岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真から…思うこと / 12月29日に一人で姥石の上部まで…(3)

2010-01-03 04:25:48 | Weblog
 (今日の写真は冬枯れの「ノリウツギ(糊卯木)」だ。白く、「四弁」の花のように見えているものは「飾り花」である。雌しべも雄しべも持たない。受粉のための「虫集め」には「よく目立つ」ので役に立っているようである。
 花といっても咲いているわけではなく、「白い」色素を保ったまま「冬」の山で「咲き誇って」いるのだ。)

◇◇ 今日の写真から…思うこと ◇◇

 このように「咲き誇った」感じを与えて、「冬季」に人目につくことは、滅多にないのだ。しかし、ここ数年の暖冬と少雪は、このような「ノリウツギ」の姿を多く見せるようになっている。
 きわめて、普通のこれまでの「冬」、積雪がまともにある冬には、これらは「雪の下」に埋まっていて人目にはつかないものなのだ。
 これは、12月29日に「姥石」の前で撮ったものだ。
 ノリウツギは春の若葉、夏の濃い緑の葉、それに白い清楚な花、さらに、この白い花は夏から秋へと季節が移っていくのに従い、褐色に変わっていく。この色を「鉄の錆色」とみなして、「サビタ」と呼ぶこともあるのだ。だが、本来の「サビタ」はアイヌ語で「ノリウツギ」を指す言葉である。
 ただし、気温変化が激しい高山帯のものは、秋遅くに「白色」から「濃いピンク色」に変わることがある。これがなかなか、美しいのである。
 時々出会う程度で、滅多には見られない故だろうか、野山から「花の消える」時季に、艶やかに咲いているからだろうか、霜に打たれながら、必死にその色を保つ姿は「けなげ」の一語に尽きるものだ。
 本物の「花」は、すでに種子となっていて、茶色に見える「粒々」の集まりが、それである。
 まともに降雪があると、この時季の「姥石」付近は、積雪が4m近くになり、この「ノリウツギ」も雪の下で、ひっそりと春を待つことになっているのである。

 今日の写真を歌ったような短歌を一首紹介しよう。

・冬枯れの山に出合ひし乾燥花ノリウツギに問ふ老い支度など (詠み人知らず)

 …冬、木々の枯れた山の中で出会った、あのすっかり乾燥しきっていたノリウツギの花よ、教えてほしい。これから私はどんどん老いていくのだが、これからどのような、生きていくための、あるいは、死に行くための支度が必要なのであろうか。…とでも訳されるだろう。
「ノリウツギ」は枯れてもなお美しい。雪に紛うほどに枯れた美しさは光る。淡泊な健気さを持って輝いている。68歳の私も、この出会いで、やはり、これから「生きていくため」の支度を訊いたのであった。

◇◇ 12月29日に一人で姥石の上部まで…(3) ◇◇
(承前)
 …夏道、または夏道沿いは、積雪が「まともな冬並み」であるならば、登りづらいことはない。つまり、道上だろうが、そこから外れようが、まったく別なルートをとろうが、「何処も」同じ「負荷」のラッセルになる。
 だが、積雪が少なく、その上「新雪」であると、そうはならない。「積雪」が少ないと誰もが「楽に登れる」と考えるだろう。それも、10~20cm程度での話しだ。この程度だと「登山道」を辿るのが一番、楽だ。
 だが、「膝程度の積雪」では「楽」でないのだ。29日の「カラスの休み場」から上部は、まさにこれに相当していたわけである。
 それは、「登山道」は洗掘「登山道を流れ下る雨や雪解け水によって、深く掘られること(せんくつ)」によって穿たれて、深くなり、それに雪が被さっているだけなので、そこを歩くと「落とし穴」に落ちたような状態になることに因るのだ。
 また、暖冬の上、「少雪」なので、下層の積雪が締まらず、しかも、凍結していないで、ぶすぶすと埋まることに因る。
 加えて、その少雪の下部には、根曲がり竹や低木雑木の枝が這っていて、それが「ワカン」に絡みつくことに因る。まるで、竹や枝の「足枷」である。
 積雪が多いと、それらは上層の積雪に圧されて、「横になった状態」で、しかも上に積雪があるので、「ワカン」や「靴」はそこまで達しない。だから、「足枷」にはならないのだ。
 「カラスの休み場」から上部の登高は、この3つの条件を満たしていた。当然、苦しい登りとなった。
 私は、34年間、連続して「岩木山年末登頂」をしてきたが、35年目から「時期」を年末から、厳冬期に換えて、1月から2月の「いつの日」にかにした。
 その理由は、色々あるが、その中の1つが、「暖冬少雪」であるということであり、それ故に、今述べたような「負荷」がきつくなり過ぎることにもあったのである。(明日に続く)