岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「セッケイカワゲラ」のこと / ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(14)

2010-03-26 05:14:30 | Weblog
 (今日の写真は、「セッケイムシ」と呼ばれるカワゲラ目クロカワゲラ科の昆虫だ。正しくは「セッケイカワゲラ」の1種である。「セッケイ」とは、「雪渓」のことだ。北海道から本州の積雪地方に分布する。これは、24日に岩木山白狐沢左岸尾根のミズナラ林の積雪上で出会ったものだ。平地では真冬に積もった雪の上で見られるし、高山の雪渓では、夏に出現する。
 蝶にしても、トンボにしても冬には見られない。冬に目につく昆虫は数少ない。だが、これは「雪の上で多く見られるという変わった昆虫」である。雪渓の上で、雑食性なので、虫の死骸(多くはユスリカの仲間)や、落葉など、雪の上で見つかる有機物を幅広く食べている。
 体長は1.0cmほどの黒色で無翅の昆虫だ。何と、雪の上を忙しなく這いずり回るのである。止まることなくひたすら歩いてジッとしていない。翅が退化してしまって飛べないので、歩く以外に移動の手段がないのである。
 詳しいことは分からないが、この時季に動き回るということは、この「時季」が産卵のシーズンなのかも知れない。ある観察記録によると、歩きながら「沢や川の上流を目指している」とある。そして、これを捕食するのが野鳥である。中でも、地味な茶色の鳥「カワガラス」が天敵なのだそうだ。
 まさに「生物多様性」、多様な生態系を維持している「セッケイカワゲラ」である。)

◇◇ ひな祭りに関して…民族の誇りと文化を忘れた日本人(14)◇◇
(承前) 

 …日本人は出しゃばることを嫌う。自分の意見を言うことでさえ、「謙虚さに欠ける、控えめでない」と、批判される。これは、出しゃばることを嫌うというよりも「出しゃばり」を許さないという、作られた通念ではないのか。
 「謙虚さに欠ける」者は、自己抑制の利かない人格の持ち主であると決めつけることで、その人たちを「封じ込める」力学を持っているのではないか。「出しゃばる」ほどに自分の考えや意見を言う人が多いと、決定に時間がかかるだけでなく、まとめ上げるのに苦労する。だが、この「意見が多く、時間がかかり、意見をまとめ上げて決定することに苦労する」というプロセスこそが「民主主義」なのではないのか。
 反対に、そのような「もの言わぬ」人が多いほど「支配する側」は楽だ。「お仕着せ」事や「上意下達」が楽に、スムーズにいく。そもそも、会議とは「もめる」ものであり、スムーズに決着するということは作為的な嘘ごとに等しい。
 私が40代の頃だった。職員会議で発言する。いつも発言した。自分の意見や考えを他の教員に知ってもらいたかったからだ。また、他の教員の考え方を知りたかったからだ。私の意見の中心にはいつも「生徒」がいた。
 ところが、そのような私を「ある校長」がわざわざ、校長室に呼んで、次のように言ったのだ。
 「先生、もし、あなたが出世したいと考えているならば、職員会議であのような態度を続けることは止めた方がいいですよ」と。つまり、出世したいなら「ものを言うな」、「私(校長)の意見に従いなさい」と言うのである。
 続けて、次のようなことも言った。…「日本人は情緒的な思考をする民族だから、理論を、筋道立てて論理的に展開するような発言を好ましいものとは考えない。論理的に他人を説得するような口調での発言を続けるのならば、あなたは管理職から見放される。校長などには成れませんよ」。
 私は、「端からそのようなことを望んでいない。論理的な思考に非を唱えること自体、民主主義への冒涜だ」という意味のことを、率直に述べた。

 先日、環境ジャーナリストである今泉みね子の「意見堂々・ドイツ人」という一文に出会った。全文を掲載する。 どうして、「アメリカ」のことについて書いていながら「ドイツ」なのだと思うかも知れない。だが、アメリカの、アメリカ人の基本的な思考スタイルは「ヨーロッパ」にあるのだ。そして、それはなにも「ドイツ」に限ったことではない。イギリスもフランスにも共通していることなのである。

 …「ドイツに暮らして驚いたことの一つは、誰もが自分の意見を堂々と発言することだ。幼稚園や学校の保護者会で親たちは、稚拙とも思える意見でも平気で発言する。スターやスポーツ選手もインタビューで、ただ 『すごーい』とか『頑張りました』と答えるのではなくて、『これがこうだから、どう良くて、ここがまずい』といったことを筋道を立ててまくし立てる。最初のころは、ドイツ人てみんな頭が良いのかしらんと誤解した。だが、長く暮らすうちに、これは、小さいころから思ったことを口から出す習慣があるからだと分かってきた。学校では、間違った答えでも発言する生徒のほうが、おとなしい子よりも評価が高い。ドイツ人のもう一つの特徴は、何かにつけて物事の否定的な面を見つける癖だ。レストランでの食事、サッカーの試合、新製品、新しい政策や制度など、何にでもまずは難癖をつける。自国や自分自身についてもそうだ。もっと良い面を見ればよいのに、と思うが、この不満癖は批判精神 にもつながる。
 環境先進国と呼ばれるドイツの環境政策は、こうした市民の批判精神と積極的な発言のおかげかもしれない。原発、森林枯死、増えるゴミなどに対して市民が批判の声を上げ、市民運動を盛んにしたからこそ、政治や企業もそれに応えざるを得なくなり、その結果、良い政策や企業の環境対策が進んだのだ。日本人の控えめな態度は美徳ではあるけれど、たまには思ったことを遠慮せずに発言してみよう。』…

文明開化の明治維新、日本は「ヨーロッパ」に学びながら、文物を漁ったが、もっとも大切な「『これがこうだから、どう良くて、ここがまずい』といったことを筋道を立てて議論する」ということを学ばなかった。時の政府が意図的に避けたきらいもある。そのような真の民主主義が日本に定着すると、困るほど「脆弱で成熟していない国家」だったのであろう。

 インタビューに答える子供たち、その言い分は「美味しかった、楽しかった」などに限定され、形骸化している。これは、単なる感覚的な感想でしかない。比較検討、推理推論という思考がない。
 私は日本人の「愚者」的な傾向は、この時、つまり幼児期や子供時代から既に始まっていると考えている。
 そのような子供が思考的な訓練を受けないまま年齢と体だけが「大人」になっている。それが日本人のような気がしてならない。これでは「愚者の楽園(フールズパラダイス)」と呼ばれてもしかたがない。(明日に続く)