「『日米同盟50年』賛美への異議」という小論が載った。
 …火野葦平(あしへい)が敗戦の日につづった短歌15首が、日米安保50年と重なる没後50年の今年見つかった。その歌は、「同盟50年」を無批判に受け入れる人々への異議のように思える。…というのがその趣旨である。
 火野葦平は、戦時中の行為を自省しつつ、原爆投下など米国の非人道的行為も問い、1960年に53歳で自殺した。

 いわゆる「60年安保」は、私が19歳の時のことだ。私はその頃、定時制高校の4年生、働きながら大学進学を目指して勉強していた。
  大学進学は、幼稚にも「教育でこの不平等な世をかえたい」と思ったからである。「世の中」は簡単には変わらないものである。そして、大学に合格して、やっと卒業して高校の教員になった。
 40年近く教員を続ける中で、この「教育でこの不平等な世をかえたい」という思いを忘れることはなかった。私は「食うため」とこの思いの「実現のため」に毎日を生きてきた。だが、それは実現されず「不平等で格差のある社会」は今も続いている。
 「安保反対」運動の中心は「大学生」だった。連日、連夜、大学生は「デモ」を繰り返し、新聞やラジオはその詳細を報じていた。
 私の「大学生になりたい」という思いの側面には、「安保反対」に賭ける多くの大学生の「自主独立」と「アメリカ帝国主義反対」という純粋な行動に惹きつけられるものが、確かにあったし、大学生になって、このような行動に参加しなければいけないとも思った。
 まさに、「国論を二分した日米安保改定」から半世紀が経った。あれほどの歴史のうねりの中で、まさに、「命がけ」の運動の中で、「成立」していった「日米安保改定」だ。
 19歳の私は忘れない。それは…1960年6月15日、「安保条約反対」を叫ぶ全学連の学生たちが国会に突人した。そして、警官隊と激しく衝突を繰り返す中で、東京大学文学部国史学科の学生、樺美智子(22歳)が警宮隊によって虐殺されたことである。…(明日に続く)

プリムラと「桜草のこと」(2) / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(27)

2010-04-09 05:18:43 | Weblog
 (今日の写真は、野鳥の「巣」である。今月4日、岩木山赤倉沢左岸尾根、「ミズナラ林」の上部の東に向いた林縁で見たものだ。ちょうどその辺りになると「ブナ」も混じってくる。
 巣のある木は、まだ若い「ブナ」だ。樹高は5mほどだろうか。その上部の枝が四方に張りだした場所を「小枝」を埋めるように、または積み重ねたようにして造ってある。地上高は4mほどだろうか。大きさは30cm四方に、厚さは10cmぐらいである。
 これは、昨年か一昨年の「ハト目ハト科キジバト」の巣である。「キジバト」は岩木山の雑木林でよく、その鳴き声を聞く。「デッデッポッポー」と鳴くといわれるが、私には「ハトポッポー」と聞こえる。「デデッポッポー」と鳴くのは繁殖期に相手を求めている時とか「縄張り宣言」をしている時だそうだ。
「ヤマバト」とも呼ばれるが、正式名は「キジバト」だ。北海道以外では「留鳥」とされている。餌は植物質のものが多い。「オス、メス」は、よく似ている。だが、「オス」は繁殖期になると目の周りが赤くなるので区別が出来る。
 「キジバト」で興味が引かれることは「繁殖期に鷲・鷹のような猛禽類に似た飛び方」をするということだ。それは、「翼を動かさず、風に乗って飛ぶ」ということだ。これは、「テリトリー」を守り、宣言している飛び方である。
 間もなく、この「ディスプレイフライト」が見られるだろう。
 さて、今日の写真「キジバトの巣」だが、見て分かるとおり「巣材」は小枝である。「人工物」は何一つ使っていない。純粋に「自然材」だけの「木製」で造られている。「キジバト」の巣は、ヒワなどの小鳥の巣とは違い、かなり、粗雑に造られている。
 「巣」を造る場所は地上1~7mの高さで、都市部でも「生け垣の中」などに造ることもある。巣材を運ぶのはオスだけといわれている。2個の卵を産み、昼間は「オス」、夕方から翌朝まで「メス」が抱卵する。
 抱卵期間は約2週間、巣立ちまでの期間も大体2週間である。ハト独特の「嗉囊(そのう)」から出す「ピジョンミルク」で子育てをする。「嗉囊」とは、鳥類の食道の後端にある袋状部のことで、食物を一時貯え、漸次前胃を経て砂囊に送る役割をするものである。「種子」などを食べる鳥でよく発達し、昆虫などを食べる鳥のものは小さい。)

◇◇ プリムラ・ポリアンサと「桜草のこと」(2)◇◇
(承前)

 …外国原産でない日本在来種の「サクラソウ科サクラソウ(プリムラ)属」には、学名を「プリムラ・ジャポニカ(Primula japonica)」という「ジャパニーズ・プリムローズ(Japanese primurose)」がある。日本名では「クリンソウ(九輪草)」だ。別名を「シチジュウソウ(七重草)」ともいう。
 花名の由来だが、花が段々に輪生(りんせい)し、茎を伸ばしながら下から段になって次々と咲くことから「輪生する花の、幾段にもなった様子が、五重塔などの尖塔の柱にある飾りである『九輪』に似ていることによる。
 「クリンソウ」は北海道・本州・四国に分布する多年草で、山間部のやや湿ったところや湿地の周辺などの草地に生育するとされている。だから、岩木山山麓やこの津軽地方に生えていてもいいはずなのだが、私は自生しているものをいまだもって見たことがない。
 大きな根生葉から30cm~70cmほどの花茎を出し、濃い赤紫の花を車輪状につける耐寒性多年草で、それが数段になる。花径は2~3cmで、花期は春から初夏まで(5~6月)である。花の色も、赤、ピンク、白などと多彩である。
 学名のPrimula(プリムラ)は、「primos(最初)」が語源であり、「早春、花が他に先駆けて咲くこと」を意味する。
       「九輪草四五輪草で仕舞けり」(小林一茶)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(27)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

…多くの日本人は、「自由」を「勝手気まま」と捉え、権利主張にはその定立として「果たさなければいけない義務」があることを忘れた。
 「自由」を口にするとすべてが「平等」に扱われると勘違いし、「赤信号、みんなで渡ると怖くない」式に、みんな「同じになろうとした」のである。
 日本人は自分たちから「画一化」されることを望んだのである。その結果が「金太郎飴」と化したのである。日本人から「個性」や「独創」が消えた。見える「顔貌」は皆同じだ。みんなが同じ顔になるということは「無顔貌」であることと同じではないか。
 だが、日本人は「同じ顔貌」でいることに「安心と安堵」を得たのだ。しかし、それは「日本の風土や伝統、誇りに根を張ったもの」ではなかったのだ。それは、「根無し草」に等しいものだった。
 「宿根草」は強い。しっかりと自根を土中に張り巡らし、地上の茎頂に花をつけ、種を落として増えていく。その上、張った根からも株分けで増えていく。フクジュソウなどがその類だが、種を落として花をつけるまでは5年もかかる。戦後日本人が「自国の文化や誇り、伝統」を基に「宿根草」となるためには「中長期の時間」が必要だった。だが、それをしなかった。
 厳密に喩えると、日本人は「根無し草」ではなく、ヒルガオ科ネナシカズラ属の1年草「根無し葛(ネナシカズラ)」であった。これは、日本各地に分布し、薮や河原など日当たりのいい山野に生える「蔓性の寄生植物」だ。

