岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

40年連続して厳冬期の岩木山山頂に立った(2)

2010-01-13 05:05:04 | Weblog
 (今日の写真は、山頂で万歳をする「相棒」さんだ。本当に嬉しそうである。私の家族もこの写真を見て「何て嬉しそうなんだろう」と言ったほどだ。
 この写真は「相棒」さんのカメラで私が写した。昨日の私の写真は、「相棒」さんが私のカメラで撮ったものだ。
 比べてみたら「明るさ」が全然違う。これはレンズの違いによる。相棒さんのレンズはF値が1.9の標準レンズで非常に明るい。私の方はF値が3.5~5.6という標準的なズームである。この違いには驚いている。これだと、私の写真も相棒さんのカメラで撮ってもらえばよかったと思うくらいだ。
 30年連続登頂は1999年12月30日だった。その時はプラスチック製の「ミニ三脚」をピッケルにくくりつけて、自動シャッターで「自分」を写した。だが、今回は「2人」ということで、そのような準備もしていなかった。だから、お互いが「写し合い」をするなどという面倒なことをしているのである。
 空は青くない。晴れていないからだ。ただし、降雪はない。これは薄い雲が流れているからだ。ひととき、青空も覗くが、直ぐに雲の中という状態がめまぐるしく変化する。
 「風速20m、体感温度氷点下30℃」という「穏やかな山頂」でも、一瞬の安寧(あんねい)もない。
 相棒さんの左後ろに見える尖った雪塊は岩木山神社奥宮の屋根だ。山頂で一番高いのはこの辺りである。昔はここに円形の金属製方位板が設置されて、見える方向の山名などが刻印されていたこともあったが、それもいつの間にかなくなってしまった。
 そのようなものがあったということは、そこが一番高い場所であるという証明みたいなものだろう。
 それにしても「積雪」は少ない。私は弘前南高校に勤務していた時に、毎年、年末登山時に「大学合格祈願」をした。大学受験名簿を、この「奥宮」に奉じて、生徒の合格を岩木山にお願いしたのである。これを13年間続けた。
 その「合格祈願」の奉書を奥宮に納めるために、先ずは「奥宮」を探さねばならなかった。雪にすっぽりと埋まっているのだ。まさか、「奉書」を屋根の上に納めるわけにもいかず、さりとて、まったく位置の違うところに納めるわけにもいかない。そんなことをしたら「ご利益(ごりやく)」がなくなって、全員不合格ということになってしまうかも知れない。そうなると生徒が可哀想だ。だから必死に探し、掘り起こして、穴を穿って奥宮の前に辿り着いて、奉納するのである。
 だが、これも、97、8年頃からあまり苦労をしなくなった。積雪が少なくなってきたからである。この写真のようにである。
 まさに、鳥の海噴火口外輪辺りから頂上までは「雪」が少なく、「風が『ガラガラ』と音を立てて吹く」という形容がぴったりであった。)

◇◇ 40年連続して厳冬期の岩木山山頂に立った(2) ◇◇

 …今回の山行は「相棒」さんがチーフリーダーを務めた。計画変更、ルートの判断などはすべて「相棒」さんが行った。「相棒」さんは08年2月にこのルートは経験して、山頂に立っている。冬山の経験年数は少ないが、ここ3年間に限るとその岩木山登山回数は普通の人の10年分に相当するほどこなしていた。このことは、このブログにアクセスしてくれている方ならご存じのはずだ。
 私が若かった頃は「夏山7年」とか「夏山5年、春山3年」という教えがあった。これは「冬山に登るには、夏山や春山に少なくとも数年登って、登山のイロハを知ってからにしなさいよ」という教訓である。
 だが、経験を積んだ登山者と同行しながら、「登山のイロハ」を体験的に学習していると、数年を待つことはない。「相棒」さんは、その年から「岩木山の冬山」を経験したのである。

 次に、行動をタイムテーブルで紹介しよう。

10日 
 7:00「三浦自宅」出発→ 8:00 岳温泉登山口出発→ 13:00 スカイラインターミナル(幕営)→ 14:00(テント泊)
11日
 7:00(起床・食事)→9:00 (山頂に向けて出発)スキーはリフト終点付近にデポして、それより上部の登高は「ワカン」を使用する。テントはそのままの状態。→ 11:30 (山頂着)→ 11:45 (山頂発)→ 13:00(スキーデポ地着)→ 13:15(スカイラインターミナル テント場着)→
13:50(テント撤収・パッキング完了下山)→ 14:45 (岳温泉駐車場着)→ 15:00(岳温泉駐車場発)→ 15:45 (弘前・三浦宅着)

 「遅くても午後3時には登山口にいる」ということが冬山での常識的な原則である。それをかろうじて守れたことは嬉しい。
 これも、スキーで下降出来たからである。重い荷物に振られながら下降することは、「早い」けれども、それだけ「危険」である。いつ骨折や捻挫というアクシデントに遭うか分からない。「スキーで下降すること」はリスクの多い方法ではある。

 ところで、昨日、東奥日報と陸奥新報の取材があった。実は、以前「弥生跡地自然回復なる」という記事が陸奥新報と東奥日報に掲載されたことがあった。
 その時の取材の中で、記者から「三浦さんは登山もやるんですよね」という質問があり、そのことをより具体的に話すために「岩木山厳冬期登山を39年続けていますよ」と言った。
 そうしたら、「それでは今度の冬登ると40年連続ですか。もし、それをしたらは連絡下さい。」と言うのだ。そのようなわけで、「10、11日に登って来たよ」と、連絡したのである。それを受けての取材であった。
 写真も必要という電話連絡があったので、「相棒」さんが写したものもの拝借した。今回の登頂は私一人では絶対に出来なかったのだ。つまり、「相棒」さんのフォローがなければ出来ないものであったのだ。取材があって記事になる場合、どうしても、同行者として「相棒」さんの「名前」を出さねばならないと考えたのだ。そこで、「相棒」さんからその承諾を先ずもらった。
 2社の記者たちは「相棒」さんが写した写真、それに「相棒」さん本人の写真も貸してほしいと言って持って行った。私は「『相棒』さんと一緒でなければ今回の登頂はなかった」と本音を正直に語った。本当にそう思っているわけですから当然のことだ。
 しかし、どうしても、私と「岩木山」との関わりに触れた形での取材になってしまう。だから、話題が広くなりる。2紙どちらも、2時間以上の取材であった。
 どのような形で「相棒」さんが記事に登場するかは、あくまでも記者の論点、それにデスクの判断となるだろう。これは、実際、記事になってみないと分からないことだ。
 掲載もいつなのか、それも分からない。まあ、近々、掲載はされるだろう。