(今日の写真は、マンサク科マンサク属の落葉低木「マルバマンサク丸葉満作(万作・金縷梅)」だ。別名として「ニシキマンサク(錦満作)」と呼ばれることもある。
これは昨日撮ったものだ。一応、裏日本にはマルバマンサクが多く、表日本のものはマンサクであるとされている。
この花は、日本の「特産種」で学名はハマメーリス・ジャポニカ(Hamamelis japonica)といい、花と果実を同時につける『ハマ(共に)メーリス(りんごの果実)』という意味のギリシャ語である。
古来から山里の民に親しまれてきた樹木で、ワカンジキの材料、薪炭、縁起物、止血剤、樹皮で縄をなうし、白川郷では屋根の茅止めに使っている。
「マンサク」と呼ばれる由来はいくつかある。その1つが「雪の残っている山野で一番先に咲く、つまり(まず咲く)がマンサクとなった」ということである。事実、2月の建国記念日(?)ごろ久渡寺山の麓や座頭石辺りでは咲き出すことがある。
その2つが「花が枝を覆うようにびっしり咲くので豊年満作の意でマンサクとなった」ということである。)
◇◇ マンサクの花とゴミ処理場 ◇◇
昨日、NHK弘前文化センター講座「野外観察」の下見に岩木山に出かけた。場所は「弘前市大字十腰内字猿沢地内」である。このように言われて、その場所が「岩木山」のどの辺りなのか、直ぐに「ピン」と理解し、イメージ出来る人は多くはないだろう。恐らく関係者以外は分からないだろう。
この講座は月に一度、最後の日曜日に実施してきた。今月は28日の日曜日だ。通算して60回目になるという記念すべき「講座」開講日となるはずである。
毎年、3月は「雪上観察」と位置づけて、テーマは「樹木」と「動物の足跡(アニマルトラッキング)」である。「樹木」は幹の色、幹(樹皮)の構造、葉の芽、花の芽などの観察が中心となり、「動物の足跡」はカモシカ、ウサギ、アナグマ、タヌキ、テンなどである。
これらの観察に加えて、「野鳥」の観察もする。この時季は「シジュウカラ」「ヤマガラ」など、いわゆる「カラ」類が多い。葉のない雑木林の梢を忙しげに飛び渡っていくこれら、小さい野鳥は凄く元気に見えるし、全身で春を喜んでいるようにも見えるのだ。
マンサクの花は、見れば見るほど奇妙な花である。いくら、「ニシキマンサク(錦満作)」などという、素晴らしい名前を与えられようとも、不思議なほどに「奇妙な花」である。 先ずは「萼片」を含む花全体が、非対称というか、形が整っていない。花一つ一つが思い思いに咲いている感じがする。これが、「マンサク」の咲き方、「定形」なのだと思えば納得なのだが、それにしても、「雪のあるうちに、一番最初に咲く花」としては、もっと形の上からも「見栄え」のするものであっていいのではないかという思いは消えない。 「細くねじれた花びら」も、一様ではない。みんなその「ねじれ方」が違う。その意味では、彼女たちは十分に個性的だ。
この「個性的な花びら」が名前の由来の3つめである。「細くねじれた花びら」が十分に実らない米に似ていることから、それを嫌い反対語の満作をあてて呼ぶようになった…というものである。命名の仕方も「忌み嫌い、反対語」を以て名づけるという正当論ではない。これは面白い。山村の農民生活との深い結びつきから生まれたことは事実であろう。
「加藤楸邨(しゅうそん)」の俳句に、「まんさくに滝のねむりのさめにけり」というのがある。
この俳句の意味は…、『まだ積雪の多い時季だというのにマンサクは咲き出した。雪に覆われ凍りついている滝もそれに呼応して長い眠りから目覚めたかのように水音を立て始めた』くらいに理解していいだろう。
春、一番、すべての花に先駆けて咲く生き物「マンサク」に触発された「無生物の滝」を見事に擬人化し、その生き生きした風情を短詩の中で描くところなどは真似が出来ない。 滝は、それに呼応して「眠りからの醒めて」囂々と音を立て始めたのだということがよく分かるのだ。
昨日、歩いたのは岩木山の「白狐沢」左岸沿いのミズナラ林だ。この沢は山麓下部で「長前川」とその名を変える。歩いた範囲には「滝」はなかったので、「囂々」という水音は聞こえなかったが、雪解け水を集めて流れ下る「水音」は激しく耳を打った。
この「白狐沢」左岸一帯が住所的には「弘前市大字十腰内字猿沢地内」と呼ばれているのである。そして、「白狐沢」に沿って県道30号(環状)線から上部に約1kmほど入ったところの「弘前市大字十腰内字猿沢地内」に、「板柳町」が運営する「不燃ごみ、粗大ごみ、焼却残渣」等の処理施設があるのである。
その施設から流れ出た「水」はすべて、「白狐沢」から「長前川」へと流れ込んでいる。地下に沈殿しているものもあろう。何だか恐ろしくなった。
