岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真が語ること…米栂(コメツガ)樹霜(2) / Windows7は自作が簡単

2010-01-22 05:19:31 | Weblog
 (今日の写真も、「米栂(コメツガ)に着いた樹霜」である。これも2009年3月27日に、大鳴沢右岸の烏帽子岳山稜で撮ったものだ。
岩木山で、コメツガの生えている場所は、大きく分けていうと西の登山口「松代」と北北東にある登山口「赤倉」を結んだラインの北側である。ただし、赤倉登山道尾根の対岸尾根にもあることはある。しかし、そのラインより、南側には存在しない。
 つまり、弥生登山道尾根、百沢登山道尾根、岳登山道尾根には存在していないのである。これは、岩木山の生成過程に因って決定されたことだ。
 つまり、このラインの北側は「旧い時代」に出来た岩木山であり、昔からの「植生」として「コメツガ」が生えているのだし、南側は生成過程が新しく、中央火口丘などが生成される中で、噴出した溶岩や火山弾などと呼ばれる「硅石」、火山灰などによって覆われて、その際に「死滅」してしまったのであるらしい。
 いずれにしても、「コメツガ」は「貧栄養の岩場」を好む樹木だ。だから、「コメツガ」の生えている場所は、「険しい岩稜」と決まっている。
 岩木山の南面は「火山灰」や「火山礫」を剥ぎ取ると、その下層には「岩」が現れるのである。山麓にも、この岩がたくさん埋没している。)

◇◇ 今日の写真が語ること… ◇◇

 これも、写真展に出したものだ。コメントには「直立してるものは何もない。風によって撓められている。昨晩からの猛烈に強くて冷たい風が幹の右側に樹霜を造る。10年ほど前だと、このコメツガ林内はすべて積雪の中だった。この年も雪が少ない。林内はすけすけではないか」と書いた。
 確かに、「向かって左側に撓められて」いる。これは「西風」の強さを現している。だが、すべてのコメツガは「立って」いる。これに比べると、赤倉登山道尾根に生えているコメツガは立っていない。一様に寝そべっている。斜面に沿って、斜面の下方に梢を向けて倒伏しながら「横たわって」いるのだ。それが10mや15mという樹高であり、年輪が6、700を越える大木でも「仰臥」しているのだ。
 だが、この場所には「斜面に沿って仰臥」させる物理的な原因がないのだ。だから、曲がりなりにも、空間に向かって「立って」いるわけである。
 「斜面に沿って仰臥」させる物理的な原因とは、1つに常時吹き付ける一定の方向からの「強風」だ。もう1つは、「大量の積雪」だ。この2つだが、「大量の積雪」に因ることの方が主因だ。
 積雪は、斜面に沿って「動く」ものだ。「速いスピード」で動くと、それは「雪崩」となる。この「微妙な動き」は雪解けの頃にピークに達する。だが、私たちの目には見えない。
 時には6mを越える積雪が、その重さにスピードを加えたものすごい圧力で「コメツガ」の幹を下方に押し倒す。それは、「幹」を折るような破壊力だ。だが、「コメツガ」は「折られる」よりも、下方に自らを「ねじ伏せる」ことで、その「破壊力」に抗うのである。 この「抗い」を彼らは、長いものでは1000年、短いものでも数10年は続けているのだ。そして、今は、赤倉尾根のどこにも、「立っている」コメツガはない。すべてが「寝そべって」いる。
 それでは、この写真の「コメツガ」が立っている理由を考えよう。「左に撓められている」のは、右からの強風によるものだ。だが、この風は「真横」からのものではない。この右斜面の最下部は「大鳴沢」だ。「大鳴沢」に吹き込んだ風は、斜面に沿って吹き上がってくる。それゆえに、「コメツガ」は真横から風を受けない。つまり、根元から舞い上がるような風を受けるのである。横風ではないのだ。だから、「左への撓め」も、その度合いを少なくしている。  
 もう1つはやはり、積雪だ。この写真を撮ったシーズンは特別雪が少なかった。だが、普通の年は、3~4mの積雪はある。
 ある年の2月に、この山稜を登り、山頂を経て岳に降りたことがあったが、その時もこの「コメツガ林」で雪に阻まれて難儀したことがあった。しかし、強風に巻き上げられて、雪が「吹き溜まる」という度合いは少ない。
 だから、大鳴沢側に落ちて流れていく「雪」も少ない。しかも、稜線央部は少し平らになっているので「積雪」は動かない。「コメツガ」の幹は圧力を受けなくて済むのだ。これだと、斜面に仰臥する必要はまったくないのだ。

◇◇ Windows7は自作が簡単 (1)◇◇

 少し岩木山を離れて、コンピュータの話しにしてみたい。今日のテーマは、別にいうとOS「Windows7」は何でもかんでも、OS自体が勝手にやってくれて、作る者、使用する者の「出番」がとても少ない、ということだ。
 「Windows7」は「他人任せ」、つまり、「他力作善」の人にはベストマッチな「OS」というわけである。
 私は、ここ10年ほど、コンピュータは自作機、と決めてきた。ちょうどその歴史は「Windows XP」と重なる。それ以前の「Windows 98」時代は、勤務先のNECコンピュータを、退職後は一時期、Dell社製のコンピュータを使っていたが、OSが「Windows XP」になった頃から、自分で「コンピュータ」を作るようになった。
 これまでも、何回か「自作」のことを言ってきたし、その都度、「自作は難しくはない、単なる組み立て屋」だとも言ってきた。配線やコネクターの差し込み箇所を間違えないと、誰にでも出来る。
 とにかく、「組み立てる」という行程そのものは、容易なのだ。私が数年前まで「趣味」としていたアマチュア無線の受信機や送信機を自作するのに比べると、実に簡単である。私は小学校5年生の時に「ラジオ」を作ったことがあるが、それよりも簡単である。
 ただ、コンピュータというものは、組み立てたからといって「コンピュータ」になるものではない。組み立てただけでは、単なる「筐体」、つまり「箱」である。
 「本物」のコンピュータにするためには、「組み立て」た後が問題であり、大事なのである。
 「Windows 7」は、マザーボードのBIOS設定を初期化のままでも、インストールしてしまうと「組み立てた後の大事なこと」をすべてやってくれるのだ。まさに、お節介な「OS」である。だが、このことを称して、世の多くの人は「便利」だと言うのだ。(明日に続く)