岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

27日は「追子森」まで行った… / この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その1)

2009-12-29 05:03:19 | Weblog
 (今日の写真は、27日に撮った「追子森」山頂の大岩である。春から秋にかけて、この岩の頂部には「イヌワシ」の餌の残骸である「ウサギ」の骨などがあったりする。
 それよりも、この「ブログ」をめくって、26日の写真を見て欲しいのである。山頂のこの大岩は雪に覆われてまったく見えないだろう。見えないどころか屹立感や凹凸もない、平坦な狭いピークである。一部岩のように見えている部分はコメツガの頂部だ。
 …ところがどうだ。今日の写真では、岩がその3分の2ほどを出している。去年も雪が少なかった。そして、今季は、それにも増して「雪」が少ない。ブナ林帯の「チシマザサ(根曲り竹)」も、雪上に3分の1は出ている。ブナ林内の「チシマザサ」は丈が低い。それから推して考えると、積雪は1m程度かそれ以下ではないだろうか。
 私は30数年、年末年始登山を続けてきた。だが、これほど雪の少ない「年末」を経験したことはない。
 何だか、とても恐ろしい。一体地球はどうなってしまうのだろう。)

◇◇ 27日は「追子森」まで相棒と2人で行った…(2) ◇◇ 
(承前)

 昨日は…「この『棘状をした結晶』は…本当に不思議だ。この不思議を解き明かしたい気持ちに、今、駆られている」と書いたが、その不思議の一部が少しだけ解けた。「ハリブキ」の棘、または針のような棘に見える結晶体である霧氷。これは、余り寒くない(?)氷点下という気温で、空気中の「過冷却水滴や水蒸気」が、樹木やその他の地上の形物に衝突して、それが「凍結」することで出来るものである。「衝突」というエネルギーがさまざまな形を造り出し、それを低温がアレンジして、白色から無色透明の氷層を形成するのである。簡単に言うと「着氷現象」である。
 また、気温が-5℃以下になると、「粒状」構造となる。その場合は丸くぼってりとした花のような「霧氷」となる。また、風が吹く時は、風に向かって羽状に成長する。これが「海老の尻尾」である。「追子森」山頂の大岩には、小さいが、この「海老の尻尾」が出来ていた。

 その日の天気は曇りであった。見通しは余りよくないが、何回も来ている尾根であるし、次第にブナの樹高が低くなって来て、それに、「コメツガ」が疎らに出てきたので、山頂は近いと判断した。
 そのうちに、進もうとしている上部に、まるで壁のように「コメツガ」が現れた。これを抜けると山頂だということは分かるのだが、何しろ雪が少ない。
 これだと、「スキー」で抜けることは出来ない。私たちはその「コメツガ」帯を避けて、北側の「ダケカンバ」帯に入った。その結果、「追子森山頂」を北から南に大きく巻くような急な登りになってしまい、これには難儀し、直下の「白沢爆裂火口」の垂直な壁に滑落するのではないかと「冷や汗」もので、ようやく「山頂」に出たのである。

 登りの時にはなかった「スノーモービル」の走行跡が、最後のカラマツ植林地下部のブナ林にまで延びていた。またぞろ、彼らが現れているのだ。少雪の今季、低木樹林は彼らのキャタピラにますます蹂躙されるのだ。 

◇◇この1年、2009年で、嬉しかったこと…(その1)◇◇

 今年も「嬉しくなかったこと」や「許せない」と思うことが多かった。だが、そのようなことにばかり、拘っていても埒があかないだろうから、嬉しかったことについて今日から31日まで書こうと思う。
 「嬉しいこと」はそれでも結構あった。一番嬉しかったとか二番目だったとかという「順位」はないが、31日に書こうとしていることが、敢えて挙げると「一番」ということになるのかも知れない。だから、今日と明日書くことには、順位はない。

 嬉しかったこと、それは、昨日まで書いていた「NHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」の開講と継続である。だが、これは未だ終わっていないし、年明けにも「登場」する予定なので、この「嬉しかったこと」シリーズからは除外する。
 嬉しかったこと、それは「『相棒』とずいぶんと岩木山に登ったということ」である。
1月17~18日に一泊・雪洞泊まりで山頂に行った。今年はこれから始まった。
 2月8~9日にはテント泊で、ついで、28日、3月27日に烏帽子岳経由で赤倉1396mピーク、4月13日は扇ノ金目山経由で、赤倉御殿へ、5月1日に毒蛇沢左岸、5日に滝ノ沢右岸、10日に石切沢、毒蛇沢の左岸尾根から鳥海山頂へ、25日には毒蛇沢から滝ノ沢への「踏み跡」探し、6月にも「踏み跡」探し、7月にも滝ノ沢から平沢への「踏み跡」探し、他に、大沢の雪渓登りで「アイゼン」の訓練、この時は、ここ数年で一番の時間短縮で、山頂に行くことが出来た。
 8月に入ってからも「踏み跡」探しは続いた。毒蛇沢から湯ノ沢へ抜ける「踏み跡」探しは特に疲れた。自動車を毒蛇沢の林道に置いたものだから、岳からそこまで歩く羽目になった。環状線から「自動車」まで辿りつくことが容易でなかったのだ。
 9月と10月は「踏み跡」探しはお休みだ。「草木」に覆われて「踏み跡」発見が難し過ぎる状態になっているからである。2人で「踏み跡」を辿りながら語ったことは「何とかして、これらの踏み跡を『人一人が通れるようなもの』にして、後生に伝えていきたい」ということだった。2人で来年は、「踏み跡を歩く会」でも計画しようかという話しまで出たのである。「踏み跡」探しはなかったが、9月は赤倉登山道から登り、弥生に降りている。
 この間に、普通では見えない「岩木山中の自然破壊現場」を色々と見た。その最も大きなものは「堰堤敷設」という破壊である。
 11月には「石切沢」に堰堤を敷設するためという「工事用の道路」敷設の現場を見に行った。そして、今年最後の「相棒」との登山は12月27日の「追子森」登山だったのだ。詳しく記録を調べると一緒に出かけた合計日数は分かるのだが、生憎、手許にそれが見つからないのだ。恐らく、10数日であることは間違いないだろう。
 相棒はこの「石切沢堰堤敷設工事用の道路」」に関することの「開示請求」をした。次いで、私も同じ件で「開示請求」をした。現在はメールでも「開示請求」が出来るのだ。このことについては後々、報告することにしよう。
 相棒は、私宛のメールの中で次のように言っている。
…私は、「岩木山堰堤問題」をテーマに、時期を見て観察会を実施したいと思います。その目的は「岩木山の自然保護を考える」です。…
 相棒は私よりも10歳若いのである。その若くて行動力のある人が「岩木山の自然保護を考える」を主題にしてさまざまなことをやろうとしている。いや、現に行動している。
 このような人の「出現」は何を意味するのか。足腰が日を待たずに衰えている私には「ホイホイ」と岩木山の中を飛び回ることは既に出来ない。岩木山を、そして、その自然を護るには、暇なく「岩木山に入ること」が大事なのだ。
 本会の会員が、すべて「岩木山を眺めてよしという人たち」になったならば、それは、もはや、本会の存続意義が消滅することに等しい。
 「相棒」の出現は、暗に私に「ご苦労さんでした」を言っているに違いない。これは嬉しいことである。そろそろ、退(ひ)け時だろう。(明日に続く)