たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

夏祭りの夜、土曜日・・・

2016年07月30日 22時29分08秒 | 日記
 いつもの、ひとりで過ごす週末。人と話すことはほとんどない。最寄り駅へ行までの途中にある小学校では今日と明日の夜、盆踊り大会。近所に知る人もなく、住んでいる場所にほとんど密着していない生活を送っているわたしが顔を出すわけもなく、買い物帰りにただ様子をみるだけ。子供たちの元気な姿に色々な想いがこみあげてきました。子供の頃、8月最後の土曜日か日曜日だったと思いますが家の近くの神社で、毎年盆踊り大会がありました。中学2年ぐらいまでかな、すっごく楽しみでした。妹とわたしは母に浴衣を着せてもらって出かけていました。今思えば片田舎のほんとにこじんまりとしたお祭りでしたが、どんな提灯が出ているかなとか、楽しみでした。出店で綿菓子買ったり、楽しみでした。あまりにも家族が当たり前だったころの思い出の一頁。今の業務で、世の中には色々なご家族があることを知りました。少子化社会ですが、お子さんが3人、4人というご家族がたまにいらっしゃいます。男の子が多いと走り回ってほんとに賑やか。お母さん、すごいなあと思います。

 思えばわたしも3人姉妹、姉弟でした。同級生には二人姉弟が多かったと思います。子供が3人はすでにめずらしいことでした。母は3人の子を生んで育てました。3人のうちの一人が自死というかたちでこの世での旅にピリオドを打ってしまったことは残念でしたが、3人の子を生み育てたことはすごいことだったんだと今さらながら気づかされました。そんな想いで元気に走り回っている子供たちをみていると昨日も一昨日も心の中では涙が出そうになっていました。でも生むことがすべてでもありません。時には血がつながっていなくても法律上親子となっているご家族もいらっしゃいます。事務手続きを淡々と進めながら、お子さんが血はつながっていなくてもお母さんに慈しみ大切に育てられているであろうことを感じることがありました。どんな事情があるのかはわかりません。今目の前にいるこのお子さんに幸多かれと心の中では祈るような気持ちになることがありました。世の中にはほんとにいろんな人がいていろんな家族模様があります。ただひとつ想うのはみんな一人一人かけがえのない命。子供は親を選んで生まれることはできません。生まれてきた命が大切に育まれていくことを祈らずにはいられない、そんな夏祭りの夜でした。

第二章_日本的経営と近代家族_⑦近代家族は女性を抑圧した

2016年07月30日 15時33分04秒 | 卒業論文
 普通、私たちにとって、「家族」は、個人や社会にとって、その存在自体がプラスであると意識されている。逆に家族は個人の「幸せ」にとってマイナスであるという考え方は、つねに異端の側にあった。たとえ、現実の家庭生活で、何らかの苦しみを感じていたとしても、それは、現実の家族が理想的にない状態にない、つまり、問題家族のせいにされ、家族自体の是非は問われない。家族を構成する個人の責任か、家族をとりまく社会環境のせいにされる。家族は、何よりも、守るべきものと考えられてきた。それゆえ、家族の存在自体が女性にとって、「抑圧」の装置だというフェミニズムの発想は、普通の人びとにとって受け容れ難いものであり、逆に、私たちが持つ「家族への思い込み」を相対化する視点を提供している。家族こそが人間の抑圧の装置ではないかという思想は少数派ながら近代社会の成立以来つねに存在し、実践面でも様々な試みを生み出してきたが、マルクス主義フェミニズムの登場によって、装置としての「近代家族」の存在理由を、資本制という近代社会の基本構造と「家父長制」という女性の抑圧構造から解明する視点が生まれたのである。1)

 まず、資本制経済においては、資本家の組織する企業を生産の単位として、市場での生産及び労働によって商品として経済的富がつくりだされる。経済活動はいずれも市場活動として社会的な分業と交換の網の目のなかに編成されており、市場(交換)を通して社会的価値が形成される。そこでは、賃労働の成立によって労働力もまた商品化しているのである。賃労働者は自分の所有物である労働力を時間決めで売り、その報酬である賃金を得て生活している。ここで注意しなければならないのは、労働力も原料や機械など他の生産諸要素と共に商品を生産する過程で資本によって最も効率的かつ合理的に使用され日々消費されるが、他と異なるのは労働力は生きている人間のもつ属性であり、資本によって市場で「売られるもの」としてつくりだされるものではない点である。すなわち、労働力の生産・再生産とは、生きている「人間の生産・再生産」を意味する。しかし、全てがモノとして扱われる市場経済の内部では、労働力の再生産は、そのために必要とされる多様な生活資料の生産というモノの次元でとらえられる。したがって、資本制経済では労働力の再生産については、その機能を社会的装置としての「近代家族」に委ねているのである。そこは、市場関係の外の私的な領域である。資本制経済のもとでは「近代家族」は賃金を得て購入した生活資料を消費することにより労働力の維持・再生産を行うという商品の消費単位となっている。一定の消費労働をとおして労働力の日々かつ世代的な再生産が可能となっている。「近代家族」に委ねられた労働力の再生産労働は、市場経済の外の「非賃金労働」である。なぜなら、資本制的市場経済と家族とをつなぐ「労働力の提供―賃金の取得」についてみると、資本が支払う賃金はあくまでも市場の中で購入した労働に対するもので、そもそも市場で労働力を売るために市場外でいかに再生産の労働が不可欠であっても、その労働に対して資本が直接対価を支払うわけではないからである。しかし、マルクス主義フェミニズムからみれば、それは広義の社会的な生産労働として位置づけられなければならないものである。市場経済のもとではそれは「見えざる労働」になっている。この「見えざる労働」をめぐって性別役割分業が形成されているのである。 2) マルクス主義フェミニズムは、「家事労働」に注目することによって、家族は物的(特に経済的)な装置であることを強調した。女性は、家事労働者であることを強制され、搾取される。この「家事労働の発見」によって、「家族」が近代資本制の物的な(経済的な)存続に不可欠な装置として分析する視点が生まれた。

