若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

岩手・秋田・山形に遊ぶーその1-城跡と啄木と賢治の街・盛岡市

2016年06月06日 | 旅行


5月30日(月)から妻と二人で岩手・秋田・山形へ2泊3日の旅行に行って来ました。

大宮駅6時58分発「はやぶさ1号」に乗ると岩手県の盛岡駅に8時45分に着くというから驚きです。

改札口を出て駅前からすぐに北上川に架かる「開運橋」を渡ります。

晴れた日にはこの橋の上から北上川の上流を見ると、大きな岩木山がそびえていて、素晴らしいそうです。

開運橋は、別名「二度泣き橋」とも呼ばれています。

首都圏からの転勤族の間で語られたのが由来だそうで、初めて盛岡へ訪れ開運橋を渡る際「遠く離れた所まで来てしまった」と一度泣き、転勤期間を終えて盛岡を去ることになり盛岡駅へ向かう途中に再びこの橋を渡り、二度目は離れるのが辛くて泣くというものです。



開運橋を渡って東へ5分ほど歩くと「盛岡城跡公園」に到着です。

盛岡城は南部重直が1633年に入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。

北上川、雫石川、中津川を自然の壕に利用した平城で、不来方城(こずかたじょう)とも呼ばれました。

石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と刻まれた歌碑などが公園内にあります。



かつて日影門外(ひかげもんそと)時鐘と言われ、外堀の土塁上にあったものが移転して桜山神社の北側に設置され、昭和30年ごろまで盛岡市民に時刻を知らせていました。

現在は6月10日の「時の記念日」と大晦日にのみ聞くことが出来ます。



「中津川」に架かる「中ノ橋」を渡ったところに「ガス灯」がありました。

ガス燈事業からスタートした近代都市ガス産業の先駆者は南部藩士と言われています。

夜の盛岡をやさしく照らし出すガス灯の明かり。

古くから使われてきたガス灯は、歴史と情緒を感じさせてくれます。

盛岡城跡公園周辺の明かりにはガス灯が使われています。



「プラザおでって」の信号を右に折れると「もりおか啄木・賢治青春館」です。

「もりおか啄木・賢治青春館」は、明治43年(1910)に竣工した旧第九十銀行本店本館を保存活用し、石川啄木と宮沢賢治が青春を育んだ盛岡の街と二人について紹介します。

郷土が生んだ偉人、石川啄木と宮沢賢治。

年齢差10歳のふたりは、非常に多感な青春時代のそれぞれの約10年を、ここ盛岡で過ごしています。

親元を離れ進学した盛岡中学。彼らの胸には、どれだけの希望がつまっていたのでしょう。

多くの友と交流した学生時代、時には学校を抜け出して、近くの盛岡城跡公園で本を読みふけったりしたことが前述の啄木の歌碑から窺われます。



再び中ノ橋通りに戻ると「岩手銀行(旧盛岡銀行)旧中ノ橋支店」の立派な赤煉瓦造りが中津川のほとりに聳え立っています。

約91万個のレンガを積み上げたレトロな外観の美しさが非常に印象的です。

壁の白いラインが際立つデザインは東京駅の設計で知られる辰野金吾によるもので、盛岡出身の建築家・葛西萬司も関わっています。

この界隈を愛した宮沢賢治が、晩年の詩でうたっています。

アークライト(孤光燈)にめくるめき、羽虫の群のあつまりつ、川と銀行木のみどり、

まちはしづかにたそがるる」。



北側には同じく葛西萬司の設計で昭和2年に建てられた「盛岡信用金庫本店」(旧貯蓄銀行)。

1階から2階まで伸びる6本の太い円柱、花崗岩に施した石彫りのパターン、内部のステンドグラスなどが重厚感を与え、昭和初期のモダンな表現と近代的デザインの流れをくんでいます。



