岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

西法寺森について

2010-03-18 05:10:13 | Weblog
 (今日の写真は追子森山頂「標高1139m」から見た西法寺森だ。これは標高が1288mだ。約1km離れた距離から約150m高い山を見るとこんな感じ見えるのである。
 岩木山は、弘前から見ると裾野を広げた端正で優美な山に見える。それは私たちが岩木山の「東面」を見ているからだ。それに、「岩木山の東面」は比較的新しく出来たものだし、噴火による火山灰や火山弾が堆積して「丸み」を帯びた女性的な山容となっている。
 それに引き替え、西面と北面は「山名」を持つ山が続く。大鳴沢左岸尾根には、この「西法寺森」や鍋森山、笹森山、それに、この上部には「西法寺平」という疑似ピークもあり、これらはすべて、北面に位置する。
 西面から南西面にも「山名」を持つ山が続く。若木森、一つ森、二つ森、黒森山、追子森などがそれらだ。これらはすべて「寄生火山」と呼ばれるものであり、上部や側面に爆裂火口を基本とする深くて、荒々しい沢を持っている。白沢と赤沢である。)

◇◇ 西法寺森について ◇◇

 先日、この「西法寺森」へ向かったが山頂の手前で引き返した。その理由には「人的な要因」以外に「雪質」の違いがあったのだ。
 標高1000mを越える高所では150mという差は大きい。植物などもこの「差」によって厳然と住み分けが決まっている。
 この「差」は決して「差別」なのではない。厳然たる「区別」なのだ。自らを「区別」することで、「共生」を図っているのである。「共生」とは別に同じになることではない。
 みんな「同じ」になろうとするから、そこに競争が生まれ、「差別化」や「差別感」が生まれるのだ。バカ民主主義の中では、差別は広がるばかりだ。
 人は己を「仕分け」し、「区別化」出来る能力を身につけないといけない。民主主義とは、そのような人々たちによってしか成り立たないものだろう。

 「150mという高度差」は雪の量と「積雪」の硬さによく現れる。今回は後者の影響をもろに受けた。
 雪面が硬いのである。「アイゼン」が必要な場所もあった。ピッケルの石突きが刺さらない場所もある。こうなると、ワカンの爪だけでは支えられるものではない。転倒して滑落すると「白沢」や「赤沢」に落ちていくしかない。そこを「ワカン」と「ピッケル」、「キックステップ」という人的な技術でカバー出来れば別に問題はなく、「西法寺森山頂」まで行って帰って来れたはずである。

 そんなことはどうでもいい。何という格好のいい山ではないか。「追子森」の山頂から見る格好が一番いいと私は思っている。そして、これを「岩木山のマッターホルン」と心密かに呼んでいる。
 山頂から直面する斜面は「一気」に白沢爆裂火口に落ち込む。それをわずかに支えているのが「コメツガ」だ。その手前に連なる尾根はナイフリッジだ。
 何という荒々しさではないか。今日の写真に見える「山頂の鋭利さ」、その三角錐は岩木山では他には見られない。このように尖った山頂だが登ってみると、山頂は丸みを帯びた、千島笹が生い茂るだけの小さな広場である。決して「岩稜」とは言い切れない。夏場は、その「千島笹(ネマガリダケ)」の藪をこがなければ行くことは出来ない。猛烈な「藪こぎ」なるので、行くとすれば残雪期がベターだろう。

 ところで、「西法寺森」という山名は、何に由来するのだろうか。「西法寺」とあるから、仏教に関係していることは確かであろう。古い寺がこの山の山麓にあったのだろうか。
 岩木山は「三位一体」の霊山とされている。祀まつられている仏や神たちは多種多様である。
 弘前から見て「右」の巌鬼山は「観(世)音仏」と「赤倉山大権現」、それに「大己貴命(ダイゲンノミコト)」を祀る。寺としては「赤倉山宝泉院」や「観音院西方寺」があったとされている。「赤倉山宝泉院」は現在、茂森の禅林街にある。
 「中央」の岩木山は「阿弥陀仏」、それに「顕国魂神(ウツシクニタマノカミ)」の他に五つの神を祀っている。「顕国魂神」は御山参詣の時だけ、山頂奥宮に安置される。 寺としては「光明院百沢寺(ひゃくたくじ)」があった。今は岩木山神社の社務所として使われている。
 「左」の鳥海山は「薬師仏」と「国安瓊姫命(クニヤスタマヒメノミコト)」を祀り、寺としては「景光院永平寺」があったとされている。この「永平寺」は福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗大本山の寺院名と同じだ。開山は道元であり、本尊は釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来の三世仏である。岩木山もご本尊として「阿弥陀仏」を戴いている。
 この「西法寺森」稜線尾根の山麓に「長平」という集落がある。これは「ナガタイ」と読む。「永平寺」の「永平」も「ナガタイ」と読むことは可能だ。

 確かに、今はゴルフ場になってしまった辺りに「長平」の人たちが「寺屋敷」と呼んでいた場所があった。ゴルフ場が出来る前に1回だけ行ったことがあるが「土台の石組み」と思われる場所が存在していた。貴重な歴史遺産なのに、今は「ゴルフ場」に埋没しているのだろう。
 「長平」地区に「永平寺」が存在していたならば、「長平」の上部の山に、どうして「西法寺森」としたのだろうか。何故に、「永平寺森」としなかったのだろう。
 巌鬼山には「観音院西方寺」というものがある。この「西方寺」は「サイホウジ」と読める。これをあてて、「西法寺森」としたのだろうか。確かに、巌鬼山への稜線尾根は烏帽子岳を経て、「長平」地区からつながってはいるが、現在の「西法寺森」とはその位置関係が「西、東」と正反対になるのだ。
 不思議な話しである。今度しっかりと調べることにする。