 「近代家族」を単位として営まれている労働力の再生産労働とは、日々のと同時に世代的な基盤の上に、人間の生命や生活を維持し再生産することであり、第一に種の再生産、第二に生命や生存を維持し再生産するための様々な活動と労働が含まれる。これら再生産の労働、とりわけ種の再生産労働は、その生殖機能と結びついて、女性に振り分けられてきた。男性が経済的責任を担い、女性が家庭責任を担うということは、つまり男性は生活資料の生産労働へ、女性は再生産労働へという性別役割分業が形成されたということである。そこには男性による女性支配の物質的基盤が存在し、さらに女性の労働力に対する男性の支配という家父長制が形成された。マルクス主義フェミニズムによれば、「近代家族」は再生産労働をめぐり家父長制的関係が維持されている制度であり、女性の担う「見えざる労働」の発見は、「女性役割」という性別イデオロギーや家族間の「無償の行為」「愛情」「母性」という名のもとにこれまで覆い隠されてきた再生産労働をめぐる物質的関係を明らかにした。3) 家父長制的関係が維持されている近代の結婚と家族は、女性にとって抑圧として機能していると考えられるのである。

 まず、種の再生産労働について考えてみると、たしかに妊娠・出産は、女性の身体に生じることではある。しかし、男性なしには生じない。したがって当然妊娠に関わることは両性の問題であるのに、不妊の原因が女性のみにあるかのように考える社会通念など、子産みにかかわる事柄を女性のみの責任に帰するかのような社会通念が根強く存在する。女性労働者は「生む性」として母性機能をもち、この特性を十分発揮するには、労働において母性の保護を必要とするとして、母性を保護する目的で昭和23年に本人の申し出により取得可能な生理休暇という日本独特の女性保護(当時の各国の労働法にはどこにも見当たらない)が労働基準法に取り入れられた。さらに、子育てにおいても、母親には子どもを育てる本能が備わっているのだから、母親が子育てにあたるのが当然であるとする「母性神話」が根強く存在し、男性には育児責任も必要性もないかのような社会通念を蔓延させてきた。母親には、身体の機能としての子どもを産む行為の他に、実際の行動として子どもを育てるという行為、無償の愛・包容力・慈しむ心・自己犠牲などという概念としての母性という意味が付与されている。「女は子どもを産んで一人前」という社会通念は今も根強く、「母」という絶対的な地位は、女性の性役割の中核をなしているし、また、性差別を正当化する根拠にもされている。女性が仕事で得られる社会的評価に対しては、その分何かを失っているというところに目が向けられがちだが、「母」であることは、それだけで社会的にすでに評価される。子どもを産んでいない女性には、女性の中にあるというあったかい雰囲気、よい属性がないというようなマイナスイメージがつきまとい、女性自身も女性として足りないところがあると思ってしまうのである。日本型企業社会においては、このような女性たちの子産み・子育てに関わる行動をあたかも単に生物学的に規定されたものであるかのように位置づけてきた。

 さらに、育児も含んだ家事労働を考えるとき、男性が家事を分担しないでよい理由として使われてきたのが、家事労働は「女性の愛情表現」であるという考え方である。そこには、女性は男性に比べ「愛情深い」ので市場労働での競争には向かないという「女らしさ」のイデオロギーが含まれている。欧米において、17世紀以来、発展しつつある市民階級の知識人たちが描いた受身的で温和で友好的な妻、主婦、そして母という女性の理想像は、女性に対し、家政と一家団欒とを自然で唯一の活動分野として指定するものであった。市民の私的領域である親密で居心地のよい家庭生活の中心に、夫や子どもへの慈愛行為を「美しいふるまい」として行うことを仕事とする女性を縁起よく位置づけるようなイデオロギーが誕生し、やがてこのイデオロギーは一つの哲学にまで高められた。「美しいふるまい」としての家事労働は、女性の本性からただちに生じるものとみなされるようになり、その「本性」は情欲をはっきり抑制した恭順な性質を示していて、定式化できるほどに家庭生活の属性にピッタリ一致した。というのも、家庭生活は、敵対的だとみなされる外部世界から隔離された「上品で、穏やかで、閑静な」暮らしを意味するからである。やがて、女の本性と「美徳」が家庭生活及び女性の家事労働と分かちがたく結びついているという見解が市民的思考としてはっきり示されるようになるのである。 4)