 2つ目のキーワードは「精神的、道義的、文化的に”根無し草”」である。戦後、日本人は「自国の文化や誇り、伝統」を顧みることなく、挙って「アメリカナイズ【Americanize】アメリカ風にすること」に走った。
 それは、自分たちを「ネナシカズラ」とし、「アメリカ」を「宿主」とすることであった。現在、「同盟国」とされる「アメリカ」と「日本」の関係は、まさに、この「構図」なのである。
 この関係を保つには、ひたすら「クリスマス」を楽しみ、モータリゼーションに浸り、雛祭りや雛飾りなどに関心を示さないことが必要なのである。
 寄生植物は「宿主」によって「生かされている」ものであって「宿主の死」は寄生しているものの死でもある。(明日に続く)

プリムラ・ポリアンサと「桜草のこと」 / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(26)

2010-04-08 05:15:29 | Weblog
 (今日の写真は、プリムラ・ポリアンサ(Primula polyantha)というサクラソウ科サクラソウ属の耐寒性多年草だ。私の狭い庭に咲き出したものだ。これは4月6日に撮影したものである。
 実はこの「黄色」のものの他に「真紅」に近い色合い「プリムラ」もこの狭い庭に生えるのだ。だが、毎年、この「黄色」の方が早く花をつけるのである。大体、クロッカスが満開を終える頃に咲き出すのである。
 この「黄色」のプリムラも「真紅」のプリムラも十数年前に「鉢植え」のものを買ってきたものである。花が終わった後も2、3年「鉢植え」のままで育てたが、どうも「窮屈そうだ」ということで、この場所に移植したのである。
 移植後、ずっと観察をしているのだが、この写真からも分かるように、年々その「茎長」が短くなっているのだ。だが、花の数は減ってはいない。
 私は毎年この花の「強靱さ」に出会っては、そのことに「感服」させられている。

 「プリムラ(Primula)」は、世界で500種以上あると言われている。非常に種類の多い「耐寒性」の植物である。その多さに比例して「色」もまた豊富なのだ。「花の色」は黒以外は全てあると言われるほど多色である。
 花の少ないこの時季に咲くので、春を実感させてくれる花として、花屋や量販店などでも「鉢植え」などが売られている。
 私は「面の皮」同様、手の皮膚も厚くて強いのだろうか、そのような目に遭ったことはないが、「素手で触ると肌の弱い人」は、「被(かぶ)れる」そうなので、気をつけた方がいい。
 今日の写真ではない普通の「プリムラ・ポリアンサ」は、草丈が10~20cmであり、根元から伸びる散形花序に、直径約4cmの花をつける。花は茎先に多数つき、プリムラの中では一番大振りである。
 葉は根元に集まってつき、広楕円形ないし卵形で、しわが多く先は円い。縁に不規則な鋸歯があり、葉柄には翼がある。網状の葉脈が目立つ。地植え、鉢植えを含めて、耐寒性なので花期は1月~4月である。だが、夏の暑さに弱く、秋までに株が枯れてしまうことが多い。
 花の色も、橙、黄、赤、ピンク、白、青、紫と多い。原産地は「ヨーロッパからコーカサス」だといわれている。別名を「クリンザクラ(九輪桜)」というそうだ。
 この「プリムラ・ポリアンサ」を含めた園芸種のものを「セイヨウサクラソウ(西洋桜草)」と呼ぶこともある。この他に代表的な品種として…「プリムラ・オブコニカ」、「プリムラ・マラコイデス」、「プリムラ・ジュリアン」などがある。)

◇◇ プリムラ・ポリアンサと「桜草のこと」(1)◇◇

 「プリムラ」と呼ばれる外国原産の園芸種「サクラソウ科サクラソウ(プリムラ)属」が、今や日本で大手を振って、持て囃されている。だが、日本にはれっきとした在来種の「サクラソウ科サクラソウ属」の花がある。
 日本の「サクラソウ科サクラソウ属」は、岩木山の「ミチノクコザクラ」を含めて26種ある。そのうちの、何と19種が「絶滅危惧種」とされ、「レッドデータブック」に記載されている。
 何故、「絶滅危惧種」とされなければいけないのか。…花姿や形状が可愛いということでの「盗掘」や「自然破壊」で消え去ろうとしているからである。
 この花の、いわゆる「コザクラ」と称されるものの素晴らしさは「その場所にしかないという固有種が多いこと」、高山植物の典型的なタイプとして共通する「背丈の割に花が大きい」ことなどによるものだ。
 岩木山には「ミチノクコザクラ」以外の「サクラソウ科サクラソウ属」の花はない。少なくとも、私はまだ確認していない。(明日に続く)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(26)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 日本人の多くは「アメリカが与えた民主主義」の持つ自由を履き違えた。その上、「民主主義」というものを「行動する精神・思考・思想」として捉えるのでなく「制度的な形式」として捉え、「決定」方法の形式としての「多数決」だけを重用した。これは、「議論」なき決定という軽薄な社会的、政治的な風潮として定着してしまった。
 これで、日本人は「リバティ」によって裏付けられている「民主主義」というものを学習し、体験的に訓練し、実効あるものにしていくことを、その出発点から疎かにしてしまうことになったのである。
 
 自由には「社会的自由」というものもある。これは、「社会生活で、個人の権利(人権)が侵されないこと」である。
 これはには、「市民的自由」と「政治的自由」がある。「市民的自由」とは、企業の自由、契約の自由、財産・身体の自由、思想・信仰の自由、言論・集会・結社の自由などのことだ。
 「政治的自由」とは参政権その他、政治的目的のための行動の自由を意味している。
これら2つの「自由」は、「国家権力その他の干渉がない」ことで成立するものである。
 これらの「自由」は憲法には「言葉」として登場するが、日本国民の殆どは、「自由」イコール「勝手気まま」であったのである。
 だから、もちろん、カントやサルトルが言うところ「倫理的自由」などには至ることはなかった。カントにおいては、意志が感性的欲望に束縛されず、理性的な道徳命令に服することで、自律と同義。サルトルにおいては、人間はその存在構造から本来的に自由であり、したがって常に未来の選択へと強いられており、それ故自由は重荷となる。
 これらの「自由」は憲法には「言葉」として登場するが、日本国民の殆どは、「自由」イコール「勝手気まま」であったのである。
 だから、もちろん、「カント」や「サルトル」が言うところ「倫理的自由」などには思い至ることはなかっただろう。
 「カント」の言う「自由」とは「自律」である。これは「自己を律する」ことだから、簡単なことではない。つまり、「意志が感性的欲望に束縛されず、理性的な道徳命令に服すること」であるからだ。
 「サルトル」の言う「自由」とは「人間はその存在構造から本来的に自由であり、したがって常に未来の選択へと強いられている」ということである。これは、もっと厳しい。つまり、「自由」は重荷となるのである。(明日に続く)

赤倉沢西壁2 / 赤倉沢源頭を登る / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(25)