中津川沿いのビクトリアロードを北に歩き「与の字橋」を渡ると「紺屋町番屋」が左手に見えてきました。

1891年「盛岡消防よ組番屋」として現在地に建てられた建物を1913年消防組第四部事務所として改築されたものが現在の建物といわれています。

屋根の上には望楼が設えられ、現在は高い建物が周囲に乱立して見通しが利きませんが、当時はかなり遠くまで望めたものと思われます。

1階のシャッター部が改造されている他はあまり大きな変化がなく、消防施設の変遷を知る貴重な建物として、昭和52年に盛岡市の保存建造物指定をうけています。



「与の字橋」を戻り「中央通り」を西に歩きます。

右手に見えてきたのは「岩手県公会堂」です。

「岩手県公会堂」は、皇太子であった昭和天皇の御成婚を記念して昭和2年6月に建設されました。

設計は、東京の日比谷公会堂や早稲田大学大隈講堂の設計で知られる佐藤功一博士で、近代コンクリート建築の先駆けでした。

幾度かの改修が行われましたが、内部には漆喰の美しいレリーフや、優雅な曲線のバルコニーなど、創建当時の面影を伝えるアール・デコ様式の意匠が残されています。




盛岡地方裁判所の前には、周囲21メートルの巨大な花崗岩を割ってエドヒガンザクラ(石割桜)が伸びています。

樹齢は360年ともいわれているこの桜は、毎年4月中旬からきれいに花を咲かせます。



中央通3丁目に来ると「啄木新婚の家」が右手に見えてきました。

明治38年5月、処女詩集「あこがれ」を出版した石川啄木は、東京で新婚生活をもつという生活設計を変更して、市内の新山小路(現在の中央通3丁目)に帰り、 年来の恋人堀合節子と結婚式を挙げます。

しかし、父母と妹が同居する新婚生活は窮迫し、そこでの生活はわずか3週間。

同7月に市内の加賀野磧町(現在の加賀野1丁目)に移り住みます。

茅葺の屋根など当時と変わったところもありますが、ほぼ当時のまま現存しています。

現在は一般に無料開放され、新妻節子が愛用した琴、啄木の直筆の書や写真が展示されています。



盛岡散策の最後は「いーはとーぶアベニュー材木町」と「光原社」です。

「いーはとーぶアベニュー」とは、材木町のメインストリート材木町通りのことを呼んでいます。

賢治にゆかりの深い光原社、光や音楽をモチーフにした6つのモニュメントでファンタジックな賢治の世界を堪能できる場所です。

この写真は入り口近くにある石の採掘場で休む賢治を描いた彫刻「石座」です。

夜になると淡い灯が点滅する銀河系をイメージした「星座」、チェロのオブジェから賢治の作曲した『星めぐりの歌』が聞こえる「音座」、賢治あこがれのシルクロードがモチーフの「絹座」、賢治の設計した花壇をイメージした「花座」、そして賢治が詠んだ短歌を記した陶板を設けた「詩座」、どのモニュメントからも、自然の小さな生命を語り、また慈しんだ賢治のメッセージが伝わってきます。



日本の児童文学の金字塔として今も読み継がれる『注文の多い料理店』は、宮沢賢治の代表作にして生前に出版された唯一の童話集です。

この作品を大正13年(1924)に世に送り出したのが「光原社」の創業者・及川四郎氏です。

及川氏は盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)で、宮沢賢治とは先輩、後輩の間柄でした。

「光原社」という社名も、本の出版に際し、賢治が付けたことで知られています。

中庭には出版の地の碑と、童話「烏の北斗七星」の一部を刻んだ石柱が建っています。

中庭には、北上川に面した雰囲気のよい喫茶室〈可否館〉がありました。


以上で私たちは盛岡市内散策を終え、駅ビル内の「京樽」で茶きん鮨を食べた後、盛岡駅発12時35分の「こまち13号」に乗り込み、秋田県の角館に向かいました。