この施設は平成6年(1994)に開設され平成32年(2020)まで、運営されるという。岩木山には人目に触れることのないような、この手の「施設」が結構あるのだ。
◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(13)◇◇
(承前)
…多くのアメリカの国民は、「伝統も個性も忘れ果てた」ような日本人をどのように見ていたのだろうか。。伝統や個性、それに、独創性を大切にするアメリカの国民は、例外ももちろん、あるだろうが総じて「一人一人がしっかりした個性」の持ち主である。
「無顔貌」とか「主体性に欠ける」、または「自分の意見を持たない、自分の意見を言わない」とか「何を考えているのか分からない」とか「民族や出身国の特性をはっきりと表現しない」などということは「リバテイ」を重視する国民性からすると、「一体これらは何者なんだ」というふうに映ったに違いない。
「何者なんだ」に対して与えた彼らの答えは「愚者(フールズ)」である。自分のことをはっきりと「主張」出来ない、またはしない「無顔貌」の日本人を「愚者(フールズ)」としたのである。彼らアメリカ国民からすると「伝統も個性も忘れ果てた」ような日本人は「愚者」だったのである。
何でもこだわりなく受け入れ、アメリカの後ろについてきたのが日本であり、日本人なのだ。「宇宙開発」も然りである。アメリカは「宇宙開発」を縮小する方向だ。現在の宇宙ステーションはどうなるのか。これから、月や火星に求めるものは何なのか。アメリカの後ろについてきただけの日本にはそれがない。
オバマ大統領になって、アメリカは変化している。変化とは、何かしらそこには「産みの苦しみ」が存在する。だが、希望はある。
しかし、主体性に欠ける日本の「アメリカ追随の政策」は、本家の政策変更で、「希望のない、寄港地のない船」のように浮遊している。根無し草だ。もちろん、漂っているだけだから、「希望」などあろうはずもないし、「産む」こともない。あるのは烏合の衆による騒然さだけである。これがよく顕れているのが「普天間基地」移設問題であろう。
「うろうろ、おろおろ」しか出来ないのは、「自分の命を他人に預けた人間の結末」である。だが、この「うろうろ、おろおろ」を見ても、これに接しても多くの日本人は、まだ「他人事」の気でいるから、日本は「愚者の楽園(フールズパラダイス)」といわれても仕方がないのかも知れない。(明日に続く)
これは昨日撮ったものだ。一応、裏日本にはマルバマンサクが多く、表日本のものはマンサクであるとされている。
この花は、日本の「特産種」で学名はハマメーリス・ジャポニカ(Hamamelis japonica)といい、花と果実を同時につける『ハマ(共に)メーリス(りんごの果実)』という意味のギリシャ語である。
古来から山里の民に親しまれてきた樹木で、ワカンジキの材料、薪炭、縁起物、止血剤、樹皮で縄をなうし、白川郷では屋根の茅止めに使っている。
「マンサク」と呼ばれる由来はいくつかある。その1つが「雪の残っている山野で一番先に咲く、つまり(まず咲く)がマンサクとなった」ということである。事実、2月の建国記念日(?)ごろ久渡寺山の麓や座頭石辺りでは咲き出すことがある。
その2つが「花が枝を覆うようにびっしり咲くので豊年満作の意でマンサクとなった」ということである。)
◇◇ マンサクの花とゴミ処理場 ◇◇
昨日、NHK弘前文化センター講座「野外観察」の下見に岩木山に出かけた。場所は「弘前市大字十腰内字猿沢地内」である。このように言われて、その場所が「岩木山」のどの辺りなのか、直ぐに「ピン」と理解し、イメージ出来る人は多くはないだろう。恐らく関係者以外は分からないだろう。
この講座は月に一度、最後の日曜日に実施してきた。今月は28日の日曜日だ。通算して60回目になるという記念すべき「講座」開講日となるはずである。
毎年、3月は「雪上観察」と位置づけて、テーマは「樹木」と「動物の足跡(アニマルトラッキング)」である。「樹木」は幹の色、幹(樹皮)の構造、葉の芽、花の芽などの観察が中心となり、「動物の足跡」はカモシカ、ウサギ、アナグマ、タヌキ、テンなどである。
これらの観察に加えて、「野鳥」の観察もする。この時季は「シジュウカラ」「ヤマガラ」など、いわゆる「カラ」類が多い。葉のない雑木林の梢を忙しげに飛び渡っていくこれら、小さい野鳥は凄く元気に見えるし、全身で春を喜んでいるようにも見えるのだ。