2010-04-07 05:27:00 | Weblog
 (今日の写真も、赤倉沢西壁だ。この角度からだと「キレット(切れ戸)」が左岸上部の崖に阻まれてよく見えない。逆に、登山道尾根からだと、特に「大開」からだと「キレット」がよく見えるのである。
 今年は積雪が少ないので、両岸の崖や崩落地の地肌がよく見えるし、右岸の「コメツガ」もはっきりと見えている。少なくとも「平年並み」の積雪ならば、この時季は、「白黒写真」の世界ではなく、森林限界の上部は「純白の世界」であるのだ。
 この日、もしもこの左岸稜線でなく、赤倉沢そのものを詰めたとしても、源頭の直下までは、案外楽に行けたと思う。
 まずは、平年ならば「底雪崩発生」の時季なのだが、積雪が少ないので、両岸尾根からの雪崩の心配がないということである。
 赤倉神社社屋群から、最上部の「治山ダム」のあるところまでは沢の幅は広い。雪崩に注意して登るのならば、その広い沢の中央部を登ればいい。急激な登り(流れ)はないので、「歩く気分」で登ることが、昔は可能であった。
 だが、今季のように積雪が少ないと、あるものが「障害物」となって「歩く気分」での登行を遮るのだ。
 それは、15以上もある「治山ダム」である。これがない時の、残雪期の赤倉沢遡上は、楽しいものだった。もちろん、「雪崩」には気をつけての登りではあった。)
 
◇◇ 赤倉沢源頭を登る ◇◇

 これは、昔の話しである。昔の話が出てくるということは、「今、現在」ではそれが出来ない状態にあるということの証明だろう。年々体力も気力も薄れてきているのは事実だ。 特に最近は、「山行中」に「大腿部」が痙攣を起こすことが多くなっている。これでは、「登山」そのものが出来ないということだろう。

 私は、夏と秋に都合3回「赤倉沢登攀」に挑戦している。「赤倉沢登攀」だから、源頭を越えて、赤倉御殿のある「山頂」に立つか、左岸の鞍部に至るか、キレット(切戸)に辿り着くかであった。
 しかし、私には結果的に、その力がなかった。岩石からなる沢を詰め、最後の壁になると土石がごろごろと崩落してくるという地質的、地形的な負の要因を乗り越えることは出来なかったのである。結局3回とも敗退である。ところが、悔しいという思いはなかった。
 夏山の「登攀」で一番怖いのは「落石」であり、「崩落」である。これが、日常的に起きている場所を「よじ登る」ということは、「無理」なのである。
 「落石と崩落」に自分から突っ込んでいくという、いわば、「自殺行為」でしかない。私は、この場所の「無雪期」登攀を、あっさりと諦めたのである。

 赤倉沢は「赤倉大権現」が治めている結界、「神域」である。そもそも、この沢に「踏み入る」こと自体が「神域」を犯し汚す行為なのである。しかも、その赤倉沢の奥壁、源頭をよじ登り、それを越えるということは「赤倉大権現」に対する冒涜以外の何ものでもあるまい。やはり「神域・聖域」に拒否されてもどうしようもないだろう。      

 ところが、そうは理解しても、「登攀したい」という気持ちは消えないのだ。夏場が駄目なら、残雪期があるではないか。まだ沢の中部から上部に雪渓を残している時に、挑戦は可能だろうと考えたのである。
 確か、4月の上旬だった。天気がよく、「放射冷却」が確実に起こる日を選んだ。その日は朝4時に、タクシーで赤倉神社まで行った。
 その年は、いつもの年よりも雪が早く降り始め、その後もよく降った。そのシ-ズンに何回か岩木山に登っては、積雪の多さに驚いたものだった。大鳴沢の源頭には8月の末まで、確かに雪が消えないで残っていた。       

 アイゼンとピッケルが武器だった。最後の滝も、圧雪に所々覆われそこを辿ることで思ったよりも楽に乗っ越すことが出来た。
 気温の低い早朝のことだったので、武器はふたつともよく効いて私を支え、壁の手前までは順調に行った。
 ところが、その中央部は砂れきや土や石、それに圧雪のブロックなどの崩落物に埋め尽くされて、まるで古い氷河の上を進むようなものだった。
 極端な凹凸面のためアイゼンが効かない。バランスを激しく崩してしまう。直登は出来ない。キレットまではしっかりと圧雪状態が続いている。このような状態は珍しい、チャンスだ。しかし、今日は単独だ。若し、何かがあっては、それは許されないことだ。
 やむを得ず、右岸に取りつき、赤倉山頂から北東に張り出している岩稜の最下部を目指して直登することにした。
 アイゼンが効くところも、そうでないないところは、もちろんピッケルで足場を作りながら慎重に登った。ほっとしたのは、赤倉御殿のお堂(祠)を目にした時だった。
 これで、なんとか私にとって、完全なものではないが、「赤倉沢奥壁源頭の初登攀」が出来たことになった。…                  

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(25)◇◇
(承前)

…「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」…

 これは、戦後60数年の日本と日本人のすべての思考と行動に当てはまることではないのか。
 ここでのキーワードは1つは「物質金銭万能主義」である。民主主義の基本は「自由」であり、「規制」である。この「物質金銭万能主義」は真っ向から民主主義と対立する「エゴイズム」を持つものだし、自由主義下の「唯物主義」につながるものであろう。
 真の自由とは大いなる規制を伴う中で、手に入るものだ。戦後、日本人は「民主主義」を、ただ単なる「フリーダム」として捉えた。その方が楽だからである。「今は民主主義の時代だ。何でも自由なのだ」という具合にである。
 これは、「漢語的かつ日本語的」な「自由」の意味である。つまり、「心のままであること。思う通り。自在。古くは、勝手気まま」の意である。
 だが、アメリカが与えた民主主義における自由とは…
「freedomとliberty(リバティ)」だったのである。これは、一般的には、「責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと」であった。これには必然的に他者に対する「束縛・強制」を自主的に規制するということが内在している。
 ここでの「自由」は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な「絶対の自由」は人間にはないとするのである。
 ここで言う「自由」は、障害(束縛・強制など)となる条件の除去・緩和によって拡大する。だから、自然的、社会的条件を変えることで自由は増大する。人々が自由を手に入れるには、厳然とした「自然と社会の法則」を認識しなければいけないのである。…
 「何でも自由なのだ」という大勢の日本人には、この「自然と社会の法則性を認識」することが、仏教徒や神道信仰者でありながら、キリスト教の宗教的祭事であるクリスマスに違和感を持たないことからも分かるように、欠けているのである。(明日に続く)

赤倉沢西壁 / 修験者の道は歴史遺産 / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(24)

2010-04-06 05:17:36 | Weblog
(今日の写真は、赤倉沢左岸を詰めて撮った「赤倉沢の西壁」である。撮影地点は左岸稜線の標高900mほどのところだと思う。赤倉沢の右岸稜線には登山道が走っている。その対岸稜線と比べてみると、この撮影ポイントは「鬼の土俵」よりもかなり、低いことが分かる。
 写真左の突端、少し盛り上がって見える場所が「鬼の土俵」だ。そこから、判然とはしないが、大きなジグザグが谷底を目がけて「下降」しているのが見えるだろう。これが、赤倉沢を遡上して「鬼の土俵」に出る道である。
 そして、そのちょうど真向かいに当たる対岸には、「修験者」の道がある。