 家事労働と市場労働とを内容によって分けることはできない。近代社会において、家族の中で行われる有用労働が家事労働である。同じ活動であっても、例えば洗濯をクリーニング屋が他人の物を洗えば市場労働になるように、家族以外の者に対して行われれば家事労働ではない。対価を取れば市場労働であり、とらなければ、ボランティアと呼ばれる。つまり、家事労働は市場における賃労働との対比でしか定義することができないのである。賃労働は、その労働の価値が市場によって計算され、対価が支払われ、通常労働の担当者に関して競争がある。これに対して、家庭の中で行われている労働が家事労働であるという認識は、市場労働と逆の性格を帯びているところから生まれる。まず、家事労働に対しては対価としてお金が支払われることはない。妻の家事労働分は、夫の稼いでくれる給料との交換というイメージがあるが、給料分しか働かないということはない。家事労働は、無償の「贈与」として行われる。次いで、賃労働は時間・密度・質が厳しく計算されるのに対して、家事労働はその量や質が計算されることがない。さらに、家事労働には競争がないので、下手でもクビにはならないが、いやだからといってやめることもできない。

 以上のように公の評価を受けないからこそ、日常生活場面での意味づけ、そして、感謝や文句など周りの人の反応の重要性が増す。それゆえ、家事労働は「意味づけ」がなければすぐ最低のレベルまで落ちてしまう。「意味づけ」とは、「対人的」なもので、生活責任を分かち合う相手がいる場合に家事労働を行う動機づけといえよう。特に、子どもなどの弱者がいる場合、「やってあげたい」「かわいそう」「相手が喜ぶのが楽しみ」といった「情緒的動機づけ」が家事労働を最低水準以上のものに押し上げている。「愛情表現」という意味づけが付与された家事労働の成否は、他の家族成員の反応にコントロールされる。相手の感謝や喜びの反応や、不満・文句が戻ってくることによって家事労働を担当する人の欲求が充足されたり、されなかったりする。少ない労働であっても相手が感謝する場合もあれば、長時間かけても文句を言われることもある。「お金」という物差しがないため、家族という小さな領域での主観的反応が、評価として返ってくる唯一の手がかりである。それゆえ、家事労働はあくまでも「私的」なものとして営まれる。結果的に、労働力再生産という形で社会の再生産に寄与しているとしても、その動機は「私的」なものだという暗黙の了解がある。5)無報酬で「私的」な活動ゆえに、ほとんど技術も要らない仕事だと決め付けられている。

 客観的な評価基準がない家事労働は、手を抜こうと思えばいくらでも抜くことができる。しかし、家事を自分の仕事だと思っている多くの主婦たちは滅多に手抜きをしないどころか、手抜きをしないように自分で基準を決めてその基準の達成に追われる場合さえしばしばある。こうした主婦の自分で自分を縛りつけるメカニズムを解き明かしたアン・オークレーの分析を井上輝子は次のようにまとめている。人は自分のやっている仕事を無意味だとも無価値だとも思いたくはないから、仕事に対する評価や報酬を期待する。家事労働に与えられるのは経済的報酬ではなく、夫や子どもの愛情や感謝という、私的で心理的な報酬のみである。しかし、愛情や感謝は毎回表現されるわけではないし、たとえ表現されたとしても量的に測れるものではない。ゆえに主婦は自分で自分を激励し、満足感という自己報酬を見つけださなければならないことになる。自己報酬と自己評価を得るために、主婦たちは「おきまり仕事と規準」を自ら設定し、やがてその規準をどうしても従わなければならない義務と考えるようになって、もともとは自分で設定したはずの仕事のリズムにがんじがらめにされてしまう。家事ほど自律的に見えて、その実最も他律的な仕事はないのである。6)  

 以上、家事労働についての概観が少し長くなった。主婦が行っている家事労働とOLが会社で行っている仕事との類似性については、第四章で検討したいと思う。

引用文献

1) 山田昌弘『近代家族のゆくえ』24-26頁、新耀社、1994年。

2) 竹中恵美子編『新・女子労働論』8-11頁、有斐閣選書、1994年。

3) 竹中恵美子編、前掲書、11-14頁。

4) B・ドゥーデン・C・ヴェールホーフ著、丸山真人『家事労働と資本主義』4頁、岩波現代選書、1986年。

5)山田昌弘、前掲書、143-146頁、154-155頁。

6)井上輝子『女性学への招待[新版]』150頁、ゆうひかく選書、1997年。