岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(11)

2010-03-23 05:16:20 | Weblog
 ★今日23日は……★★★★★

◆◆弘前市企画課職員による「弥生スキー場跡地利活用法を考える市民説明会」◆◆

 昨年10月、弘前市が弘前大学人文学部と共同研究の結果まとめた「報告書」は、弥生リゾート跡地(現市有地)の今後の方向性を検討するに当たって、ぜひ多くの市民に触れていただきたい内容となっている。
 いったん、草木が根こそぎ削りとられ更地になってしまった弥生リゾート跡地は、今、豊かな緑に覆われ徐々に回復しつつある。
 今回、「弥生スキー場跡地問題を考える市民ネットワーク」の要望に応え弘前市が報告書の説明をすることになった。弥生リゾート跡地を市民がどのように守り、利活用していくかを考えるきっかけとしよう。

 本会会員に要望したい。古い会員も新しい会員も「弥生跡地問題」は本会活動の出発点であり原点であることを今一度、考えて、是非参加してほしい。昨年 11月に弘前市が開いた報告会には、僅か3名の会員が参加しただけであった。今回はもっと多くの会員の参加を期待したいものだ。

▽と き 午後6時~8時
▽ところ コープあおもり和徳店(野田1丁目1の27)2階ホール
▽内 容 弘前市職員による報告書の説明(質疑応答)

★★★「説明会」には、市役所の企画課から職員が出向いて、弘前大学との共同研究の成果と方向性について説明をする。私(三浦)も乞われたので、プロジェクターを使って、「弥生跡地の植生回復」状況について解説することになっている。★★★


 (今日の写真は、リンゴの剪定作業が始まったころの岩木山だ。樹下の地肌が間もなく見えるほどに積雪も少なくなっている。ここは岩木山からかなり離れている「平地」のリンゴ園である。見た限りでは、積雪による枝折れはないようだ。
 枝折れは、枝に雪が載っかかりその重さで「折れる」というよりは、枝の先の方が「雪に埋まり」、積雪が解けて「沈降」していく時の「張力」によって、少しずつ下方に引っ張られることによって生ずることの方が遙かに多い。これは、だから「降雪」の多い年に多く発生する。
 松などは「針葉」が密なので、その上に積雪が溜まり、重くなって枝が折れるが、その形は「折れる」というよりも「落ちる」に近い。枝が幹から抜け落ちるのである。
 
 20日、21日と続けて、岩木山の東麓にある「弥生スキー場建設予定跡地」に出かけた。何と、積雪は少なく、1m足らずであった。岩木山の東麓は「積雪」の多い場所である。正常な冬ならば、積雪はこの時季でも3m以上はある。
 だから、「スキー場」開設の計画があったのだ。雪の少ない場所では「営業日数」が少なくなるので、その採算性から誰も「開設」しようとはしないだろう。
積雪が少ないだけではない。「積雪1m」が全く「硬く」ないのだ。20日には、深めの「ゴム長靴」で行ったのだが、雪質は津軽弁で言うところの「じゃけた」ものだった。シャーベット状に近いもので、ずぶずぶと埋まるのだ。
 降雪が暖気で「凍結」しないまま、何層かに積み重なっていて、まったく「締まり」がない。膝までの「長靴」なのに靴の中に雪が入って大変だった。
 翌、21日には「スノーシュウ」を着けて歩いたが、それでも、深いところでは20cmほど埋まるのだった。3月下旬、このような「積雪」状態を、私はこれまで体験したことはない。
 「積雪」が少ないと言葉だけですませることは出来ないのではないか。何だか途轍もない異変が近づいてきているのではないかと、凄く恐ろしい気分になった。
 岩木山麓にある「リンゴ園」ではまだ、「剪定作業」は始まっていなかった。もちろん、「枝折れ」はまったくない。だが、この暖冬と少雪で、「虫」や「病気」が異常に発生するかも知れないと心配になった。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(11)◇◇
(承前) 

 …隣国の言語、「アメリカ」も太平洋という広い海を挟んでは隣国とはなるが…、つまり、ロシア、韓国、中国語を学びたいとその希望を話すと、周囲から「流行らないから止めた方がいいよ」とか「これからはアメリカ英語の時代だよ」と言われたという話しを聞いたことがある。昭和30年代の世相は確かにそうだった。公教育における「外国語」学習が「英語」一辺倒になりつつあり、猫も杓子も「英語」であり、しかもそれらは概して「話せない」英語だった。
 ヨーロッパは陸続きの国が多いからだろうが、「隣国の言語」を学ぶことが常識的であり、国が公教育の中で国民に学ばせている。
 いくら、陸と繋がっていないとはいえ、しかも、日本文化の「祖(おや)」といえる国の中国語や朝鮮語を公教育として、日本が国民に学ばせないことは、いかにもおかしいことである。私は中学生になって「英語」を学び始めた時から、ずっとそう思っている。
 「アマチュア無線」を趣味としていた時にはロシア語と朝鮮語(ハングル)を一時期学習したこともある。片言での挨拶程度の会話は出来るようになったが、その後が続かず、今では「忘却の彼方」状態にある。
 「何故、中国語や朝鮮語でなく英語を勉強しなければいけなのか」という思いの所為かもしれない。私は英語は得意ではない。大学時代も英語には泣かされた。こんなことはどうでもいいが、とにかくすべてが「拝アメリカ」だった。そして、60数年間を、その状態で過ごしてきたのである。しかも、日本は自国の歴史に国民の目を向けさせようとはしなかった。特に、中国や朝鮮との関わりの中で作られてきた日本の歴史に、その近代や現代史に関しては、「教科書検定」という国家の検閲体制を総動員して、意図的に削除までしてきた。
 「犬が西向きゃ尾は東」が道理だが、日本とアメリカの関係は「犬がアメリカ向きゃ尾もアメリカ」だった。(明日に続く)