 先日の日曜日、4日に件の「相棒」さんと赤倉沢左岸稜線を登った。最初から森林限界の少し上部まで行ったら引き返すという計画で出かけた。
 どこまで、登ったのかをこの写真で説明すると、右の尾根の樹林帯が切れているところ、その左側は斜めに崖が走り、そのさらに奥には「岩肌を見せる絶壁」がつらなっている近くまでである。森林限界までと決めていたが、やはり、そこに着いてしまうと、その上部に登りたいという思いに駆られるものである。
 そこで、その森林限界から、上部に見える疎林のあるところまでは登ってみた。つまり、まったく「ブッシュ」のない、真っ白な雪稜部分までは登ったのだ。)

◇◇ 修験者の道は歴史遺産だ ◇◇

 「修験者の道」は、この写真を撮っている場所からほぼ「直下」にあたる。「修験者の道がある」と書いたが、正しくは「あった」とすべきかも知れない。私がその「修験者の道」を降りたり、登ったりしたのは10数年も前のことだ。
 数年前にその取り付き点を探したが、発見できなかったし、直近では2年前の11月にも探したことがあったが、それでも見つけることは出来なかった。
 私はこの「修験者の道」を岩木山の文化的歴史遺産だと思っている。何とかして「遺したい」との思いは強い。だが、一方でそのことを諦めている。
 「何々の道」という場合は、起点から終点までの全行程が大事なのだ。全プロセスが「遺され」ていて初めて、それは「歴史遺産、修験者の道」という全容を見せるのであって、そこにこそ、「遺産」の持つ価値があろうというものだろう。
 だが、起点の「赤倉講」社屋群のある場所から、大しめ縄が張り渡されて、人間界と「神域」を「結界」としている場所までが、すっかり「変貌」させられてしまったのだ。
 つまり、「歴史遺産、修験者の道」は、そこまでの「歴史性」を、形質上と信仰心の状態から「消失」させられてしまっているのである。
 それは、大しめ縄が張り渡されている直下まで、10数基という治山ダムの敷設によるのである。大凡、30年ほど前には赤倉沢にはたった1基の治山ダム(堰堤)しかなかった。いわゆる「赤倉神社」と呼ばれる社屋の上部600m付近にたった1基であった。
 ところが、1982年に秋田、青森の両県が事業主体となり着工した白神山地で敷設中の「青秋林道」が、反対運動のために「中止」となってから、青森県側を担当していた「会社」がこの赤倉沢に「治山ダム」をほぼ、1年に「1基」のペースで造営し始めたのである。
 もちろん、事業の発注者は「林野庁森林管理局」であり、出先は現在の「津軽森林管理署」である。国が、この「会社」に仕事を与えたという構図が明らかであるように私には見える。

 計画され一部敷設された「青秋林道」とは、秋田県の八森町から県境を通り西目屋村までの総延長約28kmの林道である。
 具体的には、西目屋村の「弘西林道」(現白神ライン)と秋田県八森町の濁川林道を結ぶものであった。幅は4mで舗装はない。秋田側は県境まで9.2kmだ。一方、本県側は18.9kmと長く、地形や地質上からも難工事が予想されたし、事実難工事であった。
また、「青秋林道」は、白神山地から流れ出す河川の源流域にあたる。まさに白神山地のブナの原生林・源流域を分断する林道であったのである。

 赤倉沢上部に、最後の治山ダムが、今日の写真の下部に完成してからすでに、10数年が経つ。治山ダムの工事はおおむね次のようになされていた。
 …「工事用の道路」を沢右岸の尾根下部を広く切り崩して造営し、それに続く道路を「沢の中央部」に造りながら、ダムを敷設するために「削り掘られた土石」は、既存の「ダム、堰堤の前」に埋めていく。…
 これだと、本当の意味での「治山ダム」の目的は達成されない。新しいダム工事が既存のダムを埋め尽くしてしまっているのだから「造って」も「ダムとしての機能」は果たされないということになるのではないか。
 調査のために、工事中に何度か現場に入ったが、その時いつも思ったのが「このこと」であった。

 最上部に治山ダムが完成してから、立派な「表示板」が、この治山ダム(堰堤)工事用の道路入り口に出来た。
 それには、ダム造営の目的として、「赤倉神社」等を土石流の被害から守る」ということが刻字されている。だが、調べてみても、歴史的に「赤倉沢」でこれまで「土石流」が起きたという記録はないし、全部で15基以上もの「治山ダム」を造らなければならなかった理由もないのだ。
 この「治山ダム」の造営で、「歴史遺産」である「修験者の道」は完全に消失した。赤倉講の伝統的な「山伏(修験道)」は今や、その断片すら見いだせない。
 工事用の自動車道路を歩き、巨大な蛇が寝そべるようなコンクリート製の建造物である「ダム」を跨ぎ、よじ登っても、それは「山伏」たちの修行にはなるまい。これで、「赤倉神社」を守るための治山ダムだと、よくも言えたものである。
 まさに、「民族の誇りと文化を忘れた日本人」の所行であり、「物質金銭万能主義」の虜になった所業である。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(24)◇◇
(承前)

…私が 「ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人」という題で言いたいことは、これなのだ。
「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」
(明日に続く)

マンサクの若葉 / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(23)

2010-04-05 06:02:38 | Weblog
(今日の写真は、マンサクの枯れかかった花と出始めた「葉」である。小さな葉はその先端にまだ「葉芽」を包んでいた莢の一部を載っけている。
 花を見て喜び、この若いはを見て私に胸は高鳴った。それは「春だ」という感慨だけではない。そのマンサクの持っている生命力に、太陽の光と暖気に支えられて、どんどんと大きくなる葉の一枚一枚に、敬虔な生命体を見たような気がしたからである。
 日中は暖かくはなった。10℃を越える日が続いている。だが、晴れた日の朝は「放射冷却」で寒い。氷点下に下がっている日もあろう。
 だが、彼らは莢を脱いで、「瑞々しい」若葉を誕生させたのだ。この営為を繰り返しながら「太陽」などの自然と調和する形で「進化」してきたのである。
 すくっと空に突き出すように、葉を伸ばすマンサク、この若やいだ「生気」は、まさに輝いている。始まったばかりの春、岩木山山麓の林縁に、この「生気」が渦巻く。それは他の多くの樹木の花芽や葉芽に「命」を点火していく。
 見ていて、ふと思った。マンサクの黄色の花びらは薄くて、「萎び」ている。散れじれに「縮れて」いる。
 積雪が少なく、日当たりのいいところでは2月でも花をつけることがある。その4枚の花弁の「縮れ」方は「寒気」に縮んでいるようにも見えるが、そうではない。何故なのかは知らないが本当に縮んでいるのだ。この「縮み方」が凶作時の花の姿に似ていることで、昔の人は忌み嫌った。そこで、凶作とは正反対の「豊年満作」の「満作」をとって花名としたのである。
 その花の凶事を打ち消すような、真っ直ぐに天を伺っている若葉である。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(23)◇◇
(承前)