マンサクの花は、見れば見るほど奇妙な花である。いくら、「ニシキマンサク(錦満作)」などという、素晴らしい名前を与えられようとも、不思議なほどに「奇妙な花」である。 先ずは「萼片」を含む花全体が、非対称というか、形が整っていない。花一つ一つが思い思いに咲いている感じがする。これが、「マンサク」の咲き方、「定形」なのだと思えば納得なのだが、それにしても、「雪のあるうちに、一番最初に咲く花」としては、もっと形の上からも「見栄え」のするものであっていいのではないかという思いは消えない。 「細くねじれた花びら」も、一様ではない。みんなその「ねじれ方」が違う。その意味では、彼女たちは十分に個性的だ。
この「個性的な花びら」が名前の由来の3つめである。「細くねじれた花びら」が十分に実らない米に似ていることから、それを嫌い反対語の満作をあてて呼ぶようになった…というものである。命名の仕方も「忌み嫌い、反対語」を以て名づけるという正当論ではない。これは面白い。山村の農民生活との深い結びつきから生まれたことは事実であろう。
「加藤楸邨(しゅうそん)」の俳句に、「まんさくに滝のねむりのさめにけり」というのがある。
この俳句の意味は…、『まだ積雪の多い時季だというのにマンサクは咲き出した。雪に覆われ凍りついている滝もそれに呼応して長い眠りから目覚めたかのように水音を立て始めた』くらいに理解していいだろう。
春、一番、すべての花に先駆けて咲く生き物「マンサク」に触発された「無生物の滝」を見事に擬人化し、その生き生きした風情を短詩の中で描くところなどは真似が出来ない。 滝は、それに呼応して「眠りからの醒めて」囂々と音を立て始めたのだということがよく分かるのだ。
昨日、歩いたのは岩木山の「白狐沢」左岸沿いのミズナラ林だ。この沢は山麓下部で「長前川」とその名を変える。歩いた範囲には「滝」はなかったので、「囂々」という水音は聞こえなかったが、雪解け水を集めて流れ下る「水音」は激しく耳を打った。
この「白狐沢」左岸一帯が住所的には「弘前市大字十腰内字猿沢地内」と呼ばれているのである。そして、「白狐沢」に沿って県道30号(環状)線から上部に約1kmほど入ったところの「弘前市大字十腰内字猿沢地内」に、「板柳町」が運営する「不燃ごみ、粗大ごみ、焼却残渣」等の処理施設があるのである。
その施設から流れ出た「水」はすべて、「白狐沢」から「長前川」へと流れ込んでいる。地下に沈殿しているものもあろう。何だか恐ろしくなった。
この施設は平成6年(1994)に開設され平成32年(2020)まで、運営されるという。岩木山には人目に触れることのないような、この手の「施設」が結構あるのだ。
◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(13)◇◇
(承前)
…多くのアメリカの国民は、「伝統も個性も忘れ果てた」ような日本人をどのように見ていたのだろうか。。伝統や個性、それに、独創性を大切にするアメリカの国民は、例外ももちろん、あるだろうが総じて「一人一人がしっかりした個性」の持ち主である。
「無顔貌」とか「主体性に欠ける」、または「自分の意見を持たない、自分の意見を言わない」とか「何を考えているのか分からない」とか「民族や出身国の特性をはっきりと表現しない」などということは「リバテイ」を重視する国民性からすると、「一体これらは何者なんだ」というふうに映ったに違いない。
「何者なんだ」に対して与えた彼らの答えは「愚者(フールズ)」である。自分のことをはっきりと「主張」出来ない、またはしない「無顔貌」の日本人を「愚者(フールズ)」としたのである。彼らアメリカ国民からすると「伝統も個性も忘れ果てた」ような日本人は「愚者」だったのである。
何でもこだわりなく受け入れ、アメリカの後ろについてきたのが日本であり、日本人なのだ。「宇宙開発」も然りである。アメリカは「宇宙開発」を縮小する方向だ。現在の宇宙ステーションはどうなるのか。これから、月や火星に求めるものは何なのか。アメリカの後ろについてきただけの日本にはそれがない。
オバマ大統領になって、アメリカは変化している。変化とは、何かしらそこには「産みの苦しみ」が存在する。だが、希望はある。
しかし、主体性に欠ける日本の「アメリカ追随の政策」は、本家の政策変更で、「希望のない、寄港地のない船」のように浮遊している。根無し草だ。もちろん、漂っているだけだから、「希望」などあろうはずもないし、「産む」こともない。あるのは烏合の衆による騒然さだけである。これがよく顕れているのが「普天間基地」移設問題であろう。
「うろうろ、おろおろ」しか出来ないのは、「自分の命を他人に預けた人間の結末」である。だが、この「うろうろ、おろおろ」を見ても、これに接しても多くの日本人は、まだ「他人事」の気でいるから、日本は「愚者の楽園(フールズパラダイス)」といわれても仕方がないのかも知れない。(明日に続く)