(今日の写真は岩木山白狐沢の上部支流である。この沢には「岩魚」が多く生息しているといわれている。岩魚は、一般的には暗緑色の地に、多数の小さな白や朱色の斑点がある川魚だ。最も大きくなると全長が80cmにもなるといわれている。普通は20~50cmだそうだ。私は「釣り」をやらないから詳しくは分からない。渓流釣りの代表的な「釣魚」で、非常に美味しいとされている。
「岩魚釣水濁さずに歩きけり」(茨木和生)という俳句にあるように「岩魚」は澄んだ水に棲む魚だ。ということは、この「沢」は水が澄んでいるということになる。
澄んだ水を沢に流し込むのを掌るのは、「森」である。今日の写真はそのことを教えてくれているのではないか。
葉をつけていない木々なのに、この「密生」観は、ひとえに木々の数の多さを語っているものだ。)
◇◇ ここが夏緑に覆われたら…? ◇◇
この沢を取り込んでしまうような木々の群れを眺めながら、私はすごく嬉しくなった。ここは「人手」の入っていない森だと感じたからである。そして、ここが、夏緑に覆われたらどうなるのだろうかと想像した。
恐らく、夏緑はこれらすべての空間を埋め尽くすだろう。視界すら遮るに違いない。完全に樹木が主人公の、樹木が支配する世界へと変貌するはずである。
そうなると、沢の縁を伝って「遡上」することは難しくなる。この「沢」の中を登って行くしかない。きっと楽しい「沢登り」になるだろう。
私はまだこの沢を「遡上」したことはない。だから、詳しいことは分からないが、ある人の弁を借りると、「この沢には堰堤がないので、水がきれいなのだ」そうだ。
「治山堰堤」にしろ、「砂防堰堤」にしろ、それらがないということは「森林の伐採」が極小に食い止められているということを示すものだ。
もし、それが事実ならば、この「沢」は悠久のあるがままの自然を保っている沢ということになる。すばらしいことだ。岩魚が多く棲んでいるということも頷けるというわけである。
岩木山の南西から北東にかけて存在する沢には、「堰堤のない沢」はない。
◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(19)◇◇
(承前)
…現代の日本は「クリスマス」天国だ。ところが、「クリスマス」が日本になかったわけではない。
古い話しだが1552 年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において宣教師コメス・デ・トルレスたちが、日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが日本で初めてのクリスマスであるといわれている。しかし、その後、江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治の初めまではまったく、日本人に受け入れられることはなかったのだ。
日本における「クリスマス」というものは、元々、キリスト教徒のものだったのである。
日本でクリスマスが、教徒以外に受け入れられ始めたのは、1900年頃だといわれている。それも、人々が「始めた」というよりは、基本的な「構造」は現代と同じく、商店の「クリスマス商戦」という色彩が濃厚なものだったようである。
さらに時代が進むと、多くの企業が「商売」として、「クリスマス」を利用するようになり、大正時代になると、児童向け雑誌や少女雑誌の12月号には、表紙をはじめとして、クリスマスにまつわる話しや挿絵がたくさん挿入されたという。
また、1926 年12月25日、大正天皇が崩御し、先帝崩御日は休暇日となるため、これも、「クリスマスの普及」に大きな役割を果たしたとされている。
加えて、マスコミまでが「クリスマス」の普及にお先棒を担いでいた。1928年の朝日新聞は「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書いて、「クリスマス・サンタクロース」を煽っている。
昭和の初期には、銀座や渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店が、クリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えたそうだ。
キリスト教徒が国民の外国では、1月 6日までをクリスマス期間としているところが多い。だが、日本では12月25日を過ぎると、「クリスマスの飾り」が、「日本の神道式」の門松などの正月飾りに替えられたものであった。
商店も正月準備用や大掃除用商品の販売が中心となり、流される音楽も「ジングルベル」や「清しこの夜」から「お正月」に変わるのであり、そこに違和感が存在しない。これが、「日本人の個性」なのだろうが、何という根無し草的な特異性であろう。
だが、最近は、商業施設では早いところは、11月上旬から「クリスマスツリー」が飾られ、「クリスマスセール」が行われ、店内には「クリスマスソング」が流れ、洋菓子店では「クリスマスケーキ」を販売する。
この流れは、2月のバレンタイン‐デー【St. Valentine’s day】につながっていく。これは、2月14日。269年頃殉教死したローマの司祭、聖バレンタインの記念日である。
この日に愛する人に贈り物をするという習わしが西欧にはあるという。だから、これまた、日本人とは宗教的には何の縁もゆかりもないものである。
日本では1958年頃より流行し、「女性から男性にチョコレートを贈る」という「商業主義」によって造り上げられた「習慣」として息づいている。
また、街中では街路樹に「イルミネーション」として豆電球(最近はLED 照明)が飾り付けられる。庭のある家庭では、庭木などに電飾を施すこともある。
私の家の近くにもこれをしている家庭があり、連日連夜、朝まで「ピカピカキラキラ」を続けている。
これも、企業、商店の客集め的な手法に踊らされているのであろうが、新年への「カウントダウンイベント」が盛んになる12月31日深夜まで、「イルミネーション」がそのまま残されるということがある。