 …ところで、「沖縄に申し訳ない」と考えている日本人は何人いるだろうか。殆どいないのではないか。
 前自民党政権は「普天間飛行場(宜野湾市)」移設問題を1996年から13年間、棚上げにして「何もしなかった」のだ。これに対して、声を大にして「沖縄に申し訳ない」という気持ちで「怒り」の意見を述べた人は何人いよう。
 普天間飛行場(宜野湾市)は、1995年に起きたアメリカ兵による「少女暴行事件」の翌年に日本へ返還、移設されることが決まった。
 当時の自民党中心の政権とアメリカ政府は名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部に移設することで合意したが、ことは何も進まなかった。
 今年、1月の「名護市長選挙」で、「辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部への移設受け入れを拒否し沖縄の外へ移すよう主張する候補」が当選した。県外移設を求める声が強まっている。これが民意であり、沖縄県民の偽らない心情の吐露に他ならない。
 この名護市民の心情に、私たち日本人は、どれほどの共感と理解を示しているか。ここに至っても、まだ「沖縄」は他国なのである。
 日本人が「自分の町や村にのような基地があったらどうだろう」と置き換えて考えることが「沖縄の人々」の心情理解には一番の早道である。だが、これが出来ない。「立場を置き換えてとらえる」ためには、こちら側に「しっかりとした思想と判断」がなければいけない。こちら側が「空っぽ」ならば、物理的にも「置き換え」は不可能なのだ。

 「普天間飛行場」は、長さ約2800mの滑走路を持つ海兵隊の航空基地だ。ヘリコプター部隊を中心とした約70機の航空機が配備されている。面積は4.8平方キロ。宜野湾市の市街地の真ん中にあり、「世界一危険な基地」といわれている。
その「世界一危険な基地」と隣り合わせで毎日生活を続けている沖縄の人たちの気持ちを「置き換える」ことが、今の、いやこれまでの国民には総じて出来ないのである。
 日本国民のすべてが、沖縄県民の心情を理解し、沖縄をアメリカ基地から「解放」しようと考えるならば、それは直ぐにでも出来ることだろう。国を挙げてアメリカと対峙すればいいのである。経済的な思惑やその他の事情は一切抜きだ。この一点に絞るべきである。
 アメリカとの不平等条約、戦勝国が敗戦国に押しつけた「安保条約」を破棄すればいいのだ。そして、アメリカには自分たちの基地を自国の領土にすべて移設、「お引き取り」願えばいいのである。

 ところがどうであろう。鳩山首相は「5月までに結論」と約束したものの、いっこうにそれが見えない。首相は昨年の8月、衆議院選挙で「県外移設」を訴えた。だが、その後、発言がゆらぎ、政権内もさまざまな意見が出てまとまっていない。
 これは、鳩山首相や政権そのものが曖昧だということよりも、「国民」に「明確な沖縄の人たちの心を理解しよう」とする気持ちがないことの表れであろう。
 そのような人ほど、現政権を非難する傾向があるように思える。

 …若泉敬氏は94年5月、「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」出版した。国会での証言を切望し、喚問があるはずと考えていた。だが呼ばれることはなかった。
若泉氏は沖縄での遺骨収集に参加し、戦没者を悼む6月23日の慰霊の日にも毎年のように訪問していた。
94年6月に書いた「嘆願状」と題した便箋5枚が残っている。沖縄県民や当時の大田昌秀知事にあてたものだ。日米首脳会談以来歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁します」。
晩年、気にかけた基地問題は 15年近くたった今もほとんど進展がない。密約をあえて公にした理由は何だったのか。著書巻末の「跋」(後書き)にそれがうかがえる。

 「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”(フールズパラダイス)と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」
 この一文を、すべての日本人は肝に銘ずべきである。私は、本当にその通りだと思う。鉄パイプで頭部を思い切り殴られたような気分になり、目から鱗が何枚も落ちたようになった時、胸がかきむしられるような痛み、「悔い」が全身を覆うた。
 私も、ここでいう「愚者の楽園」の住人の一人、「フールズ」でしかなかった。
 「沖縄に申し訳ない」と言い続けた若泉敬氏は死去後、遺骨は沖縄の海に散骨された。(明日に続く)

鬼胡桃について / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(23)

2010-04-04 05:19:51 | Weblog
 (今日の写真は、クルミ科クルミ属の落葉高木「オニグルミ(鬼胡桃)」の「新芽」というべきか「冬芽」というべきか、どちらかというと「新芽」であろう。それに「葉痕」である。これは、先日岩木山山麓の林縁で撮ったものである。
 「葉痕」の形は何に見えるだろう。「雄花」の冬芽の下にあるものがそれだ。撮り方が悪くて、そのように見えないかも知れないが「猿面」に見えるのだ。お猿さん顔に見えるのである。
 「オニグルミ」は樹高が10~20mの高木となるので、このような写真は撮れないのだが、たまたま、低木のものがあり、しかも、下枝が目の前に垂れ下がっていたので撮影が可能であった。
 「オニグルミ」は北海道、本州、四国、九州の山地、川沿いに自生し、栽培もされている。雌雄同株で、雄花は緑色で、下垂し、雌花は直立して、花柱は帯赤色で6月頃に咲く。
 今日の写真の「ぶつぶつしたものがある棍棒状」のものは「雄花」の蕾だ。まだまだ硬いが、次第に膨らんで「下向き」に垂れ下がるようになる。その「雄花」の間にあるものが、葉芽であり、この中に「雌花」の芽が入っているのだ。
 樹皮は暗灰色で縦に細かい裂け目が目立つが、この写真のものには未だそれがない。若い木の枝だからである。
 葉は奇数羽状複葉で互生で、楕円形または長楕円形だ。表面は濃緑色、裏面は葉脈全体に毛が密生し、葉の縁には細かい鋸歯あり、葉先は鋭く尖っている。
 果実は堅果でいくつもが房状につく。すごく堅い。歯で噛んで割れるようなものではない。
 名前の「鬼(オニ)」は、堅果の表面の深い溝を、鬼に見立てたことによるとされている。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(23)◇◇
(承前)

 …沖縄では、日本の独立後も占領が続いた。1951年にサンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本は独立を果たした。
 しかし、沖縄は本土から切り離され、引き続きアメリカの統治下に置かれた。中国での共産党政府の誕生や朝鮮戦争などを受け、アメリカは沖縄の基地を強化し、土地を強制的に取り上げるなどして新たな施設を建設した。1950年代に基地の面積は2倍に増えたとされる。東西冷戦のもとで、沖縄はアメリカ軍の重要な拠点になった。
 だが、日本は「朝鮮特需」に湧いて、沖縄のことは眼中にはなかった。あくまでも「沖縄」は遠く離れたどこかの国であったのだ。

 加えて、「安保条約」で基地の重しはそのままであった。日本とアメリカは戦後、日米安全保障条約を結び、「日本はアメリカに基地を提供することを約束し、日本がよそから攻撃を受けた場合、アメリカは日本を守る義務がある」とする「約束」をした。
 だが、それは、その実「不平等条約」だった。勝者が敗者に押しつけた「約束」に過ぎないものだった。その中核となるのが沖縄だったのである。
 1971年に「沖縄返還協定」が結ばれ、1972年5月に、沖縄の日本復帰がようやく実現した。だが、文書上の「アメリカ軍の占領は終わった」ものの、「安保条約」の下で基地はそのまま残された。
 返還は「核抜き、本土並み」とされたが、基地負担は本土より重いままだった。戦争など有事の際に、沖縄へ核兵器を持ちこめるとするなどの密約があったことが問題になっている。
 沖縄県民が待ち望んだ日本復帰だったが、基地の重しが取れることにはならなかった。
 沖縄の人たちは、戦後ずっと「基地の島」が「平和な島」になるよう願ってきた。基地強化に体を張って抵抗したり、基地がらみの負担を減らすよう国などに求めたりしてきた。

 防衛省によると、日本のアメリカ軍が専用で使用している施設(飛行場、演習場、弾薬庫、港、通信所、兵舎など)は13都府県にあり、面積は合計で310平方キロになるという。このうち、沖縄県に229平方キロがあり、全体の73.9%をしめる。もちろん、日本で、一番広く多くの基地をアメリカに提供している。私たちの青森県はそれに次ぐ2番目の7.7%である。
 沖縄県の面積(2275平方キロ)の1割、本島に限れば2割近くがアメリカ軍の基地だ。信じられないだろうが、県中部の嘉手納町は実に町の面積の83%が嘉手納飛行場となっている。
 1972年の日本復帰後、本土にあるアメリカ軍施設の6割近くが返還されたが、沖縄では2割弱にとどまっている。沖縄県の人口は138万人だ。

 …1996年7月27日、福井県鯖江市。高台にある若泉敬氏の自宅に知人らが集まった。「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の英訳版作成にあたり、同氏と訳者、編集者らが合意を確認するためだ。
 「これで思い残すことはない」。会議は終わり、ベッドにいた若泉敬氏は天然水を勧めた。自らも飲みながら、何か口に入れたように見えた。途端にむせかえり、嘔吐し、体中が痙攣する。毒薬を飲んだらしかった。「核密約」から27年。66歳であった。

 若泉敬氏は1967年、当時の佐藤栄作首相のもとで「核密約」の交渉にかかわった人である。まだ30代だったそうである。佐藤首相とジョンソン米大統領の会談で沖縄返還に道をつなごうと尽力する。交渉が山場を迎えた69年、難航していた沖縄配備の核兵器の扱いを巡り、キッシンジャー大統領補佐官とひそかに交渉した。連絡には偽名を使った。
 若泉、キッシンジャー両氏が打ち合わせ、佐藤首相とニクソン大統領が署名したのが機密の「合意議事録」だ。これは、米国が返還時の「核抜き」を実施する代わり、日本は有事の再持ち込みについて「要件を遅滞なく満たすであろう」とするものだった。明らかに、世界唯一の被爆国日本が「国是」とする「非核三原則」とは相反している。

「決定的なことをやってしまった。あとは歴史の評価を待つしかない」。とは若泉氏の言葉である。秘密交渉はやむを得なかった、しかし、本当にそれでよかったのか、との苦渋がにじむ。
 「沖縄に申し訳ない」。これが、若泉氏が何度も口にした言葉だ。戦争で占領された沖縄を取り戻す交渉は、容赦なく裏取引を迫られる過酷な外交の「戦場」だった。
 「沖縄」は日本に復帰はしたものの、「沖縄」は過密な基地の重圧を受け続け、日本本土の人々は、やがて「その現実に目を向けようとしなくなる」のだった。(明日に続く)

彼岸桜のこと / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(22)

2010-04-03 05:19:58 | Weblog
 (今日の写真は、バラ科サクラ属の「彼岸桜(ひがんざくら)」だ。別名を「小彼岸(こひがん)」、「小彼岸桜(こひがんざくら)」という。「江戸彼岸(えどひがん)」の近縁だ。
「学名」はPrunus subhirtellaで、「Prunus(プラナス)」は、ラテン古名の「plum(すもも)」が語源だ。subhirtella は、やや短い剛毛のあるという意味である。本州の東北地方から四国、九州に生えるそうだが、「野生種」はないといわれている。

 名前は、「暑さ寒さも彼岸まで」というところの「彼岸」である。少し寒さが和らいでくる3月の中旬から、咲き出すのだそうだ。切り花でなければ、小さな葉も同時に開く。残念ながらこれは未だ葉が出ていない。
 実は3月18日に連れ合いが、通っている「生け花教室」から持ってきて、玄関に飾っているものである。蕾の時は鮮やかな紅色だ。我が家にやって来た時は、淡紅色で花びらに「ピンク」が滲んでいた。
 だが、日を数えるに従って、その色合いは薄れていった。散ることもなく、この写真のように、白っぽくなりながらも、未だ咲いている。すでに2週間を過ぎたが、驚くかな、このように咲いているのだ。
 これが、「生えている」樹木の花ならば、5月から6月ごろに、黒紫色に熟した小さな果実をつけるはずなのだが…。

 漢字でなく「音声」では、似ているものに「緋寒桜(ひかんざくら)」がある。これは、正しくは「寒緋桜(かんひざくら)」のことである。
 冬の 2 月頃に「沖縄」で咲くものであって、別種だ。ヒガンザクラと混同して伝えられることが多かったので、間違ったままでいる人が、未だ結構いるようだ。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(22)◇◇
(承前)

 …彼、若泉敬氏は、「アメリカと秘密裏に交渉し、核兵器再持ち込み」の経緯を詳述した自著「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版して2年後、死んだ。「自裁」したのだ。
 なぜ、死を前に密約を公表したのか。周囲の話から見えてくるのは、基地の重圧に苦しむ沖縄への自責の念と、矛盾を顧みようとしない国民への焦燥感だ。

 もう一度書く。沖縄は日本である。外国ではない。日本は無条件降伏をして、連合国軍に占領された。現実に統治・支配したのは「アメリカ」軍である。「占領され、外国軍に支配されている」ことに「何ら抵抗感」もなく、追随し、諂う国民、急速に人々の生活すべてが「アメリカナイズ」されていく。だが、国民の多くはそこにある矛盾に気づかないし、気づこうともしない。自国の誇りや自民族の文化や伝統はどこに行ってしまったのか。
 「矛盾を顧みようとしない国民」とはまさに、異教徒の宗教的な行事である「クリスマス」を何の抵抗もなく受け入れてしまう日本国民を指しているのである。
 このような国民の眼中には「沖縄」はなかった。恐らく遠い外国の話しでしかなかったのだろう。国民の間でひめゆり部隊の話しも少しは話題になっただろうが、それも、忘れ去られ、戦争末期における「沖縄」の惨い現実なども、それは他国のことであったはずだ。
 本国が「独立」したあとも、沖縄はアメリカに占領され続けたことも、これまた、日本国民にとっては自身に痛みのない他人ごとでしかなかった。
 日本が、「日本文化の祖である」中国や朝鮮を侵略して、占領し、多数の生命を奪いながらも、いまだに、その非を認めず、「やむを得ない侵略と占領支配」だとうそぶいている。「傀儡、満州国」建国や皇民化政策である「創氏改名」などのどこに「やむを得ない侵略と占領支配」という根拠があるといえるのか。そこには中国と朝鮮人民の「誇り」を踏みにじったという歴史的な事実と、真の「自国に対する誇り」を持つことの出来ない浅くて薄い国民性しかないだろう。
 沖縄とアメリカ軍基地とのかかわりは1939~1945年の第二次世界大戦、1941年に始まった太平洋戦争で、「日本が完敗」したことに始まる。
 日本がアメリカ、イギリス、中国などの連合国と戦った戦争の末期、アメリカ軍が沖縄に上陸、激しい「沖縄戦」がくり広げられた。その激しさと特殊性から、後々「沖縄戦」と呼ばれる。
 1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、激しい戦闘が全島でくり広げられた。6月23日に日本軍の司令官が自決し、日本軍の組織的な戦いは終わった。
 戦争で司令官が自決することほど、無責任なことはない。「始めた者は終わるまで」責任をとるべきである。この場合は「降伏」をした後の処理をしっかりと果たすことが「責任」である。それをしないままで「自死」することは「逃げ」である。「エゴ」である。若泉敬氏の「自裁」とは明らかに意味が違う。
 沖縄戦…戦いの準備や戦闘に多くの「住民がかり出され」、約9万4000人が犠牲になった。日本軍も約9万4000人だ。本来、自国軍というものは「自国民」の生命と財産を守るものとされている。だが、非戦闘員である住民の死者と「戦闘員」である兵士の死者数が同じである。これは何を意味するのか。軍隊は非戦闘員である「住民」を守ってくれなかったのだ。
 65年前の昨日、沖縄へ米軍上陸2日目。東京の大本営作戦会議で、「玉砕は必至」と判定された。沖縄は、本土のための時間稼ぎの「捨て石」という位置付けである。その時からすでに、いや江戸時代の薩摩藩の統治の時から、「沖縄」は都合のいい時は「日本の植民地」、都合が悪くなると「捨て石」として扱われていたのではないか。そう思えてしようがないのだ。そして、それは現在も続いているのであろう。
 この沖縄戦で、アメリカ軍は約1万2000人が死亡している。沖縄の住民、日本軍、合わせて何と約20万人が死亡したのである。