その延長線上に「街路樹」に「イルミネーション」を施して「冬期間」ずっと照明し続けるという地域や自治体までが存在するようになってきている。まさか、鎮守の森に「イルミネーション」などと発想して、人集めをしようなどとすることはないだろう。そうなったら、興ざめは頂点に達するだろう。そうなったら私は日本人を「やめる」しかない。(明日に続く)
「岩魚釣水濁さずに歩きけり」(茨木和生)という俳句にあるように「岩魚」は澄んだ水に棲む魚だ。ということは、この「沢」は水が澄んでいるということになる。
澄んだ水を沢に流し込むのを掌るのは、「森」である。今日の写真はそのことを教えてくれているのではないか。
葉をつけていない木々なのに、この「密生」観は、ひとえに木々の数の多さを語っているものだ。)
◇◇ ここが夏緑に覆われたら…? ◇◇
この沢を取り込んでしまうような木々の群れを眺めながら、私はすごく嬉しくなった。ここは「人手」の入っていない森だと感じたからである。そして、ここが、夏緑に覆われたらどうなるのだろうかと想像した。
恐らく、夏緑はこれらすべての空間を埋め尽くすだろう。視界すら遮るに違いない。完全に樹木が主人公の、樹木が支配する世界へと変貌するはずである。
そうなると、沢の縁を伝って「遡上」することは難しくなる。この「沢」の中を登って行くしかない。きっと楽しい「沢登り」になるだろう。
私はまだこの沢を「遡上」したことはない。だから、詳しいことは分からないが、ある人の弁を借りると、「この沢には堰堤がないので、水がきれいなのだ」そうだ。
「治山堰堤」にしろ、「砂防堰堤」にしろ、それらがないということは「森林の伐採」が極小に食い止められているということを示すものだ。
もし、それが事実ならば、この「沢」は悠久のあるがままの自然を保っている沢ということになる。すばらしいことだ。岩魚が多く棲んでいるということも頷けるというわけである。
岩木山の南西から北東にかけて存在する沢には、「堰堤のない沢」はない。
◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(19)◇◇
(承前)
…現代の日本は「クリスマス」天国だ。ところが、「クリスマス」が日本になかったわけではない。
古い話しだが1552 年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において宣教師コメス・デ・トルレスたちが、日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが日本で初めてのクリスマスであるといわれている。しかし、その後、江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治の初めまではまったく、日本人に受け入れられることはなかったのだ。
日本における「クリスマス」というものは、元々、キリスト教徒のものだったのである。
日本でクリスマスが、教徒以外に受け入れられ始めたのは、1900年頃だといわれている。それも、人々が「始めた」というよりは、基本的な「構造」は現代と同じく、商店の「クリスマス商戦」という色彩が濃厚なものだったようである。
さらに時代が進むと、多くの企業が「商売」として、「クリスマス」を利用するようになり、大正時代になると、児童向け雑誌や少女雑誌の12月号には、表紙をはじめとして、クリスマスにまつわる話しや挿絵がたくさん挿入されたという。
また、1926 年12月25日、大正天皇が崩御し、先帝崩御日は休暇日となるため、これも、「クリスマスの普及」に大きな役割を果たしたとされている。
加えて、マスコミまでが「クリスマス」の普及にお先棒を担いでいた。1928年の朝日新聞は「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書いて、「クリスマス・サンタクロース」を煽っている。
昭和の初期には、銀座や渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店が、クリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えたそうだ。
キリスト教徒が国民の外国では、1月 6日までをクリスマス期間としているところが多い。だが、日本では12月25日を過ぎると、「クリスマスの飾り」が、「日本の神道式」の門松などの正月飾りに替えられたものであった。
商店も正月準備用や大掃除用商品の販売が中心となり、流される音楽も「ジングルベル」や「清しこの夜」から「お正月」に変わるのであり、そこに違和感が存在しない。これが、「日本人の個性」なのだろうが、何という根無し草的な特異性であろう。
だが、最近は、商業施設では早いところは、11月上旬から「クリスマスツリー」が飾られ、「クリスマスセール」が行われ、店内には「クリスマスソング」が流れ、洋菓子店では「クリスマスケーキ」を販売する。
この流れは、2月のバレンタイン‐デー【St. Valentine’s day】につながっていく。これは、2月14日。269年頃殉教死したローマの司祭、聖バレンタインの記念日である。
この日に愛する人に贈り物をするという習わしが西欧にはあるという。だから、これまた、日本人とは宗教的には何の縁もゆかりもないものである。
日本では1958年頃より流行し、「女性から男性にチョコレートを贈る」という「商業主義」によって造り上げられた「習慣」として息づいている。
また、街中では街路樹に「イルミネーション」として豆電球(最近はLED 照明)が飾り付けられる。庭のある家庭では、庭木などに電飾を施すこともある。
私の家の近くにもこれをしている家庭があり、連日連夜、朝まで「ピカピカキラキラ」を続けている。
これも、企業、商店の客集め的な手法に踊らされているのであろうが、新年への「カウントダウンイベント」が盛んになる12月31日深夜まで、「イルミネーション」がそのまま残されるということがある。
その延長線上に「街路樹」に「イルミネーション」を施して「冬期間」ずっと照明し続けるという地域や自治体までが存在するようになってきている。まさか、鎮守の森に「イルミネーション」などと発想して、人集めをしようなどとすることはないだろう。そうなったら、興ざめは頂点に達するだろう。そうなったら私は日本人を「やめる」しかない。(明日に続く)