 その後、圧倒的な軍事力で日本軍を破ったアメリカ軍は、沖縄を占領し、日本本土を攻略する拠点とした。「住民を収容所におしこめ、集落や畑をつぶして基地を建設」したり、日本軍がつくった飛行場を拡張したりしたのである。
                                      (明日に続く)

クロッカスをサフランと思っていた / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(21)

2010-04-02 05:13:42 | Weblog
 (今日の写真は、アヤメ科サフラン属のクロッカスである。これも、我が庭で咲き出した。ヨーロッパでは、これが春を告げる花の筆頭として 、昔から親しまれている。原産地は地中海沿岸から西南アジアである。もちろん外国種である。
 我が庭でもフクジュソウが先かこれが先かを競うように咲き出すのだ。 クロッカスはギリシャ語のクロケ「croke(糸)」からきた言葉で糸を意味している。花の雄しべの花柱が上部で三つに分かれて、長く糸を垂れるようなところからきている。学名は「Crocus vernus」で、「春咲きのサフラン属」という意味だ。
 また、美青年クロッカスは、羊使いの娘スミラックスと互いに愛しあっていたが、神々に反対され、青年は自殺する。こんな二人に哀れんだ花の神フローラは、青年をクロッカスにしたというギリシア神話がある。

 昨日は朝から気温が8℃を越えて、日中は14℃くらいまであがった。向日性のこの花は、どんよりとした曇り空にもかかわらず「花」を開いていた。本当に鮮やかな黄色である。我が庭にもう2色クロッカスが咲く。それは群青色と純白だ。群青色のものは咲き出したが、純白のものは未だである。この咲き出し順序は毎年変わることがない。
 これは、「球茎」の代表的な植物で、分球するので、日当り地や排水のいい所にまとめて植えて「植えっぱなしでもいい」という手間知らずの花だ。
 葉より花が先に咲き、白、黄、青、紫など、いろんな色の品種がある。葉は松葉のように細く、真ん中に白い筋が入っている。別名は「花サフラン」という。
「地面から突き出て咲くやクロッカス」(山帰来)

◇◇ クロッカスをサフランと思っていた… ◇◇

 私は、これほど植物のことが知らないのかと情けなくなった。自慢ではないが「園芸種」といわれる花は殆ど知らない。何だって「岩木山」や「自然の野山」に生えているものには興味があって、それなりに付き合っているから、ある程度は理解しているのだが、「園芸種」との付き合いは殆どない。だから、「知らない」ことは当然だとどこかで諦めている。
 そのような訳だから、これはこれでいいのだが…「クロッカス」のことを長い間「アヤメ科サフラン属」の「サフラン」だと思い込んでいたことには、自分も呆れている。 
 何時、我が庭に「クロッカス」を植えたのか記憶が定かではないが、かなり以前から「我が庭で春の到来を告げて」いたのは確かである。子供たちにも、私は「これはサフランだ」と言ってきた。嘘を教えていたのだ。
 私は「サフラン」の実物を見たことがない。ただ、その花名だけは、若い頃から知っていた。それは、森鴎外の「サフラン」という小説を読んでいたからである。
 その中に…蘭和対訳の二冊物で、大きい厚い和本である。それを引っ繰り返して見ているうちに、サフランと云う語に撞着(どうちゃく)した。まだ植字啓源などと云う本の行われた時代の字書だから、音訳に漢字が当て嵌(は)めてある。今でもその字を記憶しているから、ここに書いても好いが、サフランと三字に書いてある初の字は、所詮活字には有り合せまい。依って偏旁(へんぼう)を分けて説明する。「水」の偏に「自」の字である。次が「夫」の字、又次が「藍」の字である。…という件があるのだ。

 これに従って書くと「洎」「夫」「藍」となり、「サフラン」と読むのだ。因みに、広辞苑で調べたら、同じ「洎夫藍」であった。「saffraan」というオランダ語に漢字をあてたものである。この「オランダ語」は「黄色」を意味するアラビア語の「zafran」からの変化であると言われている。日本には江戸時代末期にオランダ船によりもたらされたのである。

 多年生の球根植物である「サフラン」はアヤメ科サフラン属で学名を「crocus sativus」という。これは「クロッカス」の学名「crocus vernus」と一語違いなだけであり、「クロッカス」は「サフラン」の一番の仲間であり、その性質、形状が非常に似ている。
 大きな違いは「クロッカス」が「春咲き」なのに「サフラン」は「秋咲き」であるという点だ。だから、「秋咲きクロッカス」とも呼ばれることがある。
 学名にある「vernus」は春という意味で、春分の日を「ヴァーナルアクイナクスデー」という、あの「ヴァーナル」のことである。
 私は、この一番重要なことが知らなかったばかりに、長い間クロッカスのことをサフランだと思い込んでいたのである。

 サフランとクロッカスを比べた場合の特徴を簡単に述べよう。
・強い芳香を放ち、ほろ苦いような独特の風味を持つので、旧約聖書の中で「芳香を放つハーブ」として記されている。
・赤くて長い雌しべは乾燥させて、料理、香辛料、染料、せき止めや強壮作用などの薬として使われる。それゆえに、「薬用(やくよう)サフラン」とも呼ばれる。古代インドでは仏僧は職服をサフラン色に染め上げ、古代ギリシャやローマ時代ではサフランは香水として重宝されていたという。クロッカス同様、原産地は地中海沿岸、小アジア、イランなどである。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(21)◇◇
(承前)

 毎日新聞の「近事片々」には「『不自然な欠落』が」という題で次の一文があった。

 「無言の文書にすべては語れない。『そこにいた』生身の人間が歴史の証言台で肉声で語る。その使命とルールが『文化』として定着しなければならない。重大な政治決定のプロセスと真実を『墓まで持っていく』ことは決して『美徳』ではない。
 だが、せめてもの頼りの文書さえ、今回『あるはずのもの』がない『不自然な欠落』が。
 敗戦時。戦中の政策や行政の責任追及をおもんばかり、官庁街に幾筋も書類を焼く煙が立ち上り、焼け焦げた紙片が舞ったという。目に見えぬ煙は今なお空に上っているらしい。」

 重大な政治決定のプロセスと真実を『墓まで持っていく』ことは、別な語で言うと「隠蔽」である。歴史的な事実として関わった「自己」を隠蔽して「歴史の一部分」を消去することである。己の行為を「隠す」ことだ。「いいこと」であるならば「隠さなくても」いい。それと、「隠す」ことで、上司に対する「義理」が通ると考えるのだろう。この「恩を売る」ような義理によって救われた、後の政府高官や政治家は多数いるはずである。
 だが、これは、国民に対する「義理」ではない。だから、「沖縄に申し訳がない」などいう「言辞」は出てこない。多数の人民に対する申し訳のなさでなく、あくまでも、個人崇拝に近い「権力行使者」に対する申し訳なさであり、そこに国民はいない。

 ところが「沖縄に申し訳がない」と言って自ら命を絶った人物がいた。それは、沖縄返還交渉のさなか、宰相の「密使」としてアメリカと秘密裏に交渉し、核兵器再持ち込みの合意に関与した国際政治学者、若泉敬氏である。(明日に続く)

福寿草の毒性について… / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(20)

2010-04-01 05:16:33 | Weblog
(今日の写真は、我が家の庭に咲いている「キンポウゲ科フクジュソウ属」の多年草の福寿草である。秋遅くに芽を出し、雪が消えると直ぐに花を咲かせて、夏を待たないで種を落とし枯れてしまう植物だ。
 今季は、同じ庭の「日当たり」のいい場所に植えられているアヤメ科サフラン属のクロッカスよりも早く、芽を出して咲いてしまった。
 しかも、花がまだ「蕾」の内にどんどんと茎が伸びて、咲き出したら、写真のように大きくなってしまったのだ。暖冬で少雪という異常な天気は「フクジュソウ」にも、色々と「変化」を求めているらしい。
 「フクジュソウ」は、種子から花を咲かせるまで、5年以上もかかるので、なかなか増えない。この「フクジュソウ」は3年前の春に「相馬村」産ということで、鉢植えを買ってきたものを「花後」にこの場所に植えたものである。
 10年ほど前にも「鉢植え」を買ってきて植えたことがあったが、これは翌年には姿を現さず、そのまま消滅してしまった。
 そして、これだ。何とか根づいて生きている。この場所は庭の隅で、しかも、ブロック塀に遮られて、日が殆ど当たらない。だが、「フクジュソウ」は元来、山地の「陰地」に自生する多年草だ。これでも、十分なのだろう。
 短い根茎には黒褐色の堅い太い根が多数ある「宿根草」なので、「根」があると増えていくことになっているのだが、なかなか増えない。やはり、夏は半日陰程度でもいいのだろうが、秋と春は「日向」がいいのかも知れない。)

◇◇ 福寿草の毒性について… ◇◇

 「福寿草」は春一番に、新年を祝う花として喜ばれ、別名を「ガンジツソウ(元日草)」と呼ぶこともあり、「福を招く」縁起の良い花として喜ばれきた。
 日本の園芸書として最古の「花壇綱目」(1681年刊)にも、「福寿草、花黄色、小輪也。正月より花咲く。元旦草、朔日草(ツイタチクサ)とも、福つく草とも俗に言ふ」と記されている。
 旧暦の正月頃に開花するので、鉢植えにして正月の床飾りとした習慣が、新暦に変わった現代でも残っているのである。花は向日性で、日が当たると花を開くし、太陽を追って朝から夕方まで40度近くも首を振るのだそうだ。
 また、和歌や俳句にずいぶんと詠み込まれている花である。次のようなものがあるので紹介しよう。
「福寿草のつぼみいとしむおさな子や夜はいろりの火にあてており」(島木赤彦)
「病室の暖炉のそばや福寿草」(正岡子規)

 ところがである。これは危険な毒草である。「フクジュソウ」には全草、特に根や根茎に「シマリン」をはじめとするジギタリス系の強心配糖体によく似た成分が含まれている。「福寿草根」は毒性が大変強く、用量を誤ると心臓麻痺を起こして死亡する危険が大きいため、民間や家庭では使用してはならないといわれている。
「Spring adonis」と呼ばれる可愛い花だが、「福寿草の致死量」は約0.7mg/kgといわれている。42mgあれば体重 60kgの成人が死亡する。
 「シマリン」の他に、「アドニトキシン(adonitoxin)」という成分もある。これは、心臓に作用する強心配糖体で、「強心剤」として作用するのだそうだが、くれぐれも「素人療法」は避けるべきだ。
 数年前のことだが、ものすごい話しがある。それは、とある民放テレビが「福寿草の毒はどのくらいのものか」ということで、「福寿草を天麩羅にしてキャスターに食わせた」というものであった。舞台が長野県安曇野の蕎麦屋で、その事件は起きた。
 何という恐ろしい話し、くわばらくわばらである。

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(20)◇◇
(承前) 

 …2008年の調査では、日本の新婚カップルの実に64%が「十字架」の前で永遠の愛を誓うようになったとある。日本はいつからキリスト教国になってしまったのか。
 「クリスマスは誰と過ごすか」に対し「家族」との答えが約6割である。また「クリスマスの過ごし方」は「家でのんびりすること」が第1位(66%)だそうだ。
 子供たちにとっては「サンタクロースがプレゼントを持って来てくれる」嬉しい日でもあり、日本人が「家庭で過ごすクリスマス」は「お正月」のような「年中行事」として定着しているのだ。
 「クリスマス」はキリスト教を信じている多くの国で祝日となっている。そこで、日本でも祝日にしようという話しがあったそうだ。全く論理も定見も、見識もない話しだ。そうしたければ国民全員をキリスト教徒にすべきではないか。汚い言い方だが、このようなことを「味噌も糞も同じ」というのだ。「クリスマスを祝日にしよう」と唱える人たちは、まさに、無神論を越えて「軽薄で無知蒙昧」な輩である。
 だが、「洗礼を受けたカトリック信者ですら、お寺や神社にお参りすることに抵抗感を持たない」のだそうだ。そのことを考えると「無知蒙昧」とだけは言えないような気もする。
 「神」、「仏」、「キリスト」をその「時、所、位」にあって何ら抵抗感なく受け入れてしまうのが、日本人の特性と考えると、これが日本人の典型的でファジーな信仰形態なのかも知れないが、私にはどうしても、そこに日本人の「民族的な誇り」を見ることは出来ないのである。

 日本人のこの、何ら抵抗感なく受け入れてしまう「性向」は、「無関心」であり、「自己確立」に欠けるということの表れであろう。だから、これは何も「クリスマス」に関してだけのことではなく、様々な事象の中で見られる。

 沖縄県は日本国の地方自治体である。外国ではない。日本国なのである。この「国内の沖縄」、そこの「アメリカ」基地を含む問題に、日本人は「駐留しているアメリカ人」よりも、無関心だ。裏返しにしてみると「クリスマス」を受け入れるように何の躊躇いもなく、まるで「他人事」のように既成事実としてしまっている。ここにも、「民族とその文化に対する誇り」は見られないし、感じられない。 
 民主党鳩山政権になって6ヶ月が過ぎた。だが、「普天間移設」問題はその方向性さえ見えない。そのような中で「核密約」など、多くの「外交上」の「密約」の存在が明らかになってきた。(明日に続く)